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年下の上司 story5〜 August

恋と友情の板挟み(最終話)

 
 ぎょっとするような大音量。
 果歩はびっくりして目を開ける。
 大画面では、大菩薩と呼ばれる侍が、曼荼羅魔人と最後の戦いを繰り広げている所だった。
 ――ね、眠い………。
 最高につまんないんだけど、この映画。
「目が覚めましたか?」
 隣席から、少し笑うような藤堂の声。
「えっ」
 振り返った果歩は、薄暗い空間――結構間近に見える人の顔に、慌てて視線を元に戻していた。
 うわ、最低。
 多分、今、思いっきり熟睡してたよ、私。
「すみません、私から誘ったのに」
「いや、僕もさっき目が覚めた所なので」
 水曜日。
 9時から始まったレイトショーに、殆ど客は入っていなかった。
 果歩は、暗い館内を見回す。最初の頃何人かいた客が、今はますます減っているような気もする。
「……ストーリー、わかります?」
 そっと、囁いてみた。
「いや、僕には少し難しすぎて」
「………すみません、へんな映画に誘っちゃって」
 週の半ば、疲れもあったし、今日は仕事も忙しかった。
 残業の後、役所でそれぞれ食事をしてから、慌しく合流した。
 それで、こんなつまらないものを観せてしまって。
 軽い仕返しのつもりだったけど、ここ数日の藤堂のオーバーワークぶりを知っているだけに、今となっては、この無駄な時間が申し訳ない。
「出ます? あの、申し訳ないんで食事くらい奢りますけど」
「いや、こんな時間なので」
 あ、そっか。
 果歩は館内時計を見る。もう11時を過ぎている。
 明日は仕事もある。そんなにゆっくりとはしていられない。
 ああ――今にして思えば、なんてしょうもないことに、大切な初デートの時間を費やしてしまったんだろう。
 と、後悔しても仕方がない。
 それに、デートと言いつつ、藤堂の態度はまるで普段通りの他人行儀。なんだか仕事の延長のような、そんな微妙な感じである。
 ――乃々子と一緒の時も、こんな感じだったのかな。
 ま、だったら……ちょっと安心、かも。
 と、低い所で満足している自分も憐れ。
「あと、30分くらいかな」
「そうですね」
 あと30分、まさか律儀に席に座り続ける……つもりなんだろう、この真面目な人は。
 果歩は嘆息し、だったら、いっそ話でもしようと思い直した。
 見渡す限り、2人の周辺に客は入っていない。
「この前の映画はどうでした?」
「え?」
「百瀬さんと一緒に行かれた」
「いや……もう、その話は」
 闇の中、藤堂が視線を泳がせるのが分かる。
「別に嫌味で聞いているわけじゃないのに」
「的場さんの沈黙は、僕には、かなり恐怖なので」
 それにはさすがに笑ってしまっていた。
「それにしても、南原さんには驚きました」
 果歩は、ふと思いついて藤堂を見上げる。
「結局、月曜の1日だけでしたけど、まさか南原さんが、机を拭いたりお茶を出したりしてくれてたなんて」
「うん、そうですね」
 あっさり答える藤堂の横顔も、心なしか優しくなった気がした。
 1日だけの成果ではあるものの、7月に出した藤堂の提案が、初めて係の者に受け入れられた。
 しかも、あれだけ藤堂を嫌っていた南原に。
「藤堂さんの影響だと思いますよ」
「まさか、それはないですよ」
 藤堂は笑ったが、実際、あの会議での騒動以来――南原の何かが変わったような気が、果歩にはしていた。
 相変わらず口は悪くて、反抗的ではあるが、目に見えない部分で、何かが。
 ――もしかすると……那賀局長のおかげなのかもしれないけど。
 それは、心の中だけで付け加える。
 会議の片付けをしている最中。
 それまで、果歩に、仕事上の説教など一切したことがない那賀が、珍しく長々と喋ってくれた。
 いつになくはっきりした口調は、もしかして、あの時、扉の影に立っていた人に聞かせるためだったのかもしれない。
 それは、もう、想像するしかないけれど――。
 少しずつ、前進している。
 まだまだ問題は山積みだけど、私も、藤堂さんも、少しずつ。
 が、それにしても、退屈な映画である。
 ――早く、終わらないかな……。
 延々と繰り広げられる殺陣シーンに、果歩が、再びうとうとしかけた時だった。
 肘掛に預けていた手の上に、温もりが被さった。
「………?」
 視界が影で覆われている。
 あ………。
 キス。
 いいのかな、こんなとこで。
 しかも、ムードも何もない映像が流れている映画館で。
 色々考えたのは一瞬で、すぐに周囲の何もかもが消えて、藤堂の体温と香りが全てになる。
 触れるように合わさった唇は、すぐに離れた。
 顔が離れる刹那、影になった眼差しが、一瞬、強く果歩を捉える。
「……………」
「……………」
 ドキドキする。
 心臓、雑巾みたいに絞られた感じ。
 繋がった手が、自分のものじゃないみたい。
 しかしすぐに藤堂は、重なった手を離して前に向き直る。
「眠かったら、寝ていてもいいですよ」
「あ、いえ、大丈夫です」
 てゆっか、キスの後の第一声が、これ?
 もう、眠れるわけなんてないのに。
 ああ――やっぱり、女心がわかってないよ、藤堂さん。
 
 *************************
              
「うわ、すごい時間ですね」
「タクシーでも拾いますか」
 藤堂が、通りに出ようとする。
 その大きな背中を見ながら、ああ、もうちょっと話したいな、と果歩は思っていた。
 なにしろ、今日が正真正銘、2人きりで過ごす初めてのデートなのである。
 明日も仕事で、互いに気は急いてる。映画も最低で、ちょっとロマンスに欠けるデートではあったけれど――。
 でも、キス……しちゃったし。
 それには、ちょっと浮ついている果歩だった。
 一歩進んで二歩戻る?
 でも、こんなささやかなことで、喜んでいる自分って……
「疲れてますか?」
 通りでタクシーを呼び止めるかと思った藤堂は、しかしそのまま振り返った。
 ネクタイを締めたシャツが、風に揺れてはためいている。
「いえ、結構熟睡しちゃったんで」
 まだ一緒にいたい、と、素直に言えない気持ちを言葉に込めて、果歩。
「観たい映画だと思っていました」
「ごめんなさい、たまたまチケットがあったんです」
 そのまま、2人で肩を並べて歩き出す。
 藤堂が何も言わないから、果歩も何も言えなかった。
 繁華街を抜けると、オフィス街。で、この先は……
 果歩は、微妙に不安を感じて、周辺を見回す。この界隈をわずかにずれると、そこは市内でも有数のホテル街だ。
 まさか……。
 まさかね、それは、いくらなんでも有り得ないし。
「………この先に、もう少し歩くようなんですが」
 ふいに、歩きながら藤堂が言った。
「えっ」
 ものすごく驚いて果歩。
「?」
 その驚きに驚いたのか、藤堂が振り返る。
「い、いえ、なんでも」
「そうですか?」
 ああ――なんて自意識過剰。
 果歩は、自分が恥ずかしくなる。
「僕が借りているマンションがあります」
「そうなんですか」
 だから、次の言葉も、深く考えずにスルーしてしまった。
 スルーして……はた、と思考を止める。
 マンション?
 藤堂さん、1人暮らししてるって聞いたけど。
 意味を図りかねて――というより、期待するのが怖くて、果歩は無言で歩き続ける。
 まさか?
 まさか――ね。
 心臓が、ふいにドキドキと高鳴り始める。
「……………」
「……………」
 私も、怖い。
 この沈黙が怖いんですけど、藤堂さん。
「寄っていきますか、汚い部屋ですが」
「……………」
「あ、すみません、別にへんな意味じゃ」
「行きます!」
 と、激しく答え、果歩はぱっと赤くなった。
 うわ、私サイテー。
 なんだかすごく、がっついてる女みたい。はじらいも駆け引きも、頭が真っ白になって飛んでしまっている。
「あ……私も、へんな、意味じゃ」
「いや、それは分かってます」
「………行きたい、です」
「うん……、はい」
 まるで、高校生同士のように、顔を赤くしてうつむいている。
 そんな年でもないのに、私。
 まるで、初めて恋をしているみたいに。
「じゃあ」
 と、顔をあげた藤堂が、何か言いかけた時だった。
 ふいに、聞きなれない携帯の着信音が鳴った。
 藤堂の、ポケットの辺りから。
「……? すみません」
 この時間の電話が不審だったのか、有り得ない相手からの着信だったのか、少し眉をひそめ、藤堂が携帯を耳に当てる。
 その表情が、夜目にもはっきり、翳るのが判った。
「……はい、瑛士です」
 苗字でなく、名前を言う藤堂の唇を、果歩は、どこか不安な気持ちで見つめていた。



恋と友情の板挟み(終)
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