――さ、最悪の展開になってしまった……。 執務室に1人戻った果歩は、いまだショックから抜けきれないまま、机の上を整理していた。 扉が閉ざされた次長室では、藤堂1人が残されて春日に説教されている。 これまで次長室で行った様々な悪事の数々――実際は、寝起きを襲ってキスされただけだけど――それも含めて、いよいよ春日に全てがばれてしまった気分だ。 ――大げさなことにならなきゃいいけど、藤堂さんの処分とか。 セクハラではないのだから、それはないだろうし、今、2人は時間外勤務の範囲外――つまり勤務中ではない立場でここにいる。それでギリギリ、今日のところは許してもらえないだろうか。 「えっ、的場さん、どうしたんですか?」 カウンターの方から驚いた声がして、顔を上げた果歩はなお驚いた。 立っているのは、黒のスーツに身を包んだ入江耀子だ。 元都市政策部の係長。元々は霞ヶ関の官僚で、訳ありで市役所に飛ばされてきた。市税を支える地元大企業の娘で、多分、このままずっと市役所にいるはずだ。 今は、係長級ではあるが、部下なしの主査という立場で、議会事務局の議長秘書をやっている。 彼女とは実のところ色々あったし、役所内で藤堂の素性を知っている唯一の人物でもある。 ただし、役所では賢い仮面を被っている耀子は、藤堂にまつわるあれこれについては一言も口に出さない、果歩と藤堂の関係についても、知っているだろうに沈黙を守り続けている。 だから果歩もそしらぬ顔で会話をするが、入江耀子が第一級の要注意人物であることは間違いない。 「入江さんこそ、お仕事ですか」 席を立った果歩を、耀子は呆れたような目で見回した。 「まぁ、私は仕事ですけど、的場さんは一体……」 正月でもないのに役所で着物なんて、呆れられるのも仕方ない。果歩はやむなく、今から同僚の結婚式に出ることと、仕事が山積していることを説明した。 「――あ、そうなんですか。忙しい時期に大変ですね」 耀子は興味なさげに言うと、ちらっとその目を次長室に向けた。 「春日次長は?」 「今、中で……藤堂係長と」 次長室での情事を見とがめられて、説教の最中だとはとても言えないが。 「へぇ、藤堂係長も一緒なんですか。……へぇ」 しかし、それまでさほど関心なさそうに果歩の話を聞いていた耀子の目に、初めて楽しそうな色がかすめた。 「ねぇ、的場さん、的場さんは藤堂係長のお兄さんのこと、どこまで知ってます?」 「…………」 それは、もしかして脩哉さんのこと? 「ごめんなさい。私、あまり立ち入ったことは……」 「またまた、隠さなくても知ってますよ。係長とそういう仲なんですよね。もちろん誰にも言ってないから安心してください。二宮を敵に回すほど、私も馬鹿じゃありませんから」 耀子のやけに親しげな態度に、果歩は少しだけ不穏なものを感じていた。 「入江さん、私、本当に何も知らないんです。係長のご実家が何をしているところなのかも含めて、……まだ係長と、そういう話をするような間柄でもないですし」 「へぇ……。まぁ、そう言い張るならそれでもいいですけど」 耀子は、そこはあっさりと流したが、再び好奇に輝く目を果歩に向けた。 「私、実は一度だけお兄様にお会いしたことがあるんです。その人が、まだ13歳の時ですけど」 「……藤堂さんの、お兄さん?」 「ええ。びっくりしました。まるで女の子みたいに綺麗な人だったから。目がキラキラして、黒髪はさらっと肩まで伸びて……、その場にいた全員が、脩哉様を目で追いかけていたのをよく覚えています」 二宮脩哉。香夜さんの言うところの、海の泡になった人魚姫。 性同一性障害――身体は男性でも心は女性。その運命にぎりぎりまで抗って亡くなった悲しい人だ。 その脩哉に、香夜は心を病むほどに恋い焦がれ、なのに脩哉が愛したのは藤堂さんの父親だった。――いや、それはいつしか、藤堂さんそのものになっていたのだろうか? どうしてだか息苦しさを覚え、果歩は視線を下げていた。 その人はまだ、藤堂さんの中に――彼の秘密の部屋にいる。その扉がもう一度開いた時、彼は再び、過去に引きずり込まれてしまうのではないだろうか。 「脩哉様が亡くなられて、私、もうあんな綺麗な男の人には二度とお会いすることがないと思ってました。でも、つい最近ですけど、すごく脩哉様に似た人を見たんですよ」 耀子の声に、果歩は訝しく瞬きをした。 「女性の人?」 「いいえ」 果歩の問いに、何故か耀子は笑いをかみ殺すような目になった。 「実は今、大学の後輩に頼んで、当時の脩哉様の写真を持っている人を探しているところだったんです。それ、届いたら的場さんのメールにも転送しますから」 「……別に私はいらないから。ていうか、なんでそんなことしてるの?」 「好奇心。昔憧れていた人の写真を探すのって、別に悪いことじゃないでしょ」 ――まぁ、……それはそうだけど。 「そうそう、話は変わりますけど、今日告示がある市長選の立候補者、もう噂くらいは聞いてますよね」 含みのある耀子の口調から、彼女が果歩の過去を知っていることが窺い知れた。 果歩はむっとしたまま顔を背ける。 全く、人があえて考えないようにしていることを―― どんな嫌味を言うつもりかは知らないが、今日はまだ勘弁してほしい。どうせ明日から、「真鍋、真鍋、真鍋でございます」コールに連日悩まされることになるのだ。 「記者発表はもう少し先ですけど、議会棟はその噂で持ちきりですよ。親子対決なんて滅多にないから、めちゃくちゃ盛り上がるじゃないですか」 「…………」 ――親子対決? 「あれ、もしかして、真鍋市長の対立候補、ご存じないんですか? ネットを検索したら、そこそこ噂になっているのに」 耀子はおかしそうに笑うと、呆然と立つ果歩を見てから肩をすくめた。 「脩哉様の写真、届いたら的場さんにも送ります。多分、私以上に驚くと思いますよ」 ************************* 「君ともあろう者が、一体何をしておるんだ。見つけたのが私だったからよかったものの」 すみません、と藤堂は情けない気分で頭を下げた。 全くもって、自分の意思の弱さに腹が立つ。 (わ……、私も、着付け、習おうかな) あらゆる誘惑を退け、あんなにぎりぎりまで我慢したのに、またしても彼女の罠に落ちてしまった。 「申し訳ありません。互いに休暇日だったので、気が緩んでいたんだと思います」 「緩みすぎだ、ここを一体どこだと思っている」 ――……僕も、どこかで気持ちが冷静ではなかったんだろうな。 頭を下げながら藤堂は思った。 カウントダウンが近づいている。 彼女はそれを、知っているのか知らないのか。これまで通りの笑顔の下にどんな気持ちを閉じ込めていようと、多分今日も、それを見せてはくれないだろう。 だから自分も、これまで通りの態度でいようと思っている。 そんな風にしていられるのも、あとわずかなのかもしれないのだから。 「まぁ、次はせめて扉を閉めてやりたまえ」 全く春日らしくないセリフを吐くと、今からが本題だったのか、春日は表情に別の険しさを宿して、藤堂にソファに座るよう促した。 「とはいえ、君がたまたまいてくれて助かった。実は、来年度の人事のことだ」 「はい」 春日が果歩を外に出した時から、何か別の目的があるだろうは思っていた。藤堂はちらっと腕時計を見た。遅くなるようなら、彼女には先に行ってもらうべきか。 「県連の動きを見れば明らかだが、来年度、真鍋市長の4選はない」 「…………」 「よほどのことがない限り、公新党がバックについた真鍋雄一郎が初当選するだろう。38歳。この灰谷市では、最年少市長の誕生だ」 言葉を切って、春日は藤堂の顔を見た。 「驚かないようだな。――まぁ、君もいわゆるジュニア派の1人だったから、全て予想通りということか」 「……僕は、そういう立場ではありません」 「最初は間違いなくそうだろうと踏んでいたがね。――まぁ、どちらでも構わんよ。誰がトップに立とうと、私は自分の仕事をするまでだ」 そう言うと、春日は市のマークの入った分厚い角2封筒を藤堂に差し出した。 「極秘資料だ。――今、議員筋から入手した。来年度の人事異動は、すでに真鍋ジュニアの新体制を見越して準備されている。いわゆるジュニア派――人事の皇主査あたりが早々に動いていたんだろう」 藤堂は封筒から、ホッチキスで閉じられた両面コピーの紙の束を取り出した。 ぱらぱらっとめくる内に、自分の眉が険しくなっていくのが分かる。 「……これは、相当の激震が来ますね」 「激震どころの騒ぎではないよ」 吐き捨てるように、春日は言った。 「真鍋市長の長期政権は、明らかに市政の弊害になっている。昔から切っても切れない黒社会との繋がりが断てないのも、真鍋市長の背景が原因だ。――それを改革するために、市の一部の連中がかねてから有力な対立候補を模索していた。それが今のジュニア派、総務の藤家局長を中心とした、いわゆる改革派だ」 「…………」 「真鍋雄一郎にどんな目論みがあるのかは知らないが、雄一郎はその潮流に上手く乗った。不遇の息子が父を倒す。あたかも時代劇のような痛快さじゃないか。――しかし、あるいは改革派すら、雄一郎は斬り捨てるつもりでいるのかもしれない」 「……何故、僕にこの話を?」 「見れば分かるが、ここに君の名前はない」 藤堂は黙って、手元の書類に視線を落とした。 「君が、どの時点で進退を決めるつもりなのかは知らん。しかし身勝手を承知で言えば、あと1年、いや2年は灰谷市に残って欲しい」 「…………」 「今、私が危惧していることは、それで察してくれないか」 藤堂はわずかに唇を噛み締め、頷いた。 「考えさせてください。ただ少なくとも、来年度の4月に辞めるという選択肢は、僕にはないです」 立ち上がろうとすると、背を向けた春日が、藤堂を見ないままに「最後を見たまえ」と言った。 「それだけは、私が個人的な理由から入手したものだ。――見れば分かるが、来年度の的場君の異動先だ」 ************************* 南原と乃々子の結婚式は、午前11時から、川沿いのチャペルで行われた。 再開発地区に新しく建てられた教会は瀟洒で美しく、傍らを流れる川面は明るい春の日差しを宿してきらきら輝いている。 並んで祭壇に立つ2人は――南原には、正直「似合ってないな」という心の声を禁じ得なかったが、純白のウェディングドレスに身を包んだ乃々子は、本当に可愛らしかった。 「乃々子、可愛い!」 「いつの間に、そんなに美人になったのよ」 多分学生時代の友人達だろう。嬉しそうに騒ぎながら、パシャパシャ携帯で写真を撮っている。 最前列で号泣しているのは、一度役所に怒鳴り込んできた父親だ。その隣で、ちょっとびびるくらい美人の母親がそっと涙を拭っている。 で、その隣には、すらっとした長身の美人が、少し寂しそうな、ふてくされたような顔で座っていた。 ――ああ、そっか、乃々子の妹……、確かモデルさんだって言ってたっけ。 何故だか乃々子に、似合わない色の口紅をプレゼントしていた謎の妹。もしかしたら、頭のよすぎる姉への嫉妬もあったのかもしれないな。 あと、どこかで見抜いていたのかもしれない。おしゃれに一切関心のなかった乃々子が、いざ本気で取り組んだら、びっくりするほど綺麗に変身することを。 別の列には、南原一族も集結している。これは考えるまでもなく一目で分かった。全員が、南原と似たような顔をしているからだ。 「うっ、うっ、南原さん……」 初めての結婚式でテンパったのか、それとも恋? を失ったショックなのか、果歩の隣でめそめそ泣き続ける水原。 大河内は、式の途中から悪気なく居眠りしている。しかしそれも仕方ない。四十代にここ数日の激務はさぞかしきつかっただろう。そして職場と同じで、一切表情を変えない志摩課長。 祭壇では、神父が片言の日本語で何かを言っている。果歩は背後を振り返った。 ――藤堂さん、遅いな。 (すみません、春日次長と込み入った話があるので、先に行っていてもらえませんか) そう言われたので、果歩は1人でタクシーを拾って式場まで直行した。 式が始まってからもう30分が過ぎたのに、藤堂はまだ姿を見せない。 そこまで春日次長の怒りが深かった? いや、そんなこともないだろう。それだったら果歩も呼ばれて、思いっきり雷を落とされていたはずだ。 ――まぁ、でも、別々でよかったかな。…… 今は気持ちが落ち着いたけど、一緒に車で移動していたら、みっともなく動揺する姿を見られていたかもしれない。 ――……真鍋さんが……市長選挙に出馬する……。 つい一時間前に知ったばかりの衝撃が、まだ胸に鈍く尾を引いている。 ――しかも、お父さんと対決する形で……。 時々耳にした真鍋市長の対立候補とは、息子の雄一郎のことだったのだ。 雄一郎が灰谷市に戻ってくることもショックだったが、それ以上に、父親である現市長との不仲が今も続いていたことが、想像以上に果歩の胸を締め付けた。 あれから8年が過ぎても、まだ雄一郎と市長との間には遺恨があった。いや、遺恨という一言で片付けていいものなのか。父親の所属政党の公認を得た雄一郎は、文字通り父親を蹴落として、市長の座を奪い取ろうとしているのだ。 一体どうして、そこまでしなければならないのだろう。 ネットで検索してみると、少し前から雄一郎の名前は最有力候補として取り沙汰されていた。多分だけど、役所の中でもそこそこ噂になっていたはずだ。 それが果歩の耳に入らなかったのは、それなりに周囲が気をつかってくれていたのだろう。 ――藤堂さんは……知ってたのかな。 それはいわずもがなの疑問だった。藤堂の立場で知らないはずがない。なんとなれば、来年度の町内人事は、すでに新市長誕生を想定して進められているからだ。 自分が藤堂に、肝心なことを何も打ち明けていないことを、改めて思い知らされたような気持ちだった。 もちろん藤堂は知ってるだろう。真鍋雄一郎が立候補することも、その人物と果歩が、かつて役所を騒がした仲だったということも。 その人の母親の葬儀の後、果歩が泣き崩れてしまったことも。 なのに彼は、そのことについては何も聞こうとしないのだ……。 今さらながら、最後に屋上で話した時の、りょうの言葉が真実をついていたことが思いしらされる。 (無自覚なのはいつものことだけど、今、それを曖昧にしてるのは果歩の方だよ) (藤堂君と先に進むことに、今は果歩の方が二の足を踏んでない?) そうだ。私はまだ、曖昧なままでいたかったのだ。 まだ――まだ真鍋さんのことを、藤堂さんに話すだけの勇気がないから。 これから真鍋一色になる灰谷市で、藤堂さんとどう自分の過去を共有していいか分からなかったから―― 「それでは、指輪の交換を」 その時メインイベントが始まって、果歩ははっと我に返った。 ――いけない。今は乃々子の結婚式だ。 気持ちを切り替え、急いで携帯を取り上げて、カメラをスタンバイさせる。 タクシーの中で、何度も何度も自分に言い聞かせたセリフをもう一度繰り返す。 真鍋さんのことは考えない。 考えたところで仕方ないし、私には関係ない。 あの人が市長になったらなったで、どうせ私は島流しなんだから、顔を合わせるおそれもない。――そう、だから大丈夫。 今夜にでも、藤堂さんには全部話して――あ、今日はこれから役所に戻って仕事の続きだから、それどころじゃないか。 4月になったら全部話してすっきりさせよう。そしてもう、二度と過去のことは思い出さない。 カメラを構え、果歩は思いっきり前に出た。 ――南原さん、死んでも嫌だろうけど、キスの瞬間、ばっちり撮らせてもらいます。 言っては悪いが、当初南原には、胃がすり切れるくらい嫌な目に遭わされた。もちろん南原にも南原の考えがあったのだろうし、今では全く根にもっていない。 が――せめてこの程度の意趣返しはしてやりたい。 しかしその南原は、果歩が見ても気の毒なほど緊張でガチガチになっていた。 指輪を持つ手がアル中の人みたいに震え、何度も指にはめるのを失敗している。 「なにやってんだ、亮ちゃん!」 「がんばれー」 と、多分本人には全く嬉しくないかけ声が、南原側の参列者席から飛んでいる。 その時、つつましやかにうつむいていた新婦が、薄く微笑んで顔を上げた。長いつきあいの果歩には分かる。多分、少しいらっとしている。 乃々子は、南原の手をがっしと自分の右手で支えると、可及的速やかに指輪を嵌める儀式を手伝った。 あたかも2人の馴れ初めを彷彿とさせるような展開に、果歩は、続くキスの写真を撮るのも忘れている。 ――やっぱ乃々子ってすごすぎる。私も、ああいうとこは見習わないと。 ガクガク震える藤堂さんの手をがっしと掴んで強制的に――ああ、いやいや、もちろんそれは同意の上で。 口の位置が完全にずれていたキスの後、顔を上げた乃々子の目に光るものがあった。 果歩もまた、目の端に滲んだものを指で拭っていた。 |
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