午後9時少し前。 定時退庁が勧奨されている水曜日だけあって、フロアは静まり返っている。 「お先に失礼します」 と、最後の職員が出て行ったのが、5分前。 「そろそろ、切り上げましょうか」 「ええ」 藤堂が立ち上がったので、果歩も慌ててパソコンの電源に手をかけた。 本当は、先に終わらせてしまってもよかった。 藤堂が残っているから、なんとなく残ってしまった――というより、何か今夜、ずっと曖昧にしてきたことを話さなければならないような、そんな空気を、互いの眼差しから感じとっていたのかもしれない。 ゆっくりと卓上を片付ける藤堂が、果歩の帰り支度を待ってくれているような気がしたから、急いで簡単なメイクを済ませ、そのまま肩を並べてフロアを出た。 「仕事が変わって、大変でしょう」 「いえ、今日南原さんに引継ぎを受けて、意外にできそうだなって」 「そうですか」 今……。 仕事モードなのかな、それとも。 果歩は、横目で藤堂を見上げる。 結局私たちってなんなのだろう。 恋人になったつもりだったけど、そうじゃなかった……? なんだか、ここ数日は、恋愛以外のことでばたばたしすぎて、それを確かめることも、藤堂の態度に一喜一憂することもなくなった気がする。 「まだ、色々壁はありそうなんですが」 階段ではなく、エレベーターホールに向かいながら、藤堂が口を開いた。 「庶務事務は、なるべく簡略化した上で、任せられることは臨時職員に任せる形にして、これから的場さんには、別の仕事をやってもらうことになると思います」 「ええ、聞きました」 今日の夕方、南原、大河内をまじえ、庶務係全員で話し合って決めた。 宇佐美がデータ化をすすめてくれたおかげで、庶務の仕事は、随分簡略化が進んだ。 しかし、人事課で様式化している部分や、提出を義務付けられている書類の作成など、手がつけられない部分が随分残っている。 そのあたりの制度改革は、これから藤堂が、人事と協議して進めていくつもりらしい。 「……なんだか、話が大きくなりそうで」 正直、総務内部だけの話だと思っていた果歩は、話が全庁に及ぶことに、少しばかりの気後れを感じていた。 まさか、藤堂がそこまでやるつもりだったとは、想像もしていなかった。 「小さな政府とは、税収の基盤が脆弱な地方自治体にこそ、必要な方針なんです」 エレベーターに乗り込みながら、藤堂は少し暗い口調になった。 「財政危機は、この灰谷市も例外じゃない。個人的には、変えていく余地は、まだまだ、いくらでもあると思っています」 「…………」 藤堂さんは。 果歩は、改めて、藤堂の横顔を見上げていた。 ふいに目の前に立つ人が、ひどく遠い存在に思えていた。 りょうは、なんて言ってたんだっけ。 超法規的措置で任用された、特別職。 謎に包まれたプロフィール。 もしかして、この人は、単なる都市政策局の係長ではなく、もっと大きな目的をもって、この役所に乗り込んできたのかも……しれない? 「改革をしていく上で必要なのは、制度ではなく、人の心だと……今回は僕も、いい勉強になりましたよ」 が、果歩を見下ろして笑う藤堂は、普段通りの藤堂だった。 「時間、ありますか」 「え、あ、はい」 え? もしかして、いきなりすぎるお誘い? 「……もう、こんな時間か」 が、わずかに眉を寄せた藤堂が、自身の腕時計を見下ろした。 「食事でも、と思ったんですが、やっぱり、今度にしましょうか」 「えっ、いえ」 言葉を挟みかけた果歩は、慌ててはっと口を閉じる。 やばい。 また、焦っている自分をさらけだすところだった。 ぐっと一時、両こぶしを握り、果歩は、にっこり笑って顔をあげた。 「そうですね、また今度に」 あー、私って大人の女。 そう、恋は駆け引き。焦らされるんじゃなく、少しは自分が焦らさないと。 「…………」 「…………」 でも。 でも、これは、めったにない希少なチャンスなんじゃないかしら……。 あー、恋の神様。 ここで、曖昧な立場に置かれた年上の女は、どう振舞ったらいいのでしょうか?? 2人を乗せたエレベーターが階下につく。 「あの」 「あの」 意を決した果歩と、何故か藤堂。 2人が、同時に声を発していた。 「と、藤堂さんから」 「いえ、的場さんから」 「藤堂さんから」 「的場さんから」 馬鹿みたいに譲り合っている間に、1度開いた扉が閉まる。 「あっ」 慌てて、藤堂が、ボタンを押しても、再びエレベーターは上昇していく。 「う、上で人が乗ってくるんじゃ」 「とりあえず、止まったところで降りましょう」 なんとも間抜けな展開に、果歩は肩の力が抜けるのを感じていた。 「……やっぱり、私から話してもいいですか」 降りたのは15階。 乗り込んできた職員は、こんな時間に下から上がってきた2人に驚いていたようだったが、そこは知らない顔でやりすごした。 果歩の言葉に、藤堂が足を止める。 果歩も足をとめ、照明の落ちた薄暗いロビーで、目の前に立つ人を見上げた。 「……前、藤堂さんが言っていた、焦りすぎていたって、どういう意味なんでしょうか」 「…………」 「それは、私と……その」 「…………」 「仕事以外のところでは、距離をおきたいってことなんでしょうか」 表情を変えないまま、視線だけを藤堂は下げる。 「……僕は」 「…………」 今度は果歩が、緊張してものが言えなくなった。 なんとなく、行動が先行して、互いに伝え切れていなかった想い。 はっきり聞きたいようで、それが恐ろしいようでもある。 「僕は、まだ、……結婚とか、そういうことが考えられる立場ではないので」 「…………」 結婚??? いきなりの飛躍に、果歩は薄闇の中で目を見開いた。 え、て、てか、なんでそうなるの? 「責任の持てない立場で、中途半端におつきあいするのはどうかと、……正直言えば、そう思いました」 「…………」 なんだろう。 これって、よくある言い訳かな? 婉曲に相手を断る言い訳。仮にそうだとしたら、振り方としては、最高に卑怯だという気もするけど。 でも、確かに藤堂はまだ若く、男性としては、結婚など考えもしない年で。 果歩は――女性としては、結婚適齢期の只中だ。 藤堂にしてみれば、常に結婚を迫られているような圧迫感があるのかもしれない。 そんなんじゃないけど――そんなんじゃないけど、これから誰かと付き合うのに、「結婚」の2文字を意識しないといえば、嘘になる。 そっか。 でも、そういうことなんだ。 ある意味晃司の言ったとおりだった。 あいつの年考えてみろよ――。 認めたくないけど、最初から、上手くいくはずがなかった関係……だったのだろうか。 「とりあえず、下に降りましょうか」 黙ったままの果歩に、藤堂の声が飛び込んでくる。 「……はい」 自分の声が、ただ、頼りない。 頭が、上手く動かない。今、なんの話してたんだっけ。 「すみません、僕もまだ、上手く整理できなくて」 藤堂が、所在無く視線を下げる。 「また、今度、食事でもした時に、ゆっくり話しましょう」 「…………」 「今夜はもう、遅いので」 また、今度――? その言葉の意味が分かったとき、ぼんやりしてした果歩は、ふいに強い怒りを感じた。 なに? その中途半端な優しさは。 この人って一体何? 振っておいて、どうして誘う? 「……的場さん?」 「ごめんなさい、先に降りてもらえます?」 藤堂を見ないままに、果歩は視線を他に向けた。 「……心配しなくていいです。藤堂さんとのことを、仕事に影響させるような真似はしませんから」 「…………」 「……今は、1人でいたいんです」 「…………」 同じように、無言で眉を寄せていた藤堂が、少しためらってから歩き出す。 エレベーターのボタンを押す。 昇降を示すライトが、急速に上がってくるのを、果歩はぼんやりと見つめていた。 めんどくさいことになっちゃった。 するんじゃなかった、職場恋愛なんて。 明日から上手くやれるかな――やれるだろうけど、辛いだろうな。 藤堂さんはきっと――何事もなかったように、接してくれるんだろうけど。 エレベーターが止まる。目の前で扉が開いても、藤堂の大きな背中は動かなかった。 しばらく、待っていてくれた扉が、じれたように再び閉まる。 藤堂は、それでも動かなかった。 ――藤堂さん……? 彼が、何かを迷っていることだけは分かった。 分かるから、果歩も同じように1歩もそこから歩けない。 「あの……」 「的場さん」 思い詰めた声が、闇から響いた。 「……やっぱり今夜、いいですか」 それには、なんと答えていいのか分からない。 「私、1人になりたいと言いました」 果歩もまた、ひどく思い詰めた声になっていた。感情のたかぶりを自身で、必死に堪えている。 「この際だから、はっきりいいます。中途半端な気持なら、もう私のこと、誘わないで欲しいんです」 「…………」 「私、遊びで恋愛ができるほど、余裕のある人間じゃありませんから」 「……僕も、遊びのつもりではないです」 ――え? 驚いて見上げた藤堂の顔は、丁度照明で陰になっている。 「僕の部屋で」 「…………」 「会って、もらいたい人がいるんです」 「…………」 会ってもらいたい人? こんな時間に? ますます思いもよらない展開。 「その時に」 顔をあげた藤堂の目が、わずかに苦しげに、そらされた。 「僕の家の事情も、お話しようと思います」 ************************* 色んなシチュエーションを想像して、想像して、想像しつくした果歩は、黙って3階建ての、小さな軽量鉄骨マンションを見上げた。 「お待たせしました」 駐輪場に自転車を停めた藤堂が戻ってくる。 わずかな時間差でタクシー移動した果歩と、ほとんど変わらない時間に着いているのが驚きだった。しかも、さらりとした額には、汗ひとつかいていない。 「……もう、こんな時間ですけど」 果歩が、気後れしたように時計を見ると、藤堂は、少し考えてから微笑した。 「まぁ、大丈夫でしょう」 ボストを確認している。 部屋番号がその時に見えた。203号。 「帰りは送りますよ」 「でも」 「車があるから、大丈夫です」 「…………」 先に立って藤堂が階段を上がり始めるので、果歩も仕方なく後を追った。 この間の話が、本当なら。 彼の部屋にいるのは――お母さん? よ、よく分からない。一体藤堂さんの思考回路ってどうなってるんだろう。 結婚は考えられないとか、そんなこと言ってたくせに、で、まだ、はっきりつきあいはじめたわけでもない? みたいなのに、いきなり親に紹介される? 203号。 藤堂の肩越しに、スチール製の扉が見える。 ごくり、と果歩は唾をのみこんだ。 ど、どう挨拶すればいいんだろう、この場合。 が、扉は、藤堂が鍵を差し込む前に、内側から開かれた。 「おかえりなさーい」 え? え? 頭が白くなる果歩の前で、見慣れた顔が、藤堂の体に飛びついてきた。 「なんだー。遅いと思ったら、的場さんと一緒だったんですかぁ」 「……………………」 なんで? なんで? なんだって、ここで、 流奈……?? 「ちょ、す、須藤さん?」 「今日は、流奈が、腕によりをかけてお料理したんです。もーっ、ずっと待ってたんですよ」 なにこれ。 なに、これ……? 昼間、役所で見たときと同じ服装をした流奈は、果歩を上目遣いに見上げて、にっこりと笑った。 「的場さん、彼を送ってくれてありがとうございました」 「ちょっ、ちょっと待ってください」 殆ど硬直していた藤堂が、やっと我にかえったように、絡みつく流奈の腕を振りほどいた。 「あの、的場さん、これは」 「藤堂さん」 果歩は、にっこり笑って藤堂を見上げた。 鮮烈な音が、晩夏の夜空に鳴り響く。 叩いた手のひらが痺れるほど痛かったから、叩かれた藤堂はどれだけだったろう。 もう、知らない。 あとは知らない。 振り返りもせずに、果歩は夜の戸外に飛び出した。 もう――藤堂さんのことなんか、知らない。 男の闘い! 嵐を呼んだ臨時職員(終) |
>>next >>contents |