「ごめんなさい。うちは門限が厳しいんですよ」 二次会へのしつこいまでの誘いを断り、果歩は笑顔で頭を下げた。 「じゃあ、今日はお疲れ様でした」 正直、立っているのも辛かった。 胃がむかむかして、冷たい汗がわいてくる。足元もおぼつかないが、それを悟られたくなくて、相当無理をして立っていた。 これはアルコールのせいというより、体調のせいだろう。 そういえばここ数日、まともな食事をしていない。 「じゃあ、行きましょうか。藤堂さん」 この飲みの席で、ずっと藤堂につきっきりだった流奈は、早くも藤堂の腕を取って、引っ張っている。 で、藤堂は、またしても曖昧に「はぁ」とか言っている。 ――なんなのよ、情けない……。 果歩は眉をひそめて、そんな2人から目を逸らした。 なんだか、急に幻滅してしまったような気分だった。 見え見えで誘惑している子に振り回されて、あんなので局総の係長なんてつとまるわけがない、賢そうに見えても所詮は若造、女の子あしらいに慣れてないっていうか……そもそもだらしなさすぎるんじゃない? 「行ってください、藤堂係長」 果歩は、精一杯、棘を抑えた笑顔で言った。 「局長は、私がタクシーまでお送りしますから、お気づかいなく」 「そうですか」 何故か藤堂の声も冷たく聞こえる。ますますむっとしながら、果歩はにっこりと微笑した。 「失礼します」 「失礼します」 なんか藤堂さん、冷たくありません? という流奈の声を聞きつつ、果歩は大股で局長の傍に戻った。 やがて人はばらばらに別れ、二次会に行く者たちも連れ立って繁華街の中に消えていく。 帰宅する局長をタクシーに乗せ、全ての仕事が終わった果歩はようやくほっと溜息を吐いた。 「……果歩」 背後で、ふいに声がしたのはその時だった。 店を出てすぐに姿が見えなくなったから、一足先に帰ったのだと思っていた――晃司だ。 「……よう」 ポケットに手をつっこみ、役所の人間のいる前とは、別人のようにラフな感じで、少し離れた場所に立っている。 「……何」 果歩は、目を逸らし、素っ気無い口調で言った。 藤堂の態度が、まだ自分の中で尾を引いている。ひどく棘々しい気分だった。 「……元気だったかな、と思ってさ」 「元気そうに見えない?」 「……あんま、メシ食ってないだろ」 「…………」 黙ったまま立っていると、晃司が傍に寄ってくる気配がする。 腹立たしいのに、こうやって近くに立たれると、3年馴染んだ男の匂いは、不思議なほど心地よかった。 「……悪かった……」 ポケットに手をつっこみ、気まずそうに目を逸らしたまま、晃司はぼそっと囁いた。 「…………何が」 「……色々……説明しろっていうなら、するけど」 「別に、もうなんとも思ってないから」 「ホントに……ごめん」 こういう時、2つ年下という愛しさがこみあげてくる。 晃司といると、いつもそうだ。 ある意味、非情なまでに仕事熱心な晃司は、恋人としては最低の男だった。約束を勝手に反古にされたり、待ち合わせの場所に1時間以上平気で遅れてきたり――でも、どんなに冷たくあしらわれても、気がつくといつも晃司を許している。 「……いい、私……もう、晃司とは、終わったと思ってるから」 「そんなこと言うなよ」 「これからは、同僚として、仲良くしていけたらいいと思ってるから」 「まだ、好きなんだよ」 手を強く握られる。 正直、驚きよりも、今は気分の悪さの方が勝っていた。 酔いが回っているせいだろう。 ふらふらと、このまま――何事もなかったように、晃司の胸にもたれかかれたら、どんなに楽かな、と思っていた。 でも、そう思えたのは本当にわずかで、次の瞬間、果歩は晃司の手を振り解いていた。 「本当にごめん。もう、そんな風には思えないし、思いたくないの」 もう二度と、あんな思いをするのは嫌だ。 「果歩」 「もう、お互いに忘れようよ、その方がいいから」 「果歩」 腕をつかまれ、引き寄せられる。 「晃司、やめて」 「お前は俺が好きなんだよ」 「離して、お願い」 繁華街。裏道とはいえ、道行く人が面白そうに振り返っている。 晃司に腕を掴まれ、引きずられながら、果歩は困惑して声をひそめた。 「……晃司、離して」 「俺の部屋で話そう。な、そうすれば分かるから」 晃司はタクシーの通る表通りを目指して歩いている。 抵抗したものの、腕をつかまれたまま、あっけなく滑り込んだタクシーに押し込まれていた。 「晃司!」 晃司は、自分も乗り込みながら、果歩の抗議を無視してマンションのある場所を告げる。 「いやよ、降ろして」 「騒ぐなよ、こんな通りで、いい年して恥ずかしいだろ」 いい年して……と言う言葉に無意識に傷つき、果歩は力なく口を閉じた。 なんだかもう、どうでもよくなりかけていた。 身体に力が入らない。どうせ、ここまできたら晃司に抵抗できないのは明らかだ。 ――ま、いっか……。 やけっぱちのようにそう思った。 どうせ今ごろ、藤堂さんは……流奈と。 「お客さん、乗るなら、前に乗ってくださいよ」 と、車をアイドリング状態にしたままの運転手が、迷惑そうに振り返ったのはその時だった。 果歩は顔をあげ、晃司もまた、不審気に振り返る。 何故、なかなか発車しないのかな、と思っていたが、その理由がようやく分かった。 後部ドア、それを、外からしっかりと掴んでいる男がいる。 身体が大きいから、窓いっぱいに広い肩と胸が見える。 果歩は――信じられず、ガラス越しに見える、藤堂の顔を見つめていた。 「すみません」 扉を掴んだままの藤堂は、普段通りの口調で言った。 「申し訳ない。まだ、的場さんとの打ち合わせが残っていました。少しいいでしょうか」 「……はぁ?」 晃司は――多分、唖然としている。 それが見え透いた嘘だというのは、多分、晃司にも分かったのだろう。 「なんだよ、お前」 その声に、すぐに怒りが滲んだ。 「的場さんを降ろしてください」 藤堂は丁寧な口調で繰り返す。 「手を離せよ、でくの坊。これ一体何の真似だよ」 アルコールが入っているのか、今の晃司は、藤堂の役職や公務員という自分の立場を、完全に忘れきっているようだった。 「晃司、やめてよ」 「お客さん、喧嘩するなら降りてくださいよ」 運転手が困惑しきった声で言う。 「いいから、とっとと車を出せよ」 「だって、扉が閉まりませんよ」 運転者と晃司の会話を聞きながら、果歩は、反対側のロックを外して、車道側からタクシーを降りた。 ごうっと、目の前を、猛スピードで別のタクシーが通りすぎる。 「藤堂さんっ」 そのまま車を迂回して走り、果歩は、藤堂の傍に駆け寄った。 晃司も、すでにタクシーを降りている。 面倒なことが起こる前に――と思ったのだろう。それまで乗っていたタクシーは、ふいに急発進して去っていった。 「くだらない口実なんて使うなよ。新人、そんなに自分に自信がねぇのか」 晃司は、威嚇するような目で藤堂を見上げた。 体格では圧倒的に負けている。が、腕に自信のある晃司は、こういう時、絶対に気圧されるということがない。 「彼女が困っているように見えましたので」 藤堂の声もまた、それに気圧されることなく落ち着き払っている。 藤堂と晃司は、役職では藤堂が上だか、年でいえば、晃司が2つも年上である。そんな微妙なプライドと屈辱を、晃司はずっと、この年下の係長に抱き続けていたのだろう。 「ふざけんな」 晃司は心底馬鹿にしたような笑いを浮かべた。 「痴話げんかだよ。そんなことも分からないのか、女と付き合ったことねぇのかよ、お前」 「…………」 それには、藤堂は答えない。 「お前、果歩が好きなのか。あいにくだったな、俺たちセックスの相性が最高なんだ。こいつ、なんだかんだ言ったって、今でも俺のことが好きなんだから」 ――違う……。 悔しくて果歩は言葉を飲み込んだ。 顔が、熱の塊になってしまったようだった。 いくら酔っているとはいえ、最低だ。 こんな男に、果歩は3年間も尽くし続け――ほんの1分ほどまえ、再び身を預けようとしていたのだ。 周囲の人々が、今は完全に足をとめ、藤堂と晃司を注目している。 「でくの坊、お前、子供に殴られたんだって?」 晃司は拳を構え、ひょい、と前に突き出すまねをした。 果歩は、それには驚いていた。 確かに晃司は、元アマチュアボクサーだと聞いている。が、普段の彼は、そんな経歴を態度や言葉に出したことはない。むしろ、喧嘩なんて弱い奴がするもんだとばかりに冷め切っているのに――。 「情けねぇな、そのクソでかい身体は飾りかよ」 「晃司、やめて!」 たまらず果歩は口を挟んだ。怒りで、握った拳が震え出すほどだった。 「藤堂さんは関係ないじゃない、どうしてそんな侮辱するような事ばかり言うのよ!」 が、その言葉が、晃司の理性を奪ってしまったようだった。 晃司が、威嚇するように拳を突き出す。 見物人から、わっという声が広がる。 藤堂が、驚いたように後ずさる。そのままバランスを崩し、みっともないほどあっけなく、その巨体は、路地に積み重ねてあったダンボールの上に崩れ落ちた。 緊張が一気に緩み、失笑が漏れるほど、それは無様な転倒っぷりだった。 「なんだよ、お前……、俺、何もしてねぇのに」 両手を上げた晃司は、呆れたように顔をゆがめて笑っている。 「帰ってよ、晃司」 果歩は、怒りを込めて晃司を睨みながら、腰をついたままの藤堂の傍に駆け寄った。 晃司がわずかに顔をゆがめる。元彼が傷ついたのは分かったが、今は藤堂の方が心配だった。 「藤堂さん、大丈夫ですか」 「ええ……はい、まぁ」 「怪我、してないですか」 「頑丈にできてますから」 果歩は、藤堂の傍に膝をついた。 眼鏡が思いっきりずれている。それを手にとって、そっと外す。 「…………」 そのまま、果歩は手を止めてしまっていた。 いつの間にか晃司は消えて、周囲の人の輪も動き始めていた。 「みっともない所を見られてしまいましたね」 なんでもないようにそう言うと、藤堂は果歩の手から眼鏡を受けとり、立ち上がった。 それを、元通りに掛けなおす。 「帰りましょうか、タクシーを捕まえましょう」 「はい……」 果歩は、今度は逆に自分が立てなくなっていた。 眼鏡を外し、間近で見つめ合った藤堂の目が――上司というより、男のそれを剥き出しにしていたような気がして、そんな風に思えた自分が恥ずかしくて、しばらく立つことができなかった。 ************************* 「大丈夫ですか」 差し出されたペットボトルのミネラルウォーターを、果歩は「すみません」と会釈してから受け取った。 夜風がここちよかった。 繁華街の真ん中に、こんな公園があること自体驚きだ。 周辺は賑やかな喧噪に包まれているのに、この10メートル四方の空間だけは、世界から取り残されたように静まり返っている。 (――気分が悪いんです……) タクシーに乗れば、そのまま吐いてしまう気がして、おずおずと果歩がそう言うと、 (――どこかで休みましょうか) 藤堂は即座にそう言ってくれた。 この場合、普通の男ならホテルに行くのだろうが――。 まさかと思いつつ、多少はドキドキしたものの、藤堂が向かった行き先は、ホテルなどではなく、近くの小さな公園だった。 遊具などは何もなく、ただベンチと草の生えた砂場だけの、見るからにさびれた公園である。 「……ごめんなさい……今日は、ご迷惑をおかけして」 ようやく胸苦しさも落ちついて、果歩は素直な謝罪を口にした。 「いえ」 藤堂は言葉少なにそれだけ言い、屋上でそうするように、ベンチのぎりぎり端に腰を降ろす。 暑いのか上着を脱ぎ、シャツ一枚になっている。それでも、ネクタイを締めた男の横顔は、普段よりひどく大人びて見えた。 「……二次会に行かれたんだと思ってましたけど」 「…………」 それには、返って来る返事はない。 ――怒ってるのかな……。 果歩は、気まずさを感じて、ちらっとその横顔を仰ぎ見た。 表情の読めない横顔の向こうに、薄い月が透けて見える。 やがて、その唇が、静かに動いた。 「……僕も、謝らなければいけないと思っていました」 「……はい?」 藤堂は再び黙り、言いにくそうに、首筋のあたりに手をやった。 「的場さんの体調がよくないのも、……帰り際、辛そうだったのも分かっていて、そのまま、行こうとしていました」 ――え……? それは、意外というか――謝られることとは、少し違うのではないだろうか。 「そんな、平気ですよ、私だって子供じゃないんですし」 「いや……」 「それに、二次会に出るのも、仕事のひとつですから」 「…………」 しばらく黙ったままだった藤堂は、髪を指で払いながら、立ち上がった。 大きな背中が、果歩の前の風景を遮る。 「いや、僕は故意に、あなたを避けようとしていたんです」 「…………」 「……宴会の途中から、妙に腹立たしくなってきまして……、僕が怒る筋合は、全くないことなんですが」 「はぁ……」 腹立たしいって、私に、だろうか。 意味がいまひとつ分からず、果歩はただ、藤堂の背を見上げる。 「………局の庶務担当が、皆に人気があるのは、いいことだと思います。……いや、僕がおかしいんです。忘れてください」 「………………」 え? 何、それ……? それって、どういうこと? それきり、何も言わずに黙ってしまった藤堂の背中を、ただ、果歩は呆けたように見上げていた。 「…………あの、藤堂さん」 「はい」 「…………それは、もしかして、その」 嫉妬、と言うんじゃ……。 「…………」 藤堂が、少し、周囲を見回してから、振り返る。 怒ったような、戸惑ったような目をしている。 そのままかがみこみ、ベンチに手をついた藤堂と、果歩は二度目のキスを交わしていた。 |
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