本文へスキップ

年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(6)

 

 そういえば雑誌で何度か見たことがある。灰谷市では唯一の、最高級の五つ星がついたフレンチレストラン。
 午後7時過ぎなのに、店内に客は1人もおらず、ただスタッフがずらりと居並んで、来店した2人を出迎える。
 貸し切りなんだ――と、どこか薄ら寒いような気持ちで果歩は思った。
 こんな店を貸し切りなんて、いったいどういう次元の人が、ここで待っているのだろう。
「真鍋様、お待ちしておりました。お席にご案内いたします」
 支配人らしき男が慇懃な態度でそう言い、2人の先頭に立って歩き出した。
「……真鍋さん」
「黙って」
 果歩の不安を先読みするように真鍋は遮った。「ここから先は、君は笑っているだけでいい」
 店内の奥に、半透明のガラスと緋色のカーテンで覆われたスペースがある。見た瞬間に分かった。VIPのために特別にあつらえられた空間だ。
 貸し切りにした挙げ句、VIPルーム。
 緊張で、さすがに胃がキリキリしてきた。そんな果歩の前で、カーテンが恭しく開かれる。
「どうぞ。お連れ様がお待ちになっておられます」
 ゆったりとした空間の中に、円テーブルがあり、そこに一組の男女が座っている。
 男性の方を見た果歩は、あっと小さく叫んで足を止めていた。その腰に、真鍋がすかさず腕を回す。
「遅くなりました、叔父さん、叔母さん」
 ――嘘でしょ……、まさか……。
 固まった足がよろめいた。真鍋は動じず、果歩を抱き支えるようにして、強引に歩を進める。
「雄一郎」
 グラスを置いた二宮喜彦が、柔らかな視線を2人に向ける。
「お二人に、僕の結婚相手を紹介します」
 果歩の腰を抱いたまま、真鍋はにこやかに微笑んだ。


 *************************


「よくご存じでしょうから、紹介は不要でしょう。的場果歩さんです」
 果歩は血の気が引いたままで立ちすくんでいた。
 二宮喜彦、山の天辺の治外法権区の主で、藤堂の義父。
 ほんの数ヶ月前、果歩は藤堂の恋人としてこの人に会っているのだ。
 その人の前で、真鍋の婚約者として紹介されることの衝撃に、果歩は頭の中が真っ白になった。
「的場さん、もちろんよく覚えているよ」
 二宮は優しい目で微笑んだ。
「まぁ、座りなさい。話は食事を楽しみながら、ゆっくり聞こうじゃないか」
 ――こんな……こんなことって……。
 果歩は唇を震わせた。
 無理だ。これはさすがに耐えられない。この嘘は藤堂を裏切り、目の前の人たちも欺く人として最低の行為だ。8年前よりまだ罪が重い。
「あの、」
 果歩が口を開き掛けた時、「失礼」真鍋が遮るように微笑んで、果歩に顔を近づけた。
「俺の顔を立てるという約束を忘れるな」
 傍目には甘く、しかし残酷なことを囁きながら、耳のイヤリングを直すふりをする。
「座ろうか」
 呆然としたまま、果歩は背中を押されるままに、席に着いた。
 頭はまだうつろで、何も考えることができない。
「喜彦さん、この方は以前、瑛士さんに会いにこられた方?」
「そのようだね」
 隣に座る和装姿の高齢の女性に、喜彦は優しい笑みを返した。
 おそらくは妻だ。これまで聞いた話からすると、2番目の妻。二宮喜彦は最初に娶った最愛の妻――脩哉の母であり真鍋の伯母にあたる女性を早くに亡くし、その後に、今の女性と再婚したのだ。
 先日、二宮家のバーティに潜入した時、果歩は目の前の女性の存在に気がつかなかった。真っ白い髪を上品に結い上げた、いかにも温室で育ったような穏やかそうな人である。
「若いというのは、羨ましいものだよ。いくらでも恋を楽しむことができる」
「本当ですねぇ」
 普通なら、いくらでも眉をひそめて責められてもいい場面で、ただにこやかに微笑む、浮世離れした2人の感覚が信じられなかった。
 並んで席についた真鍋と果歩の前に、食前酒とオードブルが運ばれる。
「紹介がまだだったね、的場さん」
 喜彦が穏やかに口を開いた。
「私の妻だ、敏子という」
「よろしくね、的場さん」
 その笑顔が本心のものかどうか分からないままに、果歩はぎこちなく頭を下げて口角をあげた。それでも声は、喉に貼り付いたように出てこない。
「すみません、叔母さん」
 真鍋が即座に口を挟む。「彼女は少し、緊張しているようです」
「無理もないわ、雄一郎さんと一緒なのだもの」
 ほほ……と上品な声を立てて、二宮夫人は笑った。
「私でも緊張してしまいそうよ。ねぇ的場さん、うちの脩哉さんのことは、ご存じ?」
 果歩の返事を待たないままに夫人は続けた。
「私、あの子が本当に好きだったの。人形のように綺麗で、素直で、可愛い子よ。亡くなってしまった時は、本当に悲しかった。でも雄一郎さんに会えて、その悲しみも幾分か和らいだわ」
「よく似ていると言われますからね」
 わざとらしいほどしんみりした口調で真鍋が言った。
「生前、一度も交流がなかったことが悔やまれます。僕はずっと、二宮の家とは絶縁したままだと思っていましたから」
「雄一郎の実家には、私は随分恨まれていたからね」
 喜彦が穏やかに後を継いだ。
「それについては、自分の非を認めて頭を垂れるしかないだろう。美しく、才能もあり、人生を謳歌していた女性の全てを奪うような形で、無理矢理家に閉じ込めた。挙げ句早世させたのだから、申し訳ないとしか言いようがない。――雄一郎の母様も、随分とビジネスに長けた人だった聞いているが」
「……さぁ、それについては僕はよく」
 グラスを取り上げ、雄一郎は口につけた。「なにしろ母は、僕がまだ幼い頃に亡くなったので」
「確かに活発な方には、二宮の妻の座は息苦しいかもしれませんわね」
 二宮夫人が、人事のようにのどかな口調で言葉を挟んだ。
「的場さん、私があのお屋敷から外に出たのは、この人と結婚してこれでまだ3回目なんですよ」
「え……」
 初めて果歩は、目を見張って夫人を見た。
「もっとも私は、それでむしろ幸福なんですの。子供時分から殆ど外に出たことがございませんでしたから。外の世界は、私にはとても恐ろしくて」
 ――え……? じゃあこの人はほぼ家から外に出ていないということ? それが幸福って――庶民には、もうその感覚が分からない。
「食べていないね」
 不意に果歩に視線を向けた喜彦が口を開いた。
「いいものを用意させたつもりだが、お口に合わなかったかな」
「体調が悪いんです」
 真鍋がすかさず口を挟んだ。
「ほう、体調が」
「ええ、僕も心配で。一度病院で診てもらった方がいいと思っているんですが」
 数秒不思議な間があって、老いた夫婦2人が苦笑めいた笑いを漏らした。
「なるほど」
 しばらくその意味が分からなかった果歩は、やあって、みるみる全身から血の気が引いていくのを感じた。
 信じがたいことに真鍋は今、果歩の妊娠の可能性を暗に持ち出し、それで二宮夫婦は納得したのだ。
 最低だ。なんて恥知らずな男だろう――言うに事欠いて、――こんな……こんな、ひどい……。
 自分の中で、何かの糸がぷつりと切れるのが分かった。
「的場さん?」
「はい」
 不審そうな夫人の呼びかけに、果歩は微笑んで顔を上げた。同時に隣に座る真鍋の向こうずねを思いっきり蹴っていた。
「ご心配いただいて申し訳ありません。でも、体調は全然いいんです。本当に少し緊張していただけで」
 隣に座る男が、微かに喉を鳴らして、痛みを誤魔化している様が心地よかった。
「でもちょっと風邪気味で、さっきも風邪薬を沢山飲んだばかりなんです。なので、お酒は控えさせていただきますね」
「まぁ、風邪薬を?」
「ええ、春は毎年ひどい花粉症にも悩まされていて、もう薬は毎日のように飲んでます。何種類かな……薬依存症なんですよ、私」
 ここまで薬、薬と連呼すれば、さすがに妊娠はないと分かってもらえるはずだ。
 そしてさらに念押しも必要である。
「真鍋さんも、私の体質が分かっていて気遣って下さっているんです、ね」
「………、その通りです」
 一瞬の間のあと、完璧な笑顔で同調する真鍋。果歩は唇だけで笑顔を作って彼を見上げた。
「なにしろ、真鍋さんとは古い友人ですから」
「ほう、友人」と、喜彦。
「ええ、お聞きになっていませんか。8年前に私と真鍋さんはお仕事で知り合って、――」
 今度は果歩が、うっと言葉をのみ込んだ。
 果歩ほど思いっきりではないものの、今度は真鍋が、穏やかな笑顔を浮かべたまま、果歩の踵を蹴ったからだ。
「確かに、昔からよく知った間柄です。叔父さん、そろそろ新しいワインを頼みませんか。実はお薦めがあるんですよ」
 そして、スムーズに話題を切り替える。
 果歩は半ば唖然として、そんな真鍋を見つめた。
 信じられない、そりゃ蹴ったのは私もだけど、男のあなたが、女の私を蹴りますか? しかもどう考えたって、蹴られても仕方のない嘘をついたのはあなたの方でしょ。
「君にはノンアルコールのカクテルでも頼もうか」
「……水で」
 真鍋の、目が怒っている笑顔に、同じ笑顔を返してから、果歩はテーブルの下で拳を握りしめた。 
 なんのつもりか知らないけれど、後で平手の一発や二発はお見舞いしてやらなければ気がすまない。
 よく分かった。この人にとって私は、8年前の、なんでも素直に言うことを聞いていた女の子のままなのだ。
 もう私は8年前の私じゃないし、これ以上言いなりになるつもりもない。秘書課の仲間には申し訳ないが、藤堂を裏切るという代償を払ってまで守るべきものでもない。
 今すぐ「私、この男とは一切無関係なんで」と言い捨てて席を立ちたかったが、それだけはこの席を用意してくれた二宮夫婦に失礼だと思い、ぎりぎりで我慢した。
 その代わり、結婚に関する話になれば、そのタイミングではっきり否定するつもりだった。しかしなかなかその話にならないまま、メインディッシュが終わり、デザートが運ばれてくる。
 真鍋と二宮は株価や世界経済について語り合い、夫人はそれを、意味が分かっているのか分かっていないのか、微笑んで傾聴している。
 果歩も失礼にならない程度に話に相づちを打っていたが、正直、内容はさっぱり分からなかったし、元々痛かった胃が、ますますキリキリしてくるのを感じていた。
「麻子さんは、お気の毒だったな」
 コーヒーをカップに注いだウエイターが去った後、喜彦がぽつりと呟いた。
 そろそろこっちから話を切り出そうとしていた果歩は、思わず思考を止めて息をのんだ。
 真鍋麻子。今年の1月に亡くなった真鍋の継母にあたる人のことだ。
「何度か手紙をやりとりさせていただいたが、本当に心根の優しい方だった。最期まで、雄一郎のことを案じていたよ」
「義母と、手紙を」
 そう呟いた真鍋が、今日初めて動揺しているのが果歩にも分かった。       
「それは……申し訳ないことに初耳でした。僕は、ここ数年、ずっと義母とは疎遠にしていたので」
「麻子さんもそのようなことを言っていたよ。まぁ、子供というのはそのようなものだと返したがね」
 喜彦は苦笑して、コーヒーカップを持ち上げた。
「1年ほど前に麻子さんの方からお手紙をいただいた。それで何度かやりとりをね。といっても、話は専らお前のことだったが」
「……義母は、僕のことを何と?」
 ひどく用心深く聞く真鍋を、果歩はそっと横目で窺った。
 彼の、疑心に満ちたその言い方だけで、あれから8年経ってもなお、真鍋と義母が和解していなかったことが窺いしれた。
「お前が無茶をするようなら、止めてくれと言われたよ」
「…………」
「まぁ、それは丁重にお断りしたがね。知っての通り私は、自分の影響の外にあるものには一切干渉しない主義だ。それがたとえ、身内であっても」
「僕が市長選に出ることを、勘づいていたのかな」
 一転して、楽しそうな笑顔になった真鍋がコーヒーカップを取り上げた。
「きっと父の心配をしていたのでしょうね。父と義母は、鬼だの女帝だの呼ばれていましたが、家庭では随分と仲がよかったですから」
「それはいい、老いても夫婦仲が良好なのはいいことだ」
「本当にねぇ」
 テーブルが穏やかな笑いに包まれる。
 それでも膝に置かれた真鍋の手が緊張したままなのが、果歩には分かった。彼の目が何も見ておらず、浮遊する心を必死でこの場につなぎ止めておこうとしていることも。
 ――真鍋さん……。
 彼の中には、まだ8年前と同じ闇があるのだ。
 そのキーワードのひとつが、2人で泊まった彼の別荘や、クローバーの丘にあることも分かっている。彼が唯一果歩が入るのを嫌った部屋――あの部屋に飾ってあった母親の写真と関係があることも。
 けれど、結局その正体も理由も判らないままに、2人は別れた。
 彼の抱える孤独や不安が分かっていただけに、別れてからも果歩はずっと、真鍋のことが心配だった。
 彼が一人で、今、どんな気持ちでいるかと思ったら、とても冷静ではいられなかった。だから結婚後の彼の部屋を訪ねるという、あんな馬鹿な真似もしたのかもしれない。――
「ところで的場さん」
 喜彦の言葉で、ぼんやりしていた果歩ははっとして顔を上げた。
 老人はにこやかに微笑んで、テーブルの上で両手を組むようにして果歩をじっと見つめている。
「君は雄一郎と結婚するという意味を、ご承知かな」 
 質問の意味が分からず、果歩は訝しく瞬きした。
 真鍋さんと結婚する意味? ――いや、もちろん分からないが、そもそも結婚するという前提が間違っているのだ。
「あの、実は私」
 その時テーブルの下で、膝に置いていた果歩の手に、真鍋の手が重なった。
 不意に被せられた温かな手のぬくみに、果歩は驚いて息をのむ。 
「…………」
 その手に込められた力が、言外に「黙っていろ」と告げている。果歩はうろたえて視線を伏せ、言葉に迷うように唇を震わせた。――どうすればいいんだろう。
「ご承知でないなら、私の方から説明しようか」
 2人の態度をどう思ったのかは分からないが、穏やかな口調で喜彦は口を開いた。
「不謹慎なようだが、私は雄一郎と賭けをした。この二宮の後継者を決める賭けだ」
 ――賭け……?
「二宮家の後継者は、代々年の近いものを集めて競わせ、誰もが満足いく結果を出した者をそれと決めるしきたりがある。その後継者レースの筆頭は瑛士だったが、知っての通り、瑛士は心に深い傷を抱えたまま、8年前にレースを降りた」
 これは何の話だろう。次第に不安になる果歩の手には、まだ真鍋の手が重なっている。力がこもったままの彼の手にも、自分以上の緊張が感じられる。
「去年の8月に、その瑛士を、香夜が引き戻す役割を買って出た。しかし香夜は瑛士の傷を癒やすどころか、えぐるだけえぐって姿を消した。……今の瑛士が、どう気持ちに折り合いをつけているのかは知らないがね。少なくとも、脩哉を死なせてしまった自責の念が晴れない限り、二度と私のところに戻ってくるつもりはないだろう」
 喜彦の言うことは、ある意味正しいと果歩も思った。
 それが香夜だけの罪だとは思わないが、もう藤堂は、秘密の部屋の扉を開けてしまった。そこに収めてあった罪を認め、過去と向き合うことに決めてしまったのだ。
 彼が、脩哉の死を頑なに自分のせいだと思い込んでいる限り、彼が二宮家に戻ることはないだろう。
「となると、誰もが納得できる候補者はもはやいないということになる。他にも後継者は数人いるが、この家の仕組みを継続させていくとなると、なかなかこれといった人物は出てこない。――というより、やはりそれは、私には瑛士しか考えられなかった」
 ふっと喜彦は淡く苦笑した。
「瑛士を連れ戻す駒のひとつとして、当然私も、的場さんを利用することを考えた。しかしそれは、同時に瑛士を永遠に失う諸刃の剣でもある。瑛士は君のためならなんでもするだろうが、それ以上に君を二宮の家には絶対に入れたくないと思っているはずだからね。――尤もだ。君のように才気溢れる女性にしてみれば、死んだような時間が待っているだけの結婚だ」
 果歩は思わず、二宮夫人を見た。ある意味ひどい侮辱を受けたにもかかわらず、彼女は泰然と微笑んでいる。
「迷ったよ。策を講じて、君と瑛士を別れさせるべきか。あるいは私が瑛士を諦めるべきか」
 そこで言葉を切り、喜彦は剣呑な言葉には似つかわしくないほど優しい目で果歩を見た。
「そんな時、雄一郎がこう提案した。君を賭けてみてはどうかと」
「…………」
「君を花嫁にした者を、後継者にすると宣言してみてはどうかと」
「…………」
 目の前の男が何を言っているのか分からなかった。自分の身体が、石のように固く、冷たくなっていく。
「その時は、雄一郎自身が瑛士と競う後継者候補の一人になる。――その深い意味が分かるかな、的場さん。この賭けで肝要なのはそこなのだ」
 ――そこ……?
「雄一郎の存在だよ」
 果歩は強張った視線を、黙ったままで前を見つめる真鍋に向けた。
「分からないかね。……まぁ無理もない。瑛士も本当の意味では分かってはいなかった。いずれにしても、私はその賭けに自分の判断を委ねることにしたのだ」 
「――待って下さい」
 果歩は咄嗟に遮っていた。――待って……、本当に、ちょっと待って。
 私が後継者を決める条件? そんな馬鹿な。――そんな……。
「藤堂さんは、それを、……その馬鹿げた話を本当に知っているんですか」
「3月の終わり頃に、私の口から直接伝えたよ」
 3月の終わり頃?
 それはいつ? 
「瑛士も何かしらの動きを察していたようだが、情報の解禁は、雄一郎が灰谷市に戻る市長選の告示日に合わせることにした。勝負のスタートには、またとないタイミングだったからね」
 告示日――
 殆ど呆然となった脳裏に、乃々子の結婚式の日の、明らかにおかしかった藤堂の態度や、強引な振る舞いが蘇る。
(今日、あなたを抱いたら、僕は一生自分を許せなかった)
(それでも構わないと思ったし、いっそのこと、とことん嫌われたいと思ったのかもしれない。いずれにしても、……完全に自分を見失っていました)
 見失っていたって、それが原因?
 真鍋さんに、後継者の座を奪われてしまうから? だから急に、それまで守っていたものを捨てようとしたの?
 ――いや、待って。落ち着いて、私。
 藤堂さんは、そもそも後継者の座を望んでいない。だったら、そんなことで自分の態度を変えたりはしない。  
「……それで、藤堂さんは……?」
「ひどくショックを受けていたよ。私が勝手に君を巻き込んでしまったことに対してね。それでも、そのような賭けには応じられないし」
「…………」
「君が誰を選ぶのかは、あくまで君が決めることだと、そう言った」
「瑛士らしい答えですね」
 真鍋が苦笑交じりに言葉を挟む。
 果歩はその刹那、思いっきり手を引いていた。重なったままの真鍋の手を振りほどいて、その場で頬を叩いてやるつもりだった。
 しかしその感情を先読みしたように。真鍋の手にも力がこもる。   
「瑛士は勝負に出なかった」
 果歩の手を力一杯掴んだままで、ひどく冷静に真鍋は言った。
「叔父さん、賭けは僕の勝ちでいいですか」
「……雄一郎、そう認めたから、今夜、お前の求めに応じてこんなところにまでやってきた」
 喜彦はどこか寂しげに微笑した。
「私もどこかで安堵している。これでようやく、二宮から瑛士を解放してやれるのだからね」



>>next  >>contents

このページの先頭へ