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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(1)

 







 ――瑛士、8年前、俺にとって最大の弱点が彼女だった。


















   
最終章A 過去への扉





 


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 5月1日。
 ゴールデンウイークの合間の平日。市役所本庁舎10階にある秘書課には、朝の7時前だというのに、職員全員が顔を揃えていた。
 その前日の日曜日までには、各々が前任との引き継ぎを済ませて荷物を運び込み、「懐かしいね」「またよろしくお願いします」などという型通りの挨拶を交わし合った。
 むろん、果歩もその1人である。
 全員が、おそろしく気まずい過去などなかったように振る舞い、当たり前だが、果歩もそうした。もちろん、全員が腹に含んだ思いを持っていたし、この異動に不審なものを覚えていたが、それを口に出せるような雰囲気でもなかった。
 なにしろ、異常な人事異動が行われたのは、この秘書課だけではないのだ。市を牛耳っていた幹部職員が軒並み本庁から追い出され、それまで出世レースにかすりもしなかった職員がその座についた。もしくは都市計画局で言えば窪塚のような若手が、いきなり管理職に登用されたのである。
 そんなわけで、粛々と5月1日を迎えた秘書課だったが、その中で1人だけ、どうにも気持ちの収まりがつかない人物がいた。――秘書課長として戻ってきた尾ノ上課長である。
 今も、尾ノ上は。1人むっつりとした顔で机で腕を組んでいる。
 おそらく新市長が登庁したら、嫌味の一言でも言うのではないか――そんなピリピリしたムードすら漂っている。
 しかしそれもやむを得ないと、果歩ですら内心思っていた。なにしろ尾ノ上は、降格して秘書課に呼び戻されたのだ。
 元秘書課長だった尾ノ上は、現在57歳。秘書課を異動後は順当に昇格を重ね、市の花形部署である観光局で観光戦略部長のポストについていた。定年まであと2年、今年は局長になってもおかしくない年だったし、本人もそれを期待していただろう。
 なのに、あろうことか降格して課長に戻されたのだ。むろん給与上の職位は部長級のままだが、名称はあくまで課長。プライドの高い尾ノ上には衝撃的な人事だったに違いない。
「市長と喧嘩しなきゃいいけどね」
 席についていた果歩に、人事異動時に必要な書類を配りながら、庶務の安田沙穂が囁いた。
「尾ノ上課長、昔から真鍋ジュニアが嫌いだったから。今も、相当苛々してるはずだよ」
「そうなんですか」
 そんなことは知らなかった果歩が、同じように声をひそめて顔を上げると、
「そう。的場さんは知らなかったと思うけど、影に回ったらジュニアの悪口ばかり言ってたから。女に限らず、顔のいい男も、同性に嫉妬されるものなのね」
 安田沙穂――今回の異動で、ある意味果歩が、最も顔を合わせたくなかった同僚である。 
 7歳年上の沙穂は、8年前、この職場で庶務をしていた。
 果歩にとっては初めての同性の先輩だし、彼女の旧姓が的場で、ひらがな読みにしたら一字違いだったこともあって、年の差を超えて急速に仲良くなった。
 当時、真鍋に憧れていた果歩を後押ししてくれたのも彼女だったし、色んな愚痴も聞いてくれた。だから、てっきり応援してくれているものだとばかり思っていたのだ。――
 でも、違った。
(なんにしても、相手の会社にまで押し掛けるような人だから)
(神経は図太いよ。写真だって、自分で撮らせて、それを市長に送りつけてたんだからね)
 当時、市役所に蔓延していた虚偽の噂。真鍋の婚約を駄目にするために、果歩が、真鍋とつきあっているという証拠写真を自分で撮って、彼の父親である前市長に送りつけたという噂。――その出所が沙穂だったのだ。
 沙穂は最後までそんな素振りはおくびにも出さず、「私は的場さんの味方だから」と、さも心配そうな顔で言い続けていた。
 その翌年、沙穂は区役所に異動し、以来一度も顔を合わせていない。正直言えば、昨日久しぶりに再会した時、どう挨拶しようかと迷っていたのだが――
(的場さん、全然変わってない、むしろ前より美人になってる!)
(安田さんも、全然変わってない! また一緒に仕事ができて嬉しいです)
 出会った初っ端、笑顔で手を握り合いながら、すごいな私も、と果歩はしみじみ感心していた。
 この対人スキルは、都市計画局で一緒だった流奈だの入江耀子だの、癖がありすぎる女たちとの切磋琢磨により磨かれたに違いない。
 その善悪はさておいても、沙穂と表向きは仲良く出来そうなことも分かったし、なんとかこの職場でやっていけそうだな――と、少しだけほっとしたのも事実である。
 2人しかいない女性同士が険悪な職場なんて、ある意味上司とそりが合わないよりストレスが溜まる。
 ますます声をひそめて、沙穂は続けた。
「新市長もやりにくいと思うよ。市長なんて、しょせん秘書の協力がないと動けないじゃない。スケジュールひとつにしてもさ。調整は全部秘書と担当局でやるんだし」
「まぁ……そうですね」
「どういうつもりで尾ノ上課長を呼び戻したのかは知らないけど、市長も直に、失敗したと思うんじゃないかな」
 それは果歩も、内心思っていたことだった。秘書課は何より市長との信頼関係とチームワークが求められる。指示がなくともあうんの呼吸で理解しなければいけないこともあるし、こちらで判断して先回りしないとスケジュールが回らないこともある。
「的場さんもやりにくいでしょ」
 そこで沙穂が、物言いだけな目になった。
「え? まぁ……」
「でも、ある意味またチャンスが来たってことじゃない? まさかジュニアが独身になってたなんて知らなかった。もしかして的場さん、こっそりジュニアと続いていたんじゃないの?」
 それには唖然として、しばらく言葉が出てこなかった。
 8年前のことで果歩が遺恨を残していないと分かり、すっかり気が緩んだから出た言葉だろうが、さすがにお気楽すぎやしないだろうか。今さら恨んではいないが、やはりこの人を信じてはいけないのだと改めて思い知らされる。 
「的場さん、ちょっと」
 その時、課長の尾ノ上の声がして、果歩は急いで立ち上がった。
「市長の秘書業務のことだけどね。――まぁ、むろん君は経験者だから、いちいち説明しなくても分かるだろうけど」
 不機嫌さを隠そうともせずに尾ノ上は続けた。
「当時のメンバー……どうして市長が、わざわざこの面子を集めたのか疑問だけどね」
 そこで尾ノ上がじろっと果歩を見たので、この人もまた沙穂と同じ誤解をしているのだと分かった。――最悪なことに、おそらくこの課内の誰もが。
 真鍋が果歩を、個人的な感情から秘書に抜擢したのではないかという誤解である。
「とはいえ、当時のメンバーから御藤君だけが抜けている。つまり課長補佐が不在で、何故か男性秘書も不在のままになっている。これでは、いざというとき市長の出張に同行できる者が誰もいない。まさか市長が、君を同伴するつもりならいざしらず」
 その声は課内の全員に聞こえているはずで、さすがに果歩は憤りで手が震えそうになった。
「……そうですね」
「つまり私か、庶務の誰かが同行することになるんだろうが、その前に至急人員要求をする必要がある。人事からなんの通達もないままに、昨年より2名減になっているんだ。こんな状態じゃ、仕事が回るはずもない」
 それは実際その通りで、本来秘書課では課長、その補佐役である課長補佐と男性秘書、女性秘書の4人が秘書業務を担っている。
 課長は全体の調整をし、補佐と男性秘書は外出時や出張に同行、常に市長の行動をサポートする。女性秘書はスケジュール管理が主な仕事だが、実は、そういったことは大抵男性秘書も把握している。女性秘書に期待される役割は来客応対や湯茶などの雑務、市長の身の回りの世話一般――。つまり、昨年1年かけて都市計画局から排除された仕事が、再び果歩に回ってきたのだ。 
「とにかく一刻も早い立て直しが必要だ。今週中に人事にかけあって、至急、人員を1人確保してくれ」
「……私がですか?」
 少し驚いて果歩は聞いた。
 秘書課には秘書担当4人の他に、経理や福利厚生、広報や地元調整などを担う庶務担当者が4名いて、人事要求にかかる仕事は、少なくとも庶務担当がすべきだからだ。
「当たり前だ、君のペアを探すんだ、君がやって当然だろう!」
 よほど腹に据えかねているのか、尾ノ上の声が大きくなった。
「人事がノーと言ったら、市長に直接かけあってみればいい。元々女にだらしのない男だった。君の言うことなら、なんでも聞いてくれそうじゃないか」
「…………」
 課内は水を打ったように静まりかえっている。そんな風に思われていることはうっすら分かっていたが、それでも果歩は、怒りと悔しさで頬が紅潮するのを感じた。
「……分かりました」
 あまりにも理不尽な言いがかりだった。
 こんな時、都市計画局だったら絶対に藤堂が助けてくれた。「そうでしょうか、僕はそうは思いません」彼がそう言って、何度中津川を怒らせたことか――その時の情景が、ちょっとしたおかしさと、泣きそうな気持ちとともに蘇る。
 頑張らなきゃ、もう藤堂さんはいないんだし。
 そう思いながら、ぐっと唇を噛んで席についた時だった。
「尾ノ上さん、要求しても無駄だよ。秘書は一人でいい。正直、それもいらないくらいだ」
 その声に、誰もが驚愕して立ち上がった。
 市長専用エレベーターがある非常口の前に、スーツ姿の真鍋が立っている。今日の出勤予定が9時だっただけに、この時間にまさかいるはずがないという驚きもあったが、それ以上に真鍋の周辺を、黒服の男性3人が取り囲んでいることが驚きだった。
 尾ノ上が慌てて立ち上がる。
「……ど、どうしました。運転手が8時半に、ご自宅に迎えに伺う予定になっていますが」
「遅いな」
 微かに笑って、真鍋は市長室のある方に向かって踵を返した。
「そんな情報もまだ入っていないのか。専属運転手は昨日付で解雇した。信用できない人間を身の回りに置くほど、僕はだらしのない人間ではないのでね」
 その言葉が、先ほど尾ノ上が果歩に放った嫌味への切り返しだというのは明らかだった。尾ノ上は青くなったり赤くなったりして、言葉に窮している。
 3人の黒服が即座に真鍋の後に続く。その中で最も真鍋の近くにいるのが片倉だと分かり、果歩はますます、その光景に異様さを感じた。
「……若造め」
 唇を震わせながら、尾ノ上が呟いた。
「そもそもあいつらはなんなんだ、どうして市長室に無関係の人間が入っていく!」
 庶務係長で、やはり8年前にも同じ職に就いていた清水主幹が、慌てて電話を取り上げる。
「すぐに人事に確認します」
 果歩は席を立ち、急いで給湯室に走って行った。真鍋が毎朝何を飲むかさえ確認が取れていないが、8年前の好みが変わっていなければ、彼はブラックコーヒーを飲み、2杯目からは緑茶を飲む。
 背後の執務室からは「特別任用? それはなんだ、こっちは一言もきいていないぞ」という清水の怒鳴り声が聞こえてくる。
 初日から、大変な1日になりそうだった。


 *************************


 午前8時半。
 市長室の中で、秘書課職員全員が起立して立っている。
 これは新年度恒例の行事で、課長が市長に、新しい秘書課の職員を紹介するのだ。
 市長室は、その半分が来客用応接になっており、奥の半分が市長の執務スペースになっている。
 真鍋は、かつて父親が座っていた執務用デスクに座り、黙ってコーヒーを飲んでいた。
 その背後に、あたかも敵から彼を守るように、強靱な体格を持つ男3人が立っている。 直前に真鍋にコーヒーを運んだ果歩は、今、彼が、ひどく機嫌が悪いことを察していた。
「……市長、これから今年度の職員の紹介をさせていただきますが、その前に、ひとつよろしいでしょうか」
 その真鍋の前に進み出た尾ノ上が、いよいよ我慢ならないと言った風に口を開いた。
 真鍋は顔も上げず、興味なさそうに手元の新聞に視線を落としている。
「先ほども仰られた、秘書課の人員のことですが――」
「尾ノ上課長」
 真鍋がようやく口を開いた。しかもそれは、びっくりするほど優しい、穏やかな声だった。
「先ほどは、挨拶もなく失礼したね。ここにいるメンバーのことならよく知っている。それよりまず、僕の方から一言挨拶させてもらってもいいだろうか」
「は、はぁ」
 勢い込んでいた尾ノ上が、棒を飲んだような顔になる。 
 立ち上がった真鍋は、あたかも選挙で見せていたような――誰もが反論や疑問をのみ込むしかないような、おそろしく魅力的な笑顔になった。
「自己紹介は省略しよう。僕が君らを知っている以上に、君らは僕をよく知っているはずだからね。まずは君らを選んだ理由を説明しようか。ご承知のとおり、僕は長らく東京に住んでいて、ここ数年灰谷市に戻っていない。閉鎖された役所のしきたりは、正直全く分からない」
 微笑んで、彼は軽く両手を広げた。
 真鍋の外見を評して、政治家というより俳優みたいだと言う人は多いが、実際、その喋り方も間の取り方も、全てが気味悪いくらい完璧で、まるで映画の一場面を見ているようだと果歩は思った。
「僕の目的は市の財政改革であり、今、まさに大きな手術にとりかかったばかりだ。たった1人で敵陣に乗り込む僕としては、できれば顔馴染みの皆さんに、業務を助けていただきたい。――僕が父に会うためにこの市長室に出入りしていたのは、8年前の一時期だけだ。つまりひな鳥が親を頼るようなものだと思ってもらえないかな」
 ようやく、場の緊張がわずかに緩む。にこやかな表情で真鍋は続けた。
「とはいえ、僕に、従来の秘書役は必要ない。強いて言えば調整役が1名いれば十分で、それを的場さんにお願いする。スケジュール管理や随行は、ここに立つ3人に任せているから問題ない。人件費は僕持ちだが、身分は特別公務員だ。昨日僕の権限で任用を決めた」
 果歩の隣で、尾ノ上が唾を飲む。何か物言いたげな空気がひしひしと伝わってくる。
「というわけで、尾ノ上さん。秘書の増員は必要ない。今後のスケジュール一切は僕自身が決めるし、電話の取り次ぎも結構だ。用事がある人間には、直接僕の携帯か直通の内線にかけてもらってくれ」
「それは、」
 ようやく、尾ノ上が口を開いた。
「それはいくらなんでも承諾できません。じゃあ、我々はいったい何のためにここにいるんですか」
「いらないと言ったんだ。でも人事から最低限の人員は絶対に必要だと言われてね。僕もそこまで無理は言えなかった。――悪いね、尾ノ上さん、文句があるならそれこそ人事にかけあってくれ。――以上だ。全員出て行ってくれ」
「なんだそれは、市長だからって、あまりに横暴が過ぎるじゃないか!」
 怒声を放った尾ノ上を見つめ、席に座り直した真鍋が、ふっと笑って肘をついた。
「何も僕は、地下倉庫で書類整理をしろとまでは言っていないよ」
 その瞬間、果歩をのぞく全員が凍り付いたのが分かった。
「もっとも市長ともなれば、そんな無理が通るのも知っている。どう考えても労基違反だが、誰も異を唱えないばかりか誹謗中傷を意図的に拡散し、組織ぐるみでなかったことにした。そういう裏技も、僕は父からよく学んでいるからね」
 そこで言葉を切ると、真鍋はぞっとするほど冷めた目で尾ノ上を見上げた。
「試してみようか、尾ノ上さん。幸い僕は灰谷市の寵児だ。今なら、何をやってもマスコミからは美談にされる」
「……っ、し……市長、」  
「あと2年で定年だったね」
 一転して穏やかな笑顔になった真鍋は、再び目の前の光景から興味をなくしたようにコーヒーカップをとりあげた。
「――そうそう、この部屋に入室するのは、今後は的場さんだけに限らせてもらうよ。これは何も、僕が彼女に、君らが想像するような個人的興味があるからじゃない。この中で、僕が唯一信用できるのが彼女だからだ」
「――市長」
 地下倉庫のくだりのところから、呆然と立ちすくんでいた果歩だったが、そこでようやく喉につかえていた言葉がでた。――冗談じゃない。一体何を言い出すんだろう、この人は。
「そんな風に仰っていただけても、むしろ、私には迷惑です」
「だったら役所を辞めるといい」
 あっさりと真鍋は返した。「別に僕は、君に未練があるわけじゃなく、袖にされた意趣返しをしたいわけでもない。消去法で信用できると言っているだけだからね」
 さりげない言い方だったが、果歩は小さく息をのんだ。
 そこに真鍋が、意図的な嘘を挟み込んだことが分かったからだ。
 袖にされた意趣返しをしたいわけでもない――その一言で、果歩は今、ここに並ぶ秘書課のメンバーと同じ立場になったのである。
 しかし真鍋の話はそこで終わらず、彼は冷めた微笑を浮かべた目で、今度は果歩と反対側に立っている安田沙穂に目を向けた。 
「8年前、僕はうっかり盗撮されて、随分ひどい目にあったからね。安田さんも人が悪いな。叔父と手を組んでいたなら、最初からそう言ってくれたらよかったのに」
 果歩は――今度こそ本当に目眩がしそうになっていた。   
 8年前、安田沙穂が何をしたかが分かったからではない。真鍋が、どういう意図でこのメンバーを再び呼び集めたのか、それが分かってしまったからだ。
「当時の財産の大半と、人生の何年か分を、君の悪意あるいたずらで失ったよ。その穴を、どう埋めてもらえばいいのかな」
 沙穂はもう、傍目にも気の毒なほど真っ青になって両足を震わせている。
「あ……、わ、私……」
「というわけだ」
 真鍋は、何もかもが冗談だったかのように機嫌良く微笑んだ。
「僕がこの部屋に信用のおけない人間を入れない理由が分かったところで、さっさと出て行ってくれないか」


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