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年下の上司 最終章@〜4月の約束

4月の約束(10)


 ――ほんっとに余計だったな、大河内さん。
 何か見えないカウンターパンチをくらったような気になって、果歩は悄然としたまま役所を出た。
 午後4時半。こんな早い時間に退庁したのは何ヶ月かぶりだ。
 外はすっかり春めいて、ここ最近、朝と夜の通勤風景しか知らない果歩には新鮮な眺めだった。
 春というか、もう5月は目前だ。
 市長選後の口頭内示はゴールデンウイーク前でほぼ決まり。異動日は例年より1ヶ月遅れの5月1日になる。
 去年の今頃、まだ晃司とつきあっていたなんて信じられない。すごく遠い、何年も昔の出来事みたいだ。
 それとは逆に、藤堂と知り合ってまだ1年しか経っていないことにも、少なからず驚きを感じた。
 多分、色んなことがありすぎたからそう思えるのだろうが、もう随分前から一緒にいるような気がするのに――まだ、1年か。
(僕は、あなたが好きなんです。あなたが思うより、もっと前から)
「…………」
 そういえば、随分前に、りょうにも同じことを言われたような記憶がある。
 でも、もっと前っていつだろう。5月?……それとも4月の頭?
 今思えば、進展こそ遅かったものの、最初のキスは4月の中旬。
 流奈に邪魔されたり、乃々子が参戦したり、係内で藤堂と果歩が微妙な立場に追い込まれたり、前途多難だったとはいえ、恋の展開としては順調だった。 
 少し、様子がおかしくなったのは9月――彼の元に、香夜さんが現れてからだ。
 そう言えば、藤堂が4月までとかいう謎の期限を言い出したのもそれくらいだ。
 10月……いや、大河内主査の件で揉めていた頃だから、11月になってからか。
 なんとなくだけど、その頃に真鍋が市長選に立候補することが具体的になったんだろうなというのは察しがつく。
(来年の春まで、僕に時間をくれませんか。いや、僕らに時間をくれませんか。もし……春になって)
(僕らの気持ちが変わらなかったら、僕の、……本当の恋人になってください)
「…………」
 足を止めた果歩は、唾をのみこんだ。
 昨日の藤堂の声が――彼が、初めて垣間見せた果歩への怒りが、鋭い痛みとなって思い起こされる。
(――僕が本気でそんな結末を望んでいると思いますか)
 眉を寄せ、果歩はぎゅっと唇を噛み締めた。
 だって私はもう言ったじゃない。
 もう結論は出てるって、藤堂さんに言ったじゃない。
 真鍋さんと再会して、私が一度だってデレデレした? 喜んだ? はしゃいだ?
 ――私の気持ちなんて、普通に考えれば分かるはずなのに、これ以上彼は何を待ってるの?
 その時、大音量の声が、車道の向こうから急に近づいてきた。
「真鍋雄一郎が、皆様への最後のお願いにまいりました。若い力で、灰谷市に新しい風を起こしましょう、真鍋雄一郎、真鍋雄一郎をどうぞよろしくお願いします」
 ちょうど果歩がいる側の反対車線を走っている選挙カー。反対の歩道では、立ち止まった女性連れが車に向かって手を振っている。
 あっという間に車は走り去り、ウグイス嬢の声も遠ざかる。
 石のようにその場に立ちすくんでいた果歩は、ようやく我に返って顔をあげた。
 心臓が、重苦しく鳴っている。
 馬鹿みたい、最悪の条件反射だ。別に顔を見たわけでも、声を聞いたわけでもないのに。
 もしかして、私がこういう態度だから、藤堂さんが勘違いをしたんだろうか。
 でも、思い出したくない過去があることくらい、藤堂さんだったら分かるでしょ。藤堂さんだって、随分長い間脩哉さんとの過去を思い出さないようにしてきたんだから。――
 その時、肩にかけていたバッグの中で、携帯電話が着信を告げた。
 それでも、もしかして藤堂さんかなと思った果歩は、急いで携帯を取りだしている。
「もしもーし、昨日は大丈夫でした?」
 あっけらかんとした明るい声。一瞬目を見張った果歩は、少し脱力してから携帯を持ち直した。
「おかげさまで大丈夫です。昨日はありがとうございました。……あの、私からお電話しようとも思ったんですけど」
 県警の緒方だ。ありがたい反面、すっかり忘れていた恐怖体験がたちまち蘇った気がして、果歩は周囲を見回した。
 というか、町は全く普通の景色をしている。本当に私に、護衛なんかついているんだろうか?
「いいですいいです。これも警察官の職務の内ですから。あの後、お友達が来てくれたみたいですね」
「ええ、たまたまだったんですけど、助かりました」
「僕が説明すればよかったんですが、ちょっと、顔を見られたくない事情もありまして。あと、すぐに動かないと、奴らを取り逃がしてしまいますからね」
 そこで緒方は言葉を切った。
「この件では、的場さんにも少し説明しておいた方がいいかなぁ」
「何か、分かったんですか」
「ええ、まぁ」
 緒方は言葉を濁し、大したことじゃないですけどね、と呑気な口調で言い添えた。
「実は今、市役所方面に向けて移動中なんですよ。お仕事が終わったタイミングで、どこかでお話できますか」
「今からですか」
「ええ、なんでしたら、昨日のお友達もご一緒に」
 あっと……。それは不可能だし、そもそも藤堂さんはなんて言ってたっけ。警察の人には関わるな――
「…………」
 それはなんで?
 もしかして事件が騒ぎになったら、真鍋さんの迷惑になるから? 
 馬鹿馬鹿しい。いくらなんでもそこまで真鍋に気を遣う義理はない。
 それでも少し迷いながら、果歩は腕時計を見た。四時半。緒方も、まさか今、果歩が役所の外にいるとは思わないだろう。
「実は早退して、今、役所の外にいるんですよ」
「へぇ、そうなんですか。じゃ別の日にしましょうか」
「……いえ、定時まで仕事をした後だと、逆に帰宅が遅くなるので」
 昨日のこともあり、これから残業で遅くなる日は迷わずタクシーにしようと決めたばかりである。
 この時間からだったら、今から緒方と話をしたとしても、まだ明るい内に帰途につくことができるだろう。
「むしろ今日で大丈夫です。どうしましょう、どこか緒方さんの都合のいい場所に移動しましょうか」
「ああ、じゃ、――そうですね、今、どの辺です?」
 果歩が今の場所を告げると、「そこだったら5分くらいで着きますよ」
 そう言われて通話が切れた。
 ――……え? つまり、ここで待ってろってこと?
 ま、いっか。ちょうど木陰だし、5分くらいなら。
 あー、でもあれだな。何もすることのない時間って案外苦痛だな。
 考えたくないことが、次から次へと頭に浮かんできそうで怖い。こういうとき、暇つぶしに電話できる相手がいたらいいのに。
 ふと昨夜、りょうに電話しようとして、できなかったことを思い出した。
 流奈が晃司を追いかけていってしまったことは、果歩の口からりょうに告げていない。もし知らせるなら晃司だろうし、そうでなければ、むしろりょうを悩ませるだけだ。
 ――いや……
 悩まないか、りょうは。
 仕事を辞めて晃司を追いかけることはもちろん、その程度のことでくよくよすることもないだろう。それくらいきっぱり気持ちにけりをつけて、2人は別れを決めたのだ。
 昨日、りょうに電話できなかったのは――昨日だけでなく、乃々子の結婚式以来一度も電話していないのは、なんとなく――なんとなくだけど、自分が怒られるような気がしたからだ。
(今、曖昧にしてるのは果歩の方だよ)
 結局はりょうの指摘どおりで、その警告を無視したことが、今の状況に繋がっている。
 藤堂と、もっと早くに話しあいの場を持つべきだったし、もっと早くに自分の気持ちを引っ張り出して――真鍋のことだが――きちんと整理しておくべきだった。
 ただ、その時何を話しあったところで、藤堂が「雄一郎さんと会ってください」と言い出した時点で、今と同じ状況になっていただろう。
 そこだけは、絶対に藤堂が悪いし間違っているに決まっている。
 ――だいたい……だいたいよ? なんだって私が今さら真鍋さんと会わないといけないの? 
 会った上で僕を選んで下さいというのが藤堂の思惑なら、本当に勘弁して欲しい。もう答えは出ているのに、かえって真鍋さんに失礼じゃない。
 そもそも藤堂さんはどうしてそこまで――
(脩哉と同じ顔と、同じくらい繊細な心を持つ人に。どうしてその人の幸福より、自分の幸福を優先することができるでしょうか)
 不意に胸の奥がずきりと痛んだ。
 藤堂が、色々壮大な勘違いをしているとしても。
 過去に何があったか知らないが、真鍋に対し強い恩義を感じているのだとしても。
 結局藤堂は、脩哉の面影を真鍋に見いだしているから、自分が身を引くような真似をしたのだ。
 ――そっか。……亡くなった人に嫉妬しても仕方ないけど、結局……私より脩哉さんってことなんだ。
 その時、目の前の車道に勢いよく黒のセダンが滑り込んできた。
 反射的に昨日のできごとを思い出した果歩は、硬直して立ちすくむ。
 すぐに緒方が来たのだと思い直したが、運転席の扉が開いて、緒方とは似ても似つかぬ人が現れた。
 呆然と立つ果歩の傍に大股で歩み寄ると、その人は怒りを抑えたような声で言った。
「乗るんだ」
「……え」
「早く乗れ!」
 通行人が、訝しげに振り返る。動けない果歩の腕を掴むと、その人は助手席の扉を開けて、その中に果歩を押し込んだ。
「ちょ……」
 我に返った果歩が抗議の声を上げようとしたときには扉が閉まり、運転席に、その人が乗り込んでくる。
 軋むような音を立てて急発進した車は、国道の車の流れに沿って走り出した。
 ――どういうこと……?
 動揺が、心臓を激しく鳴らしている。
 この人なら、さっき選挙カーに乗って、別の方角に向かっていたはずだ。
 その証拠に、彼はフォーマルなスーツを着て、手には白手袋をはめている。
 果歩は顔を強張らせながら、運転する真鍋雄一郎の横顔を見上げた。

 

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