ぎょっとするような大音量。 果歩はびっくりして目を開ける。 大画面では、大菩薩と呼ばれる侍が、曼荼羅魔人と最後の戦いを繰り広げている所だった。 ――ね、眠い………。 最高につまんないんだけど、この映画。 「目が覚めましたか?」 隣席から、少し笑うような藤堂の声。 「えっ」 振り返った果歩は、薄暗い空間――結構間近に見える人の顔に、慌てて視線を元に戻していた。 うわ、最低。 多分、今、思いっきり熟睡してたよ、私。 「すみません、私から誘ったのに」 「いや、僕もさっき目が覚めた所なので」 水曜日。 9時から始まったレイトショーに、殆ど客は入っていなかった。 果歩は、暗い館内を見回す。最初の頃何人かいた客が、今はますます減っているような気もする。 「……ストーリー、わかります?」 そっと、囁いてみた。 「いや、僕には少し難しすぎて」 「………すみません、へんな映画に誘っちゃって」 週の半ば、疲れもあったし、今日は仕事も忙しかった。 残業の後、役所でそれぞれ食事をしてから、慌しく合流した。 それで、こんなつまらないものを観せてしまって。 軽い仕返しのつもりだったけど、ここ数日の藤堂のオーバーワークぶりを知っているだけに、今となっては、この無駄な時間が申し訳ない。 「出ます? あの、申し訳ないんで食事くらい奢りますけど」 「いや、こんな時間なので」 あ、そっか。 果歩は館内時計を見る。もう11時を過ぎている。 明日は仕事もある。そんなにゆっくりとはしていられない。 ああ――今にして思えば、なんてしょうもないことに、大切な初デートの時間を費やしてしまったんだろう。 と、後悔しても仕方がない。 それに、デートと言いつつ、藤堂の態度はまるで普段通りの他人行儀。なんだか仕事の延長のような、そんな微妙な感じである。 ――乃々子と一緒の時も、こんな感じだったのかな。 ま、だったら……ちょっと安心、かも。 と、低い所で満足している自分も憐れ。 「あと、30分くらいかな」 「そうですね」 あと30分、まさか律儀に席に座り続ける……つもりなんだろう、この真面目な人は。 果歩は嘆息し、だったら、いっそ話でもしようと思い直した。 見渡す限り、2人の周辺に客は入っていない。 「この前の映画はどうでした?」 「え?」 「百瀬さんと一緒に行かれた」 「いや……もう、その話は」 闇の中、藤堂が視線を泳がせるのが分かる。 「別に嫌味で聞いているわけじゃないのに」 「的場さんの沈黙は、僕には、かなり恐怖なので」 それにはさすがに笑ってしまっていた。 「それにしても、南原さんには驚きました」 果歩は、ふと思いついて藤堂を見上げる。 「結局、月曜の1日だけでしたけど、まさか南原さんが、机を拭いたりお茶を出したりしてくれてたなんて」 「うん、そうですね」 あっさり答える藤堂の横顔も、心なしか優しくなった気がした。 1日だけの成果ではあるものの、7月に出した藤堂の提案が、初めて係の者に受け入れられた。 しかも、あれだけ藤堂を嫌っていた南原に。 「藤堂さんの影響だと思いますよ」 「まさか、それはないですよ」 藤堂は笑ったが、実際、あの会議での騒動以来――南原の何かが変わったような気が、果歩にはしていた。 相変わらず口は悪くて、反抗的ではあるが、目に見えない部分で、何かが。 ――もしかすると……那賀局長のおかげなのかもしれないけど。 それは、心の中だけで付け加える。 会議の片付けをしている最中。 それまで、果歩に、仕事上の説教など一切したことがない那賀が、珍しく長々と喋ってくれた。 いつになくはっきりした口調は、もしかして、あの時、扉の影に立っていた人に聞かせるためだったのかもしれない。 それは、もう、想像するしかないけれど――。 少しずつ、前進している。 まだまだ問題は山積みだけど、私も、藤堂さんも、少しずつ。 が、それにしても、退屈な映画である。 ――早く、終わらないかな……。 延々と繰り広げられる殺陣シーンに、果歩が、再びうとうとしかけた時だった。 肘掛に預けていた手の上に、温もりが被さった。 「………?」 視界が影で覆われている。 あ………。 キス。 いいのかな、こんなとこで。 しかも、ムードも何もない映像が流れている映画館で。 色々考えたのは一瞬で、すぐに周囲の何もかもが消えて、藤堂の体温と香りが全てになる。 触れるように合わさった唇は、すぐに離れた。 顔が離れる刹那、影になった眼差しが、一瞬、強く果歩を捉える。 「……………」 「……………」 ドキドキする。 心臓、雑巾みたいに絞られた感じ。 繋がった手が、自分のものじゃないみたい。 しかしすぐに藤堂は、重なった手を離して前に向き直る。 「眠かったら、寝ていてもいいですよ」 「あ、いえ、大丈夫です」 てゆっか、キスの後の第一声が、これ? もう、眠れるわけなんてないのに。 ああ――やっぱり、女心がわかってないよ、藤堂さん。 ************************* 「うわ、すごい時間ですね」 「タクシーでも拾いますか」 藤堂が、通りに出ようとする。 その大きな背中を見ながら、ああ、もうちょっと話したいな、と果歩は思っていた。 なにしろ、今日が正真正銘、2人きりで過ごす初めてのデートなのである。 明日も仕事で、互いに気は急いてる。映画も最低で、ちょっとロマンスに欠けるデートではあったけれど――。 でも、キス……しちゃったし。 それには、ちょっと浮ついている果歩だった。 一歩進んで二歩戻る? でも、こんなささやかなことで、喜んでいる自分って…… 「疲れてますか?」 通りでタクシーを呼び止めるかと思った藤堂は、しかしそのまま振り返った。 ネクタイを締めたシャツが、風に揺れてはためいている。 「いえ、結構熟睡しちゃったんで」 まだ一緒にいたい、と、素直に言えない気持ちを言葉に込めて、果歩。 「観たい映画だと思っていました」 「ごめんなさい、たまたまチケットがあったんです」 そのまま、2人で肩を並べて歩き出す。 藤堂が何も言わないから、果歩も何も言えなかった。 繁華街を抜けると、オフィス街。で、この先は…… 果歩は、微妙に不安を感じて、周辺を見回す。この界隈をわずかにずれると、そこは市内でも有数のホテル街だ。 まさか……。 まさかね、それは、いくらなんでも有り得ないし。 「………この先に、もう少し歩くようなんですが」 ふいに、歩きながら藤堂が言った。 「えっ」 ものすごく驚いて果歩。 「?」 その驚きに驚いたのか、藤堂が振り返る。 「い、いえ、なんでも」 「そうですか?」 ああ――なんて自意識過剰。 果歩は、自分が恥ずかしくなる。 「僕が借りているマンションがあります」 「そうなんですか」 だから、次の言葉も、深く考えずにスルーしてしまった。 スルーして……はた、と思考を止める。 マンション? 藤堂さん、1人暮らししてるって聞いたけど。 意味を図りかねて――というより、期待するのが怖くて、果歩は無言で歩き続ける。 まさか? まさか――ね。 心臓が、ふいにドキドキと高鳴り始める。 「……………」 「……………」 私も、怖い。 この沈黙が怖いんですけど、藤堂さん。 「寄っていきますか、汚い部屋ですが」 「……………」 「あ、すみません、別にへんな意味じゃ」 「行きます!」 と、激しく答え、果歩はぱっと赤くなった。 うわ、私サイテー。 なんだかすごく、がっついてる女みたい。はじらいも駆け引きも、頭が真っ白になって飛んでしまっている。 「あ……私も、へんな、意味じゃ」 「いや、それは分かってます」 「………行きたい、です」 「うん……、はい」 まるで、高校生同士のように、顔を赤くしてうつむいている。 そんな年でもないのに、私。 まるで、初めて恋をしているみたいに。 「じゃあ」 と、顔をあげた藤堂が、何か言いかけた時だった。 ふいに、聞きなれない携帯の着信音が鳴った。 藤堂の、ポケットの辺りから。 「……? すみません」 この時間の電話が不審だったのか、有り得ない相手からの着信だったのか、少し眉をひそめ、藤堂が携帯を耳に当てる。 その表情が、夜目にもはっきり、翳るのが判った。 「……はい、瑛士です」 苗字でなく、名前を言う藤堂の唇を、果歩は、どこか不安な気持ちで見つめていた。 恋と友情の板挟み(終) |
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