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年下の上司 story4〜 July

女心と夏の空 課対抗バトミントン大会(1)


「的場君、準備は万全かね?」
 第一声。
「いやぁ、はりきってんだよ、最近の僕は。何しろ、局のアイドル的場君とダブルスだからね!」
 嬉しそうなというより、思いっきりはしゃいだ声。
「は、……はい」
 果歩は、微妙な気分をもてあましたまま、にっこりと笑って頷いた。
 ――こ、断れない……。
 いつものミルクを出しつつ、胸の中で肩を落とす。
 局長室。
 この都市計画局のトップ、定年へのカウントダウンをはじめた那賀局長と果歩の、いつもの朝の光景である。
 那賀局長が張り切っているのは、今週の日曜にある、局対抗バトミントン大会のことである。この時期に開催される、灰谷市役所の全庁行事――職員総合体育祭。
 バレー、バトミントン、ソフトボール。3つの種目からひとつを選び、局から一組代表を決める。
 代表戦の本番は秋だが、日曜は、都市計画局から代表を決めるための、総務課主催の局予選大会が行われるのである。
「じゃ、今日の夕方、6時だったかな」
 定年前の窓際局長――すでに重要なラインからことごとく外されている呑気な那賀は、白髪頭を手で直す仕草をして、茶目っ気たっぷりな目で果歩を見上げた。
「は、はい」
「的場君は仕事が忙しいからね、僕が先にいって待ってるからね」
「わかりました」
 ――やばい……。
 自席についた果歩は、気鬱なため息を繰り返した。
 まさに尋常でない張り切り方をしている那賀は、今日から週末までの5日間、この近くの区営スポーツセンターのフロアをバトミントンの練習用に借りているのである。
 ――どうしよう、局長がここまで本気だなんて。
 職員体育祭は、どちらかといえば、思いっきり独身の若者向けのイベントである。
 60歳目前の那賀から「僕と一緒にエントリーしよう」といわれた時は、まさに冗談だと思って「はい」と笑って頷いた果歩だったが、それが実現し、しかもこんな大掛かりになってしまうとは――さすがに想像の範疇外だった。
「あー、最悪……」
 実の所、朝の世間話をしつつ、「仕事が忙しくて」と、何気に断ろうと決めていた果歩だった。が、あんな子供のようにはしゃいだ顔を見ると、頷く以外に何もできない。
 むろん、果歩の憂鬱には理由がある。それも、誰にも言えない理由が。
「聞いたよ、的場さん。今週の日曜、出るんだって?」
 うなだれたまま、コピー室に向かっていると、都市デザイン室の窪塚主査が背後から声をかけてきた。
 ひょうひょうとした――まるで田舎道に立った案山子警官みたいな風貌の持ち主だが、アフロヘアとスーツにスニーカーという独特のスタイルだけはどこにいても目立つ。
 まだ30代初め、若いが、ロサンゼルス帰りで京大卒の窪塚は、未来の都市計画局長とまで影で囁かれているエリートである。
「あ、参加するっていっても、遊びみたいな感覚ですから」
「体育祭なんて、そもそも遊びじゃないの?」
 言い訳がましく答えた果歩を、窪塚は冷めた目で見下ろした。
 エリートにありがちな――あまり他人の気持ちに頓着しないマイペース窪塚が、昨年度まで果歩は苦手だった。
 が、今は、少しだけ彼に期待している。
 この局内で、未だ思いっきり浮いている果歩の直属の上司――民間から途中採用された新任係長、藤堂瑛士の、もしかすると唯一の理解者になってくれるかもしれないということで。
「実は僕も出るんだよね、補佐の代理でさ。今回は課長補佐級は全員参加っておたっしが出てるじゃん」
 男にしては、やや甲高い声で窪塚は続けた。
「ああ……」
「あれって、不思議な指示だよね。うちの補佐も相当ふてくされてたけど、春日さんの意向には逆らえないしさ」
「まぁ、確かに」
 逆らえるはずがない。この局の実質的なドン、春日局次長じきじきの指示ならば。
 窪塚の言うとおり、今回の大会には、課長補佐級以上は全員参加することになっていた。
 春日次長の、内々の指示で。
 那賀局長が出場するから気を使ったんだろう、というのが、大方の見方だが、合理的を絵に描いたような節約主義の春日が、そんな心遣いをするような男でないことを、果歩はよく知っている。
 向かう先は同じコピー室。果歩が先を譲ると、さくさくとコピーをとりながら、窪塚が続ける。
「まぁ、くだらないイベントだけど、今、うちの局、なんかぎすぎすしてるからね」
「まぁ……そうなんでしょうか」
「してるじゃん、それはそれで、僕は結構楽しいけど」
 窪塚に笑いかけられ、果歩は曖昧に視線を逸らした。
 原因は、おたくの係長のせいじゃない? ――多分、窪塚の目はそう言っている。それが全てではないにしろ。
 なにしろ藤堂瑛士。果歩の上司であり、今年民間から登用された新任の総務係長は、市の慣習――というか、局の慣習にことごとく反旗をひるがえし続けているのである。
 それまで判子をついて回すだけだった決裁文書をじっくり検収する、納得できなければ突き返す。重要な仕事を回さないと暗黙の了解で決められていた女性職員に仕事を任せる。さらには、バイト職員のシェアリングを打ち出し、他課のバイトに仕事を頼む――云々。
 一時、局内の猛反発を買ったバイトのシェアリング騒動は、来年度バイト職員が総務にしかつかないという噂の元に沈静化されたが、それでも、藤堂への不信感というか、局内の反発は何ひとつかわってはいない。
「ま、こんな状態がいいわけないし、誰かが犠牲になって盛り上げないといけないじゃん」
 窪塚はひょうひょうと言って肩をすくめた。
 犠牲という言い方が、窪塚らしい。
 ――いや、盛り上げるのはいいんだけど。
 窪塚が去り、コピー室で1人になった果歩は、再びため息を繰り返した。
 その程度で、局の雰囲気がよくなるならいくらだって協力する。が、果歩の憂鬱の原因は全く別のところにあるのである。
「ああ……」
 声を漏らし、果歩は両手で頬を押さえた。
 ――絶対、ばれちゃう、私がどんくさい女だって!
 果歩は、極度の――俗な言い方をすると、いわゆる「運動オンチ」なのだ。
 それも尋常ではないほどの。
 こと球技は苦手中の苦手。とにかくボールが絡む競技は昔から全部ダメ。
 子供の頃からド近眼だったせいだろう、飛んでくるボールの距離感がまるでつかめない。他分、その光景は、悲惨というよりむしろ滑稽。
 が、女性にあっては比較的長身、すらっとした体格と、傍目には勝気そうに見える目つきなどのせいか、昔からどこにいっても「テニスか何かやってるんでしょ」とか「スポーツ万能なんでしょ」と、勝手に勘違いされてしまうのである。
 そして果歩も、極力その勘違いを否定しないままに今日まできている。
 その、見栄っ張りさ加減に、自分でもほとほと嫌になるのだが……。
 ――ま、いいか、那賀局長とペアだったら。
 散々ため息をついた挙句、果歩はそう気持ちを切り替えた。
 なにしろ、今年で定年の老紳士。身長も果歩と変わらない上に枯れ木も朽ちるほどの超痩身。間違っても抜群の運動神経を誇るようなことはないだろう。
 どうせ1回戦で敗退する。体調が悪いとか言って、とにかく、体よく負けてしまえばそれでいいんだから――。
 
 *************************     
  
「あ、的場さん、コピーなら私に頼んでくれればいいのに」
 コピー室を出た途端に声をかけられ、執務室に向かっていた果歩は足を止めた。
 振り返ると、背後に立っているのはサラサラヘアのアジアンビューティ。
 先ほどまで一緒だった窪塚が所属している、都市デザイン室のアルバイト職員、富永美鈴である。
 音大卒で、ヘアトリートメントのコマーシャルにでてもいいくらい見事なロングヘア。親元でバイト生活をしている美女は、先月まで、いつも自席で男性職員としゃべっているような、あからさまな「花婿探しバイト」の1人だった。
 が、どうしたことか、今は、別人のような働きマンに変身している。
「今日の郵便の仕分け、やっておきますから」
 と、にこやかに美鈴は果歩に笑いかける。
「あ、どうも」
「なんでも言ってくださいね!」
 課が隣ということもあって、ついつい果歩も頼ってしまう。果歩だけでなく、同僚の南原や計画係の職員も、結構仕事を頼んでいる。
 ――ありがたいといえば、ありがたいんだけど。
 果歩は微妙な気持ちを抱えたまま、書類を抱えて自席に戻った。
 あの豹変ぶりは、どうなんだろう。
 先月までの美鈴は、果歩が何を頼んでも「課長を通してください」と実にそっけなかったのに。
 どちらかと言えば、須藤流奈――昨年入庁した都市政策部の女子職員で、果歩にとっては恋でも仕事でも目の上のたんこぶみたいな存在の女だが――富永美鈴はその流奈寄りで、流奈の影響か指示なのか、ずっと果歩を無視し続けていたのである。
 多分、来年以降、バイト職員の大幅リストラがあるという噂が、富永美鈴を焦らせているのだろうが……。
 ――バイトのリストラか……。
 果歩は、重たいため息をついて、自分の前の席を観た。
 6月まで総務で雇っていたバイトの妙見が座っていた席。そこには今、南原の書類がうずたかく積まれている。
 先月、どこからともなく流れた臨時職員リストラの噂。が、今のところ、その余波を一番食らっているのが果歩のいる総務課なのだ。
「…………」
 辞めてしまった妙見の後のバイトがつかない。
 予算措置はしてあるはずだ。が、未だ上からゴーサインが出ないまま、総務のバイトはずっと空席になっている。
 ――てゆっか、こんなこと、許されるのかな。
 同じく空席になっている、庶務係の上司――藤堂の席を見ながら、果歩は眉根を寄せていた。
(大変申し訳ないんですが、上半期は、他課のバイトさんに協力してもらってのりきりましょう)
 今月にはいって、藤堂の口から総務課全員に説明があった。
 課長以上はすでに了承していたようだが、計画係の中津川補佐は相当憤慨していたし、上の様子で、果歩にもなんとなく察しがついた。
 間違いなく、バイト職員の雇用は、藤堂の意思で止めているのだ。
 ――人事とどう話をしてるんだろ。やり方としては、許されることじゃないと思うけど。
 普通なら許されない。なぜなら、局の予算も人員も昨年の時点で決まるからである。
 都市計画局総務には、今年度、一人分のバイトの予算がついている。それを故意に使わなければ、市役所の予算慣例からいうと、来年度その予算はカットされる。
 つまり、来年以降、バイト職員の予算がカットされることになる。
 総務は、来客が最も頻繁で、郵便、会議対応、局庶務のとしての雑務が最も多い職場である。正直、他の課では、お茶汲み程度の需要しかないバイトでも、総務にとっては、職員と同様のレベルで必要とされているのだ。つかないことなど有り得ないし、他局にも例がない。
「的場君、2時から6人、来客だ」
 ふいに、次長室から局次長の春日要一郎が顔を出し、それだけ言って即座に引っ込んだ。
 つまりそれは、7人分のコーヒーを用意して、そして次長室に持っていく――という仕事ができたことを意味している。
 それだけでは大した仕事でもないし、苦にもならない。が、総務課の来客頻度はあまりにも多い。下手をすると1日中、コーヒーを出すために立ったり座ったりということになる。
「……………」
 2時、コーヒー7人分。
 と、机のメモ紙に記しながら、果歩は再びため息をついていた。
 バイトさえつけば――この程度のことなら、簡単に頼めるし頼んできた。さほど負に思うこともない仕事だった。
 バイトがつかないと、それは何もかも果歩の肩にかかってくる。いくら富永美鈴が「やります」といっても、そうしょっちゅうは頼めない。
 来客用の湯茶のことだけではなく、職員用もそうだ、朝、昼にはお茶を出さなければならないし、コーヒーは切れたら随時作らなければならない。
 5時にはコーヒーカップを洗わなければならないし――、日中洗う間もないカップは、来客用も含めると、夕方には籠に山盛りになっている。
 ひとつひとつは大した仕事ではない。
 誰にとっても、大した仕事ではない。
 が、間違いなく毎日あって、時間にしたら、そこそこ手が取られる仕事。
 今、果歩が抱えている仕事の量を考えると、決してそれは、馬鹿にはならない仕事なのである。
「すみません、今日は昼まで会議に出ますので」
 朝の報告の仕事を終え、果歩は断ってから、立ち上がった。
「来客があったら、デザイン室のバイトさんにお願いしてください。声はかけてから行きますので」
「郵便も忘れずに頼んどけよ」
 午前中いつも不機嫌そうな南原の、嫌味っぽい声がした。
 南原亮輔。
 同じ庶務係、果歩の隣に座る職員で、わずかに年が上だけの同僚だが、いちいちえらそうな態度を取る男。
「ったく、あいつが来てからどうなってたんだよ。うちの課、何もかも目茶苦茶じゃねぇか」
 その南原が、さらに嫌味な声で続けた。
 あいつ、とは、南原にとっても年下の上司、藤堂のことである。
 果歩は、それには答えず荷物を抱えてカウンターを出た。
 果歩が今、時間の殆どを割いて取り組んでいるのは、この灰谷市の都市計画の歴史をまとめた編纂史――その編集をするための事務局の仕事だった。
 たった1人の事務局員である果歩は、週に一度、編集のための会議を開催しなければならない。大学や他部局の執筆者を呼んでの編纂会議。週に2時間程度だが、日程や時間の調整、資料の整理など、とにかくその前後は、どうにもならないほど忙しい。
 その分、どうしても、席を空ける時間が長くなる。その間のお茶だしや郵便物の仕分けは――無論、男しかいない総務課では誰もする者がいないから、自然、他課のバイトに頼らざるを得ない。
「すみません、留守の間、よろしくお願いします」
 隣り合わせの都市デザイン室に行き、果歩は、庶務担当係長でもある補佐に頭を下げた。
「いいよ。しかし大変だね、総務も」
 が、そう言ってくれた補佐の背後から、
「うちばかりに頼まれても困るよ」
 と、そっけない声がした。
 都市デザイン室長の声である。職名は室長だが、級で言えば課長級。
「予算はあるんだ。横着をしないで、さっさと新しいバイトを雇用しなさい」
「……すみません」
 果歩は、頭を下げ、ため息をつきながら、デザイン室を後にした。
 バイトの妙見がいなくなっても、仕事は確かに回っている。が、ストレスだけは日に日に濃く積もっていく。そんな感じだった。 

 *************************
  
 昼前に自席に戻ると、係の上席に見慣れた大きな姿があった。
 ――藤堂さん。
 果歩は、はっと目の前が明るくなるような気分になった。
 午前いっぱい、財務とのヒアリングをしていた総務課庶務係の係長、藤堂。
 いつ見ても慣れない185センチ身長、しっかりとした骨太の体躯。
 シャツのネクタイを少し緩め、藤堂は自席で決済文書に目を通しているようだった。こうして仕事をしている時でも、黒縁眼鏡の下の目が優しい。
 ――髪、ちょっと伸びてるな。
 果歩もまた、優しい目になって年下の上司の様子を窺っていた。
 最近ずっと忙しくしているから、散髪に行く間がないのだろう。少し伸びた前髪を指で何度か払っている。
 が、そんな――まるで大学生を思わせる素直な髪型が、余計藤堂を若く、魅力的に見せていた。その目を覆う野暮ったい眼鏡に、今は心から感謝したい果歩なのである。
 朝から働き通しだった果歩は、藤堂の姿を見て、顔の筋肉が緩むのを感じた。
 が、それは一時で、その藤堂と視線があう前に、慌てて厳しく引き締める。
「もどりました」
 簡素な挨拶だけを口にして、果歩は荷物を机において給湯室に向かった。
 顔を上げた藤堂の返事も聞かないし、目さえ故意に合わせなかった。
「…………」
 自分でも、不自然なほど素っ気無い態度だと思う。
 が、これが、ここ最近の果歩の、どうしようもない現実なのである。
(藤堂さん、意外に積極的っていうか)
(キスが上手いからびっくりしちゃった)
 2週間前、唐突に叩きつけられた、流奈からの挑発状。
 もちろん嘘だと信じたいが、少なくとも藤堂と流奈が、2人きりで食事に行ったことだけは確かなようだし、藤堂のキスが上手いというのも(おそらく果歩のみが確信している)確かな事実だった。
 その件につき、いまだ藤堂からはなんの説明も言い訳もない。
 無論、聞こうとしない果歩が悪いのだが、果歩としては、自分の態度で藤堂にそれと察して欲しいと思っている。
 しかし、彼が何一つ気づく素振りを見せないままに、あれからついに2週間。
 ――せめて、藤堂さんが、何かきっかけをくれたらいいのに。
 果歩は、(自分の態度は棚にあげ)憤懣やるかたない気分で、お茶の入った缶を棚から下ろした。
 最初こそ確かに激情した果歩だったが、今となっては、あげた拳の下ろしどころが分からないというのが、正直な気持ちである。
 実の所、今日こそ素直に――と、毎日のように決心するのだが、いざ顔をあわすと、不自然に逃げてしまうのだ。先ほどのように。
 藤堂も、諦めたのか呆れているのか、はたまた気にもならないのか、気まずそうな目はするものの、果歩の後を追っては来ない。むろん、積極的に話しかけてもこない。
 とどのつまり、今2人は、本当に単なる上司と部下だった。
 ――藤堂さんと、……仲直り、したいんだけど。
 ケトルに熱湯を注ぎながら、果歩は、ふっ、と息を吐いた。
 いっそのこと、局対抗のバトミントン大会、局長ではなく藤堂とエントリーできたらよかったのに。まぁ、それは、総務係長という藤堂の立場上ありえない願いだけど。
 ――私から一言謝ればいいのかな。
 ――……? いや、てゆっか、私が謝ることなのかな? そもそも。
 思わせぶりな態度をさんざんとっておきながら、他の子と食事に行ったり、キス?してみたり。まぁキスは、誤解なのかもしれないけど。
 にしても、やはり果歩から謝ることではない気がする。
 藤堂がきっかけを作ってくれて、それから――。
「……………」
 そこで、思考はいつも堂々巡り。
 結局、一歩も前にすすめない。
「的場さん」
 ――!
 心臓が飛び出すほど驚いた果歩は、それをすぐにクールな表情で押し殺した。
「なんですか」
 冷ややかに切り替えした言葉に、給湯室に入ってきた大きな人は、うっと、言葉に詰まった顔になる。
 不意打ちだった。だから果歩も身構えてしまっていた。
 ああ――私、またこんな態度で。
 と思うが、いざ彼を目の前にすると、どうしても果歩はそこから動けない。
 嫌になるほど意識している人、藤堂を目の前にすると。
 藤堂は無言のまま、流しの水で手を洗って、ハンカチで拭った。
 狭い給湯室が、ますます狭く、空気の密度を増したような気がする。
「……………」
「……………」
 せっかく2人きりなのに。
 何を話していいか判らない。
 背後で12時のチャイムがなる。
 どやどやと人の動く気配がする。
 ここにも、もうじき、各課の臨時職員がやってくる。
「あの」
 と、果歩が、庁舎の屋上から飛び降りるような気持ちで言いかけた時だった。
「コーヒーや昼のお茶などは、バイトさんに頼んではどうでしょうか」
 藤堂は、ハンカチをしまいながら、果歩の目を見ないままで言った。
「言いにくければ、僕の口から頼んでもいいです」
「…………」
 果歩はしばらく黙り、急須に茶葉を入れた。
 内心、そんな話か――と、身勝手な失望を感じている。
 そしてやはり、藤堂の目を見ないままに言った。
「仕事はお願いしています。コピーや、来客のお茶や、……他にもいろいろ、申し訳ないくらい」
 そこは、果歩ももう割り切った。
 仕事は頼む。雇用元課の女性職員に冷やかな目で見られても、皮肉を言われても、頼まなければどうしようもない。
「でも、うちの職員へのお茶出しは、頼むこととは違う気がしますから」
「……………」
 談笑と共に、他課のバイト職員が入ってきたのはその時だった。
「あ、藤堂さんっ」
 輪の中から、一際華やいだ声がした。
 振り返るまでもない、都市政策部のモーニング娘。こと、須藤流奈。
 果歩は淹れたてのお茶をもって、さっとその場からきびすを返した。
「流奈、藤堂さんにお願いがあるんです。聞いてください、ねっ」
「はぁ」
「ここじゃなんですから、こっちこっち」
 給湯室を出ても、背後から甘い声が耳障りに響いている。
 むっとしつつ、果歩は、やはり、自分から謝らなくて正解だと思っていた。
 局長室に入る間際、視野の端に、流奈に引っ張られながら、外に連れて行かれる藤堂の背中が映る。
 絶対に優柔不断、情けないにもほどがある。
「どうぞ、お昼のお茶です」
「ま……的場君、顔は笑っているのに、目が笑ってないような気がするんだが」
「気のせいです」
 おびえる局長にお茶を出し、果歩は憤慨しつつ退室した。
 ――もう知らない、あんな男、こっちから願い下げだわ!
 局長室を出て、再び給湯室に向かう途中だった。
 果歩は、足を止めていた。
 わずか数メートル前、書類を片手に忙しげに歩いてきた男と、真正面で視線が合う。
 見栄えのいい長身痩躯、この部局にあっては、人目を引く端整な顔だち。
 前園晃司。
「……………」
 果歩にとっては、3年もつきあった挙句、二股をかけられた元彼である。
 多分、別れた。はっきりと口で確認しあったわけじゃないけど、果歩の気持ちは相手に示したつもりだし、晃司もまた、あの日以来、果歩を他人のように無視している。
 その日も、晃司は、なんの気もない表情で視線を逸らし、忙しげに果歩の横をすり抜けて行った。


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