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年下の上司 exera1

年氏の元カレ(5)


 ―― ここか……。
 教えられた住所を頼りに訪ねたマンション。
 7階建ての洒落た造りで、いかにも上流に拘る伊達の好みそうな外観だった。
 郵便ポストに、主の名前は出ていない。
 何年ぶりの再会になるだろう。4年前、本庁の会議で顔を会わせたのが最後だから、随分会っていないことになる。
(聞いた? 伊達君と美早、結婚するんだって)
(早ーい、同期で一番ノリじゃない?)
(式には、総務局長や議会事務局長まで出席するんだって。いかにもエリート同士の結婚って感じだよねー)
 そんな噂を聞いたのが、最後だった。
 以来、存在自体を忘れようとして、――でも、心のどこかでいつも意識していたような気がする。
 自分をとことん蔑んだ同期の伊達。
 付き合い始めてたった2か月で、その伊達に鞍替えした最初の彼女……。
「………」
 気持ちを固めて、呼び出しベルを鳴らした。
 オートロックのマンションは、簡単には中には通してもらえない。
「はい」
 ぶっきらぼうな声がすぐに出た。
 伊達だ。
 平日の午前10時。
 晃司は年休を取っているが、伊達は――病休を取っている。
 鬱病。
 すでに1年以上、仕事を休んでいるという。
「……俺だけど、前園」
「……ああ」
 それだけで、相手には通じたようだった。
 自分にとっては、何年かぶりに会う過去の亡霊でも、向こうにとってはなまなましい現在なのだと思い知らされる。
「で、なに?」
 次いで帰ってきたのは、初めて聞くような、投げやりな口調だった。
「話したいんだけど、ちょい、外に出られるか」
「なんの話」
「今、説明しろってんなら、全部するけど」
 インターフォンから沈黙が返ってくる。
 少しだけ怖かった。相手は、日に200通近くメールを送ってくる異常者で、昨夜は尾行され、家に石まで投げ入れられたのだ。
 もう、昔の伊達ではないのはもちろん、正常に話ができる相手でもないのかもしれない。
(私……怖くて、もしかしたら前園さんに迷惑がかかるんじゃないかと思うと、申し訳なくて。……やっぱりあの人、前園さんにも、嫌がらせをしていたんですね)
 やっかいごとに巻き込まれた感はあるが、ストーカーの嫌がらせの矛先が、すでに自分に向いているのだから、仕方がない。
 しかも、相手が因縁ある伊達なら、なおさらだ。
「警察にいってもいいんだぞ」
 脅しのつもりだったが、初めてスピーカーから、深いため息が返された。
「……わかった、前の公園で待っててくれ」
 それだけ告げて、通信はぷつっと途切れた。

 *************************

「よう」
「おう」
 4年ぶりに見る同期の顔は、想像していたほどひどくはなかった。
 やせ気味なのも昔のまま、やや猫背なのも変わらない。
 細面で、神経質そうな眼をしている。整いすぎた白い顔は、昔から平安の貴族を連想させた。実際、由緒正しい武家の血を引くという伊達の祖先には、そんな輩も混じっていたのかもしれない。
「久し振り、知らなかったよ。病気で休んでるんだってな」
「まぁな」
 憤りより、余裕が先に立つのは、自分が今、あらゆる面においてこの男より上にいるという優越感からなのか。
 が、それは、想像していたより、思いのほかあっさりとした―― ごく些細な勝利感にすぎなかった。
「悪かったよ」
 思いもよらない第一声に、用意していた言葉をなくしたのは晃司だった。
「お前が何の用できたのか、全部知ってる。病気のせいもあるけど、少し、頭がどうかしてたんだ。昨日のあれで、つきものが落ちたみたいにさっぱりしたよ。迷惑かけたな」
「俺にメールを送ってたのも、お前なのか」
「ああ」
 あっさりと伊達は頷く。
「本当に認めるんだな」
「認めるよ。メールも、昨日の投石も、それ以前から安藤香名につきまとっていたのも、全部俺だ」
 意外さに、二の句が継げなくなる思いだった。
 新人研修のディベートでは、いつも伊達がトップだった。相手を言い負かし、自身の主張を通すのが誰よりうまかった男なのに。
「なんで……、そんな、馬鹿げた真似をした」
「さっき言ったろ。頭がどうかしてたんだ。それ以外に言いようがない」
 ますます晃司には判らなくなる。あんな陰湿な――いっそ、執念深いとしか言いようがない嫌がらせを続けていたのに、驚くほどあっさり認められ、頭がおかしかった、と簡単に説明されても。
「信用できないな」
 晃司が言うと、顔をあげた伊達は、薄らと笑った。
「そうか。だったら警察に行ってもいいんだぜ」
 警察。
 今度は逆に、晃司のほうが身構えていた。
 それは、自分にも安藤にもいい展開ではない。
「いや……いいよ、二度としないって言うんなら、それでいい」
「すまないな」
「その代わり、今度同じ真似をしたら、メールのアドレスを警察に届けるからな」
「好きにしてくれ」
 ほかにもう、何を言っていいか分からなくなる。
「安藤さんとは、不倫だったのか」
「そうだ」やはり、あっさりと、伊達は無表情で頷いた。
「俺が講師をしていた法規講座に、新人研修で彼女が来ていたんだ。それがきっかけで、あとは……どうだったか忘れたよ」
「何故だ、結婚した立野さんとは、上手くいってなかったのか」
「お前の彼女だったよな」
 初めて伊達の目に、4年前と同じ優越感が宿り、しかしそれはすぐに消えた。
「ま、好きに想像してくれ」
 むっとしたが、近寄りがたい孤高のようなものに気おされて、それ以上言葉が出てこなくなる。
 見かけは変わらなくても、伊達の内部は大きく変容してしまった。もう昔のような覇気も、プライドも、負けん気も、何一つこの男には残されていない。
「ひとつ、言っていいか」
「ガラス代なら、弁償するぜ」
「そんなもんいいよ。謝れよ」
「………」
「お前の口から、きちんと謝罪しろ。俺にも、安藤さんにもだ」
「だな……。だったら、今、土下座でもしようか」
 卑屈な上目づかいを見たとき、限界を感じて晃司は立ち上がっていた。
「――帰るよ。休みなのに邪魔して済まなかった」
 こんな男だったのか。
 俺が――長い間、心に鬱屈を感じ続けていたのは、これほど情けない男だったのか。
「役所、もうやめるつもりだから、心配すんなって伝えてくれないか」
 背後から声がした。
「やめる?」
 晃司は足を止め、振り返っている。「そんなに悪いのか、お前」
「悪くはない、もう殆どよくなってんだ。でも、戻って区役所で窓やるくらいなら、死んだほうがマシじゃないか」
 そういうところは変わらない。何か反論したい気持ちがこみあげたが、しょせん、似たような発想しかできない晃司には何も言えなかった。
「再就職のあてでもあるのかよ」
「どうにでもなるさ」
 呟いた伊達はふらりと立ち上がる。それきり、背をかがめたまま、子供づれの母親の間を縫うようにしてマンションのエントランスに消えていった。
 どうにでもなるさ。   
 それは、晃司には、どうでもいいさ、と同じ響きに聞こえた。

(ごめんね、前園君。やっぱり、私たち、うまくいかないような気がする)
 立野美早(たての みさき)。
 開いてみた職員名簿は、いつの間にか旧姓に戻されていた。
 気づかなかった。じゃ、去年のうちには離婚していたのか。
 晃司はぼんやりと名簿を閉じる。
 午後から出勤したものの、仕事にはまるで身が入らなかった。対面の加藤が、いかにも皮肉気な眼差しを向けるが、それも一向に気にならない。
 気づけば、伊達と、その妻だった女のことを考えてしまっている。
 伊達が法務を休みだしたのが、約1年前というから、離婚は、その後だったのだろうか。
 安藤香名が入庁したのが2年も前だから、もしかすると不倫、離婚、病休という流れだったのかもしれない。それは確かめようがないが。
 美早と結婚したのが、4年ほど前だから――。わからない、なんだってあのバカ、たった2年かそこらで、美早がいるのに、安藤なんかに走ったんだ?
(お前の彼女だったよな)
 今朝耳にした、勝ち誇ったような伊達の言葉が、思い起こされる。
 その通りだった。晃司にとって、島根から出てきた後の最初の恋人――立野美早。
 入庁1年目、新人研修で同じ班になったのがきっかけで、互いにメールのやりとりをするようになり、1ヶ月後には晃司のアパートに泊まるまでの仲になった。
 同期女子の中でも一、二を争う美人で、有名女子大卒。同期男子の誰もが立野狙いと噂される中で、幸運にも彼女をゲットしたのが晃司だったのだ。
 が、2人の関係は、今思えば最初から暗雲がたちこめていた。
 あの時、俺が区じゃなくて本庁勤務だったら―― とは、別れた後、晃司が何度も思ったことである。
 議員秘書として、赤い絨毯の事務室で華やかに仕事をしている立野美早と、区役所の窓口で仕事をする晃司には、当時、あまりにも格差がありすぎた。
 海外出張がどうやら、議会がどうやら話されても、晃司にはさっぱりだったし、逆に晃司が口にする市民対応の難しさも、美早には興味がないようだった。
 興味がないどころか、もしかすると、馬鹿にされていたのかもしれない。
「前園君も、早く本庁に来られたらいいのに」
 残念そうに言われる度に、晃司の中に、鬱屈した憤りだけが蓄積されていく。
 同期の飲み会でも、本庁組と区役所組に自然に分かれ、どことなく互いを敬遠しあう雰囲気ができあがっていたから、当然、2人の関係は周囲から思いっきり揶揄されていた。
(美早って男みる目がないよね)
(前園君って、顔はいけてるけど、それだけって感じがするし)
 飲みの席で、そんな噂話を耳にしたこともある。
 その度に、晃司は惨めになって美早に当たり、美早はますます冷めていった。
 背伸びしたり卑屈になったりを繰り返していた2カ月。告げられた別れは当然の結末だったのだろう。
 それから1年と半年後、美早は伊達と結婚した。
 2人がつきあい始めたのは、晃司と別れた直後だったことを――後で、結婚式に出た知人から聞かされた。
 
 *************************
      
「前園さん」
「え?」
 はっと、回想から引き戻される。
「どうしたんですか、さっきからぼーっとしてる感じ」
「いや、ごめん、何の話だったっけ」
 昼休憩の屋上、周囲はランチを広げる女子職員、昼寝を楽しむ団塊職員がちらほらしている。
(お昼に、少し会えませんか)
 と、屋上に呼び出したのは安藤香名で、晃司も話があったから、それに応じた。
 時折、他課の男性職員が、ちらっと視線を向けてくるのが判る。
 晃司と違い、市長秘書の安藤は有名人だ。こんなに堂々と、2人で一緒にいてもいいのかな―― とは思ったが、香名は一向に気にしていないようだった。
「伊達さんに、会いに行かれたんですよね」
 ああ、その話だった。
「うん、本人も認めて、すぐに謝られたよ」
「えっ、本当ですか」
 それは香名にも意外だったのか、驚いたように眉を上げられる。
「役所もやめるから、心配するなって言われたよ。……伊達とは、最近会ってないからよく判らないけど、相当神経がまいってる感じがしたな」
「そうなんですか。……」
 かつて、一時でも情を交わした相手が気になるのか、香名は神妙な目で唇を噛む。
 少し無神経かな、とは思ったが、晃司は思い切って訊いてみた。
「安藤さん、伊達が病気になった理由、……なにか、知ってる?」
「仕事のことだとしか……。誤解しないでください。私、伊達さんとは、そんなに親しくさせてもらったわけじゃないんです。役所の先輩として尊敬していただけで……仕事のこととか、色々、相談にのってもらっていたら」
 伊達が勘違いした、―― か。
 それは香名の言い分だろうが、伊達の言い分は違うだろうと思われた。
 女に疎い晃司にしても、それくらいの察しはつく。安藤香名。この女は、肉食獣にも似た性質の持ち主だ。須藤流奈ともよく似ている。
 一度目をつけた獲物は、どんな手を使ってでも落とす狡猾なハンター。だから、何もかもが伊達の一方的だったとは思えない。
「もう……伊達さんのことは、あまり思い出したくないんです。ゴメンナサイ」
 が、うつむいて萎れたような声を出す香名に、これ以上の追及はできないし、また、する気もなかった。
「まぁ、話、それだけだから。また伊達が何かしてきたら、俺に言って」
「はい、ありがとうございます!」
 輝く目で見上げられる。
 こいつから見た俺って、どう映ってるんだろう。かよわい小鹿にでも見えてんのかな。
 そんな皮肉を感じつつ、やはり晃司は、香名の笑顔を可愛いと思っていた。
 そうだ、内面の汚さは、俺だって同等だ。
 そういう意味で、この女ほど、俺に似合いの存在はないのかもしれない。
「じゃ、私先に戻りますね。あの、……また、前園さんの部屋に行ってもいいですか」
「うん、連絡してくれたら、いつでもいいよ」
「うれしい……」
 彼女を選んでよかった。
 ただし、俺は、伊達みたいには絶対にならない。
 
 *************************
   
 安藤香名と別れた晃司が、15階のエレベーターホールまで降りると、あと5分で昼休憩が終わるところだった。
 階下がこみあっているのか、なかなかエレベーターが上がって来ない。苛立って、非常階段に向かおうとした時だった。
 ――果歩?
 晃司は、驚いて目を見開いた。
 ふらふらっと、非常口に消えていく後ろ姿は、間違いなく、的場果歩のものである。
 彼女も屋上にいたんだろうか。気付かなかった。
 てか、あのとろさで、階段使って間に合うのか?
 自身も階段を使うつもりだったから、ためらうことなく後を追う。
 そうだ、もう彼女も出来たことだし、向こうに畏れられる必要は何もない。何気なく、声をかけて、須藤流奈の話をしてみれば――。
 妙に、沈んだ背中だった。
 とろい、どころではない。果歩は、ゆっくりと、足を引きずるようにして階段を降りている。
 時折見える横顔は、ぼんやりとして、自分の足もとさえ見えていないようだ。
「…………」
 何か、あったんだろうか。
 声を掛けるタイミングが判らないまま、晃司も、少し遅れてその後を追う。
 13階――が、果歩は、当然戻る執務室をスルーして、さらに下に降りていった。
 おいおい、何やってんだ?
 あと2分で午後の勤務の始まりだ。
 単に、階を間違っている風でもない。というより、 根本的に、何かおかしい。
 果歩が向かったのは、10階、人事課のフロアだった。
「あれ? 果歩?」
 どこかで聞いた声がした。
 踊り場の影に隠れたままの晃司は、しばらくして、それが宮沢りょう。――果歩が親しくしている人事課の友人のものだと気がついた。
 その宮沢りょうに、ものも言わずに、果歩が、がばっと抱きついた。
 晃司から見えるのは、りょうの顔だけだが、驚いたように目を見開いている。
「? ?? なに? なになに、なんの真似?」
 しがみついたままの果歩は、何も言わない。
 声を殺して泣いているのだけが、晃司には判った。
「どした、果歩、何があった」
 昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴る。
 果歩の背中は、動かないままだった。

 *************************
 
「宮沢さん、お客、きてるよ」
「んー」
 全庁禁煙のはずなのに、煙草を口にはさんだ顔が振り返る。
 10階のOAルーム。午後10時すぎ、室内でシステムをいじっているのは目的の女一人のようだった。
 立ち上がって、ずれた眼鏡を指で押し戻した宮沢りょうは、人さし指を晃司のほうに向けた。
「あっ、年下の元カレ!」
 なんだ、そりゃ?
 戸惑いつつも、晃司は軽く頭を下げる。
「すみません、ご無沙汰してます」
「その言い方、仕事以外の用事できたね」
 ずばっと、目的を言い当てられる。
「ここって、喫煙室ですか」
 軽い厭味を返すと、「んー、火つけてないの挟んでるだけ。落ち着かないのよ、口が一人ぼっちだと」
 なんとも微妙なセリフを返され、切れ長の目を細めて笑う。
 人事課の宮沢りょう――役所内では、一、二を争う美人である。いや、役所を出ても、この美貌は相当なものだろう。が、そんな見かけなど不要とばかりに、この女性は自らを飾ることなど一切興味がないようだった。
 オールドタイプの黒縁眼鏡に、ひっつめ髪。白いシャツには、いかにも適当にアイロンをかけましたとばかりの皺が寄っている。
 それでも数多の崇拝者を役所内に持つ宮沢りょうが――晃司は、初対面の時から苦手だった。
 果歩の恋人として引き合わされたのが2年ほど前だが、目に見えない敵意をひしひしと感じたものである。
 間違いなく、嫌われているし、果歩の恋人として認められてはいなかったはずだ。
「で? 何? もしかしなくても果歩のこと?」
 そう、頭が切れすぎるのも、この女の嫌なところだ。
 軽く嘆息して、晃司は続けた。
「今、的場さんに関して、あまりよくない噂が出回っているのは、ご存知ですか」
「知ってるよ。それで?」
 りょうは、再びパソコンに向き直る。
 あっさりと認められ、晃司はやや気色ばんでいた。
「知ってるって、……じゃあ、その話、的場さんには」
「私の立場で言えないでしょ。パワハラ・セクハラに係る個人情報は、人事課の秘密事項なんだから」
「じゃ、本当に須藤……須藤さんが?」
 無言で肩をすくめる宮沢りょうの所作からは、肯定の意が透けて見える。
 信じられない――あの須藤流奈が。
 晃司は眉をひそめ、口元を手で覆った。
 女同士の確執が、人事に訴えねばならないほどに切羽詰まっていたのか。いや、そうではないだろう。須藤は、絶対にそんなタマじゃない。
 短いつきあいだったが、あの小悪魔みたいな女のバイタリティの強さはよく知っている。何かトラブルがあれば――役所の上など頼ろうとせずに、自分でなんとかするはずだ。
 晃司の思考は、自然ともう一つの可能性の方に向いて行く。
 全てが、須藤流奈の仕組んだ茶番であるという可能性。
 恋のライバルである果歩を蹴落とすために、わざと自身がイジメにあっているという噂を流し、人事課にまで訴えた。
 が、それもやはり、晃司にはいまひとつ腑に落ちない。
 須藤はそこまで陰湿な女だったか? いや、確かに陰湿は陰湿だが、それでもすることは、自分1人の手腕の及ぶ範囲に限られていたはずだ。
 役所まで巻き込んで――そこまでして果歩を追い詰めて、何になる?
 原因は藤堂以外に考えられないが、もし藤堂が果歩を選ぶ気でいるなら、果歩の窮地は、かえって男心を刺激させるに違いない。俺が、なんとかしてやろうと。
 てか、それはもしかして、今の俺自身のこと?
「……何、1人で赤くなってるの」
 気づけば、宮沢りょうが冷めた目で見上げている。
 晃司は、ごほんと咳払いをした。
「いや……。果歩は、本当に大丈夫なんですか」
「なんで私に念を押すの」
 宮沢りょうは片眉をあげる。
「一介のヒラ職員の私に、果歩がどうなるかなんて、判るはずがないじゃない。何馬鹿なこと言ってるのよ」
「な、……っ、じゃ、なんでそんなに落ちついてるんですか。あいつ、来年は確実に異動で、今年の人事評定が結構重要だっていうのに」
 晃司はかぁっと頬が熱くなるのを感じた。
「職場イジメとかおかしな噂がたったら、絶対に評定に響きますよ。そんなの、人事課にいるあんたならよく知っているでしょうに」
 しばらくまじまじと晃司を見ていたりょうは、やがて不思議そうに首をかしげた。
「人事評定……それが君の最重要事項ってわけ? どうでもいいけど、果歩はそんなの、多分屁とも思ってないわよ」
「へ……屁?」
 さ、最低だ。こいつ……女のくせに。
 晃司は後ずさり、信じられない生き物を見るような目で、目の前の女を見下ろす。
「つまり、評価が上がろうと下がろうと、果歩にはどーでもいいってこと。もっと言えば、君の心配なんて、なんの意味もないってこと」
 パソコンを叩きながら、冷めた口調で女は続けた。
「都市計画局に、果歩をこころよく思ってない輩がいるんでしょうね。私に言ってあげられることはそれくらい。果歩に伝えてないのは、その程度のトラブルなら、果歩は全然大丈夫だと思ったから」
「……大丈夫?」
 疑心に、晃司は眉をくもらす。
 本当に? さっきは自分みたいなヒラには何も判らない、みたいなことを無責任に言っていたのに。
「なにかごたごたに巻き込まれてる感があるけど、果歩が本当に頼りたいと思えば私のところにくるし、そうじゃないなら絶対に来ない。ねぇ、私たち、そんなあまーい関係じゃないのよ?」
「………」
「君も知ってると思うけど、7年前、果歩が秘書課を追い出された時だって、彼女が私を頼ってきたのは、最後の最後だったからね。それでも一晩2人でやけ食いして、それで終わりよ」
 くっくっとりょうは楽しそうに笑った。
 晃司は、逆に言葉を失くしている。
 7年前――当然、晃司はまだ役所にはいない。が、その当時役所をにぎわせたスキャンダルなら、尾ひれをつけ、形を変えて、晃司の耳にも届いている。
 当時、市長秘書だった女の子が、市長の1人息子と不倫関係にあった。当然のように情事は市長の知るところになり、女の子は秘書課を追放された――。
 へぇー、と、役所に入ったばかりの晃司は思ったものである。
 あの鬼みたいに恐ろしい市長の息子ってどんな奴だったんだろ。その女子職員も、大胆というか趣味が悪すぎるというか……。
 まさかその当の本人と、3年後につきあうことになろうとは、夢にも思わなかった晃司である。
「果歩はさ」
 煙草を指で弄びながら、軽い口調でりょうは続けた。
「なよなよしてるし、甘えん坊に見えるから、男の人はみんな誤解しちゃうんだよね。あの子は、意外と強かだよ。どうしようどうしようって言いながら、結局最後はすぱっと決めて、二度と後を振り返らないの。あの思い切りのよさは、私にだって真似できない」
 確かに、すぱっと切り離された晃司には、何も言い返せない。
 でも――。
 だったらなんで、あんなに泣いたりするんだ。
 晃司は少しためらってから、いつ切り出そうかと迷っていた本題を口にした。
「先週の金曜、俺、……見たんですけど。的場さんと宮沢さんが抱き合ってんの」
「んんん? 抱き合ってた?? なにそれ、どういう欲求不満?」
「いや、その、そういうんじゃなくて」
 慌てて事情を説明すると、りょうは意外そうに眼鏡を押し上げた。
「ははぁ。……もしかしなくても後つけてたんだ。そんなに果歩に未練があったとはねぇ」
「ち、ちがっ、今、そういう話をしてんじゃないですよ!」
「じゃあ、どういう話なのよ」
「たっ、たまたま偶然ですね。俺もあの階に用事があって、それだけですよ」
「ふぅん、へぇー」
 りょうは、見透かしたように冷やかな笑みを浮かべている。
「………」
 なんて嫌な女なんだろう。この手のタイプだけは、どう評していいのか、さすがの晃司にも判らない。
「ま、御察しのとおり、藤堂君絡みのことよ」
 藤堂瑛士。――やっぱり、あいつか。
 暗い怒りが、晃司の胸によみがえる。
「もしかして、藤堂が須藤と結婚するから……」
「その噂、君の耳にも入ってんだ!」
 りょうは、いきなり目をきらめかせた。
「私が掴んだ情報だと、那賀さんが一部職員に触れまわってるらしい。それ、本当?」
「僕も、そう聞いてます」
「ははぁん……。那賀さんらしいな。藤堂君を土俵にひきずりこむつもりだね」
「え?」
「いえいえ、それは私の独り言」
「?」
「ドラ猫の首に鈴をつけるのは、役所の人間にゃ無理だからね」
「……ドラ猫?」
「都市計画局に来たじゃない。かなり面倒なドラ猫が一匹」
 さっきから、どうも会話がかみ合わない。
「あの……俺が聞いてることに、できれば答えてもらいたいんですけど」
「ヒントは、山ほどあげてるつもりなんだけどなぁ」
 りょうは、面倒そうに首の後ろを指で掻いた。
「これだから頭の悪い男は嫌いなんだよね。ま、私に会いに来た度胸に免じて、私が果歩にしてあげようと思っていたことを、教えてあげるよ」
「なんすか、それ」
 前半むっとして、しかし後半身を乗り出している晃司である。
「果歩はさ、実際とことん流奈ちゃんを嫌ってるでしょ。いっそ、コンプレックスを持ってるっていってもいいくらい」
「………」
 まぁ、それは、そうだろう。
 須藤流奈が都市計画局に入ってきた当初から、果歩が、彼女を苦手に思っているのは知っている。
 が、何もそれは果歩に限った話ではない。須藤流奈は、割にあらゆる所で、同性の敵を持っているのだ。
「多分、昔っから、あの手のタイプの女に痛い目にあわされてきたんだろうね。例えば、つきあってた彼氏を横取りされたとかさ」
 晃司は激しく咳き込んでいる。
「人の感情は映し鏡……。嫌いな相手からは、必ず自分も嫌われるからね」
 りょうは小さく微笑んで、椅子を回してパソコンに向き直った。
「そういう意味で、今回は果歩にも大人になりきれてない部分があったってこと。流奈ちゃんは、確かに悪女の典型だけど、そんな悪い面ばかりでもなかったでしょ」
「…………」
「ドラ猫に対抗するには、果歩と流奈ちゃんが意地張り合ってる場合じゃないし、逆に言えば、2人が手を組めば怖いものなしってとこかしら? 私が言いたいのはそれだけ。じゃ、後は任せたわよ。年下の元カレ君」
                             



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