「話してみたよ、須藤と」 「それで?」 晃司と共に入ったのは、役所の近くの喫茶店だった。 ランチタイム。当然のことながら、周囲の客は市役所勤務の人ばかりである。中には当然、2人の顔を見知っている人もいて「どうしたの?」と、あからさまに聞いてくる人もいるし、意味ありげな目で見るだけの輩もいる。 なんにしても――晃司が選んだシチュエーションとしては、ちょっと有り得ない展開だ。 果歩的には、もうどうでもよかった。 晃司と噂になろうがなるまいが、知ったこっちゃないというやけくそな気分もある。 飲み干したコーヒーを脇に押しやり、晃司がわずかに物足りなさそうな顔をする。煙草かな、と思ったが、そのまま晃司は居ずまいを正した。 「まぁ、普段のまんま。表向きは、だけど」 「どういう意味?」 なんとも判断のつかない言い方である。 晃司は、言葉を探すように、しばし視線を凝固させた。 「普段どおりに振る舞ってたけど、ただ、ちょっと元気がないって感じかな。……なんつーのかな、例えはよくないかもしんねーけど」 「何?」 「…………」 晃司が難しげな眼差しを向けてくる。 「マジで誰かにイジメられてんのかなって。そんな感じに見えたかな」 「…………」 「ジムに、びくびくしながら通ってくる高校生のガキと同じ目」 果歩は、しばらく言葉が繋げられなかった。 「それ……世間的には、私がやってることになってるんでしょ」 「みたいだね。でも違うんだろ」 「違うと思うけど」 自信はないけど――確かに嫌いだし、あえて話しかけたりすることもないけど、でも、その程度で、あの流奈がへこんだりするだろうか。 「だったら」 晃司が、言いかけの言葉をとぎらせる。 そのまましばらく、無言だった晃司は、やがて溜息を吐くような声で言った。 「入江係長かな」 「入江さん?」 「だって、彼女が来てからだろ、須藤がおかしくなったのは」 「…………」 「これも、こないだ飲んだ秘書課の連中から聞いたんだけど、入江係長、櫻苑学園の出身らしいんだ。中高一貫の進学校で、大学は京大の英文」 櫻苑学園。金持ちの才女が通う、全国でも有数の私立学校である。 りょうも確か、その学校を出ていたはずだと――果歩はおぼろな記憶を頼りに、思い出していた。 「で?」 「須藤も一時、櫻苑に通ってたことがあったんだよ。親父さんの会社が倒産して、……1年くらい親戚に預けられてたって言ってたから、多分、中学の頃だと思うけど」 「本当に?」 果歩は目を丸くしている。あのお嬢様には程遠い流奈が櫻苑学園? まぁ、それは、りょうにも言えることなんだけど。 「入江さんとは2才違いだから……まぁ、あり得ない繋がりだけど、もしかして昔からの知り合いかなって思ってさ」 「…………」 調べてみてもいいかもしれない。 自分にかけられた汚名を晴らすためにも――ううん。 それより今は、流奈のことが気になっている。 嫌いなんだけど――大嫌いなんだけど。 今は、もしかすると、誰より共感できる相手かもしれないから。 ************************* 「ヒットしたわよ」 りょうの調べは早かった。内線電話が入ったのが金曜の夜。 土曜の夜には、りょうの部屋に、数冊の卒業アルバムが揃えられている。 さすが、学費がバカ高い私立高校だけあって、その豪華さと分厚さは半端じゃなかった。 緋の天鵞絨に包まれた、タウンページ級の代物である。 「名簿に名前は、……なさそうだけど」 果歩はソファでアルバムを広げ、りょうはダイニングテーブルでワインを開けている。 室内には、芳醇な果実酒の香り。果歩が来た最初から飲んでいたりょうは、少しほろ酔い加減のようだった。 「途中入学の転校なんでしょ。中等部のクラブ写真で探してみなよ、まぁ、すぐには判らないと思うけど」 「………?」 果歩は眉を寄せている。 流奈の入りそうなクラブといったら……。 「テニス?」 「正解。私もその線で、昔の知り合いにあたってみたんだけどね」 アルバムを開いた果歩は、すぐに入江耀子の顔をそこに見つけた。 白いテニスウェアにラケットを胸で抱え、今と変わらず、清楚で綺麗な顔をしている。髪は真っ直ぐのストレートで、いかにも育ちがよさそうなお嬢様、といった風情だ。 「繋がりは、部活みたいだね」 「…………」 「大きな集合写真、右隅のほうだったかな……? ご丁寧に名前まで書いてあるから」 指で一人一人の名前をなぞり、ようやく果歩は、目的の人を見つけていた。 でも――これは……。 いくら名前と写真の位置を見比べても、間違いない。でも、間違いだとしか思えない。――この顔。 「随分整形してるみたいだね。そりゃ、何されても頭があがらないわけだ」 りょうの声が、ひどく残酷に聞こえていた。 扁平に広がった鼻、厚ぼったく垂れた目もと。口元と輪郭にかろうじて面影が読み取れるものの、今の流奈とは別人の女が、――いかにも、居心地が悪そうに、画面の隅っこに収まっている。 「入江さん、名字が違うけど」 動揺を堪えて、果歩は訊いた。流奈が整形していた、その事実が、まだ上手く咀嚼しきれないでいる。あの、何をするにも自信満々だった流奈が。 「彼女、養女なのよ。高校の時に分家から本家の養女になったみたい。多分、遺産相続とか……そっちの関係で変えたんじゃないかな」 輪の中央に立つ入江耀子は、今と全く変わらない、見事なほど完璧な笑顔だった。 「須藤さんも、名前じゃ気付かなかったんでしょうねぇ。蓋を開けてびっくり、目の前に過去の亡霊が現れたようなものだから、心臓止まる寸前だったんじゃない?」 果歩は、入江耀子が初めてやってきた日のことを思い出していた。 カウンターの向こうに立っていた流奈の、棒でも飲みこんだような顔。 性質の悪い悪夢でも見ているような――あの眼差し。 「この頃も、いじめとか……あったのかな」 「おいおい、雰囲気で判断しちゃ失礼じゃない?」 ――まぁ、そうなんだけど。 単に、整形のことで弱みを握られているのかもしれないけど、晃司の言葉が気になる。いじめられている高校生みたいな目。―― 「入江さんがうちの市にきた理由、何か判った?」 「さっぱり、だけどこれだけは確かみたい。本人の希望だって」 「え?」 そんなことが――あるのだろうか。 誰もが望んでなれるものではない霞が関の官僚というポスト。 その座を蹴って、わざわざ市役所にやってくるなんて。 ワイングラスを持ち上げ、りょうはにっと笑って見せた。 「最悪、ずっと、うちの市に居座る可能性があるってこと」 「それは、いいことなんじゃないの」 果歩は、迷いながら言っている。入江さんような優秀な職員が、ずっと市にいてくれるなら――それは、それで。 「本気でそう思ってる?」 りょうは、楽しそうにグラスを唇にあてた。 「お人よしの果歩は、まだ彼女の真贋が見えてないみたいだね」 果歩は、眉を寄せている。 すでに、役所の到るところに蔓延しているという、自分が流奈を組織的にいじめているという噂。 晃司の言うとおり、流奈にそこまで話を広げられるほどの人脈があるとは思えない。 そうなると、流したと思しき人物はおのずと絞られてくる。 いったい自分が、何の恨みを買ったのかは判らないけど……。 しばらく迷った後、腹を決めた果歩は顔を上げる。 「決めた、私、行ってくるわ、例の合コン」 「行くなって、熱っぽく引きとめられたのに?」 「あのね、そもそもどの面下げて、そんなセリフが言えるのよ。最低最悪の二股野郎に」 「その面見たのは、果歩だけなんじゃないの?」 りょうは、いたずらっぽく笑っている。 「私なら諦めないよ、その程度で」 「…………」 「てか、行くなって、彼に真顔で言われたら、二股だろうが三股だろうが、ソッコーで落ちちゃう。私の場合あり得ないけど」 「……婚約……してる人がいるのに?」 果歩の声も、頼りなくなっている。 自分がふられたはずなのに――自分が傷ついたはずなのに、何故か自分が逆に藤堂を傷つけたという気がしてならないのは何故だろう。 あの夜、もっと彼を信じてあげることができたなら。 僕は、落ち着いていませんが。 でも、もう終わったことですから。 彼が迷って苦しんでいた理由に、もっと早く気がついていたら――。 「ま、まずは、須藤流奈救出作戦だね」 果歩にグラスを渡し、赤い液体を注いでくれたりょうは、チン、とグラスを当ててきた。 「果歩は強いね」 「は? りょうにそんなこと、言われたくないわよ」 「7年前もそう……私だったら耐えられたかなって思ったもん。あんだけ、役所中で噂になってさ」 「まぁ……それなりに辛かったわよ」 当時のことが、ちくりとそれでも胸を刺す。 大好きで、大好きで――夢に見るまで好きだった人。 「普段は女々しくて、必要以上にめそめそ女してるくせに、最後の最後までいくと、不意に怖いものが出てくるような……果歩のそう言う所が、男も女も遠ざけてるのかもね」 「なによそれ、ほめてるの? けなしてるの?」 それには答えず、りょうは肘をついて頬を支える。 「果歩のそういうとこ、藤堂さんが来てから、ますますパワーアップしたというか、開花したって感じがするけど」 「…………」 そうだろうか。 よく判らないけど、いろんなことがあって、随分打たれ強くなったことだけは確かな気がする。 今も、心のどこかで、何があっても藤堂さんが信じてくれると思っているから――妙な噂も、気にもならない自分がいる。 「入江女史と須藤さんが、果歩を目の敵にした理由、なんとなくだけど判る気がするな……」 りょうはそう呟き、少し遠い目になって微笑した。 ************************* 「志摩君が、口には出さないが、随分がっかりしていたよ」 不意に声をかけられた藤堂は、少し驚いて顔を上げる。 局長室。議会資料の説明を終えた藤堂が退室する寸前だった。 デスクに座り、にたりと藤堂を見上げているのは、都市整備局のトップ、那賀康弘。今年定年で、コネだけで出世した窓際局長と、至るところで揶揄されている男である。 が、この人の、人を見る目の意外な鋭さを知っている藤堂には、むしろ局次長の春日より、那賀のほうが警戒に値する相手だった。 「的場君の議会行きは流れたそうだ。すでに人事が次の調整で動いているから、間違いないだろう」 「そうですか」 「君が何かのアクションを起こすと、春日君も志摩君も、期待していたようだがね」 藤堂は視線を下げ、相対する人の思惑を考えながら、低く答える。 「……僕が、原因者のようなものですから」 「もてる男はうらやましいねぇ」 あれほど的場果歩を可愛がっているのに、何故か那賀も、どこ吹く風という風情であった。 「で、どっちが本命かね? 大きいの? 小さいの?」 藤堂は答えず、微笑を作った顔を上げた。 「お話は、それだけですか」 「やれやれ、相変わらずガードが堅いねぇ」 椅子をくるりと動かした那賀は、引き出しから爪切りを取り出して、自らの爪を切り始めた。 「君に、いつか忠告しようと思っていたが、必要なかったようだ。的場君なら、放っておいても大丈夫だよ」 「…………」 「仕事上のミスならともかく、根拠のない中傷なら、彼女には痛くも痒くもないはずだからね。もっと酷い経験をしている……まだ、20代の初めのころだ」 「噂では、聞いています」 あの人は強い――それは、つい先日、藤堂自身が身を持って知った、的場果歩の思いもよらない一面だった。 「……今回、議会事務局に彼女が内定したのは……、いや、それはもう流れてしまったが、一時期内定していたのは、私が後押ししたからではないよ」 何を言い出すつもりなのか。藤堂は眉をわずかに寄せている。 「うちの社長が、今年で任期切れになるのは知っているね」 藤堂は顎を引いた。 社長とは、役所内の隠語で、灰谷市長のことである。 「年明けにも市長選が始まるだろう。何年もワンマン体制でやってきた社長は、むろん来期もやる気まんまんだが――ここに来て、地盤に分裂をきたしているとの噂があってね」 室内に、パチンバチンと爪を切る音が響く。 「私が思うに、彼女を抜擢したのは反社長派の人間だ。7年前の出来事で、的場君の処遇を気の毒に思う幹部連中もいたんだよ。――しかしこれまで、そういった動きが表沙汰になることは絶対になかった。社長の力が余りに強すぎたからだ」 「…………」 「しかし今はそうじゃない、……そういうことなんだろう」 那賀は、試すような眼で藤堂を見上げた。 藤堂は静かな目色でその眼差しに対峙する。 「ま、その話は別としてだ。――君はどうするつもりかね」 「先ほど、放っておいても大丈夫だと言われました」 藤堂が答えると、那賀は苦い目になって苦笑する。 「手取り足取り、庇うように守ってやる必要はないと言う意味だよ。私の言う意味が判らないかね」 那賀が次に口にした言葉を、藤堂は黙って聞き流す。 「彼女を引き立てたい派閥があれば、その逆に本庁から遠ざけようとする動きもある。遠ざけたいではなく、いっそのこと退職させたいとすら思っているはずだ。7年前と同じように」 「…………」 「役所内のごたごたならともかく、三環絡みとなると、私に彼女を守ってやる力はない。……なんとかできるのは君だけではないのかね、藤堂君」 |
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