「的場さん、庁内メールきてっけど」 南原の、どこか嫌味な声がした。 「早くしろよ。重要な文書が届いてたらどうすんだよ」 「すみません」 むかーっとしながら、それでも笑顔で立ち上がる。 ずっしり重い郵便袋を引き寄せながら、果歩ははぁっとため息をついた。 今日も、妙見は休みだった。 (すみません、まだ子供の風邪が治りきらなくて) 電話を受けたのはよりにもよって南原で、果歩は朝から、同僚の嫌味を聞かされるはめになる。 その南原は、今日は暇なのか、のんびりコーヒーをすすっている。彼の仕事である全国政令指定都市会議は再来月に迫っているが、ようやくその準備もひと段落したのだろう。 今、とにかく忙しいのは、議会対応をしている藤堂と、予算担当の大河内主査。2人は最近、ずっと席空き状態が続いている。 藤堂は、庶務係長という立場上、予算についても目を通さねばならないから、その忙しさは半端ではないのだろう。 「ミルクはまだかね」 ひょい、と局長室から顔をのぞかせた局長――この都市計画局のトップ、那賀康弘がにこやかに声をかけてくる。 「はい、ただいま」 やはり笑顔で返しながら、果歩は半分泣きたい気持ちで給湯室に向かった。 この場合、誰にどう思われようが、ミルクの温めが果歩の最優先事項となる。それは、もう自分の仕事として決めたことだ。 「またミルクですか」 「どこの課も、メールが早く届くの待ってるってのに」 そんな皮肉が、給湯室に入る直前の果歩の耳に飛び込んできた。 1人は南原で、もう1人は計画係の男性職員。今年新規採用で総務計画係に配属になった――水原真琴《みずはらまこと》。 年もそうだが、背さえ果歩よりいくらか低い。いつも覇気がなく、愛想笑いだけは妙に上手い、典型的に長いものに巻かれるタイプである。 「だったら、あんたらがしろっつーの」 そのセリフは頭の中だけで呟き、果歩は手早くミルクの温め作業に入る。 「あのー、メール、まだですか」 どこか間が抜けた声が、出入り口の辺りから聞こえた。 果歩が顔をあげると、都市デザイン室のバイト職員が立っている。間違いなく配偶者探しのためだけにここにきている、綺麗系の若い女の子。 「ごめん。もしよかったら、仕分けをお願いしてもいいかしら」 ダメ元で果歩がそう言うと、 「……あー、それは、うちの課長さん通してもらわないと」 と、判をついたような返事が返ってきた。 これはもう、絶対に、総務以外の課で口裏をあわせているのだろう。もしくは、流奈がアルバイトを煽動しているのかもしれない。 果歩に都市計画史編纂の仕事が舞い込んでから、果歩が何を頼んでも、他課のバイト職員は口を揃えてこう言うのである。 「うちの課長さんを、通してください」 と。 無論、こんなことを言わせる以上、その課長に頼んでもダメなことは目に見えている。 そもそも他課の課長にそんな頼みごとが出来るのは、課長級以上――。 つまり、志摩課長か春日次長、立場で言えばあとは那賀局長に限られている。 果歩や、あるいは藤堂の立場では、絶対に頼めないのである。 ――やっぱ……私が、間違ってたのかなぁ……。 局長にミルクを出し終わった後、果歩は心もとない気持ちで、空席のままの藤堂の席を見た。 後で考えて――というか、その時も分かっていたのだが、藤堂は、果歩の立場や仕事の量を見て、あんなことを言ってくれたに違いないのだ。 それなのに、へんに感情的になってしまって。 ――なんにしても、謝らなきゃ。 どう考えても大人げのない態度をとった。 昨夜の自分を思い出すと、恥ずかしくて顔から火が出そうになる。 ――もしかしなくても、欲求不満も……あったのかも。 「…………」 メールの仕分けを大急ぎで終え、サニタリーで手を洗いながら、果歩は疲れのたまった自分の顔を見た。 あの夜から、――最後のキスを交わした夜から。 藤堂は一度も、自分の心を見せてくれない。 あの夜、確かに彼の気持ちを痛いほど感じたのに、そんなことは、もう忘れてしまったかのような態度を取られ続けている。 ――あのキスって……なんだったんだろう。 心を溶かされ、奪われるようなキスだったのに。 彼は、私の精神状態が普通ではなかったと言ったけれど、本当に普通でなかったのは、もしかして、藤堂さん……? だとしたら、あれは、一時の気の迷いか単なる衝動だったのだろうか。 ふっと息を吐いて、廊下に出ようとした時だった。 「昨日はごちそうさまでしたっ」 流奈の声。 果歩は足を止めてしまっていた。 まさかと思った。この甘えきったロリっぽい声を、流奈が出す相手は一人しかいない。 「いや、それは別に」 藤堂の――声? 「もうっ、藤堂さんったら、そんな顔しなくても大丈夫ですよ」 果歩は、心臓が嫌な風に高鳴るのを感じていた。そんな、まさか。 「昨日のことは、2人だけの秘密って約束でしたもんねっ」 「はぁ」 そのまま、二つの足音が遠ざかる。 果歩は、身体ごと床に串刺しにされたように動けないままだった。 なにこれ。 どういうこと? どういうことなのよ――。 ************************ 「いや、そりゃ、あんたが悪いわよ、果歩」 雨の匂いを含んだ6月の空。 煙草をふかす友人の目は、どこか楽しそうだった。 「いや……それは、まぁ」 そうなんだけど。 風向き加減で流れてくる白煙に辟易しつつ、果歩は言葉を濁していた。 「つか、何じれったいことやってんのよ」 同期。役所に入って間もなくして親友になった宮沢りょうは、ぴしっと果歩の額を指で弾いた。 「とっととやることやっちゃいなさいよ。初心な高校生じゃないんだから」 「なっ、なんてこというのよ」 片手の紙パックのジュースを持っていた果歩は、あやうくそれを握りつぶすところだった。 「職場に、中途半端な恋愛持ちこんでるから、ぎくしゃくすんのよ。一回寝ちゃって、お互い落ち着いたら楽になると思うけどな」 「あのねぇ」 果歩は言いよどんで、友人の横顔を睨んだ。 「そんなんじゃないのよ」 「あれ? だったら、八方美人でいい子の果歩が、なんだって彼の前だと素になるのよ」 同期では、一番の出世頭と言われているりょうは、嫌になるほど頭の回転が速い。今も、特段、恋愛絡みの話をしたわけではないのに、即座に本質に切り込んでくるのがすごいところだ。 「……まぁ、いろいろ、あるにはあるんだけど」 「キス……」 「えっ」 果歩はぎょっとして、整いすぎた友人の顔を見た。はっきり言えばかなりの美形、が、すっぴんで眼鏡、ひっつめ髪のりょうは、今日も完全に女を捨てている。 「くらいはしたって目してるわね」 沈黙のあと、りょうはそう言って、唇に煙草を挟んだ。 「し、してないし」 「へぇ」 「してないわよ、マジで」 「へぇ」 楽しそうなりょうの横顔は、全てを見抜いているようだった。 「てゆっか、藤堂さんは」 言い訳しようとして、果歩はそこで、先ほど耳にした、胸が軋むほど嫌な会話を思い返していた。 昨夜。 遅くに戻ってきた藤堂は、明らかに夜の匂いを、その衣服に染み付かせていた。 あの時、流奈と食事でもした帰りだったのだろうか。それとも、その後。 悲しいというより、今は、怒りの方が勝っている。 「……好きになるような人じゃないもん、なんていうか」 そう。 「子供よ!」 ぐしゃっと手元の紙パックが潰れていた。 「きゃーっ」 「バカ、何やってんのよ」 あきれた顔のりょうが、即座にティッシュを取り出してくれる。 「でも今回は」 果歩のスカートに零れたリンゴジュースを拭いながら、りょうが言った。 「子供なのは果歩の方だと思うな、私」 「なんで」 「ほら、すぐムキになる」 くすっと笑って立ち上がると、りょうは、金網に背を預けた。 「アルバイトのことは確かに難しい問題。待遇改善は組合からも出てるし、うちでも時々議論になるけど」 日給にして6千円程度。交通費は出ない。むろん福利厚生も保障されない。 拘束される時間は職員と同じ。職場によっては、職員と同等の仕事を強いられることもある。 なのに―― 1ヶ月フルで働いても、家族どころか自分1人の生計さえ立てられないほど、その月給は安いのである。 「役所のバイトって、何故か女子ばっかじゃない? 男子のバイトはまずこないし、来られても困るのがホンネの話」 りょうは、今にも振り出しそうな空を見上げながら続けた。 「だって、しょせんは使い捨て、福利厚生まで面倒みる気はないからね。マジで生活かかってる子を雇うわけにはいかないの。ぶっちゃけ、組合でも作られたらやっかいじゃない」 「…………」 (市役所の臨時職員が、きちんとした職業でしょうか) (……職員と臨時職員は、同じ立場で働いていると思いますか) 昨夜の藤堂の言葉が、何故かふいに蘇った。 「それなりの仕事をやらせろってこと?」 「そうもいかないのが、辛いトコよね」 りょうは、はぁっと、白い煙を吐き出した。 「ようは、人減らしの穴埋めが臨時なのよ。つまり、職員が足りない部署の補充が臨時。職場によっては、かなりハードな仕事させるとこもあるからね」 「給料を上げるとか、嘱託として正式に雇用するとか」 りょうは、即座に首を横に振った。 ありえない、と、その目が冷ややかに言っている。 「ベースアップを含め、待遇改善は絶対に無理。職員の給料でさえ減らされようっていう昨今で、今以上の条件で雇えるわけないじゃない」 「……………」 「根本は、職員の絶対数が足りないってこと。それから、市の財政がかなりやばいことになってるってこと」 その目に、初めて難しげな色が浮かんだ。 「人事にいると、色んな情報が入ってくるからね。役所の収支を、会社の経営を図るバランスシートにあてはめたら、実はとっくに破綻してるのよ。灰谷市は」 「えっ」 「借入金で持ってるの。その意味判る? 民間と違って返済期間に猶予があるから持ってるだけ。うちの市を健全経営に戻すには、かなりの大手術が必要なのよ」 「………………」 考えてもみなかった展開に、果歩は、暗く滲んだ自分の影を見つめた。 たまに新聞やニュースで、地方自治体破綻の話を聞くが、それは、うちの市には無関係だと思っていたのに――。 「臨時の使い方や配置を含め、色んな意味で考え直した方がいい時期にきてることは確かだわね。ただの雑用臨時なら、思い切って切る勇気も必要よ、これからは」 りょうの言葉の重みを、果歩は黙って噛み締めていた。 ************************* 「このへんかな」 ノートにメモした住所を片手に、果歩は足を止めていた。 ここは、10年前に再開発事業が終わったばかりの地区だった。 表通りを奥入った裏通り。きちんと区画整理されていて、どの家もまだ新しい。 その地区にある「再開発事務所」に、果歩はあいさつに赴いた帰りだった。 市の出張所でもあるその事務所の、所長――階級で言えば、部長級になるのだが、再開発事業に20年近く携わっているその所長に、都市計画編纂史の記事を依頼する予定だからである。 本庁舎からバスに乗って15分足らずの場所だった。 そしてこの地区に、妙見静子の自宅がある。 ――とにかく、自分で一度、事情を聞いてみよう。 それから、藤堂さんに。 「……………」 そりゃ、私が大人げなかった。 果歩は、半分むっとしつつ、大股で人気のない真昼の住宅街を歩き続けた。 でも、藤堂さんだって―― なんていうか、ひどい。 あんな真似までしといて、他の女の子と食事に行くなんて。 てゆうか、もしかして、あの人は。 ――誰にも、あんな真似でできる人……なのかもしれない。 果歩は自然に眉を寄せていた。 キスも、そういえば、かなり慣れていて余裕だった。 あんな生真面目そうな顔して、実はかなり――。 「あれ?」 いつの間にか、住宅街を抜けている。 表に面した通りの裏。飲食店やパチンコ屋の裏口が、果歩の前に延々と続いている。 「おっかしいな」 もう一度メモを見ようとした時だった。 パチンコ屋の裏口から、髪をかきあげながら出てくる女が視界をよぎった。すっぴんにジャージ、ぼさぼさの髪。けだるそうな目で、アスファルトに唾を吐いている。 最初、それは見知らぬ、年老いた女に見えた。 視線があって、それをいったんは逸らした果歩は、少し考えてから顔を上げた。 「………あ」 同じように果歩を見ていた女は、さっと顔色を変えて口元に手をあてる。 その手に抱えられた紙袋から、ぬいぐるみの人形がのぞいていた。 「みょ、」 果歩は言葉を失っていた。というより、愕然としていた。 今日、子供の具合が悪いといって休んでいるバイト職員が、まさかパチンコ屋から出てくるなんて――。 ************************* 「……病気なんです、もう」 喫茶店。 果歩の前でうなだれた妙見瑞江は、見かけは別人だが、中身はやはり、どこか気弱で頼りなかった。 「……自分でも分かってるんです。依存症だって……わかってるんですけど、勝った感覚が忘れられなくて」 「それで……仕事を」 果歩は、眩暈がするような気持ちで呟いた。 こくん、と瑞江は力なく頷く。 「子供さんが病気っていうのも、嘘なんですか」 「子供は……、実家で面倒みてもらってるんで」 瑞江は、悪びれもせずにぼそぼそと言った。 嘘。 ああ――信じられない。 果歩は、ほとんど味のしないコーヒーを一口飲む。 「私なんかに子育ては無理だって。まぁ、当たり前なんですけど、時間あったらパチンコ行ってるし、給料安くて子供の養育費も払えないし」 「最初の話も嘘だったんですか」 感情をかろうじて堪えて、果歩は続けた。 1年前の面接の時、 「子供の親権を持ち続けるためにも、ちゃんとした仕事につきたい」と言った言葉は。 「嘘じゃないです」 うつむいた女の痩せ枯れた目に、涙が浮かんでぽつっと零れた。 「家にいるとパチンコ行っちゃうんで、どうしても行っちゃうんで、朝から夜まで拘束されてる仕事がよかったんです。役所だと近所のイメージもいいし、別れたダンナから仕送りももらってたし」 「……………」 「私なんて、ずっと専業主婦で………ほかに……仕事なんて、できないですし」 「……………」 果歩は黙って、こみあげる感情と戦っていた。 騙されていた。 ずっと、守って庇い続けてきた。 みんなに皮肉られ、陰口を言われ続けても、ずっと。 それは――最初の面接時からずっと感じつづけていたこの女への同情であり、そして仕事をしていく上で培われた共同意識からだった。 色んな局面で助けてもらった。同じ課でたった1人の同性。愚痴も、唯一気楽に零せた相手だった。それが仕事とはいえ――その刹那刹那で信頼が生まれ、友情めいた感情も生まれていたから。 だから。 「びっくりしました……的場さんが、まさかこんな場所にいるとは思わなかったから」 覚悟を決めたのか、ようやく顔をあげた女は、わずかに表情を緩めてそう言った。 「やっぱり係長さんから聞いたんですか、私のこと」 「……係長?」 藤堂さん? 果歩が眉をひそめると、再び瑞江は気まずそうにうつむいた。 「先日……お会いしたんです、やっぱり偶然」 ストローの紙くずを所在無くいじる。 「ここでですか」 「いえ、ここじゃなくて、……市役所の傍に、新しい店が出来てて」 「…………」 「何もおっしゃいませんでしたけど、ああ、これでクビだなって、だから怖くて、休んでたんですけど」 黙って唇を噛んだ果歩には、それでようやく、全てが分かったような気がしていた。 「………妙見さん」 しばらくの沈黙の後、果歩は意を決して顔をあげた。 何を信じればいいんだろう。迷っていたのはそれだったが、やはり―― 「やり直すチャンスは、誰にだってあると思います」 「…………」 「嘘をついて休まれてたことは、ショックでした。でも、私、妙見さんの仕事の仕方は信頼してるし、今までのことは感謝してます」 瑞江は、眉を寄せたままうつむいた。 何かの感情と戦っているような表情だった。 「……私が言いたいのはそれだけです。あとは、妙見さんの気持ち次第だと思ってます。……待ってますから、私」 信じるのは。 今まで私が、直接感じてきた気持ち。 そこまで失ってしまったら、これから、何も、誰も信じられなくなる気がする。 瑞江はただうなだれていた。 果歩は静かに一礼し、レシートを持って立ち上がった。 ふいに雨音が、ぽつぽつと聞こえてきた。 |
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