「百瀬なら、ちょっと会計に下りてるんで、すぐに戻ると思いますよ」 翌日の昼休憩。 乃々子の所属する住宅計画課のパーティションをくぐった果歩は、作業着姿の技師職員の群れに、少しばかり引いていた。 確かに同じフロアにいるが、住宅計画は、あまり総務と繋がりのある課ではない。 パーティションの中を一歩入ると、まさに男の世界、技術の世界、と言う感じだ。 ――百瀬さん、こんなとこで仕事してるんだ。 ぽつん、と隅に置かれた乃々子のデスク。 これでは、話相手もいないだろう。 「…………」 椅子にかかっている灰色のサマーカーディガン。この時期の上着は、背広男性を想定した拷問のようにきびしい冷房下、女子の必需品である。 そこだけ、綺麗に片付けられた机の上、慌てて席を立ったのか、筆記用具とノートだけが乱雑に投げてあった。 歩み寄った果歩は、開きっぱなしのノートに、ふと目をとめていた。 「…………」 可愛らしい落書きが、まず目についた。 その温かみのあるタッチと、ふと胸を衝く懐かしさに、思わず苦笑がもれている。 それから。 《カノは桃色、ノノは青色。 ピンクの服はカノ、青の服はノノ、……お人形はカノで、本はノノ》 これ、仕事の内容じゃない。 慌てた果歩は、咄嗟にノートを持ち上げていた。 《カノはきれい、ノノは汚い。 へのへのもへじの乃々子には、ピンクもお人形も似合わない。 なのに、あの瞬間、へのへのもへじは恋に落ちてしまいました。 ぼんやりとコート脇に立っていたもへじちゃんに、あの人が眼鏡を預けてくれた瞬間に》 なに? これ……。 《カノはきれい、ノノは汚い。 ねぇ、神様、教えてください。 どうやったら――私みたいな女が、あの人の目に入るんでしょうか》 「…………」 これ、詩だろうか。 それとも、日記? ――どういう、意味……? 《ぼんやりとコート脇に立っていたもへじちゃんに、あの人が眼鏡を預けてくれた瞬間に》 コート? 眼鏡……? 「あっ」 背後で、吃驚したような声がした。 果歩は驚き、慌ててノートを机の上に置く。 振り返ると、会計室から戻ってきたのか、書類を片手に乃々子が棒立ちになっている。 おびえた目は、「見ましたね」と、果歩を暗に非難しているようだった。 「開きっぱなしは、無用心だと思うよ」 言い訳しても仕方ない。果歩は素直に謝った。 「……すみません」 うつむいて、ノートを手早く机の中に収めながら、乃々子。 この昼休み、乃々子と果歩は、2人でランチをとる約束をしていた。 果歩から誘った約束である。 昨日の件で、果歩なりに、後輩に――メイクや服のことを、アドバイスしてあげるつもりだった。例え、おせっかいだと思われても。 エレベーターをやめて、2人で肩を並べて階段を上がる。 「私……恥ずかしいけど、昔から詩とか、小説とか書いてて」 うつむいたままの、乃々子がぽつんと呟いた。 「……思いついたフレーズがあると、ノートに書きとめるようにしてるんです」 「素敵ね、でも、職場では気をつけないと」 「…………」 それきり、乃々子は黙る。 果歩も何も言えなかった。 まるで娘の日記を覗き見した母親のような気まずさだ。そしてそれ以上に、今、乃々子に、はっきりと聞いてみたいことがある。 コート、眼鏡。 果歩が思い出したのは、先月、局で行なわれた職員体育大会のことだった。 もし、想像したことが正解だとすると、乃々子は、その時からずっと……。 「……恋愛なんて、するだけ無駄だって分かってるんですけど」 が、果歩が聞き出すより早く、核心を切り出した乃々子は、そう言っておそるおそる、果歩を見上げた。 「わかっちゃい、ましたよね」 「………………」 「総務にお邪魔するの、実は下心ありありでした、すみません」 聞くんじゃなかった。 果歩はただ、曖昧に頷く。 分からない、この場合、私はどういった態度を取ればいいんだろう……。 ************************* 屋上。 連日の炎天下のせいか、人はまばらにしかいない。 互いにランチボックスを手にした果歩と乃々子は、日陰のベンチの腰を下ろした。 今日、藤堂は会議で午後まで戻らないから、ここで会うことはないだろう。 「バカですよね、私、藤堂さんには好きな人がいるってわかってるのに」 すでに開き直ったのか、最初に口を開いたのは、乃々子だった。 「……え?」 ぎょっとした果歩だったが、乃々子は即座に、都市政策課のモーニング娘の名前を口にした。 「あの2人って……おつきあいしてるんでしょうか」 おどおどとした眼が、果歩を見上げている。 「……よく分からないけど、藤堂さんと須藤さんは、まだ、……その、おつきあいしてるとかじゃないと思うよ」 困惑しつつ、果歩は答える。 この微妙な自分の立場を、どう説明したらいいんだろう、と思いながら。 嘘をつくのは気がひける。 が、藤堂と自分がつきあっているなんて、とてもじゃないけど今は言えない。 ――だったら、こう言えばいいんだろうか。 私も、藤堂さんが好きなのよって。 乃々子は、少し考えるような眼差しになったが、すぐに首を振って自嘲めいた笑みを浮かべた。 「なんにしても、色んな意味で浮かれてたんです、私」 「それは……違うと思うな」 「ううん、勘違いしてたんです」 「…………」 果歩は黙って、自身の膝に視線を落とす。 それが――例え、勘違いだとしても。 間違いなく、惑わせた藤堂にも罪がある。 彼の真意は相変わらず謎だし、果歩にしても、あまり確認したい気分ではないけれど――。 乃々子は、顔をあげ、横顔だけでわずかに笑った。 「うちの課長から聞いたんです。総務の手伝いにぜひ私をって、推薦してくれたのが藤堂さんだって」 ――え? 推薦? 「私のことなんて、全然眼中にないって思ってたから、それがすごく嬉しくて」 「…………」 果歩は無言で、眉だけを寄せる。 藤堂が乃々子を推薦? そんな話は初めて聞いた。一体何の意図だろう。 意味がよく分からない。藤堂が、なんだってわざわざそんな真似を。 「バトミントン大会、あったじゃないですか」 切り出した乃々子は、夢見るような目で微笑した。 「藤堂さん、試合の途中で外した眼鏡を、私に預けてくれたんです。さっきのノート読んじゃったんなら、もう知ってると思いますけど」 「……そう、なんだ」 やっばり、そうか。 試合途中、確かに藤堂は眼鏡を外した。そこは果歩も覚えている。 でも、その先のことまでは知らなかった。それを、藤堂が――この子に預けていたなんて。それが、今でも尾を引いているなんて。 「沢山の女の子が、あの日は藤堂さんのこと応援してたのに、その中で、なんだか私一人が、選ばれたみたいな気持ちになって」 「……………」 「笑っていいです。それで、好きになっちゃいました」 笑えるはずがない。 その時の乃々子の素直な気持ちを思い、果歩は胸が痛くなる。 「馬鹿みたいですよね、全然柄じゃないのに、お化粧なんかしたりして」 「女の子がお化粧するのは、当たり前っていうか」 果歩は、言葉を切って、その乃々子の横顔に視線を戻した。 「柄とかそんなの、関係ないと思うけどな」 「でも、似合ってなかったですよね」 確かに、昨日までのオレンジは、乃々子の地肌の色にはあっていなかった。 それに、ベースメイクもアイメイクもしていないから、唇の色だけ不必要に浮いていた。果歩にしても、ちょっとひどいなと思いつつ、何も言ってあげられなかった引け目がある。 「うち、妹が超きれいなんです」 少しの間黙った乃々子は、鼻をすすって顔を上げた。 「家族中の自慢の妹で、あ、読者モデルみたいなことやってるんです。本当に可愛いんです」 そう言う乃々子が、本当に嬉しそうだったから、果歩も思わず微笑する。 「ピンクの服はカノ、青の服はノノ、……お人形はカノで、本はノノ」 カノというのが、妹の名前なのだろうか。 乃々子は、少しだけ寂しそうな目で空を見上げる。 「昔からそんなだったから……どっかで諦めてたのかな」 「………」 「女の子じゃなくて、男の子に生まれてたらよかったんですよね、私」 確かに乃々子は、いわゆる美人、というタイプではない。 が、その内面の可愛らしさを知っている果歩には、むしろ、どんな表情も魅力的に思える。 「乃々子は勉強でがんばれって、お父さんもお母さんも言ってたんです。だから、勉強だけはいつも一番。………私、こんなもじゃもじゃ頭で、顔も暗いから、何したってどうしようもないっていうか」 「………」 そんなことはないだろう。 スタイルはそこそこいいし、何より、目が綺麗だし。 今度この子に、私の高校時時代の写真を見せてあげようかしら。さぞかし、自信がつくに違いない。 ――つか、自信つかせてどうするのよ。 果歩は、我にかえって空を見上げる。 ここ数日、藤堂といい感じで話している乃々子を見るたびに、どうしようもなく感じてしまう不安とジェラシー。 言っては悪いが、ビジュアル的にはまるで敵ではないと分かっている。が、素直な感情表現や、お茶目な仕草や、天然ボケのドジっぷりは、果歩でも思わず「可愛いな」と思えてしまうほどなのだ。 特に、年が、藤堂とひとつ違いの25歳。 で、出身大学も同じ。 大学時代に認識はないようだったが、本や映画の趣味も何かと似ているようで、同じ話題で盛り上がっているのを、果歩も度々耳にしている。 「妹さん、モデルなんだ」 「はい、あ、まだあんまり、有名とかじゃないんですけど」 「何か、お化粧とか服のことで、アドバイスしてくれないの?」 「え……。そういう話は、あんまり。あ、でも今日の口紅は、カノからもらったものなんですけど」 「…………」 どういうモデルなんだろう。あんまり姉の容姿に関心がないのか、それとも性格がよくないのか。 姉妹同士とは、互いに不思議で複雑な感情が流れているのを、果歩はよく知っている。 果歩にしても、高校まではスポーツ万能で快活な妹が妬ましくて仕方なかった。が、社会人になった時、逆にその妹に告白されたことがある。 (――お姉ちゃんなんか、いなくなればいいってずっと思ってた) 「……明日、土曜だけど、暇かな、乃々子」 果歩は初めて、乃々子を名前で呼んだ。 「え……?」 「私からのデートの誘い、受けてくれる?」 乃々子は、大きな目をぱちぱちさせている。 素材は絶対に悪くない。ううん、この年齢の女の子は、何をしたって基本的に綺麗なのだ。 女性として、今が、一番綺麗に花開く時だから。 「言っとくけど、お金かかるデートだから、覚悟しといて」 果歩は笑って、乃々子の頭を軽く小突いた。 そして、ふと思う。 ああ――これ以上ライバル増やして、どうするつもりなんだろう、私。 |
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