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年下の上司 story6〜 September

男の闘い! 嵐を呼んだ臨時職員(最終話)

 午後9時少し前。
 定時退庁が勧奨されている水曜日だけあって、フロアは静まり返っている。
「お先に失礼します」
 と、最後の職員が出て行ったのが、5分前。
「そろそろ、切り上げましょうか」
「ええ」
 藤堂が立ち上がったので、果歩も慌ててパソコンの電源に手をかけた。
 本当は、先に終わらせてしまってもよかった。
 藤堂が残っているから、なんとなく残ってしまった――というより、何か今夜、ずっと曖昧にしてきたことを話さなければならないような、そんな空気を、互いの眼差しから感じとっていたのかもしれない。
 ゆっくりと卓上を片付ける藤堂が、果歩の帰り支度を待ってくれているような気がしたから、急いで簡単なメイクを済ませ、そのまま肩を並べてフロアを出た。
「仕事が変わって、大変でしょう」
「いえ、今日南原さんに引継ぎを受けて、意外にできそうだなって」
「そうですか」
 今……。
 仕事モードなのかな、それとも。
 果歩は、横目で藤堂を見上げる。
 結局私たちってなんなのだろう。
 恋人になったつもりだったけど、そうじゃなかった……?
 なんだか、ここ数日は、恋愛以外のことでばたばたしすぎて、それを確かめることも、藤堂の態度に一喜一憂することもなくなった気がする。
「まだ、色々壁はありそうなんですが」
 階段ではなく、エレベーターホールに向かいながら、藤堂が口を開いた。
「庶務事務は、なるべく簡略化した上で、任せられることは臨時職員に任せる形にして、これから的場さんには、別の仕事をやってもらうことになると思います」
「ええ、聞きました」
 今日の夕方、南原、大河内をまじえ、庶務係全員で話し合って決めた。
 宇佐美がデータ化をすすめてくれたおかげで、庶務の仕事は、随分簡略化が進んだ。
 しかし、人事課で様式化している部分や、提出を義務付けられている書類の作成など、手がつけられない部分が随分残っている。
 そのあたりの制度改革は、これから藤堂が、人事と協議して進めていくつもりらしい。
「……なんだか、話が大きくなりそうで」
 正直、総務内部だけの話だと思っていた果歩は、話が全庁に及ぶことに、少しばかりの気後れを感じていた。
 まさか、藤堂がそこまでやるつもりだったとは、想像もしていなかった。
「小さな政府とは、税収の基盤が脆弱な地方自治体にこそ、必要な方針なんです」
 エレベーターに乗り込みながら、藤堂は少し暗い口調になった。
「財政危機は、この灰谷市も例外じゃない。個人的には、変えていく余地は、まだまだ、いくらでもあると思っています」
「…………」
 藤堂さんは。
 果歩は、改めて、藤堂の横顔を見上げていた。
 ふいに目の前に立つ人が、ひどく遠い存在に思えていた。
 りょうは、なんて言ってたんだっけ。
 超法規的措置で任用された、特別職。
 謎に包まれたプロフィール。
 もしかして、この人は、単なる都市政策局の係長ではなく、もっと大きな目的をもって、この役所に乗り込んできたのかも……しれない?
「改革をしていく上で必要なのは、制度ではなく、人の心だと……今回は僕も、いい勉強になりましたよ」
 が、果歩を見下ろして笑う藤堂は、普段通りの藤堂だった。
「時間、ありますか」
「え、あ、はい」
 え? もしかして、いきなりすぎるお誘い?
「……もう、こんな時間か」
 が、わずかに眉を寄せた藤堂が、自身の腕時計を見下ろした。
「食事でも、と思ったんですが、やっぱり、今度にしましょうか」
「えっ、いえ」
 言葉を挟みかけた果歩は、慌ててはっと口を閉じる。
 やばい。
 また、焦っている自分をさらけだすところだった。
 ぐっと一時、両こぶしを握り、果歩は、にっこり笑って顔をあげた。
「そうですね、また今度に」
 あー、私って大人の女。
 そう、恋は駆け引き。焦らされるんじゃなく、少しは自分が焦らさないと。
「…………」
「…………」
 でも。
 でも、これは、めったにない希少なチャンスなんじゃないかしら……。
 あー、恋の神様。
 ここで、曖昧な立場に置かれた年上の女は、どう振舞ったらいいのでしょうか??
 2人を乗せたエレベーターが階下につく。
「あの」
「あの」
 意を決した果歩と、何故か藤堂。
 2人が、同時に声を発していた。
「と、藤堂さんから」
「いえ、的場さんから」
「藤堂さんから」
「的場さんから」
 馬鹿みたいに譲り合っている間に、1度開いた扉が閉まる。
「あっ」
 慌てて、藤堂が、ボタンを押しても、再びエレベーターは上昇していく。
「う、上で人が乗ってくるんじゃ」
「とりあえず、止まったところで降りましょう」
 なんとも間抜けな展開に、果歩は肩の力が抜けるのを感じていた。
「……やっぱり、私から話してもいいですか」
 降りたのは15階。
 乗り込んできた職員は、こんな時間に下から上がってきた2人に驚いていたようだったが、そこは知らない顔でやりすごした。
 果歩の言葉に、藤堂が足を止める。
 果歩も足をとめ、照明の落ちた薄暗いロビーで、目の前に立つ人を見上げた。
「……前、藤堂さんが言っていた、焦りすぎていたって、どういう意味なんでしょうか」
「…………」
「それは、私と……その」
「…………」
「仕事以外のところでは、距離をおきたいってことなんでしょうか」
 表情を変えないまま、視線だけを藤堂は下げる。
「……僕は」
「…………」
 今度は果歩が、緊張してものが言えなくなった。
 なんとなく、行動が先行して、互いに伝え切れていなかった想い。
 はっきり聞きたいようで、それが恐ろしいようでもある。
「僕は、まだ、……結婚とか、そういうことが考えられる立場ではないので」
「…………」
 結婚???
 いきなりの飛躍に、果歩は薄闇の中で目を見開いた。
 え、て、てか、なんでそうなるの?
「責任の持てない立場で、中途半端におつきあいするのはどうかと、……正直言えば、そう思いました」
「…………」
 なんだろう。
 これって、よくある言い訳かな?
 婉曲に相手を断る言い訳。仮にそうだとしたら、振り方としては、最高に卑怯だという気もするけど。
 でも、確かに藤堂はまだ若く、男性としては、結婚など考えもしない年で。
 果歩は――女性としては、結婚適齢期の只中だ。
 藤堂にしてみれば、常に結婚を迫られているような圧迫感があるのかもしれない。
 そんなんじゃないけど――そんなんじゃないけど、これから誰かと付き合うのに、「結婚」の2文字を意識しないといえば、嘘になる。
 そっか。
 でも、そういうことなんだ。
 ある意味晃司の言ったとおりだった。
 あいつの年考えてみろよ――。
 認めたくないけど、最初から、上手くいくはずがなかった関係……だったのだろうか。
「とりあえず、下に降りましょうか」
 黙ったままの果歩に、藤堂の声が飛び込んでくる。
「……はい」
 自分の声が、ただ、頼りない。
 頭が、上手く動かない。今、なんの話してたんだっけ。
「すみません、僕もまだ、上手く整理できなくて」
 藤堂が、所在無く視線を下げる。
「また、今度、食事でもした時に、ゆっくり話しましょう」
「…………」
「今夜はもう、遅いので」
 また、今度――?
 その言葉の意味が分かったとき、ぼんやりしてした果歩は、ふいに強い怒りを感じた。
 なに?
 その中途半端な優しさは。
 この人って一体何?
 振っておいて、どうして誘う?
「……的場さん?」
「ごめんなさい、先に降りてもらえます?」
 藤堂を見ないままに、果歩は視線を他に向けた。
「……心配しなくていいです。藤堂さんとのことを、仕事に影響させるような真似はしませんから」
「…………」
「……今は、1人でいたいんです」
「…………」
 同じように、無言で眉を寄せていた藤堂が、少しためらってから歩き出す。
 エレベーターのボタンを押す。
 昇降を示すライトが、急速に上がってくるのを、果歩はぼんやりと見つめていた。
 めんどくさいことになっちゃった。
 するんじゃなかった、職場恋愛なんて。
 明日から上手くやれるかな――やれるだろうけど、辛いだろうな。
 藤堂さんはきっと――何事もなかったように、接してくれるんだろうけど。
 エレベーターが止まる。目の前で扉が開いても、藤堂の大きな背中は動かなかった。
 しばらく、待っていてくれた扉が、じれたように再び閉まる。
 藤堂は、それでも動かなかった。
 ――藤堂さん……?
 彼が、何かを迷っていることだけは分かった。
 分かるから、果歩も同じように1歩もそこから歩けない。
「あの……」
「的場さん」
 思い詰めた声が、闇から響いた。
「……やっぱり今夜、いいですか」
 それには、なんと答えていいのか分からない。
「私、1人になりたいと言いました」
 果歩もまた、ひどく思い詰めた声になっていた。感情のたかぶりを自身で、必死に堪えている。
「この際だから、はっきりいいます。中途半端な気持なら、もう私のこと、誘わないで欲しいんです」
「…………」
「私、遊びで恋愛ができるほど、余裕のある人間じゃありませんから」
「……僕も、遊びのつもりではないです」
 ――え?
 驚いて見上げた藤堂の顔は、丁度照明で陰になっている。
「僕の部屋で」
「…………」
「会って、もらいたい人がいるんです」
「…………」
 会ってもらいたい人?
 こんな時間に?
 ますます思いもよらない展開。
「その時に」
 顔をあげた藤堂の目が、わずかに苦しげに、そらされた。
「僕の家の事情も、お話しようと思います」
 
 *************************
   
 色んなシチュエーションを想像して、想像して、想像しつくした果歩は、黙って3階建ての、小さな軽量鉄骨マンションを見上げた。
「お待たせしました」
 駐輪場に自転車を停めた藤堂が戻ってくる。
 わずかな時間差でタクシー移動した果歩と、ほとんど変わらない時間に着いているのが驚きだった。しかも、さらりとした額には、汗ひとつかいていない。
「……もう、こんな時間ですけど」
 果歩が、気後れしたように時計を見ると、藤堂は、少し考えてから微笑した。
「まぁ、大丈夫でしょう」
 ボストを確認している。
 部屋番号がその時に見えた。203号。
「帰りは送りますよ」
「でも」
「車があるから、大丈夫です」
「…………」
 先に立って藤堂が階段を上がり始めるので、果歩も仕方なく後を追った。
 この間の話が、本当なら。
 彼の部屋にいるのは――お母さん?
 よ、よく分からない。一体藤堂さんの思考回路ってどうなってるんだろう。
 結婚は考えられないとか、そんなこと言ってたくせに、で、まだ、はっきりつきあいはじめたわけでもない? みたいなのに、いきなり親に紹介される?
 203号。
 藤堂の肩越しに、スチール製の扉が見える。
 ごくり、と果歩は唾をのみこんだ。
 ど、どう挨拶すればいいんだろう、この場合。
 が、扉は、藤堂が鍵を差し込む前に、内側から開かれた。
「おかえりなさーい」
 え?
 え?
 頭が白くなる果歩の前で、見慣れた顔が、藤堂の体に飛びついてきた。
「なんだー。遅いと思ったら、的場さんと一緒だったんですかぁ」
「……………………」
 なんで?
 なんで?
 なんだって、ここで、
 流奈……??
「ちょ、す、須藤さん?」
「今日は、流奈が、腕によりをかけてお料理したんです。もーっ、ずっと待ってたんですよ」
 なにこれ。
 なに、これ……?
 昼間、役所で見たときと同じ服装をした流奈は、果歩を上目遣いに見上げて、にっこりと笑った。
「的場さん、彼を送ってくれてありがとうございました」
「ちょっ、ちょっと待ってください」
 殆ど硬直していた藤堂が、やっと我にかえったように、絡みつく流奈の腕を振りほどいた。
「あの、的場さん、これは」
「藤堂さん」
 果歩は、にっこり笑って藤堂を見上げた。
 鮮烈な音が、晩夏の夜空に鳴り響く。
 叩いた手のひらが痺れるほど痛かったから、叩かれた藤堂はどれだけだったろう。
 もう、知らない。
 あとは知らない。
 振り返りもせずに、果歩は夜の戸外に飛び出した。
 もう――藤堂さんのことなんか、知らない。




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