「おっかしいな、この辺だと思ったのに」 住所も番地もあっているはずなのに、目的の建物がない。 流奈は携帯にメモした住所と、電柱に表示してある住所を照合した。うん、同じじゃん。 不意にぽつんっと額に冷たい滴が落ちてくる。 曇り空を見上げた流奈は、今夜の天気予報が降水確率90パーセントだったことをようやく思い出していた。 天気予報は毎朝見るのに、いつも傘を忘れて出てしまう。 馬鹿だなと、その度に思うのだけど、いつも。 ――何やってんのかなぁ、私。 商店街の軒先に身を寄せながら、流奈はぼんやりと灰色に濡れていく町並に目を向けた。 (――ごめん。なんだかんだいって、お前には悪いことしたと思ってる) あの夜の翌日、一番怒っていると思っていた人に驚くほど素直に謝られた時、自分の中から憑きものが落ちたように空っぽになった。 (――最悪っちゃあ最悪だったけど、ま、なにもかも俺の自業自得だろ。果歩には少し間を開けて謝るよ。今は俺の顔も見たくないだろうし) それだけ? 私、あなたにも的場さんにも最低なことしたんだよ? まさか藤堂さんが、的場さんを連れてくるとは思わなかったけど、あの刹那、藤堂さんの背後に的場さんがいることを、私ちゃんと分かってたのに。 「…………」 目に映る世界が降り出した雨と一緒ににじみ出して、流奈はぐっと唇を噛みしめた。 最初から叶わない恋だって分かってた。 どうせ私のものにならないなら、せめて本気で怒って、憎んでほしかったのに。―― 雨が、少しずつ雨脚を増してくる。 ――傘、返すんじゃなかったな。 ていうか、そもそも借りるんじゃなかった。 雨に濡れるのなんて慣れっこなのに、どうしてあの時、さしてよく知らない男の傘に入りたいと思ってしまったんだろう。 で、未練だか意地だか自分でもよく分からないままに、その男の家を探している私ってなんなんだろう。 その男だって、最初から今まで、どうせ的場さんしか見ていない。 なのにちょっとでも期待して、本当に馬鹿みたい。 流奈はうつむき、足下の石をかつんっと蹴り飛ばした。 「……てか、むかつく。なんで、どいつもこいつも的場さんなのよ」 いくら美人でも、もう30のおばさんじゃない。 いいよね、元がいい人は。 どうせ何の苦労もせずに、周りにちやほやされてあの歳まで生きてきたんだろうな。 ああいう人が、私みたいにどん底に落ちたらどんな顔になるんだろう。 あー、見たい。 そのためならなんでもできそう。 「え? 番地違い? そんなことないわよ、三日月マンションでしょ? ちゃんと住所を確認してるから」 不意に隣でそんな声がして、流奈は顔を上げていた。 三日月マンションとは、藤堂が借りている不動産で、流奈が今探していたのもその建物である。 見れば同じひさしの下に、薄紫の色無地をまとった女性が立ち、携帯を耳に当てている。 しっとりとした色白の、目元の凜とした艶やかな美人である。 細身なのに佇まいにどっしりとした落ち着きがあって、迂闊に話しかけたら、背後から「われ、わしの女になにしとんのや」てな感じの男が出てきそうだ。 ――……極妻みたい。まさか、本物じゃないよね。 「あら、そうなの? それでどこを探してもなかったわけね。ええと――この辺りは」 女性が視線を巡らせて、目の前のスーパーの名前を言った。 「あのね、一度行ったきりの場所を、そう簡単に覚えられるわけないでしょう。誰も彼もがあなたみたいに記憶力がいいわけじゃないのよ」 少し苛立ったようにそう言うと、女性は携帯を切ってハンドバッグに収めた。 同時に、手にした葉書のようなものを収めようとしたので、流奈は咄嗟に声を上げていた。 「あの、ちょっとそれ見せてもらえますか」 女が訝しげに顔を上げる。唇の右下に少し目立つ黒子があって、それがなんとも艶めかしい。 やや怯むものを感じながらも、流奈はにっこり微笑んだ。 「三日月マンション、私もちょうど探しているところなんです。その手紙、見せてもらってもいいですか」 女が手に持つ葉書――白い指の間からちらりと見えた丁寧な筆跡に見覚えがあった。 「まぁ、そうなの? さっき聞いたのだけど、こことひとつ違いの番地にあるみたいよ」 特に疑うことなく差し出された葉書には、二つの名前が並んでいた。 宛名は藤堂佳江様。 宛先人は――藤堂瑛士。 流奈はこくりと喉を鳴らして顔を上げた。 この人、誰? まさかと思うけど、藤堂さんの身内? 全く似てないけどお母さん? ――てか、この時代に、葉書なんて書く人いたんだ。 裏面を見たいという好奇心でうずうずしたが、それより先に、どうしても目的地に行き着けない理由が分かった。 人事課からこっそり入手した藤堂の住所は、町名が一部欠落していたのである。 というより、こんな偶然ってある? この人が藤堂さんにとってどういう人であっても、彼の私生活に踏み込むきっかけになるのは間違いない。 「もしかして、藤堂さんのお母様ですか」 「あら、瑛士をご存じなの?」 一番無難な可能性を口にしたが、ビンゴだった。 信じられない。全然似てないし、歳も30半ばくらいにしか見えないのに。 でも―― これは、面白くなってきたんじゃない? 「ええ、よく知ってます」 流奈は満面の笑顔で女性を見上げた。 「私、須藤流奈といいます。藤堂さんに私のこと、聞いてませんか?」 その途端、女性の表情に、すうっと影のような凄みが滲んだ。 「……瑛士が、どうしてあなたのことを私に?」 おー、こわ。 藤堂さんの奥さんになる人は、相当苦労するだろうな。 「つきあってるんです。といっても、まだそうなったばかりですけど」 「瑛士があなたと?」 唇だけで笑う女性の目が、流奈を上から下まで値踏みでもするように見下ろしている。 「……それは、どうなのかしら。あなたの勘違いということは?」 「えー? なんでです? あんなことまでしてそれはないと思いますけど」 「あんなこと?」 「私の口からは……。でも、藤堂さんには責任を取る義務があると思いまーす」 「責任」 互いに一筋縄ではいかないことを認識しあった女の目が、空で冷たく絡み合った。 気づけば雨が上がっている。 空を見上げた女が、流奈に目を戻してから微笑した。 「それが何を意味しているのか知らないけれど、瑛士が責任を取らなければならない相手は別にいますよ」 「どういう意味です?」 「あの子には、婚約している相手がいるってことよ。そんなこともご存じなかったの?」 「…………」 なにそれ。 え――? なに、その美味しい話。 「――そんなところにいたんですか」 その時、すっかり耳に馴染んだ声がした。 振り返った女性の肩越しに、傘を手にした藤堂の姿が見えた。 へぇ……と、流奈は目を見張っている。 休日だとこんな感じなんだ。お金持ちだって噂は、じゃ、嘘かな。 全然普通――てゆっか、まだ大学生みたい。 「方向音痴なのに無茶をしないでください。だから駅まで迎えにいくと」 そこまで言いかけた藤堂が、眉を寄せるようにして口をつぐむ。 流奈はくすっと笑って、ひらひらっと片手を振った。 聞いちゃった。 「……須藤さん?」 「瑛士さん、あなたこの子と知り合いなの?」 婚約者。 婚約者だって。 ――へーぇ、それはそれは、随分と面白い展開じゃない。 藤堂瑛士の4月 終 |
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