――晃司、もしかして異動なのかな。……前聞いた時は、今年は絶対ないみたいなことを言ってたけど。 でも、異動内示はまだ出ていないはずだ。市長選がある年の人事異動は流動的で、それがいつになるのかは幹部以外誰も知らない。市長選挙が実施される翌週になることもあれば、4月1日にきっちり行われることもある。 ただし、退職者の補充だけは4月1日に行われるから、その人数分だけの異動は市長選にかかわらず確実に行われる。 ――多分、退職者補充以外の人事異動は、市長選挙の後だろうな……。 そういった空気は、局の総務課にいればなんとはなしに伝わってくるものだ。 4年前は、4月1日に異動があった。おそらくだが、現市長が当選する確率が相当高かったのだろう。今年は――少しばかり劣勢なのだ。もしくは真鍋市長が立候補せずに引退を表明するか。 まぁ、正直言えば、市長選のことはあまり深く考えないようにしている。 4年前も、連日「真鍋、真鍋、真鍋をよろしくお願いします」との選挙カーの連呼に、ノイローゼになりそうになったものだ。 初めての恋人と別れて4年、ようやく忘れかけていた心に、あれはグッサグサに突き刺さった。外を歩いていても真鍋、テレビをつけても真鍋。新聞をめくっても真鍋。挙げ句は寝ていても―― 「…………」 果歩はぼんやりとため息をついた。 それは夢か。 もう二度と見たくないと思っていた過去の夢。自分の人生で一番幸せだった頃の記憶の欠片。 はっと我に返った果歩は、びっくりして首をぶるぶると横に振った。 いけない、何を考えていたんだろう。人生で一番幸せだった頃? ――それは今から間違いなく別の場面で上書きされるはずなのだ。 てか、その後に晃司ともつきあったし、藤堂さんとも色々あったし、幸せだった時なんていくらでもあったじゃない。うん。 自席についた果歩は、手帳を取り出して開いてみた。 指折り数えて4月を待っている証に、今日までの日付には小さな×マークを付けている。4月まであと12日。 いやいや、今確認したかったのはそんな乙女心ではなく、異動内示が口頭で降りてくるタイミングだ。仮に4月1日異動にしても、12日前は早すぎる。 じゃ、なんで晃司はバタバタしてるの? ――なんだろう、りょうに聞いてみたら何か分かるかもしれないけど……。 が、いくら親友といえども、りょうの口は、こういう時貝よりも固い。 しかも、一万の職員の人事異動を控えたこの時期、人事課の忙しさは半端ではない。さすがに今、そんなくだらないことで電話するわけにもいかないだろう。 藤堂さんに聞いてみようか。もう仲直りしたし、今なら弱味に乗じて人事の秘密も聞きだせそうだ。 そう思って上席を見た果歩は、今日残業予定の藤堂の姿がないことに気がついた。 「係長は、食事でしょうか?」 「いや、さっき携帯に電話があって、慌てて出ていかれましたよ」 と、自席で仕事中の大河内が答えてくれる。 「また実家からじゃねぇの」 「藤堂君は、何やら実家がうるさそうだからな」 南原と中津川補佐の軽口に、むむっと果歩は眉を寄せていた。 一難去ってまた一難。これも今年1年で散々経験したが、いいことの後は必ず悪いことが待っている。 が、月のお姫様は、今度こそ月に帰ったはずだ。とすれば、電話をしてきたのは彼の首根っこをがっちり捕まえているお母様だろうか? それとも―― (もう、私の血縁は甥である瑛士しかいない。むろん、後継者は血縁でなくとも構わないが――あるいは瑛士は、本人の意に反してこの家を継ぐことになるかもしれん) (その時、あなたと瑛士が恋人同士だったとして、私が反対したら、どうするつもりかね) 藤堂さんの――元養親である二宮喜彦。 その時の喜彦の問いかけに、果歩は2人で考えますと答えて、逃げてしまった。 多分あれは不正解だった。あの時あの老人は、「諦めません」とか「戦います」とか、そういった勇ましい言葉を私に期待していたはずなのだ。 藤堂と2人で答えを探したいと思ったのは嘘ではないが、逆に言えば、それは今の自分に確固たる意志がないからだとも言える。 そもそも藤堂さんが望む結末とはなんだろう。というより、彼の居場所って本当はどこだろう。この市役所? それとも―― 「あ、あの、的場さん……」 その時、水原の怯えた声が背後から聞こえた。 計画係ではなくカウンターの方から。 訝しく振り返ると、立ちすくむ水原の向こうに、白いスーツをまとった、背の高い男が立っている。 ――あれ……? 遠目からでもきらきら輝く美貌。顔だちは女性的なのに、首や肩にも逞しい厚みがある。 漆黒の右目と鳶色の左目。月から来た――かぐや姫のお兄さん。 「ま、……、松平さん?」 果歩は愕然として立ち上がった。 ************************* 松平帝。 藤堂の元婚約者、松平香夜の兄で、藤堂にとっては従兄弟に当たる男。 男は、果歩を見るやいなや、その整った顔に満面の笑みを浮かべた。 「やぁ、探しましたよ、マイプリンセス!」 ――はい……? 誰もが幻聴を聞いたのではないかと首をひねった時、松平帝は、背中に隠していた薔薇の花束を取り出した。 隠していたといっても、半分見えていたから驚きはない――というより、この男の存在以上の驚きがあるだろうか。 派手な顔立ち、それより派手な高級スーツ。薔薇の花なのかフレグランスの香りなのか、およそ役所には似つかわしくない香りが彼の周囲にたちこめている。 「ちょっ……、は?」 果歩はむしろ青くなりながら、カウンターに駆け寄った。 まさかと思うけど、今のは私に言ったんだろうか。本当にまさかと思うけど。 「す、すみません、一体、なんのご用でしょうか」 というより、一体なんの嫌がらせでしょうか。 もしかして、2月の婚約式を台無しにしまったことの報復に? でもそれは、この人の望みでもあったはずだ。彼の妹への思いが純粋に愛情かどうかは、いまひとつ分からなかったけれど。 しかし帝は、心から不思議そうな目になって首をかしげた。 「理由がいりますか。1人の男が、愛する女性に会いに来るのに」 ――………はい? 「あれ以来、あなたの姿が目にやきついて離れない。白状すれば、僕は恋に落ちたんです。――僕の太陽、僕の月。あなたは僕の運命の人だ」 何を言っているのかさっぱり分からないが、魅惑的なオッドアイが、情熱的に果歩を見下ろしている。 「答えはイエス以外いらない。お姫様、どうか僕と結婚してください」 果歩はただ石のように固まって、周囲の視線をひしひしと全身に感じていた。 一難去ってまた一難どころの騒ぎじゃない。 すでにフロア全体が静まりかえって、この珍事を見守っている。 これ、一体――どうすればいいの? 「すみません。その人は僕の親戚です!」 そこに、慌ただしい足音が近づいてきた。 藤堂だった。エレベーターホールから戻ってきた藤堂は、どこか焦った口調でそう言うと、駆け寄って帝の腕をとった。 「驚いたな、来るなら来ると、事前に連絡してくださらないと」 たちまち帝が歓喜の表情を浮かべ、藤堂の肩に腕を回す。 「おお、瑛士、会いたかった!」 「驚かせてすみません。この人は劇団の人なんですよ」 とんでもない嘘をさらっと言うと、藤堂は再び帝の腕をとって促した。 「話なら外で」 「僕のプリンセスも一緒かい?」 「稽古なら、僕がお相手しますよ」 そこで足を止めた藤堂は、ようやく果歩の方を振り返った。 「すみません、ちょっと出てきます。すぐ戻りますので」 彼の態度が水のように自然だったので、誰もがなんとなく納得して席につく。 しかしもちろん、疑問は多く残っただろう。 「なんだったの、今の?」 「藤堂係長の親戚だって。ちょっと頭がおかしい人だったな」 「僕、警察に通報しようと思いましたよ」 そんな不名誉なひそひそ声が、隣の係から聞こえてくる。 それはそうだ。山のてっぺんの治外法権区ならともかく、こんな場所にあのノリでやったこられたら、誰だっておかしいと思うだろう。 ――まぁ、そういう意味ではいい落としどころだったな。劇団の人っていうのは。 あのスーツといい薔薇といい、浮世離れしたイケメンぶりといい、どうみても一般人には見えないし。 それにしても、今夜は三役が不在で本当によかった。この騒ぎを、万が一春日次長に見られていたと思うと……ぞっとする。 「お前、さっきのが藤堂の親戚だって知ってたの?」 再び席につくと、南原が不信感たっぷりに聞いてきた。 「あいつ、課の旅行の時、お前を駅で待ってた男だろ。後で、友達のお兄さんだったみたいな話を聞いたけど」 「ええ、……すみません。その時は私もあまり詳しいことまでは知らなかったので、つい適当な言い訳を」 今も正直、松平帝に関しての詳しい話は聞かされていないけど。 「で、マジで言い寄られてんだ」 「まさか。コメディアン志望だって聞いたことがあるから、藤堂さんを待つ間に、私をからかっただけなんじゃないですか」 ひきつった顔で、果歩は多少の嫌味も込めて答えたが、内心は少しだけ気がかりだった。 もちろん果歩に絡んできたのはただの冗談か嫌がらせだろう。ただ、帝の腕を取ったときの藤堂の目は、間違いなく怒っていた。ほんの一瞬ではあったけど、その感情が近くにいた果歩にはよく分かった。 ――一体何しに来たんだろ、松平さん……。 香夜さんのお兄さんだということ以外、私はあの人のことを何も知らない。私の味方のような口ぶりだったけど、りょうはあの人を胡散臭いと言っていた。 今となってみれば、りょうの判断が正しかったことがよく分かる。もしあの時、帝の手の借りて二宮家に潜入していたら、今度は私が、帝に頭が上がらない立場になっていた。 そしてそれは、藤堂さんにとっては、あまりいいことではないはずなのだ。 ――大丈夫かな、藤堂さん……。 最近あまりに平和だったから、先月起きた異常な出来事をすっかり忘れてしまっていた。 でも、藤堂さんにとっては、あの世界は今も続く現実なんだ。 ************************* 「離せよ、いつまで汚い手で俺に触ってるつもりだ」 非常階段の踊り場に出ると、帝は忌々しげに藤堂の腕を振りほどいた。 その腕を、藤堂は再度掴んでいた。 「何しにきた」 非常灯しか灯っていない階段には、2人しかいない。 整った顔から嫌悪の表情を消すと、帝は冷笑を含んだ目で藤堂を見上げた。 「相変わらず女が絡むと分かりやすいな、お坊ちゃま。二宮の教育方針を忘れたか、怒りは、そう簡単に顔に出すもんじゃないぜ」 「……何しにきた」 「職場じゃ、もの分かりのいい羊みたいな顔してんだな。こんなゴミだめみたいな建物で、クズみたいな連中相手に一体何やってんだよ、二宮の後継者が」 そう言うと、まだ手にしていた薔薇の花束を、帝は無造作に床に投げ捨てた。 「捨てとけよ、公僕。ああそうだ、お前が彼女にやってもいい。なにしろお前はお下がりが好きだからな」 煙草を取り出した帝の手から、藤堂はその煙草を取り上げた。 「建物内は禁煙なので」 「知ったことか」 藤堂の手から煙草を奪い返した帝は、しかしそれを口にしようとはせずに、元通りの場所に収める。 それがこの人の育ちの良さで、本質的に悪人になりきれないところだ。 それでも藤堂は、目の前に立つ男が、自分を決して許さないことを知っていた。 「てっきりイギリスに帰ったものだと思っていました」 「帰ったよ。でも先週戻ってきた。後継者争いが少し面白い展開になってきたからな」 ――面白い展開? 「僕に何の用ですか」 「お前じゃない。本当に彼女に用があったんだよ」 ボケットに両手をつっこむと、帝はにやりと口元に笑いを浮かべた。 「見てたんならもう分かるだろ、プロポーズしにきたんだ。俺、あの子と結婚するぜ」 「…………」 眉を寄せた藤堂を、帝はおもしろい見世物でも見るような目で見つめた。 「ふ、ふ、もちろん冗談だ。でも半分は本気だせ。俺はな、もう一度お前と戦うことに決めたんだ」 「……後継者争いのことなら、僕はもう二宮の家を出ています。参加しないし、する資格もない」 「だったら黙って見ていればいいさ。本来お前のものになるはずだったものが、他人に奪われていくさまを」 「…………」 どういう意味だ? 「なぁ瑛士、俺は今回、本気で警告にきてやったんだぜ」 帝は、笑いをかみ殺すような顔になった。 「正直言えば、的場果歩なんかにこれっぽっちも興味はないよ。お前と違って、俺は他人のお古がだめなんでね。それがよく知っている相手ならなおさらだ」 一瞬こみあげた激情を、藤堂は拳を握ることでやりすごした。 「それで?」 「でも今の彼女には、俺と結婚するだけの価値がある。そういうことになったんだよ」 「…………」 「今、必死で考えてるな? お前の機械みたいに正確な頭がどんな答えを出すのか見てみたいよ。でも、正解は絶対に分からない。――ああそうだ、聞いてみるんだな、片倉に」 ――片倉に。 「もっとも、教えてもらえるかどうかは分からないが」 藤堂の肩を掴むと、帝はそっと耳に唇を近づけた。 「あっただろ、彼女の背中」 「…………」 「もちろん俺は見ていない。その意味を、よーく考えてみるんだな」 ************************* 「藤堂さん、ちょっと」 午後10時を過ぎた執務室。 最近ずっと藤堂に自宅まで送ってもらっている果歩は、同乗する水原が大急ぎでパソコンの電源を落とすのを尻目に、藤堂を目で誘ってロビーに出た。 今夜、ようやく2人きりになれた。それもあとたった数分の話だが。 「大丈夫だったんですか、さっき」 むろんそれは、夕方いきなりやってきた松平帝のことである。あの後、藤堂は帝と2人で外に出て行き、10分ほどして戻ってきた。 (ご迷惑をおかけしてすみません) 彼はあっさりした口調で言って、なんでもなかったように仕事に戻った。もちろん果歩になんの説明もない。 「ええ。的場さんにも迷惑をかけてしまって申し訳ないです。昔から少しふざけたところのある人なので」 今も藤堂は、普段通りの表情をしている。 「なんのご用だったんですか」 「さぁ、帰国したばかりのようなので、挨拶に寄られたのではないですか」 そこで藤堂は、初めて迷うように言葉を切った。 「的場さんに迷惑を掛けることはもうないと思いますが、それでも万が一、帝さんが接触してきたら、極力関わらないようにしてもらいたいんです」 「もちろんそうしますけど、……藤堂さんのご親戚なのに、そんな対応でいいんですか」 少し躊躇ってから果歩は聞いた。 血のつながりがどうなっているのかは分からないが、親戚であることは間違いないし、なにより香夜の実の兄だ。仲違いをしていい間柄では決してない。 「僕は、帝さんに嫌われているので」 淡々とした口調で藤堂は続けた。 「もしかすると、的場さんにも嫌がらせをしてくるかもしれない。いずれにしても、もし帝さんから接触があったら、まず僕に知らせて下さい」 「嫌われているって……?」 「僕が、香夜さんを何度も傷つけてしまったからかな」 「…………」 そうだろうか。なんだかそれは、少し違うような気がする。もし、帝さんが藤堂さんを本当に嫌っているのだとしたら―― (僕は若い頃、恋の苦しさから逃げたばかりに、愛する人を失った後悔をいやというほど味わいましたからね) その相手は誰? もしかして――もしかしてその相手は……。 なんとなくこれ以上踏み込んではいけない気がして、果歩は急いで頷いた。 「分かりました。そうします」 「そうだ、お父さんのことなら、もう大丈夫ですよ」 不意に藤堂が、声に明るさを取り戻してそう言った。 「……お父さんって、もしかしてうちの父のことですか」 「ええ。実は5時過ぎに、お父さんの方から僕に電話を掛けて下さったんです」 「えっ」 果歩は仰天して固まった。 い、一体何故、父が藤堂さんの番号を? まさかと思うけど、私の携帯を勝手に見た? 「ああ、違いますよ。役所に直接かかってきて、それで僕がお父さんの携帯に折り返させていただいたんです。10分くらいかな、外で会ってお話させていただきました」 「そ、それで」 果歩はもう蒼白になっている。あの父が、一体藤堂さんにどんな暴言を吐いたのかと思ったら。 「僕にも的場さんにも、謝っておられましたよ。それから、的場さんの言うように、挨拶は4月になってからで構わないと」 ――……え? それだけ? 「それだけですか、本当に」 「ええ、僕の方も先日の非礼をお詫びして、また改めてご挨拶に伺う約束をさせてもらいました」 なんだかよく分からない展開だけど、とりあえずよかった――。 絶対に父は引かないと思っていたから、肩の力が抜けちゃった。 そっか、父も大人になってくれたか。 ようやく娘の年齢が、もはやもったいぶるものではないと分かってくれたのかもしれない。 「すみませんっ、遅くなりました」 そこに、鞄を肩にかけた水原がバタバタと駆けてくる。 「じゃ、帰りましょうか」 そう言った藤堂の口調は普段通りだったが、それでもあまり元気がないなと果歩は思った。まぁ、今日は色々あったから、疲れているだけかもしれないけど。 |
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