宇佐美の変化は、お茶汲み等の雑用を積極的にするようになっただけではなかった。 「え……、どしたの、これ」 「どうやろか、コピーした時の表みて、作ってみたんやけど」 「…………」 果歩は、目を見開いたまま、パソコン画面を見つめた。 「悪いけど、使い方が……」 エクセルシート。 これが、マクロを使った高度な表計算だということは分かるが、どこをどういじっていいのか分からない。 「使い方は簡単やから」 宇佐美はにこっと笑って、果歩の手からマウスを奪った。 白くて長い指は、女の果歩より綺麗な気がした。 「ここに、前年度を足しこむやろ、で、月別はこれ、これだと簡単に入力できるんやないか思うて」 「うん……」 「で、このセルで印刷できるから、ここ、クリックしたら」 と、宇佐美は自らクリックして、さっと印刷機が置いてあるスペースに走る。 「ほら、ばっちりやん」 宇佐美がひらひらと手にしているペーパーを受け取って、果歩は、しばし黙り込んだ。 「これ、今、作ったの」 「うん」 「…………」 嘘。 始業開始から、まだ2時間もたっていない。 宇佐美が作ってくれたのは、時間外の集計表だった。 月ごとに給与に提出するもので、前年度実績との割合、目標値、達成度、等々、なんだか細かな項目が沢山あって、毎月計算も入力も面倒だな、と思っていた代物。 それが、個別の時間外実績を入力するだけで、全て計算してくれるものに仕上がっている。 「……もしかして、マクロ?」 エクセル関数を使った計算式なら、果歩もひととおりマスターしているし、大抵の表計算なら作成できる。が、今渡された表は、それだけでは対応できないものまで含まれていた。 マクロ機能は、記録したエクセル動作を自動的に実行させるもので、ここまでマスターしている者は、役所にはあまりいない。 「へへっ、俺、得意やから、エクセルとかアクセス」 「アクセスもできるの?」 果歩はさらに驚いていた。 エクセルもアクセスも、マイクロソフトオフィスの製品である。 役所では、エクセルが一般的に使われており、相当詳しい職人もかなりいるが、アクセスまで使いこなせる職員はそういない。 「楽しいっすよ、便利やし」 「どこかで習ってたの?」 「いや、独学っすよ。今は、いろんなサイトがあるから」 「へぇ……」 それは、すごい得意技かもしれない。 「よかったら、他のも色々作りますけど。その程度なら、簡単なことやし」 「本当?」 「果歩さんの喜ぶ顔、もっと見たいし」 自席でパソコンを開いた宇佐美に、そう言ってにこっと笑われる。 「は、はは」 臨席で南原が、露骨に顔をしかめるのが分かり、果歩はさすがに冷や汗が出るのを感じた。 でも、これは、本当にすごい技だ。 というより、ここまでパソコンができるなら、とてつもない戦力になる。 「大河内主査、宇佐美君、こんなものが作れるんですよ」 背後を通りかかった大河内主査に、果歩はとっさに声をかけていた。 「んー」 と、起きている時でもどこか眠そうな男は、さほど気乗りなさげに、果歩のパソコンに目を留める。 ことなかれ主義なのか、課で起こるどんな波風にもふらふらと漂う男は、それでも果歩に言わせれば「いい人」の部類。 「へぇ、マクロか」 が、大河内は、以外にも細い目を見開いて、果歩のパソコンをまじまじと見つめた。 「これ、君が?」 と、正面に座る宇佐美に視線を向ける。 「ほかは、なんもできんですけど、エクセルは結構やりますねん」 やや、得意げに宇佐美。 顔立ちも声も子供っぽいから、そういう言い方もあまり、嫌味には聞こえない。 「マクロ、今、僕も勉強中なんだよねー。ちょっと作ってみたいリストがあるんだけど、見てもらえるかなぁ」 「あ、はいはい」 「悪いねぇ、今度詳しい奴に直してもらおうと思ってたんだけど」 早速自席についた大河内はパソコンを開く。 隣席の宇佐美が、椅子をひきずってその傍らに近づいた。 「デスクトップは、もうちょっとすっきりさせたほうがええですよ」 「あ、そうなの」 「重いから、こないに時間がかかるんです。不要なファイルは消すか、Dドラに入れたらええんちゃいますか」 「デードラ?」 「…あー、それはですねー」 なんだか、いい感じになってるのかもしれない。 「情けねーな、バイトに教えてもらってんのかよ」 隣で、南原が顔をしかめている。 「わー、これ、ほんっと便利だわ、宇佐美君」 果歩は、わざと大きな声でそう言っていた。 そして、ふと思っていた。 男の仕事って、そもそもなんだろう。 女の仕事って、じゃあ、なんだろう。 自分の感覚が、ずっと当たり前だと思っていたけど、もしかしておかしくなってるのは、周りじゃなくて、私自身だったのかもしれない……。 ************************* 「ふぅん、じゃあ、すっかり人気ものなんだ、バイト君は」 「うん、もう大人気」 果歩は、陽気に言って、空のグラスを持ち上げた。 「おかわりお願いしまーす」 「果歩、ちょっと飲みすぎじゃない?」 「いいのいいの」 カウンターから手が伸びて、グラスをそっと手から取られる。 「水にしてやって」 「その方がいいですね」 りょうと、この店のオーナー、長瀬高士との会話。 「いいの、今夜は全然大丈夫なんだから」 「はいはい」 果歩にとっても顔なじみの男、長瀬は、長い前髪の下、切れ長の目を細めて笑うと、すぐに水の入ったグラスを戻してくれた。 長身でスタイルがいい。整いすぎた顔立ちは少し怖くて、最初見たときはモデルでもやっているかと思ったほど美しい男――長瀬高士。 洋風居酒屋は、休店日の夜だけカクテルバーに代わる。カウンターに立つのはオーナーの長瀬一人だ。 りょうは多分、休日バーの常連だ。仕事でもない限り、毎週通っているんじゃないかと思う。 「てゆっか、何があったのよ、優等生の果歩が珍しい」 「失恋かな」 「ちょっと、怖いこと言わないでよ」 眉をあげるりょうは、間違いなくカウンターの中の男に恋をしている。化粧気がないのはいつものことだが、長瀬を見上げる横顔が、普段以上に綺麗に見える。 あーいいわよね、当確間際の恋愛は。 果歩は、絡む2人の視線を遮るように、片手をあげた。 「計画係からも仕事を頼まれるようになって、都市デザイン室の窪塚主査からも、ちょくちょく呼ばれてるみたいで〜」 「な、なに?」 「バイトの宇佐美君の話、今、その話してたんじゃないのぉ?」 果歩はグラスの水を煽った。 「ま、そうなんだけど」 「あの窪塚さんが対等と認めたから、周りの人も見る目を変えてくれたみたいなよのよねぇ」 「ああ……窪塚クンか」 アフロヘアにスニーカー。 ロサンゼルス帰りのエリート窪塚は、局の中でも一風変わった男だが、仕事の速さと頭の良さに関しては定評がある。無論、人事のりょうも、その存在は知っているはずだ。 「中津川補佐は、よその課にバイトを貸すなって、カンカンなんだけどね」 「あのおっさん、利己主義の塊みたいな人だもんね」 くすり、とりょうの横顔が笑う。 「……じゃ、今は何もかも上手くいってんじゃない、果歩、一体何落ちてんのよ」 「……………」 「藤堂さんのこと?」 「違う違う」 眠いなー。 果歩は、つっぷしたまま、片手を振った。 「どうしちゃったのよ、この子、こんなに悪酔いする子じゃなかったのに」 「……タクシーでも呼びましょうか」 「ううん、それより」 2人の声が、どこか遠くで聞こえている。 藤堂さんねぇ。 そうじゃなくてー、まぁ、それもあるんだけど、そうじゃなくて。 なんていうんだろ、宇佐美君が来て、あらためて分かったことがあるっていうか。 そのことでちょっと自己嫌悪になってて……でも、やっぱ、何してもやる気がでないのは、藤堂さんのせいかもしれないけど。 「タクシー、きましたよ」 長瀬の声で、果歩はまどろみから引き起こされた。 ************************* 行き先を告げる藤堂の声がする。 冗談みたいだなー。 そう思いながら、果歩は藤堂の肩に頭を預けて目を閉じていた。 どこか投げやりというか、大胆な気持ちになっているのは、相当酔っているからだろう。 「……大丈夫ですか」 返事はせずに、こくりと頷く。 何があっても、何を言っても言われても、後で記憶がなかったことにすればいい。 りょうが、残業していた藤堂を電話で呼び出していたのは気づいていたけど、果歩は、あえて聞こえないふりで、気分よく夢うつつの状態にひたっていた。それは、今も続いている。 シートの隣に藤堂がいて、ほとんど身体を寄せ合って座っているのに、全く現実感がない。 まるで、夢の続きを見ているような感覚。 ただし、匂いつきの夢なんて滅多に見られないから、貴重かもしれないけど。 「あのですねー」 そう、これはやっぱり、夢の中で。 ここにいる人は、藤堂さんじゃないんだ。 そんなことを考えながら、果歩は顔を上向けて目を閉じた。 「喫茶店なんかで、男の人がコーヒーを出してくれるのって、別に普通じゃないですか」 「……? そうですね」 戸惑った声が耳元で聞こえる。 「役所で、男の子がそれをやると、どうして違和感があるんでしょうね」 「…………」 答えない藤堂から、「僕に違和感はありませんよ」という声が聞こえてくるようだった。 「ひたすら肩身の狭い思いをしているのは、実は私なんですよ」 気持ちは結構素面なのに、出てくる言葉は、酔っ払いのたわごとだ。その自覚はあったが、気分のよさが、果歩を知らず饒舌にしている。 「わかりますー? わかんないですよね? あはは、なんか、私1人が悪者ですかー、みたいな」 藤堂が、果歩が寄りかかりやすいよう、姿勢をずらしてくれたのが分かった。 「……藤堂さんの、気持ちは嬉しいんですけど」 あれ、ふいに気持ちが沈んでいく。 「編纂の仕事もひと段落しましたし、やっぱりお茶は、私がやった方がいいと思うんです」 「どうしてですか」 「なんていうか……」 果歩は、言葉に詰まって視線を下げる。 不思議なほど、高揚感が消えて、どんどん、悲しい気持ちになっていく。 「こう、収まるところに収まらない違和感、みたいなのがあって、私だけじゃなくて、なんていうか、課全体がぎくしゃくしてるっていうか」 「…………」 「そういうの、私がやれば、全部収まるような気がするんですよ」 「…………」 藤堂が、自分を見下ろす気配がする。 あー、どうしよ、泣いちゃいそう。 知らなかった、私って、泣き上戸だったんだ。 「すみません、ちょっと酔ってるみたい……」 「いいですよ」 「……………」 深く身体を預けたまま、果歩は感情に任せ、両手で口を押さえて、しばらく無言で泣いていた。 「……ごめんなさい」 「いいえ」 よかった、夢で。 現実だったら、多分2度と、藤堂さんとは顔を合わせられない。だって、マスカラもアイメイクも、ぼろぼろに剥げている。 「なんか色々……がんばってたつもりなんですけど」 「…………」 「疲れちゃって……」 「…………」 那賀局長、春日次長、志摩課長、中津川補佐、南原、水原……いろんな人の気持ちや真意を、いつも憶測しては、気をもみ続けてきたけれど。 そして、心の中では、藤堂の方針に賛成しているのだけど。 「弱いなぁって、私。それが、ますます情けないんです」 無言のまま、膝に置いた手に、大きな手が重ねられる。 「的場さんは、強いですよ」 優しい声。 耳元で聞こえる、心地よい声と体温。 「……お茶のことは、僕の配慮が足りなかった」 そんなことないです。果歩は心の中でそうつぶやく。 そうじゃないんです、そういう意味じゃないんです。 「でも、課内のことを考えるのは僕の仕事です、的場さんが気に病むことはないんですよ」 果歩は、指先で目を拭って、首を振った。 「宇佐美君みてて、思っちゃったんですよね」 「宇佐美君……?」 「私が新採の時とおんなじだなーって、することが何もなくて、周りの人が忙しく働いてるの、みじめな気持ちでぼんやり見てて、今思えば、手伝えることいっぱいあったのに、自分からそれが言い出せなくて」 難関試験を突破して得た就職先。 初日から、仕事はあるものだし、教えてもらえるものだと思い込んでいた。 「先輩の手伝いもろくにできないし、言われたことも満足にできなくて、……思えば、忙しい時期だったんですよね、誰にも相手にしてもらえなくて」 やめちゃおっかなー、と思っていた。 女の先輩が、意地悪で仕事を回してくれないものだと、思い込んでいた時期もあった。 半年くらいは、そんな感じで、悶々とすぎていたような気がする。 なのに。 「宇佐美君は、男とか女とか、バイトとか職員とか関係なしに、どんどん仕事、自分で見つけていってるじゃないですか」 「……そうですね」 宇佐美は、たった4日で、自分の道を切り開いた。 来客用のお茶もコーヒーも、宇佐美はウエイター並みの手際よさで見事にこなし、なおかつ、有能なエクセル職人として、今や他課からもお呼びがかかる有様である。 計画係では、それまで水原に任せていた月締めの補助費決算報告を、宇佐美に任せることになったという。アルバイトにそこまで仕事を任せたケースは、おそらく総務課では初めてだ。 「最初の頃、宇佐美君が私に言ったんですよね、男の仕事ってなんですかって」 「…………」 「その時わかっちゃったんです、仕事を性別でわけてたのは、周りの人なんじゃなくて、私だったんだって」 「…………」 「私は怖いんです。その時もそうだし、今もそう、自分の殻を破って、新しい壁にぶつかっていくのが怖いんです」 「…………」 「自信もないし、だから、誰かが役割を与えてくれるのを待ってるだけ。その役割から外れてしまうのが、本当いうと、ものすごく怖いんです」 「…………」 「……自分で、自分の役割を無意識に決めてたんです。誰のせいでもない、私が落ち着かないんです。私が、自分の役目を奪われてるような気がして、すごく居心地が悪いんです」 「…………」 「………ごめんなさい……」 言っちゃった……。 言いたいこと、多分、全部言っちゃった。 すっきりした、ありがと、りょう。これで今夜は本当にいい夢が見られそう。 暖かな体温を感じたまま、果歩はゆっくりと目を閉じた。 これが夢なら、このままでもいいかな。 重なり合った右手と左手。 藤堂さんと私が、恋人つなぎしてるなんて、夢でしかあり得ないもの……。 |
>>next >>contents |