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年下の上司 最終章@〜4月の約束

4月の約束(8)


「待って下さい、もう前提が色々……」
 混乱しながら、果歩は両手で顔を覆った。
 もう、藤堂が何を言っているのか分からないし、理解したくもない。
 4月の約束が真鍋絡みだというのは薄々分かっていたが、だとしても、思い込みが激しすぎる。果歩と真鍋は、8年も前に別れているのだ。
 しかも……その誤解を前提にしながらも、最初にアクションを起こしたのは、間違いなく藤堂の方だ。
「……最初にキスしたのは、藤堂さんじゃないですか」
「仰る通りです」
「それはなんの意図があってのことだったんですか、それともそのキスのことまで謝るつもりですか」
「……僕は」
 しばらくの間、藤堂は黙っていた。ただ果歩の肩に置かれた手に、微かな力がこもるのがわかった。
「僕は、あなたが好きなんです。あなたが思うより、もっと前から」
 気持ちの全てを振り絞るような声だった。
 目を見張った果歩の瞳から、新しい涙が一筋こぼれた。
 藤堂と出会って1年と少し、それは、初めて耳にした彼の肉声のような気がした。
 しかし藤堂は、言葉を吐くと同時に、果歩の肩から手を離した。
「その時は……まだ知らなかった。すみません。このことについて、僕が言えるのはそれだけです」
「――、どういうことですか、知らなかったって」
「それは、僕が話すべきことじゃない」
 振り返った果歩から逃げるように、藤堂は背を向けた。
「真鍋さんの奥様が、亡くなられているということですか」
 藤堂は答えず、卓上に置いてあった携帯電話をとりあげた。
「僕だ。もう話は終わった。上がってきてくれないか」
 相手は多分片倉だ。藤堂が、半ば強引に2人の話を打ち切ったことに、果歩は愕然とした。
 携帯を机に置くと、藤堂は冷静さを取り戻した目で果歩を見つめた。
「的場さん、僕があなたに話すべきことは、今夜全部話しました。誤解をおそれずに言えば、あとはあなたと雄一郎さんの問題だと思っています」
「…………」
「1年をかけて」
 果歩から目を逸らすようにして、藤堂は続けた。
「僕は、僕という人間をあなたに知ってもらうことができた。それと同じだけ、今度は雄一郎さんのことをあなたは深く知るべきです。――どれだけ怒られようと、僕はそう思っています」
 瞬きをした目から、虚ろな涙が頬を伝った。
 本当に、宇宙人と会話している気分だった。
「それが、……それが私をどれだけ傷つけるか、藤堂さんには、想像もできないんでしょうね」
 何も知らないくせに。
 8年前の私の気持ちなんて、何も知らないくせに。
 私が――私が、一体どんな思いで……。
 果歩は、涙を両手で払って立ち上がった。
「わかりました。もういいです。ええ、機会があったら話してみます。尤も市長になられる人と、そう気安くは会えないと思いますけど」
「……、的場さん」
「お膳立ては結構です。そんな真似、間違ってもしないでください。ホテルで偶然出会った時みたいに、必然的に会えるんでしょう? 藤堂さんの理屈でいえば」
 藤堂は答えず、険しい目で足下を見つめている。
「もし真鍋さんに言い寄られたら、その時は藤堂さんの顔をたてて、何度かデートしてあげますよ。どうせならセックスして、真鍋さんがもう一度私に飽きるまでつきあいましょうか。それで、藤堂さんの気が晴れるなら」
 不意に藤堂が顔をあげた。彼がその刹那、激しい怒りにかられたのが分かったが、果歩もまた引かなかった。
「無自覚だったから教えてあげたんです。今あなたが私に言ったのは、そういうことですから」
「――僕が、そんな結末を本気で望んでいると思いますか」
「じゃあ、何を望んでいるんですか! 今は4月で、私の答えは出ているのに!」
 彼が言葉をのみ、果歩は頬に落ちた涙を手で払った。
「もう……私には、藤堂さんが分かりません」
 藤堂を睨んだままの目から、もう一筋涙が零れて鼻筋を伝った。目から怒りを消した藤堂が、諦念したように視線を伏せる。
 その時、玄関をノックする音がした。片倉が戻ってきたのだ。
「着替えもあるだろうし、僕は外に出ています。今夜は、片倉に家まで送ってもらって下さい」
 そう言って背を向けた藤堂を、果歩はただ呆然と見つめた。
 彼はもう、話し合うつもりさえないのだ。
「よく分かりました。私がこんな危ない目にあっても人任せなんですね」
 堪えきれない悔しさが、止めようもなく言葉として迸った。
「せめて理由くらい教えてくれてもいいんじゃないですか。二宮家のお家騒動に巻き込まれたんなら、どうぞ、あなたのお父様の誤解を解いてあげてください。私と藤堂さんは、今後一切無関係ですからって」
「…………」
 玄関で靴を履く、藤堂の背中がわずかに震えた。言い過ぎたことは分かっていたが、果歩もすぐには感情の収まりがつかなかった。
「それは、それだけは……誤解です」
 感情を懸命に堪えるように、背を向けたままで藤堂は続けた。
「義父はこの件に一切絡んでいないし、関わるとすれば、あなたを守る側に回るはずです。――今夜はそのことで義父に会うつもりでいましたが、話はできなくても、それだけは間違いない」
 ――どういうこと……?
「僕は、……2月からあなたを自宅まで送る役目を買って出ましたが」
 言葉を切った彼が、ぐっと拳を握るのが分かった。
「……それも言ってみれば、僕自身の気休めであり、自己満足にすぎなかった。なぜなら、雄一郎さんが市長選に出ることが本格的になった時、その擁立を妨げようという一派が必ず出てくることが、予想されていたからです」
「……何が言いたいのか分からないんですけど」
「その頃から、あなたには護衛がついていたんです」
 想像もしていなかった彼の言葉に、果歩は目を見開いた。
 ――護衛?
「少なくとも昨年あなたを乗せたタクシーの運転手は、勘違いではなく、本当に尾行者の影を捉えていたんだと思います。ただしそれは、今日あなたを襲った連中ではなく、あなたを守るために、後をつけていたはずだ」
 果歩を見ないままで藤堂は続けた。
「市長選の告示日から、それはより強力な布陣になったと聞いていました。今夜はその裏をかかれた。すでに対策は考えられていると思います」
 ――は……?
 待って、何それ?
「先ほど、警察には届けないと言われましたが、現時点ではそれが賢明な選択だと思います。今日あなたを助けたという刑事にも、今後は関わらない方がいい。もし電話が掛かってきたら」
「待って下さい」
 混乱しながら果歩は遮った。
 なんで真鍋さんが市長選に出るくらいで、全く無関係の私に護衛が?
 意味が分からないし、今日の吉永冬馬や藤堂を含め、自分以外の全員が全く別の光景を見ているとしか思えない。
「……待って」
 自分の髪をかき上げ、果歩は唇を震わせた。
「……一体誰が、そんな馬鹿馬鹿しい真似をしているんですか」
 聞かなくても答えは分かっていた。藤堂が黙り、一瞬唇を噛み締める。そして言った。
「雄一郎さんです」
  
 *************************
 
「よーう、雄一郎、探したよ」
 案内された部屋の扉を開けた吉永冬馬は、勝利の笑みを唇に溢れさせながら、緋色のソファで足を組んでいる男に向かって片手を挙げた。
 大理石のローテーブルには、カットグラスに入った飲みかけのウイスキーが置かれている。
 吉永は対面の肘掛け椅子に腰掛けると、そのグラスを持ち上げた。
「つまみはないのか? せっかく叔父さんが陣中見舞いに来てやったんだ。うまいものでも食わせろよ」
 しばらくの間無言だった真鍋が、傍らの携帯を取り上げた。
「今、来ますよ」
 そう言って簡単な操作をすると、真鍋は再び携帯をテーブルに置いた。
 静かな目色をしているが、どこまで冷静でいられるかなと、笑うような気持ちで吉永は思っていた。
 実際、これまで逃げ回っていた男がようやく会う気になってくれたのだから、成果は上々といったところだ。
 テーブルの上には、無地の白い箱が置いてある。それにちらっと目をやってから、吉永はソファに背を預けた。
「聞いたよ。ホテルを転々としてるんだってな。まるで犯罪者みたいな暮らしじゃないか。来週には市長になろうって男が」
「なかなか面倒な面会者が多いので」
「だろうな。気の休まる暇もないようだ。どれだけ護衛をつけようと、百パーセントの安全ってのはないからな」
 吉永がそう言うと、初めて真鍋は唇に淡い微笑を浮かべた。
「そんなことより、随分と久しぶりですね、叔父さん。もうすっかり顔を忘れかけていましたよ」
「俺の方は、生憎お前の顔を忘れたことはなかったけどな」
「あれだけテレビにでていますからね」
「もちろんそう意味じゃない、――分かるだろう? 雄一郎」
 真鍋は微笑して、肩をすくめた。
「ご用件は?」   
「……分かってるだろ」
 吉永は空になったグラスを置くと、にやりと笑って煙草を取り出した。
「今日、久々にバンビちゃんに会ったよ。さすがにいい年になっていたが、相変わらずガードはゆるゆるだ。俺の呼び出しに、なんの疑いもなく応じてきた」
「僕も先日、たまたま顔を合わせましたよ」
 真鍋は自分も煙草を取り出した。
 火をつけ、ゆっくりと唇に挟み込む。落ち着いている。
「驚かなかったと言えば嘘になる。僕が40手前なら、彼女は30過ぎですからね。お互い子供がいてもおかしくはない年だ」
「月日は残酷だな。互いに美しかった20代の一番いい時はあっという間だ。悔しいんじゃないか? お前が女にした彼女の10年は、しょせん他の男のものだ」
「人生の教訓ですね」
 煙を吐き出した真鍋の唇はうっすらと笑っている。
「それで? ――そろそろ本題に入りませんか」
 吉永は、自分も煙草を口から離した。 
「今日はたまたま上手くいった。しかしそれは偶然だ、違ったか?」
 真鍋は答えない。
 足を組み直し、吉永は顎をそびやかせた。
「今夜は警告にきたんだ、雄一郎。俺は言ったな。人が本気で、ある特定の人間を害しようと思ったら、止めることなど不可能だと」
「…………」
「鎖につないで24時間檻にでも閉じ込めておくか? そんなことができるならな。――おっと、これはあくまで一般的な話だぜ?」
 言葉を切り、吉永は甥の顔を窺った。
「今日は無事でも、明日はどうなるか分からない。明後日もあれば明明後日もある。1年先も10年先も、少しでも油断すれば、今日みたいなことは何度だって起こるさ」
「それで?」
 甥の冷静な受け答えに、吉永は思わず眉を寄せる。真鍋は微笑して両手を軽く広げた。「僕はこう見えて忙しいんです。―― 一般的な話の、続きをどうぞ」
 吉永は苦笑して、再び煙草の煙を吸い込んだ。
 なるほどな。どこまでしらを切る気か知らないが、こっちはきっちり情報を収集してるんだぜ、雄一郎。
 様子を見るまでもない。お前があの子の護衛に手を回していることが分かっただけで、もうゲームは詰んでいるんだ。
「分かるだろう? 今日がそうだったように、どんな強靱な人間にも一瞬の隙というものが必ずある。それが、お人好しのバンビちゃんならなおさらだ。もちろん、義兄さんだってお前の母親を警戒して、最大限の準備をしていたさ。――でも、無駄だった」
 かつて真鍋の精神を最も痛めつけた事実を挟み込み、吉永は暗く笑った。
「どれだけ人をつけて守らせたところで、いつかは、指からすり抜けて落ちていく。その先にあるのは」
 指で弾いた煙草が、煙を吐き出しながら灰皿の上に落下した。「地獄さ」
「……それで?」
「手を引くんだな、雄一郎」
 吉永は身を乗り出した。
「兜町の思惑も絡んでいる。芹沢議員の駒のひとつであるお前が、今さら引くに引けない立場にあることは分かってるつもりだ。――しかしやりようはいくらでもある。一番手っ取り早いのが、診断書をとって、さっさと市長を辞任することだ」
 お前の気持ちはよく判るさ。吉永は続けた。
「俺や親父を、さぞかし恨んでいるんだろう。――まぁ、正確には俺の方かな。お前には随分ひどい真似をしたからな」
「…………」
「だが、それでも手加減していたつもりだぜ? なにしろ姉さんにばれちまったからな。ここ数年、お前を好きにさせてやっていたのも姉さんの目が光っていたからだ。――でも、その姉さんも、もう死んだ」
 自分の体内で膨れ上がったどす黒い憎悪を、吉永は拳を握ってやりすごした。
 晩年は病床から起き上がることもできず、最期まで薬の副作用に苦しんで亡くなった。それは、何もかもお前の母親のせいなんだぜ、雄一郎。    
「まだ分からないようなら言ってやるが、お前に灰谷市の市長は務まらない。いや、やらせるわけにはいかないんだ。そもそも義兄さんが好きで市長をやってると思うのか? 教えてやるが、今年引退するのは義兄さんの中では確定事項だった。だが、その後任候補はお前じゃない」
「長妻元局長」
「…………」
「せっかく重荷の全てを引き継いでくれる人材だったのに、あいにく、身内のスキャンダルに巻き込まれて辞退した。僕も、残念に思っていますよ」
 吉永は初めて、表情を強張らせて甥を見つめた。
 あの件では、在京マスコミが事件を取り上げるなど、いろいろ不可解なことがあったとは聞いていた。――まさか、それは全部、こいつがやらせたことだったのか……?
「……お前、一体何がしたいんだ。親父や俺を、本気で破滅させる気か?」
「叔父さんの言うところの、人生の一番いい時間を奪われましたからね」
 真鍋は苦笑して立ち上がった。
「僕が、叔父さんを殺したいほど憎んでいたって無理はない。ただご安心ください。そこまで執念深くもないですから。――むしろ僕は、8年前も今も、わざわざ警告に来て下さった叔父さんの人のよさに、感謝すらしているんです」
 吉永は立ち上がっていた。――何が言いたい。
「……雄一郎、自分の立場が、まだ分かっていないようだな」
「叔父さんこそね」
 氷のように冷たい目で、真鍋は吉永を見下ろした。


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