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年下の上司 story3〜 June

雨が降っても地固まらず(2)


「的場さん、庁内メールきてっけど」
 南原の、どこか嫌味な声がした。
「早くしろよ。重要な文書が届いてたらどうすんだよ」
「すみません」
 むかーっとしながら、それでも笑顔で立ち上がる。
 ずっしり重い郵便袋を引き寄せながら、果歩ははぁっとため息をついた。
 今日も、妙見は休みだった。
(すみません、まだ子供の風邪が治りきらなくて)
 電話を受けたのはよりにもよって南原で、果歩は朝から、同僚の嫌味を聞かされるはめになる。
 その南原は、今日は暇なのか、のんびりコーヒーをすすっている。彼の仕事である全国政令指定都市会議は再来月に迫っているが、ようやくその準備もひと段落したのだろう。
 今、とにかく忙しいのは、議会対応をしている藤堂と、予算担当の大河内主査。2人は最近、ずっと席空き状態が続いている。
 藤堂は、庶務係長という立場上、予算についても目を通さねばならないから、その忙しさは半端ではないのだろう。
「ミルクはまだかね」
 ひょい、と局長室から顔をのぞかせた局長――この都市計画局のトップ、那賀康弘がにこやかに声をかけてくる。
「はい、ただいま」
 やはり笑顔で返しながら、果歩は半分泣きたい気持ちで給湯室に向かった。
 この場合、誰にどう思われようが、ミルクの温めが果歩の最優先事項となる。それは、もう自分の仕事として決めたことだ。
「またミルクですか」
「どこの課も、メールが早く届くの待ってるってのに」
 そんな皮肉が、給湯室に入る直前の果歩の耳に飛び込んできた。
 1人は南原で、もう1人は計画係の男性職員。今年新規採用で総務計画係に配属になった――水原真琴《みずはらまこと》。
 年もそうだが、背さえ果歩よりいくらか低い。いつも覇気がなく、愛想笑いだけは妙に上手い、典型的に長いものに巻かれるタイプである。
「だったら、あんたらがしろっつーの」
 そのセリフは頭の中だけで呟き、果歩は手早くミルクの温め作業に入る。
「あのー、メール、まだですか」
 どこか間が抜けた声が、出入り口の辺りから聞こえた。
 果歩が顔をあげると、都市デザイン室のバイト職員が立っている。間違いなく配偶者探しのためだけにここにきている、綺麗系の若い女の子。
「ごめん。もしよかったら、仕分けをお願いしてもいいかしら」
 ダメ元で果歩がそう言うと、
「……あー、それは、うちの課長さん通してもらわないと」
 と、判をついたような返事が返ってきた。
 これはもう、絶対に、総務以外の課で口裏をあわせているのだろう。もしくは、流奈がアルバイトを煽動しているのかもしれない。
 果歩に都市計画史編纂の仕事が舞い込んでから、果歩が何を頼んでも、他課のバイト職員は口を揃えてこう言うのである。
「うちの課長さんを、通してください」
 と。
 無論、こんなことを言わせる以上、その課長に頼んでもダメなことは目に見えている。
 そもそも他課の課長にそんな頼みごとが出来るのは、課長級以上――。
 つまり、志摩課長か春日次長、立場で言えばあとは那賀局長に限られている。
 果歩や、あるいは藤堂の立場では、絶対に頼めないのである。
 ――やっぱ……私が、間違ってたのかなぁ……。
 局長にミルクを出し終わった後、果歩は心もとない気持ちで、空席のままの藤堂の席を見た。
 後で考えて――というか、その時も分かっていたのだが、藤堂は、果歩の立場や仕事の量を見て、あんなことを言ってくれたに違いないのだ。
 それなのに、へんに感情的になってしまって。
 ――なんにしても、謝らなきゃ。
 どう考えても大人げのない態度をとった。
 昨夜の自分を思い出すと、恥ずかしくて顔から火が出そうになる。
 ――もしかしなくても、欲求不満も……あったのかも。
「…………」
 メールの仕分けを大急ぎで終え、サニタリーで手を洗いながら、果歩は疲れのたまった自分の顔を見た。
 あの夜から、――最後のキスを交わした夜から。
 藤堂は一度も、自分の心を見せてくれない。
 あの夜、確かに彼の気持ちを痛いほど感じたのに、そんなことは、もう忘れてしまったかのような態度を取られ続けている。
 ――あのキスって……なんだったんだろう。
 心を溶かされ、奪われるようなキスだったのに。
 彼は、私の精神状態が普通ではなかったと言ったけれど、本当に普通でなかったのは、もしかして、藤堂さん……?
 だとしたら、あれは、一時の気の迷いか単なる衝動だったのだろうか。
 ふっと息を吐いて、廊下に出ようとした時だった。
「昨日はごちそうさまでしたっ」
 流奈の声。
 果歩は足を止めてしまっていた。
 まさかと思った。この甘えきったロリっぽい声を、流奈が出す相手は一人しかいない。
「いや、それは別に」
 藤堂の――声?
「もうっ、藤堂さんったら、そんな顔しなくても大丈夫ですよ」
 果歩は、心臓が嫌な風に高鳴るのを感じていた。そんな、まさか。
「昨日のことは、2人だけの秘密って約束でしたもんねっ」
「はぁ」
 そのまま、二つの足音が遠ざかる。
 果歩は、身体ごと床に串刺しにされたように動けないままだった。
 なにこれ。
 どういうこと?
 どういうことなのよ――。

 ************************

「いや、そりゃ、あんたが悪いわよ、果歩」
 雨の匂いを含んだ6月の空。
 煙草をふかす友人の目は、どこか楽しそうだった。
「いや……それは、まぁ」
 そうなんだけど。
 風向き加減で流れてくる白煙に辟易しつつ、果歩は言葉を濁していた。
「つか、何じれったいことやってんのよ」
 同期。役所に入って間もなくして親友になった宮沢りょうは、ぴしっと果歩の額を指で弾いた。
「とっととやることやっちゃいなさいよ。初心な高校生じゃないんだから」
「なっ、なんてこというのよ」
 片手の紙パックのジュースを持っていた果歩は、あやうくそれを握りつぶすところだった。
「職場に、中途半端な恋愛持ちこんでるから、ぎくしゃくすんのよ。一回寝ちゃって、お互い落ち着いたら楽になると思うけどな」
「あのねぇ」
 果歩は言いよどんで、友人の横顔を睨んだ。
「そんなんじゃないのよ」
「あれ? だったら、八方美人でいい子の果歩が、なんだって彼の前だと素になるのよ」
 同期では、一番の出世頭と言われているりょうは、嫌になるほど頭の回転が速い。今も、特段、恋愛絡みの話をしたわけではないのに、即座に本質に切り込んでくるのがすごいところだ。
「……まぁ、いろいろ、あるにはあるんだけど」
「キス……」
「えっ」
 果歩はぎょっとして、整いすぎた友人の顔を見た。はっきり言えばかなりの美形、が、すっぴんで眼鏡、ひっつめ髪のりょうは、今日も完全に女を捨てている。
「くらいはしたって目してるわね」
 沈黙のあと、りょうはそう言って、唇に煙草を挟んだ。
「し、してないし」
「へぇ」
「してないわよ、マジで」
「へぇ」
 楽しそうなりょうの横顔は、全てを見抜いているようだった。
「てゆっか、藤堂さんは」
 言い訳しようとして、果歩はそこで、先ほど耳にした、胸が軋むほど嫌な会話を思い返していた。
 昨夜。
 遅くに戻ってきた藤堂は、明らかに夜の匂いを、その衣服に染み付かせていた。
 あの時、流奈と食事でもした帰りだったのだろうか。それとも、その後。
 悲しいというより、今は、怒りの方が勝っている。
「……好きになるような人じゃないもん、なんていうか」
 そう。
「子供よ!」
 ぐしゃっと手元の紙パックが潰れていた。
「きゃーっ」
「バカ、何やってんのよ」
 あきれた顔のりょうが、即座にティッシュを取り出してくれる。
「でも今回は」
 果歩のスカートに零れたリンゴジュースを拭いながら、りょうが言った。
「子供なのは果歩の方だと思うな、私」
「なんで」
「ほら、すぐムキになる」
 くすっと笑って立ち上がると、りょうは、金網に背を預けた。
「アルバイトのことは確かに難しい問題。待遇改善は組合からも出てるし、うちでも時々議論になるけど」
 日給にして6千円程度。交通費は出ない。むろん福利厚生も保障されない。
 拘束される時間は職員と同じ。職場によっては、職員と同等の仕事を強いられることもある。
 なのに―― 1ヶ月フルで働いても、家族どころか自分1人の生計さえ立てられないほど、その月給は安いのである。
「役所のバイトって、何故か女子ばっかじゃない? 男子のバイトはまずこないし、来られても困るのがホンネの話」
 りょうは、今にも振り出しそうな空を見上げながら続けた。
「だって、しょせんは使い捨て、福利厚生まで面倒みる気はないからね。マジで生活かかってる子を雇うわけにはいかないの。ぶっちゃけ、組合でも作られたらやっかいじゃない」
「…………」
(市役所の臨時職員が、きちんとした職業でしょうか)
(……職員と臨時職員は、同じ立場で働いていると思いますか)
 昨夜の藤堂の言葉が、何故かふいに蘇った。
「それなりの仕事をやらせろってこと?」
「そうもいかないのが、辛いトコよね」
 りょうは、はぁっと、白い煙を吐き出した。
「ようは、人減らしの穴埋めが臨時なのよ。つまり、職員が足りない部署の補充が臨時。職場によっては、かなりハードな仕事させるとこもあるからね」
「給料を上げるとか、嘱託として正式に雇用するとか」
 りょうは、即座に首を横に振った。
 ありえない、と、その目が冷ややかに言っている。
「ベースアップを含め、待遇改善は絶対に無理。職員の給料でさえ減らされようっていう昨今で、今以上の条件で雇えるわけないじゃない」
「……………」
「根本は、職員の絶対数が足りないってこと。それから、市の財政がかなりやばいことになってるってこと」
 その目に、初めて難しげな色が浮かんだ。
「人事にいると、色んな情報が入ってくるからね。役所の収支を、会社の経営を図るバランスシートにあてはめたら、実はとっくに破綻してるのよ。灰谷市は」
「えっ」
「借入金で持ってるの。その意味判る? 民間と違って返済期間に猶予があるから持ってるだけ。うちの市を健全経営に戻すには、かなりの大手術が必要なのよ」
「………………」
 考えてもみなかった展開に、果歩は、暗く滲んだ自分の影を見つめた。
 たまに新聞やニュースで、地方自治体破綻の話を聞くが、それは、うちの市には無関係だと思っていたのに――。
「臨時の使い方や配置を含め、色んな意味で考え直した方がいい時期にきてることは確かだわね。ただの雑用臨時なら、思い切って切る勇気も必要よ、これからは」
りょうの言葉の重みを、果歩は黙って噛み締めていた。

 ************************* 
   
「このへんかな」
 ノートにメモした住所を片手に、果歩は足を止めていた。
 ここは、10年前に再開発事業が終わったばかりの地区だった。
 表通りを奥入った裏通り。きちんと区画整理されていて、どの家もまだ新しい。
 その地区にある「再開発事務所」に、果歩はあいさつに赴いた帰りだった。
 市の出張所でもあるその事務所の、所長――階級で言えば、部長級になるのだが、再開発事業に20年近く携わっているその所長に、都市計画編纂史の記事を依頼する予定だからである。
 本庁舎からバスに乗って15分足らずの場所だった。
 そしてこの地区に、妙見静子の自宅がある。
 ――とにかく、自分で一度、事情を聞いてみよう。
 それから、藤堂さんに。
「……………」
 そりゃ、私が大人げなかった。
 果歩は、半分むっとしつつ、大股で人気のない真昼の住宅街を歩き続けた。
 でも、藤堂さんだって――
 なんていうか、ひどい。
 あんな真似までしといて、他の女の子と食事に行くなんて。
 てゆうか、もしかして、あの人は。
 ――誰にも、あんな真似でできる人……なのかもしれない。
 果歩は自然に眉を寄せていた。
 キスも、そういえば、かなり慣れていて余裕だった。
 あんな生真面目そうな顔して、実はかなり――。
「あれ?」
 いつの間にか、住宅街を抜けている。
 表に面した通りの裏。飲食店やパチンコ屋の裏口が、果歩の前に延々と続いている。
「おっかしいな」
 もう一度メモを見ようとした時だった。
 パチンコ屋の裏口から、髪をかきあげながら出てくる女が視界をよぎった。すっぴんにジャージ、ぼさぼさの髪。けだるそうな目で、アスファルトに唾を吐いている。
 最初、それは見知らぬ、年老いた女に見えた。
 視線があって、それをいったんは逸らした果歩は、少し考えてから顔を上げた。
「………あ」
 同じように果歩を見ていた女は、さっと顔色を変えて口元に手をあてる。
 その手に抱えられた紙袋から、ぬいぐるみの人形がのぞいていた。
「みょ、」
 果歩は言葉を失っていた。というより、愕然としていた。
 今日、子供の具合が悪いといって休んでいるバイト職員が、まさかパチンコ屋から出てくるなんて――。
 
 *************************
             
「……病気なんです、もう」
 喫茶店。
 果歩の前でうなだれた妙見瑞江は、見かけは別人だが、中身はやはり、どこか気弱で頼りなかった。
「……自分でも分かってるんです。依存症だって……わかってるんですけど、勝った感覚が忘れられなくて」
「それで……仕事を」
 果歩は、眩暈がするような気持ちで呟いた。
 こくん、と瑞江は力なく頷く。
「子供さんが病気っていうのも、嘘なんですか」
「子供は……、実家で面倒みてもらってるんで」
 瑞江は、悪びれもせずにぼそぼそと言った。
 嘘。
 ああ――信じられない。
 果歩は、ほとんど味のしないコーヒーを一口飲む。
「私なんかに子育ては無理だって。まぁ、当たり前なんですけど、時間あったらパチンコ行ってるし、給料安くて子供の養育費も払えないし」
「最初の話も嘘だったんですか」
 感情をかろうじて堪えて、果歩は続けた。
 1年前の面接の時、
「子供の親権を持ち続けるためにも、ちゃんとした仕事につきたい」と言った言葉は。
「嘘じゃないです」
 うつむいた女の痩せ枯れた目に、涙が浮かんでぽつっと零れた。
「家にいるとパチンコ行っちゃうんで、どうしても行っちゃうんで、朝から夜まで拘束されてる仕事がよかったんです。役所だと近所のイメージもいいし、別れたダンナから仕送りももらってたし」
「……………」
「私なんて、ずっと専業主婦で………ほかに……仕事なんて、できないですし」
「……………」
 果歩は黙って、こみあげる感情と戦っていた。
 騙されていた。
 ずっと、守って庇い続けてきた。
 みんなに皮肉られ、陰口を言われ続けても、ずっと。
 それは――最初の面接時からずっと感じつづけていたこの女への同情であり、そして仕事をしていく上で培われた共同意識からだった。
 色んな局面で助けてもらった。同じ課でたった1人の同性。愚痴も、唯一気楽に零せた相手だった。それが仕事とはいえ――その刹那刹那で信頼が生まれ、友情めいた感情も生まれていたから。
 だから。
「びっくりしました……的場さんが、まさかこんな場所にいるとは思わなかったから」
 覚悟を決めたのか、ようやく顔をあげた女は、わずかに表情を緩めてそう言った。
「やっぱり係長さんから聞いたんですか、私のこと」
「……係長?」
 藤堂さん?
 果歩が眉をひそめると、再び瑞江は気まずそうにうつむいた。
「先日……お会いしたんです、やっぱり偶然」
 ストローの紙くずを所在無くいじる。
「ここでですか」
「いえ、ここじゃなくて、……市役所の傍に、新しい店が出来てて」
「…………」
「何もおっしゃいませんでしたけど、ああ、これでクビだなって、だから怖くて、休んでたんですけど」
 黙って唇を噛んだ果歩には、それでようやく、全てが分かったような気がしていた。
「………妙見さん」
 しばらくの沈黙の後、果歩は意を決して顔をあげた。
 何を信じればいいんだろう。迷っていたのはそれだったが、やはり――
「やり直すチャンスは、誰にだってあると思います」
「…………」
「嘘をついて休まれてたことは、ショックでした。でも、私、妙見さんの仕事の仕方は信頼してるし、今までのことは感謝してます」
 瑞江は、眉を寄せたままうつむいた。
 何かの感情と戦っているような表情だった。
「……私が言いたいのはそれだけです。あとは、妙見さんの気持ち次第だと思ってます。……待ってますから、私」
 信じるのは。
 今まで私が、直接感じてきた気持ち。
 そこまで失ってしまったら、これから、何も、誰も信じられなくなる気がする。
 瑞江はただうなだれていた。
 果歩は静かに一礼し、レシートを持って立ち上がった。
 ふいに雨音が、ぽつぽつと聞こえてきた。

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