「あの……私、タクシーで帰りますから」 エレベーターを待ちながら、果歩は前に立つ真鍋に言った。 「送らせてくれる約束じゃなかったかな」 返ってくる優しい声には、最初ほど切羽詰まった強引さは感じられなかった。 固辞すれば、きっとあっさり頷くだろう。あれほど情熱的に送りたいと言われたのは、今となっては単なる社交辞令だったような、そんな風にさえ感じられる。 「父が、下で待っているかもしれないんです」 おどけた口調で果歩は続けた。 「男の人と相乗りしてるなんて、ばれたら大変なことになりますから」 「そうか、それは残念だね」 「すみません」 これでいい、と思う心のどこかで、何が彼の情熱を冷ましてしまったのだろうと、考えてしまっている。 私が失礼なことを訊いたからだろうか―― それとも、生意気なことを言ったからだろうか。私の態度に何か、彼をがっかりさせるものがあったのだろうか……。 情けないくらい矛盾している。この人とこれ以上関わりあいになりたくないと思っているのは、私のほうなのに―― 。 どうしようもなく気持ちが沈みこんでいく。それを顔に出さないように、果歩は無理に顎をあげて微笑を維持し続けていた。 「じゃあ、タクシー代は僕が」 真鍋がそう言いかけた時、チン、とエレベーターが停まる音がした。 てっきり空だと思っていたエレベーターの中には、複数の人が乗っている。果歩は、降りてきた背広姿の男に何気なく目をやった。 ん? どこかで見た顔―― のような気がする。 「あっ……」 まずい。 驚きと後悔の声が漏れる前に、いきなり振り返った真鍋の腕に包まれていた。 いや、そう判ったのは、彼の喉元をまともに見上げてからだ。くらくらするような匂いがする。なんの香りだろう。香水……? それとも……。 「おやぁ? これはこれは」 少し離れた場所から、明らかに酔いを含んだ声がした。 「んん? わしの目がどうかしたのでなければ、君は真鍋君じゃないかなぁ?」 どこかとぼけて人を食ったような口調―― 果歩もよく知っている―― 都市政策局の局次長、那賀康弘の声である。 「あら、もしかして、真鍋市長の息子さん?」 華やいだ女の人の声―― 真鍋の腕の中で、果歩は倒れそうになっていた。厚生局次長の広瀬文―― 市長部局唯一の女性局次長である。 那賀には昨年、まだ駆け出しの新人の頃、励ましてもらったり慰めてもらったりした。今でも庁内で顔を合わせれば、楽しい雑談に花が咲く。が、当たり前だが、市長の息子と深夜、2人きりでいる所を見られていいはずはない。 連れの女性はなお悪い。東大卒の豪傑。確か来年が定年だが、見た目はとても60前に思えないほど若々しい。市役所女性陣の実質リーダー的存在で、当然果歩のこともよく知っている。 「どうしましょ、那賀さん。私たちも彼も、バツが悪いところを見られちゃったわよ」 「いやぁ、はっはっはっ、不倫ってやつかなぁ、いわゆる」 まったく冗談にしか思えないし、たとえこれが誤魔化しであっても、誰に話しても冗談としか取られないカップル―― 那賀次長と広瀬次長。 部が悪いのは、ただ、果歩と真鍋だけである。いや、この場合、果歩一人と言うべきか。しょせん市長の息子である真鍋は、何をしても許される立場だからだ。 「飲んでいる内に、彼女の具合が悪くなって」 そのせいか、耳元で響く真鍋の声は、憎いほど落ち着いていた。 同時に頭をそっと押され、果歩はそのままかがみこんでいた。いかにも―― 気分が悪いという風に。 「すみません。父には黙っておいてもらえますか」 「いやいやいやいやいやー、そんな野暮かと思うかね。このわしが!」 「代わってほしいわぁ、私も、こんな素敵な殿方にぎゅっと抱きしめてほしいわぁ」 2人の豪快な笑い声がフロアに響く。 ああ―― なんてことだろう。宮沢りょうと篠田補佐を見て、判っていたことなのに。 役所人口は多すぎる。秘密のつきあいなんて、市内ではまず無理なのだ。 後悔が、心細さと不安に代わり、いっそう強く真鍋にしがみつくようにして顔を隠す。 それに反応するように、真鍋の腕が、果歩の腰を抱くようにして引き寄せた。 「これから、家まで彼女を送っていくので」 無防備に抱きしめられながら、果歩は喉の奥で小さく呻いていた。 やだ―― こんなに……くっつくつもりは……。 「頼みますよ。少しは自制しろと、今日も父に叱られたばかりなんです」 真鍋はエレベーターのボタンを押し、開いた扉に、うつむいた果歩を抱えるようにして乗り込んだ。 「……平気?」 扉が閉まり、ようやく真鍋が言葉を発した。耳元で聞こえる声は、何故かいつもより掠れて聞こえた。 「大丈夫……です」 心臓が、音をたてて鳴っている。 離れなきゃ……もう、誤魔化すために彼の腕を頼る必要はない。私から離れなきゃ―― ああ、なのにどうして真鍋さんは、いつまでも、腕を離してくれないんだろう。 動かない2人の呼吸だけが、静かなエレベーターの中で響いている。 果歩はますます身動きが取れない気持ちになった。というより、本当に眩暈がして―― 酔ったようになって―― 動けなかった。 目の前に、彼の広い肩がある。腕はまだ果歩の肩と腰に回され、果歩の頬と彼の首すじが触れ合っている。 「あ……あの」 このままでいたい―― もっと彼と近づきたい―― 。そんなあり得ない未練を断ち切るように、果歩は弱々しく真鍋の胸を押し戻そうとした。 けれど力はまるで入らず、逆に、膝が崩れている。 「本当に、酔った?」 いっそう強く抱き支えられ、ほとんど耳元すれすれで囁きが聞こえる。 「ちが……」 「そうは見えないよ」 陰りと熱を帯びた声。本能的に危険を察した果歩は身をよじろうとしたが、それは、ますます2人の距離を縮めただけだった。 気のせいか、抱きしめる腕に、わずかに力が加わったような気がする。耳に、彼の吐息を感じる。 「ま……なべさん」 呼吸を求めるように果歩はあえいだ。 そんなに耳に……。 「なに?」 離れて、お願い。 「何もしていないよ。君がしがみついてるだけだ」 確かに、その通りなのかもしれないけど。 何故だろう。頬が燃えるように熱い。触れている男の身体も熱くなっているような気がする。 どうしたの? 私……おかしい。 ここで、境界を引きもどさないと。いつもの私と彼に戻らないと。 果歩がよろめいたのか、真鍋がそうさせたのかは判らなかった。 気づけば、エレベーターの壁に背中が当たっている。覆いかぶさる影を見上げた途端、顎に、彼の指が添えられた。 ――あ……。 唇が重ねられた時、果歩はもう観念していた。というより、これ以上気持ちを理性で抑えておくことができなくなっていた。 硬くて厚みのある唇が、そっと果歩の唇の上をなぞるように辿っていく。 優しいキス―― 慣れたキス―― 何人もの女性の唇を滑って行った唇―― 。 彼が口を開き、そっと果歩の唇をついばむように包み込む。果歩はぎゅっと目を閉じ、真鍋の胸にすがるように手を添えた。 信じられない……真鍋さんと、キスしているなんて……。 彼の唇、彼の匂い、彼の温度。溶けてしまいそうなほど優しいキス。 神様、これが夢なら―― どうか、このまま、覚めないで……。 その時、エレベーターが音を立てて停まった。 かすかに息を引いた真鍋に、肩を抱かれて、引き離される。 果歩は途端に現実に返り、多分、それは真鍋も同じだった。 ホールには誰もいなかったが、彼は二度と果歩に触れようとしなかった。 「送るよ」 目さえあわせてくれない真鍋の不自然ほど素っ気ない声に、自分がどう言い訳して逃げ出したのかは判らない。 気づけば、タクシーの中、ぼんやりと滲んだ夜の景色を見つめ、果歩はただ泣いていた。 しびれるようなキスの感触が、まだ唇に残っている。顎に触れた指の硬さや温もりも全部―― 全部、残っている。 (僕は、今まで女性とまともにつきあったことがない。冷めてしまうんだ―― 相手が、自分のものになった瞬間に) (見合いは、来月だったかな。雄一郎) どうしよう。 子供みたいに泣きじゃくりたいのを懸命に堪え、果歩は震えそうな唇を噛みしめた。 どうしよう。もう、二度と今朝までの私に戻れない。 こうなると判っていたから、ずっと逃げ続けていたのかもしれない。 もう遅い、手遅れだ。もう、こんなに―― 胸の中が、あの人でいっぱいになっている。…… ************************* いったい俺は、何をやっているんだ? あんなつもりじゃなかった。あの程度の状況で、自制をなくす俺じゃなかったはずなのに―― 。 帰りのタクシーの中で、雄一郎は、何度も苛立ちのあまり唇を噛んだ。 彼女は、軽蔑しただろうか。当たり前だ。あれだけ赤裸々に―― 自分の恥部を打ち明けておいて、自らそれを実証するような馬鹿な真似を見せつけたのだから。 エレベーターを降りた後、自分でも呆れるくらい冷たくあしらったという自覚がある。その時の自身の振る舞いの理由を、考える余裕はなかった。 そうだ―― 自分は余裕を無くしていたのだ。もっとはっきり言えば、想定外の事態に、子供のように驚いていた。 動揺を悟られるのが怖くて―― あまりに馬鹿な真似をした自分を、どう言いつくろっていいのか判らなくて―― 。 高校生か、俺は。星の数ほどキスはしたが、あんな無様な振る舞いは初めてだ。 まだ、胸に動悸の余韻が残っている。変だな、俺は。たかだかキスで、ここまで動揺したことなんてあっただろうか。俺が―― この俺ともあろうものが。別れた後も、こうも未練に引きずられるなんて。 可愛かったな……唇も、手も震えていた……。睫も震えて―― その感触が伝わってくるようだった。 予想もしていない行為だったにも関わらず、頬に指を当てた時、そうなるのが最初から定められているような気がした。 そうだ、俺は最初から、あの子の何かに惹かれていた。 だから、ぎりぎりのところで踏みとどまっていたのだ。あと一息で落ちる果実を、落ちないように―― できれば、いつまでも見ていたくて。 なのに、何故その戒を、あっさり破ってしまったのだろうか。 今夜はそもそも、最初から何かがおかしかった。アザルの件で話があると、叔父に呼び出された時から、何か企みがあるような気はしていた。 まさか、的場果歩との邂逅を仕組まれていたとは想像もしていなかったが、もしそうだとすれば、彼女と同席していた安田沙穂は、叔父と組んでいたことになる。…… 雄一郎は眉をひそめていた。それはない、考えすぎだ。何故叔父がそこまでする必要がある。 が、今夜の出来事が罠であっても偶然であっても、結局は叔父の思うままに行動した自分が、腹立たしくて仕方ない。 何故あの時、先に席を立った彼女を追いかけてしまったのか。―― 帰るという彼女を、何故無理にひきとめてしまったのか。 もちろん、キスしたのは雄一郎のほうだったが、誘ってきたのは彼女のような気がしなくもない。だいたい、なんだってあんなに……身体をくっつけて……わざとだろうか? 匂うような首や耳を俺の目につくように……。 自然と身体が熱くなるのを感じ、雄一郎は、憮然として視線を窓の外に向けた。 これは危険な兆候だ。少なくとも、恋に深入りしたくないと思う男にとっては。 それでも、シャツから立ち昇る残り香に、再び気持ちが捕らわれている。顎をくすぐる髪の感触を連想するように思い出した途端、心はすでに奪われていた。 なんの香水だろう。―― いい匂いだった。髪からも、首からも爽やかで優しい香りがした。 胸に重ねられた細い指の感触が、まだそこにあるようだ。 柔らかい唇―― 幾度も想像していたくせに、その先はまるで予想していなかった。 唇を触れあわせた途端、不意打ちのように身体が痺れて、我を忘れてしまっていた。時間さえも―― 。それでも、彼女を壊さないように―― それでも、もし、あと数秒、エレベーターが停まるのが遅かったら。―― どうする、これから。 判っている。彼女を傷つけないように、きちんと謝って……そして、理解させなければいけない。あのキスには、何の意味もないのだと。 何か言葉で……言い訳なり、フォローなり……そんな気はなかった、あれは事故だった、何かを期待しているなら……謝ればいいのか? 今夜の振る舞い全てを。 (お見合いするって、本当ですか) (きっと幸せですよ。真鍋さんの奥さんになれる人は) ひどくバカバカしい気がする。今だって、あの子の残り香を感じただけで、こんなに胸が熱くなっているのに。 ************************* 「なんか、今日のメイク、微妙じゃない?」 翌日。食堂のランチタイム―― 。 ぼやっと立ち上がりかけた果歩は、いつもなら血相変えてトイレに飛び込みそうな指摘にも―― 「そ?」とだけ答えた。 決してメイクのせいだけではない。瞼が重たく腫れているからだ。いや、瞼どころか顔全体がぼんやりとむくんでいる。 寝不足と……それから、泣きすぎ。それを隠そうと必要以上に目回りにファンデを塗りたくっている。 「ま、元気だして」 「そうそ、男はプリンスだけじゃないんだから」 先に食堂を出た果歩の後を、同期の数名がついてくる。一人になりたいこんな日に限って、同期仲間のお食事会ときている。 欠席する口実はいくらでもあったが、もしかしたら宮沢さんも来るかもしれないと思い直し、弁当を持って食堂に行った。 本当は、宮沢さんのことなんてどうでもいいし、考えている余裕もない。が―― あんなにばっちりと目があってしまった以上、何らかの言葉や態度で―― これからの二人のスタンスというものを、決めておかなければいけないような気がしたからだ。 取引―― というのも嫌な表現だが、いってみれば最も見られたくない場面を、互いに見られてしまったはずなのだから。 「で、果歩のほうから告白したの? それともプリンスから何か言われた?」 同期の声で我に返る。 「なんで、真鍋さんと何かあったって決めつけるのよ……」 うんざりしながら、それでも弱々しく果歩は反論していた。 自分の憔悴しきった態度から、彼女たちが何か口に出したくてうずうずしていたのは感づいていたが、―― どうしてすぐに、それと真鍋を結び付けるのだろう。 同期たちは、ちょっと言葉に詰まったように、互いの顔を見合わせる。 「だって噂になってるし」 「真鍋さん、結婚するんでしょ?」 早い……本当に。 「でもよかったじゃん、まだ食べられちゃったわけじゃないんでしょ?」 「そうそ、下手すりゃ不倫だよ?? 市長秘書で不倫はまずいでしょ」 不倫、という言葉に条件反射でぎくっとした途端、思いついたように背後の誰かが口にした。 「そういえば聞いた? 宮沢さんの話」 「あーっ、知ってる! やっぱ、みんな知ってたんだ!」 「よりによって石田純一ってどうなのよ。てか笑えない? あの子、今年で異動確定だね」 「言っちゃ悪いけど、いい気味」 「最低だよねー、不倫なんてする女」 てか……もう、ダダ漏れじゃん。これじゃもう、庇いようがないというか……。 なんとも言えない気持ちと共に、背後の笑い声を聞いていた果歩は、ふと、安田沙穂の言葉を思い出していた。 (みんな、楽しそうに話してたよ) (―― 真面目なんだね) そっか。 こういう場合、みんなの反応が普通で、私みたいなのを「いい子ぶる」というのだろう。それも否定できない。22年の人生で、自分が「いい子」でなかったことなどないからだ。 長女の自分は、いつだって気持ちを抑えることに慣れていたし、揉め事や悪口の気配を感じるや否や、さっと仲介に入る―― 話題を変える―― という、やっかいな性癖を持っている。 そうだ、いつも相手の反応を気にしているから、自分の本音を正面からぶつけることもできなかった。気持ちを切り替えることにも慣れている。できれば、周囲の誰にも不愉快な思いをさせたくないから、いつだって周りに気をつかって―― 。 (的場さんって、本当にいい子だよね) (でも、私はなんとなく苦手) (判る〜、うっかり誰かの悪口なんて言えないタイプじゃない?) そういった陰口を、高校時代に耳にしたこともある。多分、私は表面的に付き合うには適したタイプでも、深く関わるには漠然と苦手にされるタイプ―― なのだろう。今だって、一人みんなの話題についていけない感があるし。 「的場さんもそう思うでしょ」 不意にふられ、果歩は驚いて我に返った。 「宮沢さんって、他人の痛みが全然想像できない人なんだろうね。だから不倫なんて、簡単にできちゃうんだよ」 一瞬空いた間を取り繕うように、「そうだよね」と、果歩は大げさな相槌を打っていた。 「―― お先」 すっと、影が通り過ぎたのはその時だった。 顔を上げた果歩は凍りついていた。多分、その場にいた全員が。 さらりとしたミディアムヘアをなびかせて、スレンダーな後ろ姿がエレベーターホールの人ごみに紛れていく。 「聞かれてた……?」 「相変わらず、感じわるーい」 ―― 宮沢さん……。 果歩は自分の口を―― そうできるものなら、思いっきりひっぱたきたい気分だった。 「何あれ? 文句あるなら、はっきりそう言えばいいのに」 「ほっとこうよ。私たちまであんな人と同類だと思われたら迷惑だもん」 「的場さん―― ?」 ぼんやりしていると、ぽん、と肩を叩かれる。「どうしたの?」 「う、ううん……」 果歩は、胸苦しさを誤魔化すようにして歩き出した。 「ごめん、私、急いでるから階段で戻るね」 後味の悪さと、悪口に同調してしまった自分への嫌悪感―― 。 なんかもう、私って、最低……。 が、もう一つ。胸を激しく動揺させている不安がある。 どうしよう、今の、まさかと思うけど、私が言いふらしたと思われたら。 果歩もまた、今となっては絶対に他言して欲しくない現場を宮沢りょうに見られている。もし、報復のように、それを言いふらされてしまったら。―― 。 いったい、どのあたりから聞かれていたんだろう。あれだけばっちり目が合った昨日の今日だ。絶対に見た当人が言いふらしたと……思うのが普通である。 ―― ああっ、もう、なんてタイミングの悪さだろう。 果歩は、心底情けなくなって嘆息した。なんだか泣いてしまいそうだった。 宮沢さんには悪いが、正直、他人の恋バナどころじゃない。まだ失恋の痛みから全然立ち直れていないというのに……。 が、これもまた身から出た錆である。 自分の件も宮沢りょうの件も、どちらも、言い訳したほうがいいに決まっている。たとえそれが、どれだけみっともないことであっても。 ************************* 「宮沢なら、午後から休みをとって帰りましたよ」 去年の同期会で配られた住所録をもとに、果歩は宮沢りょうの自宅前まで辿りついていた。 夜―― 急いで残業を切り上げたつもりだったが、それでも八時を大きく回っていた。 どうしよう……。確か一人暮らしだって噂で聞いたけど、いきなり訪ねて行って―― 思いっきり迷惑だと思われたら。 念のためかけてみた電話は、二度もピードットコムとかいう会社の留守電に繋がった。多分、幹事が誤って打ちこんだか、あえてでたらめな番号を載せているのだ。後者だとしたら本当に性格が悪いとしか言いようがないけれど。 10階建てのマンションを見上げ、果歩は小さく嘆息した。 それにしても、昼から帰ったってどういうことなのだろうか。 ランチタイムに15階にいたってことは、少なくとも昼御飯は食べたってことだ。昼から帰るつもりなら―― わざわざ役所の食堂で食べるだろうか。 「……………」 傷つけたのかもしれない。 それはそうだ。もし逆の立場だったら、多分トイレで号泣だ。辛くて仕事なんて出来やしない。 「あー、もう、何ぐずぐずしてるのよ、私は!」 叱咤するものの、足は一向に動かない。ああ―― いまだかつて、ここまで気まずい思いを抱いて、誰かに会いに行ったことなどあっただろうか……。と、その時、果歩の目の前に、一台の黒いセダンが滑り込んで停車した。 「ごめんね、送らせちゃって」 声と共に、助手席が開いて、ヒールに包まれた足が出た。 「いいよ、明日はさぼるなよ」 「うん、サンキュ」 果歩は、動くこともできずに棒みたいに立っていた。 女は宮沢りょうである。黒っぽいパンツにブラウス。上にカーディガンを羽織っているだけで、昼と同じ服装をしている。 男は―― 車の中が暗くて、よく確認できなかったけれど……。 「じゃ、また明日ね。篠田さん」 手を振った宮沢りょう本人が、その疑問に答えてくれた。 運転席の男も手を振り、そのまま車は発進する。 果歩は―― 少し吃驚していた。宮沢さんの笑顔が優しい。開き始めの薔薇みたいに初々しくて華やかだ。こんな風に……笑うこともできる人だったんだ。 だからだろう。逃げるタイミングを完ぺきに逸していた。 気づけば、冷え切った目をした宮沢りょうが、車一台分だけ離れた距離に立っていた。ぎくっとしたが遅かった。両手を腰に当てている。多分―― ものすごく怒っている。 「……もちろん、偶然じゃないわよね」 「あっ……と、その」 一応、見舞用に買ったケーキの箱を持ち上げて見せる。多分、意味は通じていない。 「へぇ、わざわざ確かめにきたんだ。案外暇なのね、市長秘書って」 いや、だから、そうじゃなく。 「これで納得したでしょ? じゃあね、お休み」 「ちょ、あっ、宮沢さん!」 背を向けた宮沢りょうに、果歩は慌てて駆け寄っている。 「何よ、大声ださないでよ」 「あの―― あの」私、何もしゃべってないから! 「……風邪だって聞いて」 「風邪?」 作り笑顔を無理に浮かべ、果歩はケーキの箱を再度アピールしてみせた。 「マリエの新作、美味しいんだって」 「…………なんの真似?」 今度はりょうは、思いっきり不審げな眼差しになった。 「いや、だから」お見舞いに―― 。 「もしかして、昼間のこと気にしてるの? まさかと思うけどお詫びのつもり?」 声は、思いっきり馬鹿にしていた。というより、あきれ果てていた。 「私が昼から帰ったから? いっとくけど的場さんたちとは全然関係ない理由でよ」 「いや……だって……」 戸惑いながら、果歩は視線を彷徨わせる。 「お昼、食堂で食べてたじゃない」 「安いからに決まってるでしょ」 眉をあげたりょうは、心底呆れているようだった。 「一人で生活してるのよ? 基本、食事は朝昼夜、全部食堂よ」 そ、そうだったのか―― ……。 自分の早とちりに、いまさらながら後悔したがもう遅い。 りょうは、肩をすくめるように嘆息した。 「八方美人だとは思ってたけど、そこまで偽善者だとは思わなかった。いっとくけど、人に憎まれる勇気もないなら、迂闊に他人の陰口なんか叩かないことね」 それは違う―― そういう言い訳がしたくて来たんじゃない。 が、反論できないのもまた事実だった。むしろ、自分の中の―― 決して見たくない痛い部分を突かれた感じがして、果歩は言葉を飲んでいた。 ふっと、りょうは、皮肉な目で相好を崩した。 「誰からもいい人に見られたい的場さん。あまり好きじゃない私にもそう思われたい的場さん」 「…………」 「ほんっと疲れる性格だね? 私には絶対真似できないよ」 「…………」 なんて嫌な人なんだろう。 この人って、本当に性格が悪いんだ。そりゃ確かに、悪口言ったのは私が悪くて、本当は心配もしてないのにお見舞いとかって口実つけた私も……悪いんだけど。 「く、口止めよ」 「はい?」 眉を寄せるりょうに、果歩はケーキの箱を押しつけていた。 「い、言ってほしくないのよ。誰にも」 「何を?」りょうは、思いっきり訝しげな目をしている。 「だから昨日の―― 夜のことよ」 「夜?」 ああ―― もう! 全部説明させないで、察してよ。 「み、見たじゃない。お互い、ちょっとまずいところを」 「…………」 一瞬眉根を寄せたりょうは、ようやく果歩の言いたいことを理解したようだった。 「ああ……あれ」 「ちっ、ちなみに私は、誰にも喋ってないからね」 「へぇ……」 どう贔屓目に解釈しても、まるで信じてはいない眼で見つめられる。 「ほ、本当だからね。ちなみに私、宮沢さんにどう思われようと、そんな―― 別に気にしたこともないから」 「……ふぅん」 「じゃっ」 大急ぎできびすを返す。人気店の決して安くはないケーキ……あえてホールで買った心意気を察して欲しい。 「ちょっと待ってよ」 背後から呼び止められる。 ぎょっとしたが、表情には出さずに振り返る。宮沢りょうの顔が、月光に白々と輝いている。それはいつも以上に美しく―― いつも以上に怖く見えた。 「それって取引にはならないわよ。だってあなたは隠したいのかもしれないけど、私にとってはどうでもいいことだから」 「…………」 今度は果歩が―― 理解不能の表情を見せる番だった。 誰よりも頭のいいこの人が、判っていないはずがない。たとえそれが根拠のない噂であっても―― 役所内でのその醜聞が、どれだけ自身のキャリアに傷をつけるか。 「もしかして……」 先ほどのフランクな会話を思い出して、果歩はつい訊いていた。 「もしかして、実は親戚のお兄さんだとか」 「は? なにそれ?」 「…………」 いや、そりゃ馬鹿な質問したことは判ってますよ。でも、あまりに堂々としてたから。 「……本当に、不倫?」 「妻子ある相手と恋愛関係にある状態をそう言うならね」 「…………」 なんで……? 本当に……? 複雑な感情が、そのまま顔に出てしまっている。果歩は視線を逸らし、りょうがかすかに笑うのが判った。 「面白いのは、相手が石田純一だから? 私が弄ばれて棄てられると思ってるから? どっちにしても余計なお世話よ。それで傷つくのも責任取るのも私なんだから」 「…………」それは―― 。 ああ―― おせっかいが首をもたげ、口を開かせようとしている。果歩は迷いながら視線をさげ、迷いながら顔をあげた。 「それ、……少し違うと思うけど」 「は?」相手がむっと眉を寄せるのが判る。 「こ、こういう場合、傷つくのは、宮沢さんだけじゃ……」 ないだろう。―― 多分。 そこで、自分だけの問題と開き直るのは、やっぱり少し身勝手な気がする。もちろん、私に口を挟む筋合いはないんだけど。 「へぇ」 気まずいにもほどがある沈黙の後、りょうがくすりと笑うのが判った。 「でも、的場さんも、あと少しでそうなるんでしょ?」 ―― え……? 「真鍋ジュニア、結婚が決まりそうだって聞いてるし。それを承知であの夜はつきあってたの? それとも、知らずにつきあっちゃった?」 「それは―― 」 あまりの皮肉な言い方に、さすがに、胸に小さな怒りの塊がこみあげる。 「知ったからって諦められる? その途端に気持ちは冷める?」 「あのね、宮沢さん」あの夜は、そんなんじゃなくて。「私と真鍋さんは―― 」 「私はね、彼の傍にいたくて、そのためだけに、こんなつまらない役所に入ったの」 たたみかけるように、りょうは言った。その剣幕に気押されるように、果歩は一歩引いている。 「何年もずっと好きだったの。あの人が結婚するずっとずっと前からよ。それを、何も知らない他人にとやかく言われたくないわ」 |
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