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年下の上司 story7〜 October

もう1人の年下の上司(12)


 ――やっぱり、隣の部屋が気になるんだけど……。
「ねぇねぇ、有宮さん、一緒に歌いません?」
 鬱陶しいくらいべったりだった有宮が、ようやく女の子に引きずられるようにして離れてくれたので、果歩はバックを掴み、こっそり部屋を抜け出した。
 がらんとしたホールに出る。扉は全て閉ざされている。
 普通のカラオケボックスと違い、さすがは高級ホテルだけあって、厚い防音扉の中は覗くことができない造りになっている。
 なんにしても、そろそろ帰らなきゃまずい時間だし。
 果歩は腕時計を見た。午後9時半。
 入江さんに――挨拶するってことで、ちょっとだけ覗かせてもらって、今夜は帰ろう。
 少しだけ悔しいのは、あの若造の誘い文句にうっかり乗ってしまった自分だった。
 結局、電話はあったのかなかったのか、カラオケボックスの中では、煩くて訊くこともままならなかったし、有宮は故意に、話を引きのばそうとしているようにも見える。
 いずれにしても、こんな姑息な方法で藤堂の過去を探ろうとした自分が、……断ろうとしつつ、内心では知りたい誘惑に負けてしまった自分が、今は、なんだか恥ずかしい。
「失礼しまーす……」
 そっと外から、流奈たちが消えた部屋の扉を開いてみる。
 いきなり大音量が溢れ出た。
 JUDY AND MARYの「そばかす」
 歌っている声は、流奈だ。
 ――あれ、この子、こんなに歌が下手だったっけ……。
 下手というより、目茶苦茶な音程だ。果歩は眉を寄せている。
 薄暗い部屋の中、照明が当たっている正面のステージ。
 泣きながら歌っている流奈の姿が、最初果歩には信じられなかった。
 顔にも、格好にも、それを周りで囃したてる人たちにも。
「な……」
 何やってんの……?
 流奈が顔を強張らせて歌うのを止め、入江耀子が不思議そうな眼で振り返る。
「あら、的場さん」
 悪びれない声だった。眼には笑いさえ浮かべている。
「入江さん……」
 夢でも見ているように呟いた果歩の背後で、バタン、と扉が音を立てて閉まった。
「ごめん、ちょっと目を離したすきに」
 振り返ると、有宮が、照れたような眼で立っている。
 果歩の中で、何かが総毛立つ感覚があった。どういうこと? 何やってんの? この人たち。
「そんな、怖い顔しないでくださいよ」
 後ずさる果歩を笑うような眼で見て、入江耀子がグラスを置いて立ち上がった。
「言いませんでした? 私たちみんな、同じ学校の同窓生なんです。今、久しぶりに再会したから、ちょっとした同窓会をやってるとこなんです」
「これが……同窓会?」
 果歩は、強張った眼で、ステージに立つ流奈を見る。流奈はうつむいて、肩だけを震わせている。しばらく――半ば呆然とその様を見ていた果歩は、意を決して上着を脱ぐと、流奈の傍に歩み寄った。
「須藤さん……」
 差し出した上着は、けれど思わぬ激しさで払いのけられる。
 自分を見る目に、はっきりと憎しみが籠っていることに、果歩は驚いて立ちすくんでいた。
「見て分かんないかな。楽しくやってるんですよ、僕たち」
 アルマーニの声がした。
「僕らの中じゃ、流奈が一番の年下だから、ま、余興でね」
「そうそう、流奈はお調子ものだから」
 この人たち……。
 果歩は、言いようのない憤りで、全身の血が引いていくのを感じていた。
「るーな」
 再び席についた入江耀子が、悠然と足を組む。
「どうするのよ。流奈がそんな顔してるから、的場さん、すっかり誤解しちゃったじゃない」
 流奈が、わずかに顔をあげる。
「的場さんの誤解、流奈の口からといてあげなきゃ」
「…………」
「ほら、説明してあげなさいよ。これは好きでやってることだって」
 一瞬震えるように眉を上げた流奈は、次の瞬間、噛みつくように口を開いた。
「何も知らないくせに、口を出すのはやめてもらえません?」
 果歩に投げられた言葉である。初めて見るような表情だった。
「部外者の的場さんには判らないと思うけど、私たち本当に楽しくやってるんです。邪魔だから、早く出てって下さいよ!」
「…………」
 ――流奈……。
「果歩さん、とにかく向こうの部屋に戻りましょうよ」
 有宮が、肩をすくめながら近づいてくる。
「的場さん、有宮君の機嫌を損ねると、後で後悔することになりますよ。彼の人脈、本当に半端じゃないですから」
 楽しそうに、耀子がグラスを持ちあげる。
 ――この人……。
 果歩は、別世界の人を見るような思いで、耀子を見た。
 本当に今度という今度は、自分に人を見る目がなかったとしか言いようがない。信じられない、藤堂以下のサイテー人間。
 覚悟を決めた果歩は、ものも言わずに、流奈の手を引っ掴んだ。
「ちょっと、何するのよ!」
 流奈は、猫みたいに激しく暴れる。
「決まってるじゃない、帰るのよ!」
「余計なことしないでよ!」
 もみあう2人の前に、有宮が立ちふさがる。
「無駄ですよ、この部屋には、さっき僕がロックを」
 振り返った果歩は、咄嗟に掴みとったテーブルのグラスを、有宮の顔にぶちまけていた。
「わっ、何すんだ」
「行こう、流奈!」
 その場の全員が立ち上がる。
 騒然とした中、追いすがるアルマーニにオードブルの皿の中身をお見舞いし、ドルチェにピザを投げつけた。何がなんだか判らないまま、ようやく扉に辿り着く。
 が、押しても引いても、扉は何故かびくともしない。
「フロントでコントロールしてるから」
 顔にかかったワインを拭いながら、有宮が苦い顔で近づいてくる。
 果歩は、流奈を庇うようにして振り返った。
「僕が指示しなきゃ、その扉は開かないよ。そんな、真面目に怒らなくても、一緒に楽しんだらいいじゃないか」
「流奈だって、まだ遊び足りないみたいですよ」
 くすっと笑って耀子。その眼が、まるで獲物を捕らえた爬虫類のようにひんやりと光っている。
「流奈、あんたもなんとか言いなさいよ。いいのー? このまま勝手に帰っちゃって」
 背後の流奈が、びくっと身体を震わせるのが判った。
「つか、お前まで何調子こいてんだよ」
 割り込んできた有宮が、流奈の腕を掴もうとする。果歩は、バックを振り上げ、その綺麗な顔に思いっきり叩きつけていた。弾みで、ばらばらと中身が周辺に散る。
 仰天したのは、むしろ流奈のほうだった。
「!……なっ、相手、誰だか判ってんですか、的場さん!」
「そんなこと言ってる場合?」
 もう一度、扉を押す。はっきり言えばやけくそだったが、扉は、思わぬあっけなさで外側に開いた。
「ちょっと、どういうことよ」
「おい、逃がすな」
 あとはもう――どうやって逃げ切ったのか、わからない。

 *************************

「うそ……」
 果歩はバックの中身を確かめて溜息をついた。
 化粧ポーチがなくなってる……。
 ああ、ショック。あれだけの中身を揃えるのに、どれだけお金がかかったことか。いっそサイフを無くしたほうが、まだ喪失度は薄かった。てか、明日のメイク、どうしよう……。
 夜の公園、上着のない身に、秋の夜風がしんしんとしみる。
 携帯は無事だった。持ち上げてみると、着信が――20件??
 果歩が驚いて携帯を開こうとした時、公衆トイレから流奈が出てきた。
 果歩がコンピニで買った無印のシャツに、化粧と落書きを落とした素顔は、もともとの童顔も相まって、まるで子供のようだった。
「こんなことされて、私が感謝するとでも思ってるんですか」
 上着を返された第一声がそれだった。
「お金は後から返しますから、タクシー代も」
 ふてくされたように呟いた流奈が、果歩の隣に腰掛ける。
 流奈は、上着はおろかバックさえ、あのホテルに置いてきてしまったのだ。
「言っときますけど、このままで済まないですよ、絶対に」
「まぁ……そうかもね」
 上手く逃げられたのはいいけれど、根本的な問題は何も解決されていない。それは、果歩もよく判っている。むしろ、ますます事態を悪化させたのかもしれないという懸念もある。
「的場さんはいいかもしれないけど、私はどうなるんですか。あの人と同じ課で、これからもずっと一緒なのに」
 流奈は、膝で拳を握り締めている。やるせない憤りをぶつけるような声だった。
 果歩には、何も答えられない。
 流奈の言うとおりだったし、仕事面では、自分は何ら助力をしてあげることはできないから。
「やめます、役所」
 買っておいたコーヒーを差し出すと、吐き捨てるように、流奈は言った。
「最初からそうすればよかったんです。あんなつまらない職場に拘ってた私がバカみたい」
 膝の上で握りしめた、流奈の拳が震えている。
「明日、辞表を送ります。もう二度と、職場には顔を出しませんから」
「藤堂さんに相談しなかったのは、昔を知られたくなかったから?」
 暗がりの中、流奈がわずかに息を引く気配がした。
 そのままうつむいた女の横顔から、滲むような怒りが溢れだす。
 果歩は黙っていた。
 言うつもりはなかった言葉を口にしてしまったのは、そこを踏み越えないと、流奈の思考が、堂々巡りしたまま、自己憐憫のループから抜けられないと思ったからだ。
「へぇ……やっぱり、知ってたんだ。聞いたんですか、あの女から」
 冷え切った声がした。
「ばっかみたい、なのに私、隠そうと必死になって。みんなして影で笑ってたわけですか。藤堂さんも? 当然話しましたよね?」
 反論は、鋭い眼差しで遮られた。
「ひどかったでしょ。私の顔。あのせいで、編入した中学では随分いじめられましたよ。今日くらいのことなんて、なんでもない。あの頃に比べたら生易しいくらいです」
 果歩は胸が詰まり、言葉が何も出なくなる。
 あれを――生易しいというのだろうか。
「やっかいになってた親戚の家に、二つ上の性格の悪い女がいて、その親友だった女が入江耀子です。地獄みたいな1年でしたよ。今でも忘れられない――いえ、忘れたいから、県外の高校受験して、春休みに整形したんです。あれからです。私の人生全部が、順調に流れだしたのは」
 流奈は堰を切ったようにまくしたてる。
「手の平返したような周りの態度に、びっくりですよね。しょせん、女は顔なんだって心の底から思いましたよ。あれだけ無視してた連中が、人が変わったみたいにベタベタちやほや」
 果歩は黙って聞いている。
「顔がよければ、何もかも上手くいくんです。私の人生、整形してから180度変わりましたから。あの女が出てくるまで、バカにみたいに、何もかも順調だったのに」
「だったら、それでいいじゃない」
 つい、口を挟んでいた。
「は? 何言ってんですか?」たちまち流奈が噛みついてくる。
「いいわけないじゃないですか。昔の写真で脅されてんですよ、私」
「放っておけばいいじゃない」
「………」
 心底呆れた眼になった流奈は、馬鹿にしたように鼻で笑った。
「生まれついての美人はいいですよね。さぞかし今、気分がいいんじゃありません? 整形してるのがバレて、しかも昔のブス時代の写真がさらされて、どうやって平気でいろっていうんですか」
 果歩は、次第に苛々してきた。
「だったら顔、元に戻せば?」
「はぁ?」
「できないんでしょ? 整形したおかけで、人生上手くいってんでしょ? だったら腹括って、その顔背負って生きていけばいいじゃない」
 物言いたげに口を開いた流奈が、悔しげにそれを閉じる。
「……的場さんには、判らないですよ」
「さっぱりね。私なら、そんなことで役所をやめたりしないから」
「的場さんは、美人だから判らないんです!」
「だから判らないって言ってるじゃない!」
「的場さんは……」
 ぶわっと流奈の目に、涙が膨れ上がった。
 果歩は息を飲み、そのまま言葉を失っている。
「的場さんは、なんでも持ってるじゃないですか……」
 そのまま両手で顔を覆った流奈の背に、果歩は手を当てていた。
「私には……何もないのに……」
 見上げた空、星が、降るほどに綺麗に見えた。
 ふと、胸に月光が沁み入るように果歩は静かに理解していた。
 ああ……そっか。
 これが流奈の拠り所だったんだ。顔という外見が。
「若いじゃない」
 軽く背中を叩くと、流奈は黙って背だけを震わせる。
「それに、いい性格してるし」
「……トドメですか、それ」
「負けて辞めるなんて、流奈らしくないよ」
 そんなの――全然流奈らしくない。
「私が、少しばかり負けたって思った流奈らしくない……」
 流奈はまだ泣き続けている。
 次第に大きくなる泣き声を聞きながら、果歩は初めて小さな背中を愛おしいと思っていた。

 *************************

 タクシーを降りてすぐ、果歩はぎょっとして足を止めていた。
 不審者――。
 街路灯だけが頼りの暗がりの中。マンション前の敷地境界線ぎりぎりを、うろうろしている大柄な男。
 まさかと思うけど、あいつらがここまで追いかけてきたんじゃ……。
 果歩の気配に気づいたのか、振り返った男が、いきなりこちらに向かって駆けてくる。
 咄嗟に逃げようとした果歩だったが、こんな大きな人は滅多にいるもんじゃない――と、ようやく気づいて足を止めた。
 まさかと思うけど。
「藤堂さん?」
 街路灯が逆光になって、男の顔を影で覆い隠している。勢いよく駆けてきた男は、果歩の数歩前で足を止めた。
 わずかに息を切らしている。額に汗を滲ませて果歩を見下ろしているのは、紛れもなく藤堂だった。
 仕事の帰りなのか、ネクタイに上着を身につけている。それが――気のせいか、いつもより上等に見える。
 緩めたネクタイとシャツの襟から、少し汗ばんだ肌が見えた。
「藤堂さん、え……? なんで」
 果歩はただ、混乱している。
 それ以上言葉が継げなくなったのは、自分を見下ろす藤堂の目が、ひどく怒っていたからだ。
「…………」
「…………」
 ――どうして?
 なんで……、そんな眼で私を見るの?
 どこか遠くで、車のクラクションの音が聞こえた。
 怒っているのに――何故かその刹那、抱きしめられそうな気がした。
 暗い翳りを帯びた藤堂の唇が、ようやく開く。
「須藤さんは?」
 このセリフに、果歩の肩は、がっくりと落ちている。
 そ、そうですか。まずそっちの心配ですか。
 だったらうちじゃなく、流奈の家の前をうろうろしてればよかったのに。
「大丈夫です。家までタクシーで送りましたから」
「……そうですか」
 ようやく安堵したのか、藤堂は大きく息を吐いた。
「だから、全然大丈夫って言ったじゃないですか」
 果歩は、少し意地になっていた。
「父親じゃないんですから、年下のあなたに、飲み会の心配までしてもらう必要はありません。だいたい、私をいくつだと思ってるんですか」
「それは、すみませんでした」
 嫌味のない声で素直に謝られ、逆に果歩は拍子抜けしている。
 藤堂は、照れたような苦笑を浮かべ、視線を下げた。
「百瀬さんが、心配しておられたようなので、つい、様子が気になってしまって」
「乃々子が?」
「彼女にしろ、僕にしろ、少々深刻に考えすぎていたようです」
「はぁ……」
 意味が判らない。先に返ったはずの乃々子がどうして?
 不審に思ったが、歩きだした藤堂に、これ以上説明する気はないようだった。
 そういえば、携帯。
 慌てて開くと、案の定、ほとんどが乃々子からの着信だ。
 帰り際の様子がおかしかった乃々子は、彼女なりに不審なものを、今夜の面子に感じていたのだろうか。
「…………」
 最後の3件は、藤堂からの着信になっている。
 携帯を閉じ、果歩は藤堂の背を追って歩き出した。
 もしかして。
 意味はよく、わからないけど。
 私を心配して――ここで待っててくれたのかな。
 藤堂は、マンションの外壁沿いに、裏手のほうに向かっている。そこに停めてある自転車に気付き、果歩は目を見開いていた。
「まさかと思いますけど、ここまで……自転車で?」
「たいした距離じゃないですよ」
「たいした距離ですよ!」
 さすがに呆れて言葉がでない。で、ここから彼のアパートまで帰るのだろうか。この小さな自転車で。
「あの……藤堂さん」
「はい」
「…………」
 大きな背中。
 なんだかんだ言っても、私のことを心配して、ここまで駆けつけてくれた人。
「役所、辞めないでください」
 振り返りかけた横顔が止まる。
「私のことなら、気にしなくて大丈夫です。正直言って、怒ってましたけど……今日ので、チャラにしてあげます」
「……ありがとう」
 戸惑いが、低い声に現れている。
「どんな事情があるのかは判らないですけど、で、話したくないなら、あえて聞いたりもしませんけど。……まだ……」
 果歩もまた、声が途切れ、そんな自分に戸惑って視線を逸らす。
「完全にふっきれたかと言えば、それは……まだなんですけど、でも、ひとまず、これからも一緒にやっていける程度には回復したと思います」
「…………」
 藤堂は黙っている。そのまましばらく、息を詰めたような沈黙があった。
「的場さんは」
 静かな、けれど確かに思い詰めたような声だった。背中しか見えない果歩に、彼の表情までは判らない。
「僕のことが」
「……はい」
「…………」
 僕のことが?
 僕のことがって、何?
 が、今にも核心に触れそうなほど真剣だった藤堂の背中に、ふと不思議な静けさが広がった。
「……いや、なんでもないです」
 えっ?
 ようやく振り返った藤堂の眼差しは、落ち着いた微笑を浮かべていた。
「もしかすると、明日は大変な1日になるかもしれない。覚悟だけはしておいてください」
 居住まいを正すと、そのまま、果歩に向きなおって一礼する。
「すみませんでした。夜分遅くに」
「あ、あの」
 物言いたげな果歩に、藤堂はわずかに白い歯を見せた。
「今回も、僕の負けですね」
「?」
「……何も、判っていなかった。それはいい意味で、ですが」
「はぁ……」
 何が言いたいんだろう。いつも判りにくい人だけど、今夜は手がかりさえ掴めない感じだ。
「じゃ」
 妙にすっきりとした笑顔だった。
「え、あの」
「失礼します、また明日」
 男の逃げ足は早かった。わけがわからない暗闇の中、果歩1人が取り残される。
 えーーーっっ??
 ちょっと待ってよ。何、いったい何が言いたかったわけ?
 これじゃ気になって、眠れそうもないじゃない。
 信じられない。年下で、一見恋に疎くて不器用そうなのに。
 なんて卑怯で、駆け引き上手な男なんだろう――。


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