(言っときますけど、相当手ごわい相手ですよ、彼女) 階段を降りる果歩の耳に、先ほど聞いた流奈の声が蘇る。 (入江さんも、私も、安藤香名もそうですけど、男を落としこむ術にかけちゃ、ある意味スペシャリストじゃないですか) 全部話してふっきれたのか、ライバルを語る流奈の口調はさばさばしていた。 まぁ、その発言には、なんと言っていいか判らない果歩だったが。 (あの女は、そのさらに上をいってるんです。なんていうんだろ、全ての女の敵っていうか、ある意味、究極の男たらしというか) そ、そんなにすごい人なんだろうか。 果歩は、入江耀子の自信満々の笑顔、安藤香名の凄味を帯びた眼差し、流奈の小悪魔的な微笑を走馬燈のように思い浮かべている。この3人だけでも、どうにも太刀打ちできないというか、同じ土俵で比べられたくないとさえ思うのに、そのさらに上をいく存在?? (すごいっていうか……まぁ、そうでもないというか……その辺りが、微妙な人なんですけど) そう言った流奈は、本当に不思議そうな表情を浮かべていた。 (ただ、これだけは言えますけど、的場さんだったら、多分、5分で撃沈だと思いますね。出会った瞬間に、白旗あげて諦めちゃうんじゃないですか) どういう意味だろう。想像だけが膨らんで、ますます不安が増してくる。 いったい、どういう人なんだろう。セレブ漫画に出てくるみたいな、とんでもないスーパーお嬢様だったりするんだろうか。 私はその人に――本当に、本当に太刀打ちできるんだろうか。 ************************* 総務課。―― 「藤堂さんは?」 戻った果歩は、思わず隣席の南原に声をかけていた。 まだ6時前だというのに、珍しく藤堂の席が片付いている。 「帰ったよ、ついさっきだけど」 携帯をいじりながら、南原が答えた。 「あ、僕、更衣室で見ましたよ」 ひょい、と振り返ったのはパソコンを打っていた水原だった。 「珍しくネクタイなんか締めちゃって、別人みたいにぱりっとしてたなぁ。あれですかね、もしかすると、今夜はデートじゃないんですか」 「ありえねーだろ、あの朴念仁が」 「いや、あり得るんじゃないですか」 珍しく口を挟んだのは、帰る間際の大河内主査である。 「こないだの夜も、仕事中に電話が入って、約束があるような話をしてましたからね。お父さんがどうとか言ってたから、彼女の両親に挨拶にいくのかとも思いましたけど」 「まじっすか??」 「おいおい、相手、須藤じゃなかったの?」 果歩は、妙に冷静になっていた。冷静というより、頭の中はずっと別のことを考え続けている。 「それ、いつの話ですか、主査」 「いつだったかなぁ」 大河内は、顎のあたりに指を当てる。 「ああ、そうだ。先週、的場さんたちが飲みに行った夜ですよ。女の子ばかりで、連れだって行かれたじゃないですか」 「…………」 あの夜。―― 藤堂が向かったのは、電話の相手ではない。 私のところだ。 自転車で、汗をいっぱいかいて。 それから、すごく意味深なことを言われた気がする。 いやいや、待て待て、騙されるな、果歩。 もしかすると彼は、彼女との用事を済ませたその足で、来てくれたのかもしれない。 仕事には器用な人だし、体力だけはありそうだから、その程度の労などなんでもないに違いない。 でも。―― でも、信じたい。 あの夜、彼は全てを捨てて、私のところにだけ来てくれたのだと。 「南原さん、今日、私お茶当番なんだけど」 果歩は、ぼんやりと前を見たままで言った。 「ん? そうだっけ」 何を見ているのか、携帯を手にした南原はにやついている。 「ごめん! 代わって! この借りは何倍にもして返すから!」 「はぁ?」 「ごめん!」 果歩は駆けだしていた。 どうしても、今、気持ちを伝えないと、本当に何もかも手おくれになってしまうような気がした。 伝えないと。 先のことなんて判らない。でも、今、気持ちを伝えないと。―― ************************* 「とうど、」 エレベーターホールで、大きな背中を見つけたと思ったものの、すぐに大勢の人の波に紛れ、閉じたエレベーターは降下していく。 隣のエレベーターは、まだ、15階あたりで停止している。 丁度、帰宅時の混雑と重なってしまった。果歩はいらいらとエレベーターを待ったが、すぐに見切って非常階段に向かった。 一気に階段を駆け降りる。12階――先のことは考えなかった。息が切れ、髪がほつれた。時に足がもつれそうになる。 やっとの思いで一階に辿り着く。大きく息をしながらエレベーターホールに駆けつけると、藤堂を乗せていたエレベーターは、すでに上昇に転じていた。 ホールには、降り立った人が溢れている。 藤堂さん。―― まだ、間に合うはずだった。まだ。 どこかでもつれてしまった糸を、もとに戻すことができるはずだ。 忙しなく視線を巡らすと、大きな背中が、時計を見ながら北側玄関を出ていくのが見えた。 「藤堂さん!」 周囲の人が、何人か振り返るが、藤堂は気づかずに透明なドアの向こうに消えていく。 果歩は後を追った。 「すみません、あの、ごめんなさい」 混雑しているロビー。他人との衝突を気にしている間に、藤堂の後姿を見失っている。 ようやく、人を抜けて外に出る。 ここは、灰谷市でも有数のオフィス街。外には、他のビルから溢れ出たサラリーマンも含め、沢山の似たような背広姿が行き交っている。 それでも、藤堂の一際大きな姿はすぐに判った。 役所前の信号を、丁度半ばまで横断している。 どうして、自転車じゃないんだろう。―― 後を追って走りながら、黒っぽい上下のスーツをまとった藤堂が、やはり今日、特別な約束があるような気がしてならなくなっている。 信号が赤になる。――果歩は走り抜けた、クラクション、「市職員、信号無視」これで市長あてに苦情でもあれば、総務に呼ばれて始末書を書かねばならないのが昨今の公務員である。 バス停の少し手前で、藤堂が足を止めている。横顔が、もう一度時計を見る。 動かないで――そのまま。 あらかじめ呼んでいたのか、彼の前に、黒いタクシーが滑り込む。 果歩はようやく、藤堂の腕を掴んでいた。 「藤堂さん!」 びっくりしたように振り返られる。 「的場さん?」 「ま……、あの……」 いまさらのように息が上がって、言葉が何も継げなくなる。 「どうしました、何かありましたか」 緊急事態とでも思ったのか、藤堂の声も焦燥を帯びる。 違うんです。仕事のことじゃなくて、あの。 果歩はただ、うつむいて呼吸を整える。 汗がひとしずく頬に零れた。 動悸が、違う意味の激しさをもって、胸から喉に上がってくる。 言わなきゃ。―― 私、――私、好きだって言わなきゃ。 ふられたのかもしれないけど、まだ納得できないって。 もう一度、きちんと話し合いたいって。 果歩は、意を決して顔をあげた。 眼鏡越しの藤堂の目が戸惑っている。が、確かに戸惑ってはいるものの、その中に、戸惑いとは違う何かの――強い意志の断片みたいなものがよぎったのを、まるで以心伝心のように果歩は感じとっていた。 その眼差しは、今までにも何度も見た。 キスをする直前のそれにも似て、果歩は一時、呼吸を止め、ただ、藤堂の顔を見つめている。 その刹那、言葉にはしなくても、確かに果歩は藤堂を好きだと言い、彼もまた、同じ思いで果歩を見ているような気がした。 近くで鳴ったクラクションが、はっと果歩を我に返らせていた。 「的場さん」 「藤堂さん」 間がいいのか悪いのか、同時に口を開いた時だった。 「どうしたの、瑛士」 柔らかくて、どこか間延びした緩めの声。 停まっている車がタクシーではないことに、果歩はようやく気がついた。 形状は極めて黒タクに似ているが、てっぺんに社名のマークがない。顔が映るほど磨き抜かれた黒のクラウン。 すーっと開いた後部座席のウインドウ。顔をのぞかせているのは、30代後半あたりの、抜けるように肌が白い和服姿の女性である。 筆で掃いたようなほんのりとした眉。眉の下にあるのは糸みたいに細い眼だが、それは驚くほど長く切れあがり、不思議な和の美を放っている。 また、目の細さとは対照的な唇の厚みと柔らかさが、一種凄味があるとも言える、女の美貌を否応なしに引きたてていた。 この人が婚約者。――と思うほど、果歩もとちくるってはいない。 が、かといって母親とも思えなかった。そんな所帯じみたイメージとは全く別の場所に、この女性はいるように見える。 和美人は、果歩を見上げて、不思議そうな眼をしたものの、すぐに淡く微笑した。 笑い方は控え目なのに、それは濡れた花が開いたような、妖艶なものを感じさせた。 「どなた? 同じ職場の方?」 「ええ」 問われた藤堂は、ますます困惑の色を強め、その目で果歩を振り返る。 何か言いたげに見えた。何か、ひどく大切なことを。 「奥様、もう出なければ」 低い男の声がした。運転手――なのだろう、多分。もう一度クラクション、当たり前だがここは国道、駐車禁止区域である。 「瑛士さん、早く乗って」 明るい声がしたのは、その時だった。 ただ明るいというだけでなく、透き通った鈴を転がしたような、かろやかで綺麗な声である。 間髪いれず、車道側の後部扉がいきなり開いた。 背後からは、迷惑気に中央寄りに進路を変えた車が、びゅんびゅん通り過ぎている。 「あっ」 果歩も驚いたが、藤堂も相当驚いていた。 その道路に、後部座席から出てきた女が、いきなり飛び出したのである。 けたたましいクラクション。女が、目の前を通り過ぎるトラックに驚いて悲鳴を上げる。 果歩には、ホワイトピンクの上着と、さらっとした肩までの髪だけが見えた。そして、隣の藤堂が駆けだしていったのが。 危ないなんてもんじゃない、国道で、背後も見ずに道路側の扉を開けるなんて。―― もう一度、大きなトラックが接近する。思わず叫びかけた果歩の目の前で、藤堂が、ようやく女を抱きとめた。 よほど動揺したのか、その肩が大きく上下している。 「何をやってるんですか、もう」 「ごめんなさい、こんなに車が多いとは思わなかったから」 そんな会話が、切れ切れに聞こえた。 藤堂に庇われるようにして、女が、果歩のいる歩道に近づいてくる。 果歩は不思議な気持ちで、並び立つ2人を見つめていた。 「……的場さん」 藤堂の目が、迷うように傍らの女と果歩――2人に交互に向けられる。 女は、年の頃は20代前半に見えた。バランスのいいほどよい背丈で、とりたてて細くもなければ太ってもいない。服装はホワイトピンクのボレロとスカート。髪は肩までのミディアムで、眼だけが印象的にくるっとしている。 ああ。と、果歩は思っていた。 まさか、こんな風にいきなり出逢うとは思ってもみなかった。 この人が――藤堂さんの、婚約者で。 今、藤堂さんは、この人を私にどう紹介するか、きっと、それで迷っているんだ……。 「瑛士さん?」 女が、不思議そうな眼で藤堂を見上げて果歩を見る。 その手は、まだ藤堂の腕を掴んでいる。藤堂もそれを――離そうとはしない。 なんだろう、この気持ち。 ぼんやりと果歩は考えている。 例えて言えば、頼りにしていた何かから、いきなり突き放され、ふっと一人ぼっちになったような感じに似ている。 「的場さん、彼女は」 ようやく、藤堂が唇を開く。が、それを遮るように、傍らの女が両手をぱっと口元にあてた。 「あっ」 素っ頓狂な声である。 が、同時に可愛い人だな、果歩は素直に思っていた。 どこがどうというわけではない。容姿もスタイルも十人前で、際立った美人とはとても言えない。流奈の言う通り、本当に普通だ。 が、不思議な魅力が女にはあった。くるっとしたよく動く眼差し、愛らしい唇。なにより、誰にでも心を開く人懐っこさが、全身から感じられる。 第一印象から受けた直感を証明するかのように、女は、無防備に果歩に近寄ってきた。 「的場さん? ね、的場果歩さんですよね」 「香夜、さん……?」 果歩は条件反射で答えている。 「わぁっ、私のことも、瑛士さんが話していてくれたんですね。嬉しい」 香夜は、ぱぁっと顔を輝かせた。 傍らで、藤堂がいったいどんな表情を浮かべているのか。果歩には見る余裕がない。 人懐っこい笑顔のまま、香夜は果歩の腕を絡め取った。 「あの、よかったら、的場さんもご一緒にどうぞ。お話の続きは、車の中でなさったらいいでしょう? お見舞いは、大勢のほうが賑やかで楽しいですもの」 言葉づかいに、自然な品のよさが滲んでいる。間近で見てはっきりと判った。香夜の身につけている服は、デイオール……靴はエルメス、しかも、かなりの高級品だ。 あどけなささえ漂う笑顔が、期待に胸をわくわくさせる、といった風に、果歩を下から見上げている。 「的場さんは……まだ、仕事がありますから」 今、置かれた立場では、かなり微妙な困惑を見せながら、藤堂が後部座席の扉を開けた。 「僕は、後から行きますから、母と先に行ってもらえませんか」 「まぁ、それは残念、」 その瞬間、振り向いた女が、果歩の視界から消えた。 消えた――ように見えたのだ。実のところ、その人は、足をひねらせたか躓いたかして、その場にしゃがみ込んでいる。 別に、足元に傷害物があったわけではない。 果歩は少し驚いて、が、すぐに香夜を助けようとかがみこんだ。 「しっかりしてください」 それより早く、藤堂が手を伸ばしていたと気付いたのは、香夜が、それが当然のように藤堂の腕にすがりついたからだ。 「うー、いたい……」 「さ、立って、無駄に、高い靴なんて履くからですよ」 「だって、瑛士さんが高すぎるから」 慣れた手つきで女を立たせる藤堂は、苦り切った眼をしている。その眼が、申し訳なさそうに果歩に向けられる。 「すみません、何もないところで転べる人なんです」 「まぁ、ひどい。そんなことありません」 ぷうっと頬をふくらませて、香夜は恨むような目を藤堂に向けた。 やはり果歩は、不思議な疎外感を感じたまま、手を取り合う2人を見つめていた。 まるで、ずっと以前からこうして寄り添っているのが当たり前のようにしっくりくる2人。 この2人の過去に、果歩の知らない長い長い時間があることを、否応なしに思い知らされずにはいられない。 そうだ、確かに流奈の言う通りだ。この人の存在は最強だ。 果歩も流奈ももっていない。時間という強みを持っている。 私だったら、ものの数秒で撃沈……それも、ある意味、正解だ。 「瑛士、今夜だけは、我儘は許しませんよ」 不意に車の中から、和美人の声がした。 半ば開いた窓越しに、細い目が、じっと藤堂を見上げている。 「それとも、どうしても今夜、お話しないといけないことなのかしら。ご病気のお父様を後回しにしても?」 柔らかいが、有無を言わせないその言葉は、藤堂より、むしろ果歩に向けられているような気がした。 病気――お父さんが。 藤堂は、視線を下げたまま、何も言おうとはしない。 「いえ……私は、明日でも大丈夫ですから」 呟いた果歩の額から、今さらのように汗が落ちた。 不意に果歩は、自分がひどく惨めで、みずぼらしい格好をしていることに気がついていた。 着古したカーディガンに、サンダル。髪は走った勢いで乱れ、メイクは多分、思いっきり崩れている。 何故か、ずっと忘れていたはずの――過去の1ページが胸の深い所に蘇っていた。 (――役所の方ですよね) (ごめんなさい。もしかして制服のまま来られたのかなって思ったものですから) 「あ……、ごめんなさい。大した話じゃないんです。仕事のことで、ちょっと気になったものですから」 藤堂が、何か言いたげに口を開く。 その唇が、言葉を発する前に、果歩は頭を下げ、踵を返していた。 「明日、僕も話があります」 背後で、藤堂の声がした。 「待っていてもらえますか、屋上で」 「…………」 その言葉が、彼なりの意思表示を、――果歩にではなく、彼の母親と婚約者に示したのだということは、判った。 なのに果歩は、頷くことも振り返ることもできないまま、わずかに止めてしまった足を、そのまま庁舎に向かって動かしていた。 (無駄に、高い靴なんて履くからですよ) (だって、瑛士さんが高すぎるから) 頭の中には、自分の知らない時間を共有しているはずの2人の姿が、まだ色濃く焼き付いていてる。 藤堂さんの、婚約者。―― 事情は、よく判らない。でも確かに、全てが流奈の言うとおりだった。 藤堂さんにとってあの人は、かなり特別な存在なんだ。―― もう一人の年下の上司(終) |
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