晃司はすぐに見つかった。 体育館の裏で、コンクリの階段に腰掛けて、1人で煙草を吸っている。 「………お昼、もってきたけど」 果歩が声を掛けると、晃司は物憂げに顔を上げた。 朝からあまり元気がない。それは感じていたけど、そんな話ができる雰囲気でもなかった。 煙草、まだ吸ってるんだ。 やめてって言ったのに……そして、一時は、やめていたのに。 元々喫煙の嗜好がなかった晃司は、この局に来て煙草をはじめた。多分、ストレス――週の大半は10時すぎまで残業、翌日、容赦なく8時半出勤の日々では、それも仕方ない。 「まずそう」 晃司は、弁当の箱を開くと、つまらなそうに呟いた。 果歩は、自身で作った弁当を持参している。あまり食欲がないから晃司にあげてもいいのだが、それはさすがに言い出せなかった。 「ごめん、次は……負けるかも」 果歩は、晃司の背後に立ったまま、おそるおそるそう言った。 流奈は、おそらく確実に――しかも、一片の容赦もなく、果歩を狙い撃ちしてくるだろう。 試合に負けるのは勿論のこと、局全体に「実は的場さん、かなりどんくさい人だったんだ」という真実が広まるのも、多分時間の問題だ。 「ま、そうなったら仕方ねぇよ」 晃司は振り返りもせずに言った。 「おたくの係長、そもそも本気でやる気ないみたいだし。なんかもう、どうでもよくなってきた」 「……あんなに練習したのに」 それには答えず、晃司は箸を割り、つまらなそうに弁当を口に運んでいる。 「………色々、ありがと」 果歩は、思い切って、ずっと言いたくて言えなかったことを口にした。 「なにそれ、あらためて別れの言葉?」 「そんなんじゃないけど」 少しためらってから、その隣に腰を下ろす。 「……この大会に出ることになって、本当言うと、ずっと怖かったし嫌だったんだけど」 「………」 「……その、別に晃司が怖いとか嫌いとかじゃなくて」 過去の、ちょっと情けないトラウマのせいで。 「運動、子供の頃からずっと苦手で、……中学、高校になると、体育祭とかクラス対抗の競技ってあるじゃない?」 大抵、それはバレーだったり、ソフトボールだったりするんだけど。 「クラスの女子で、チームを決めるのね。大抵残るのは私。全員参加のルールだから、私が入ると負けるからって、……いつも、私1人があまっちゃって」 晃司は無言で、弁当を口に運んでいる。 「チームのリーダー同士がじゃんけんして、負けた方が引き取る、みたいなね。……それが結構、みじめだったりして」 「……………」 「まぁ……色々、その時、上手い子から教えてもらったりしたけど、私、全然進歩なかったから」 何やってんのよ、果歩。 ああ、もう、だめ、ひっこんでて、前に出ないで。 的場さんさえいなけりゃね。 あんな怒られ方は、二度と嫌だし、多感な時期だけに、忘れたくても忘れられなかった。 「1人じゃない、俺がいるっていう言葉、すごく嬉しかった。あれでかなり楽になったんだ。本当の話」 あんな風に言われて。 で、ただ立ってるだけだったけど、3試合も勝てて。 少しだけ……昔の切ない思い出が、過去に流れていったような気がする。 「途中から分かったよ、なんとなくだけど」 晃司は、半分以上残した弁当の蓋を閉めて、顔をあげた。 「ジムで、後輩を指導する時……色んな奴がいるから、中にはいじめくらって仕返ししたくて入ってくる奴もいるし」 「……………」 「他人から嫌な目にあって、自信なくしてる奴ってすぐに分かる。妙にびくびくして、イライラするほど従順でさ」 そこで、晃司は言葉を途切れさせた。 「……お前が、そんなだとは思ってもみなかったけど」 「……………」 さっと吹き抜けた乾いた風が、2人の額をひと時だけ冷ました。 「晃司には、私のこと、どう見えてたの」 隣にいるのが、別れた恋人だという実感が、ようやく果歩にも湧いてきていた。 3年もの間、互いの何もかもを知り尽くすほど、濃密な時間を過ごしてきた恋人だということが。 「何もかも完璧で……弱みなんてなさそうな感じかな。俺、お前に比べて、自分が子供だって知ってたから」 「……………」 「色んな言葉や態度で、傷つけたり汚したりしたのかもしんない」 「……………」 こめんな。 そう言って晃司は立ち上がった。 「もっと早く、そういうとこも、見せて欲しかったよ」 最後に、背中からそんな言葉が聞こえた。 果歩はしばらく黙ったまま、コンクリに刻まれた自分の影を見つめていた。 ************************* 午後2時。 果歩にとっては、因縁の試合が始まった。 試合に敗れたものは、大抵表彰式を待たずに帰るのが常なのに、その日はなぜか、参加者のほとんどが残り、体育館に設けられた特設コート脇に詰め掛けている。 その数の異様な多さに、果歩はいつも以上に足がすくむ思いだった。 ――す、すごいギャラリーなんだけど。 「よっ、がんばれ、的場君」 陽気な掛け声は、午後からやってきた――果歩をこの窮地に陥れた張本人、那賀局長のものである。 各課の課長補佐は無論、総務の連中も全員集まっている。夜の打ち上げに参加予定の各課の女子職員や臨時職員たちも、なんだか興味津々と言った目で見守ってくれている。 「果歩ちゃーん、がんばれよ」 「須藤さん、ファイト!」 自分で言うのもおかしな話だが、この局で、果歩と流奈は、中年男性の人気を二部する存在である、しかも、藤堂と流奈は、いまや局で噂のカップル。妙な憶測もあいまっての、このギャラリーの数なのかもしれない。 隣のコートでは、同じく準決勝の試合が行なわれている。都市デザイン室窪塚主査と富永美鈴のペア、が、そちらは、悲しいほど誰も注目していない。 試合開始の笛が鳴った。 前衛が晃司で、後衛が果歩。 片や相手は、前衛が流奈で、後衛が藤堂。 「……………」 果歩の位置から、藤堂の姿が真正面に見える。 ラケットを正眼に構えてはいるものの、眼鏡にあたる照明のせいで、その視線がどこに向けられているか果歩には分からない。 試合前、藤堂と果歩は、ごく普通に「がんばってください」「的場さんも」と声をかけあった。 自分でも拍子抜けするくらいあっさりとそう言えたし、藤堂の表情も穏やかだった。まだ嫉妬めいた冷たさを感じていた方がマシだったくらいで――。 ――藤堂さんとは。 果歩は、寂しさを押し殺して視線を下げた。 ――今回のバトミントン大会で、本当に距離が離れちゃったな。…… 悲しいけど、そう思わずにはいられない。 こうなった責任は、どっちにあるんだろう。優柔不断なのは藤堂が悪いが、いつまでも過ぎたことを気にしていた果歩も悪い。 たった一言。 ごめんなさい、とか、今度食事にいきましょうとか。 自分から糸口を見せれば、それでよかったはずなのに。 「的場さん!」 晃司の声ではっとして我に返る。 目の前にはシャトル。斜め前から晃司がものすごい勢いで駆け寄ってる。 咄嗟に身体をかわす。そのスペースに滑り込んだ晃司がラケットを振りかぶって打ち返す。 相手コートに絶好の球がかえった。それを「きゃーっ」とか言いつつ、ラケットを正確に振り上げ、計算されたコースに流奈が打ち返してくる。 それは、おそらく流奈の狙いどおり果歩の目の前。が、足がすくんだ果歩に代わり、体勢を立て直した晃司が、猛ダッシュで滑り込み、シャトルを再びすくいあげた。 「おいおい、前園君、そこは果歩ちゃんに打たせてやれよ」 「でしゃばりすぎだぞ」 そんな冷やかしのような声がギャラリーから聞こえてくる。 しかし、今度は本当に、晃司は前のめりに倒れこんだ。即座に起きられる体勢ではない。 再びシャトルが―― 「きゃー、また来ちゃった」 流奈が、ラケットを思いっきりふりかぶる。 が、ほとんどスマッシュの体勢に入っていた流奈の前に、すっと大きな影が滑り込んできた。 意外にも、それは、今まで頑なに後衛から動こうとしなかった藤堂だった。 「僕が」 そんな声が確かに聞こえた。 流奈がけげんそうな目で後衛に下がるのと、藤堂がラケットを振り下ろすのが同時だった。 「あ……!」 藤堂の打ち返したシャトルは、果歩の立つ位置ではなく、半身を起こした晃司に向かって落下していく。 が、晃司は、奇跡的な反射神経で体勢を立て直すと、それを再び敵陣に叩き込んだ。 即座にコースに反応し、身をひるがえした藤堂が、見事なフォームで今度はそれをすくい上げる。 感嘆の声が周囲から上がったし、それは果歩も同様だった。 「おいおい、藤堂君はどうしたんだ」 「たまたまですよ、偶然に決まってますって」 意外な展開に、ギャラリーが微妙に動揺している。 藤堂の打った球は、しかし、打撃時の体勢の難しさも相まって、晃司にしてみれば絶好の浮き球となった。ふりかぶった晃司が鋭いスマッシュを決める。が、間違いなく決まる、と思われたそれも、藤堂が――長いリーチを生かして拾い上げた。 「…………つか、マジ?」 「と、藤堂君、なんか人が変わったみたいな」 どよめきと共に、そんな声が聞こえてきた。 後衛に突っ立ったままの流奈も、今はさすがにぽかん、としている。 果歩もそれは、同様だった。 晃司が打つ。 藤堂が拾う。 それを晃司が拾い、負けじと藤堂も拾う。 ペアの存在などまったく無視した男同士の熾烈なラリー。 すでにダブルスではない、男子シングルスの戦いが、局の職員体育祭という呑気なフレームに似合わない真剣さで繰り広げられている。 「くそっ」 長い接戦に苛立ったのか、くらえ、とばかりに晃司が放った強烈なスマッシュが、藤堂の左脇をすり抜けた。 決まった―― と、全員が拳を握った瞬間。 後衛に下がった流奈が飛び出してくる。 「え…?」 そんなのあり? と、一瞬全員が思ったが、そもそもそれが当たり前の行動で、流奈は綺麗なフォームでそれを拾い上げた。 飛んできた球は、今度こそ過たず、果歩めがけて降ってくる。 「えっ、う、嘘っ」 晃司もさすがに間に合わなくて――必死で追いかけた果歩は、そのままつんのめってばったりと前に倒れた。 「……………」 しん、と、場内が静まり返る。 ――ど、どんくさいし、私。 「きゃー、藤堂さん、1点入りましたぁ」 ホイッスルと共に、流奈の歓声が聞こえる。 「ご、ごめんなさい」 「いいよ、気にすんな」 そのままの姿勢で固まっていた果歩は、晃司に腕を引かれて、立ち上がった。 「果歩ちゃん、どんまい」 「猿も木から落ちるだよ」 「そうそう、それにシングルの試合みたいだったしね、不意打ち不意打ち」 そんな掛け声がギャラリーから聞こえてくる。 ――ああ、私、実は全然運動できないのに。 その真実がばれるのも時間の問題である、このままだと。 「須藤さん、多分私を狙ってくるから」 果歩がそう言うと、晃司は心得たように頷いた。 すでにその額は、汗で濡れつくしている。 その汗を前髪ごと拭い、晃司は荒い息を吐いて、わずかに笑った。 「でも、そう簡単にはいかないようだぜ」 「え?」 「須藤はそうでも」 晃司は苦い目で顎をしゃくる。その先には、微妙に呼吸を乱している藤堂の横顔。 「あいつは、俺一人を、徹底的に狙ってくるみたいだから」 ************************* 「………つか」 ギャラリーが、半ばあきれ返っている。 「局のスポーツ大会で、ここまで真剣にやる意味、ある……?」 「いや、ないだろ」 熾烈を通り越した過酷なラリーの攻防。 観客は棒立ち。半ば唖然と、が、それなりに息を呑んで勝負の行方を見守っている。 果歩の視界では、ぜえっ、ぜえっと、晃司の背中が大きな上下を繰り返している。 藤堂が、前髪を腕で払う。表情はさほど変わらないが、すでに額も、首筋も、汗で濡れている。 「すみません」 審判に一言を声をかけ、ラケットを下げた藤堂は、自らの眼鏡を外した。 「あ、私が」 置場所を求めて視線をめぐらした藤堂の傍に、住宅計画課の女性職員が歩み寄る。 「ありがとう」 眼鏡を女に預け、再び藤堂が向き直った。 軽いざわめきが館内に広がった。 「藤堂さん、別の人みたい」 「本当にあの人が、あの藤堂係長?」 それまで、半分口を開けたまま、殺気立つ男2人の勝負を見つめるしかなかった果歩と流奈だが、その囁き声には、2人とも敏感に反応してしまっていた。 「ねぇ、藤堂係長って、結構かっこいいね」 「私、ファンになっちゃいそう」 そんな声さえ、他課の女の子たちから聞こえてくる。 ――ああ、そんな再評価いらないのに。 果歩は焦れ焦れと唇を噛んだ。 眼鏡を取ったら――なんだか昔観た洋画のスーパーマンみたいだけど、本当に彼は、別人になってしまうから。 それでなくても、今日は普通以上にかっこよく見えるのに。 執務室での、どこか茫洋とした、やぼったい姿はどこにもない。 俊敏な身のこなし、鋭い眼差し、見惚れるほど綺麗なフットワーク、敵の果歩でさえ、意外な姿に胸がときめいてしまうほどだ。 「藤堂係長、がんばって」 試合が再開されると、にわかに女性の声援が増えてきた。 その声に、むしろ果歩より苛立っているのは、同じペアの流奈のようで、今や、あからさまに敵意のこもった目を、ギャラリーの女性たちに向けている。 果歩は――よく分からなくなっていた。 自分の気持ち、というより、今、異常なくらい必死になっている藤堂の気持ちが。 (―――代表になれば、秋までずーっと藤堂さんと一緒ですから) (―――私も、藤堂さんも、超はりきってるんです) 試合前の流奈の挑発。 あれは、本当の話だったんだろうか。 本当に――藤堂さんは、本気なんだろうか。 彼の美徳は、自身の実力を、それがどんなに過小評価されようと、決して自ら誇示しない点にあると果歩は思っている。 が、今の藤堂は、そんな謙遜や用心深さはおくびにも出さず、このコートで、(果歩にすればこの程度のイベントで)自身の全力を出し切るつもりのようだった。 「……………」 よく、分からなくなってきた。 「……………」 もしかして藤堂さん、今は、本気で流奈のことを。 こんなに距離が離れてしまっても、果歩はどこかで信じていた。 流奈よりも、自分の方が藤堂の近くにいる。色々誤解が重なってしまったけれど、彼にとって、自分はまだ特別なのだと。 「…………」 それは、勝手な、都合のいい思いこみだったのかもしれない。 人の気持ちは変わる。 ――変わる……んだ。 不意に、過去のある場面が果歩の中に蘇ってきた。 周囲の歓声と共に高揚も消え、寂寞にも似た冷たいものが胸の中に広がっていく。 (指輪は、パリに買いに行こう。その時にウェディングドレスも注文しよう。式は、ギリシャの教会で挙げて、クルーザーで2人きりで旅行をするんだ) (日本でも式を挙げなきゃね。君のご両親に失礼だ。やっぱり、その時は神前だろうか) どんなに情熱的に恋しあっていても、人は簡単に、その感情を捨てられる。 かつて、果歩が、結婚すると信じていた男性もそうだった。 あれだけ大切にしてくれたのに――まるで嘘のようなあっけなさで、彼は果歩を捨てた。本当に小説かドラマのような変わり身の早さで。 果歩にしてもそうだ。 今年の春まで、ずっと晃司1人を大切に想ってきたのに、今は――心が離れてしまっている。 藤堂にだけ、その真実があてはまらないとどうして言えるだろう。この短い間に、彼が流奈に気持ちを寄せていったとしても、なんら不思議はないことなのに。 歓声が、はっと果歩を現実に引き戻す。 気がつくと、勝負はあと1ポイントで決着がつく所だった。 デュースの末、今は晃司がリードしている。ラリーが続いているこの1点を決めれば、勝利もそのまま晃司のものになる。 「藤堂さーん!」 「がんばってください、藤堂係長!」 そんな黄色い掛け声が、ひっきりなしに飛んでいる。 無論、晃司への応援もけたたましい。 「前園ーっっっ」 「何をやっておるんだ、そこだ、そこ、前園君!!」 その殆どは、南原とか中津川とか――普段から藤堂に反感を持っている連中なのだが。 藤堂の背後では、所在なく立つ流奈が、いつになく苛々している。周囲の黄色い声に対して、相当むかついているのが、その表情からうかがい知れる。 「あっ」 前に立つ晃司に視線を戻した果歩は、思わず声をあげていた。 足に相当きているせいか、汗で手が滑ったのか――打ち返す晃司の球に、勢いがない。勢いがないというか、明らかに打ち損ねだ。 それはふわりと藤堂の頭上に、まさに、決めてくれと言わんばかりのコースで飛んでいった。 実際、藤堂は、即座にスマッシュポジションにラケットを構えた。 その場の全員が息を呑む。 十中八九、決まる場面。 が、 「瑛士さぁん、がんばって!」 場違いに甘い声が、静まり返った館内に響き渡った。 「……………」 「……………」 「……………」 果歩は凍り付いてた。 いや、果歩だけでなく、その声を耳にした全員が。 瑛士さん。 今、流奈は確かにそう呼んだ。両手を口に当て、藤堂の背中に向けて。 瑛士さん……。 瑛士さん。 果歩にとっては、どんなスマッシュより、致命的な決定打。 打ち抜かれて、視野がひととき暗く翳る。 が、その声に動揺したのは、果歩だけではないようだった。 ぎょっと目を剥いた藤堂が、明らかにその刹那動きを止めた。 そして、がくっと膝が砕けたように、ラケットが力なく振り下ろされ―――絶好の決め球は、一転、甘い浮き球となってふわふわと舞い上がる。 コースをそれた球は、晃司の頭上を超え、突っ立っている果歩めがけて落ちてきた。 ふんわりと。 子供でも打ち返せるほどゆるい速度で。 が、 果歩は動けなかった。 瑛士さん。 その言葉が、まだ耳の奥でぐるぐる渦を巻いている。 晃司が駆けてくるのが見える。 「馬鹿っ、果歩!」 が、さしもの晃司も、疲労もあってか、追いつきようがない。 固まったままの果歩の足元に、てんてんとシャトルが落ちてきた。 館内は静まり返っている。 その静けさの理由が――実は、今、晃司が咄嗟に口にした言葉にあることを、さすがに果歩も晃司も気づくことはできなかった。 |
>>next >>contents |