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年下の上司 story7〜 October

もう1人の年下の上司(4)


 うららかな秋晴れだった。
 澄みきって青い空には、一点の翳りもない。
 こんな空が、この街にもあったんだなぁ。
 屋上のベンチに腰を下ろしたまま、果歩はぼんやりと天の蒼を見上げた。
 1日の大半を役所で過ごすようになって10年近く、いつの間にか空の変化にさえ、関心がなくなっていたのかもしれない。
 ふと、2年前に、辞めた同期のことを思い出していた。
 区役所の総務課勤務で――総務に異動する前が、激務で名高い本庁の障害福祉課。月の残業が200時間を超え、流産も経験していたという。当時の区総務は、庁舎移転を控えており、本庁時代とさほど変わらない残業が続いていたのだろう。
 青い空が見たくなった。
 いきなりの退職内示が流れた後、慌てて電話した果歩に言ってくれた言葉がそれだった。
 疲れたでも、辛いでもなく、「青い空が見たくなった」
 残業続きで、精神的にきつくなったんじゃないの?
 周囲はそう噂したし、そうとしか思えないいきなりの退職だったが、それだけのことで辞めるタイプには思えなかった。
 もちろん、果歩にも本当の理由までは判らない。
 ただ、こうして、心ごと吸い上げられそうなほど青い空を見上げていると、何やってんだろ、私。みたいな気持ちになってくる。
 広い広い世界の端っこで、星の煌めきよりも儚い存在。
 なのに、しょーもないことで、夜も眠れないほど悩んだりして……。
「すみません、遅くなりました」
「いえ」
 悩みの根源がやってくる。
 何を言われても受け止めよう、そう覚悟していたはずなのに、隣に座る人の気配を感じながら、果歩は心臓が石になったような気がしていた。
「いい天気ですね」
「ええ、仕事をしているのがもったいなくなります」
 たわいのない会話を交わす。
 昼休憩の屋上。ランチを広げる女子職員や、束の間の昼寝を楽しむ男性職員らがちらほらしている。藤堂は手ぶらだったし、果歩もまた、何も持ってきてはいなかった。
 ただ果歩は、膝に置かれた藤堂の手だけを見ている。昨夜も、つい見惚れてしまった。筋ばって大きな手――、無骨だけど綺麗な指。……
 ふと、幻のような雨音が聞こえた気がした。
 雨――? むろん、空は晴天である。
「どれだけ責められても、仕方がないと思っています」
 いきなり核心に切り込む声で、果歩ははっと我に返った。
 藤堂は、眼差しを固定させたまま、ただ、足元の影を見つめている。
「僕は、あなたにひどいことをした。……本当に申し訳ない、今は、それしか言えません」
 昨夜垣間見せた驚きも動揺も、今の藤堂の横顔からは感じとることができなかった。
 果歩は唾を飲み込んだ。石のように固まっていた舌が、ようやく恐々と動き出す。
「謝るだけですか」
 言葉尻がわずかに震えた。
「あの夜のこと、言い訳は何もしないんですか」
「ありません」
 間を置かずに戻される言葉は、この件に関し、藤堂の中で明確な結論が出ていることを意味しているような気がした。
「昨日、何を言いかけたんですか」
 ぎりぎりで感情を堪えて、果歩は訊いた。
「藤堂さんは、私に……何か、言っていないことがあるんじゃないですか」
「……そうかもしれません」
 藤堂の目がすがめられ、そのまま静かに伏せられた。
「ただ、それを口にしたところで、……何かが変わるというわけでもないですから」
「…………」
「もう、終わったことなんです」
 動かない横顔。
 もう、結論の見えている話合い。
「私より」
 感情の高ぶりと、現実を認めまいとする葛藤が、果歩の理性を揺らしている。絶対に口にしたくないと思っていた一言は、あっさりと唇から滑り出ていた。
「須藤さんのほうが、好きだということなんですか」
 それには、藤堂はしばらく黙っていた。
 否定も肯定もしない横顔は、初めと同じように自身の足元に向けられている。
 かっと、頬に血が昇るのが判った。
 その、しれっとした優しげな顔の下で、今この人は、私と流奈を比べているんだ……。
 怒りの塊が手の平から突き上げ、果歩はスカートの裾を直すふりをして、かろうじてそれを誤魔化した。
「もういいです」
 代わりに、怒りを隠しきれない声が出た。
 どうしていつも流奈なんだろう。
 晃司にしても、藤堂さんにしても、どうしていつも、私が同性として最も嫌いで、比べてほしくない相手と私を――天秤にかけようとするのだろう。
「もういいです。本当によく判りましたから。はっきり言ってくださってありがとうございます」
 何故、こんな惨めな気持ちを、二度も味あわなくてはならないのだろう。
「的場さん」
 立ちあがった刹那、藤堂の声が掛けられた。
「言い訳ではありません。ただ、須藤さんのことでひとつ言えるのは」
 思い詰めているのが、はっきりと判る口調だった。
「僕は彼女に対して、あなた以上にひどいことをしてしまったということです」
 頭の中で、理性を束ねていた箍が、その刹那弾け飛んでいた。
「ひどいことってなんですか。キスですか、それともそれ以上のことですか。それなのにあなたは、今みたいに優柔不断にぐずぐず迷っているんですか」
 早口に出た言葉が、自分の口から出たものだと、しばらく果歩には判らなかった。
「ひどいことをしてる自覚があるなら、さっさと須藤さんのところへ行ったらどうですか。もう、迷う必要なんてありませんよ。私のほうから、あなたみたいな人は願い下げです。今までもしたことなんてありませんけど、未練がましい真似は二度としませんから、どうぞ安心してください」
 藤堂は黙っている。
 伏せられた目は、降りかかる罵詈雑言に耐えているようにも、寂しそうにも見えた。
「的場さん」
「なんです、まだ何かありますか」
「僕は、今年いっぱいで退職します」
「……そうですか」
 一瞬、吐胸を突かれた衝撃は、すぐに収まりきらない怒りにとって代わられる。
「家の事情で、やむなくそういうことになりました。この話をしたのは、的場さんが初めてですが」
「誰にも言いません。その程度のわきまえはありますから」
「ありがとう」
 理解できない悔しさで涙が滲みそうになる。果歩はぐっと堪え、ただ足元のコンクリートを睨み続ける。
「お腹立ちは、最もだと思います。ただ……虫のいいお願いですが、その時まで、同僚として、これまで通り接していただければと思っています」
「部下として、そうさせていただきます。もちろん公私混同するつもりはありませんから」
 切口上で言い、果歩は視線を下げたまま、頑なな態度で身を翻した。
「的場さん」
「まだ何か」
 背後で、藤堂がひとつ息を吐く。
 果歩は、感情的になりすぎていた自分に気づき、精一杯の深呼吸をしてから――振り返った。
「お話があるならどうぞ。それは、上司としての話ですか」
「僕は、あなたを自分の部下だと思ったことは一度もありません。ただ、同僚として、聞いて下さい」
 ベンチに座り直す気にはなれなかった。無言のまま立っていると、わずかにためらってから、藤堂が口を開いた。
「あなたは、局の女性では一番の年長者であり、立場的にも、女性職員を精神的に取りまとめる立場にいると思います」
「は?」
 さきほど、公私混同しないと言ったばかりなのに、果歩は自分でも呆れるほど冷たい切り返しをしていた。
「意味が判りません。そんな立場にいつなったんでしょうか」
「なる、ならないではなく、そのような立場だと周囲が認識し、期待しているということです」
「じゃ、戻って業務分担表を見てみます」
「…………」
 自分が今、社会人としても女としても、最低の態度を取っていると自覚するだけの冷静さは残っていた。
 藤堂がひとつ息をつく。
「……もちろん、それは周囲が勝手に的場さんに押し付けた期待であり、的場さんが応える必要はありません」
 声だけは、腹立たしいほど冷静だった。
「ただ、そのような眼で見られているという意識だけはあったほうがいいということです。たとえば、局の女子職員に何か大きな変化があった時、真っ先に筆頭責任者として名前が出てくるのが的場さんということになる。同僚としての、面映ゆいようですが、一意見としてお耳に残していただければと思います」
 意味をはかりかね、眉をひそめた果歩は、ある事実に行きあたって、強い、今度こそ理性で抑えきれないほどの激しい動悸を感じていた。
「はっきり仰ってもらってかまいませんけど」
 果歩は、拳を握りしめながら藤堂を見下ろした。
「それは、あれですか。昨日の飲みに、1人だけ参加しなかった人のことを言っているんですか」
 藤堂は黙っていた。
「誤解があるようなので、一言だけ言いますけど、須藤さんが来られなかったのは、本人が出席を拒否されたからだと聞いています。別に、故意に彼女1人を外したわけじゃありませんから」
 やはり藤堂は答えず、代わりに表情を固めたまま、小さな息を漏らしていた。
「もうひとつ、言っていいなら」
 果歩は続けた。溢れた感情が止まらなくなっている。
「連日のように藤堂さんに会いに来る、須藤さんの態度のほうがよほど問題なんじゃないでしょうか。それを棚に上げておいて、いったい私に何をしろと言うんですか」
「それは、確かに僕の責任だと思っています」
「よかった。そんなことまで私の責任にされるのかと思っていました」
 厳しく言い捨てた時、初めて藤堂の目に、わずかだが怒りの波が掠めるのが判った。
 果歩は逆に顎を上げた。
 いっそのこと、怒りでもなんでもぶつけて欲しいとさえ思っている。
「失礼なことを言いました」
 が、藤堂は、水のように静かな表情で立ちあがった。
「同僚としてと言いましたが、やはり、上司として言いました。僕にとって的場さんは、大切な先輩であり、部下ですから」
「…………」
 果歩は黙っていた。
「お気に触ったなら、謝ります。すみませんでした」
 やはり、果歩は黙っていた。
 日差しが強くなり、一時強くコンクリに焼きついた影が、音もなく滲んで遠ざかる。
 頭の中には、まだ整理できない感情が溢れかえっていた。
 傷つけられるために来たのに、自分のほうが、むしろ強く藤堂を傷つけてしまったような気がする。
 バカじゃない? 私。
 どうしてもっとスマートに、大人の女性らしく、素直に身を引くことができなかったんだろう。
 相手は私より、4歳も年下なのに。
 最後まで逃げずに、冷静に接してくれたのに。
 なのに私のほうが、最初から最後まで、けんか腰で挑発して。
 バカだ、私。
 まるで高校生かそこらの小娘みたいじゃない。
 気がつけば、足はふらふらと階段を降り、人事課のフロアに向かっていた。
「あれ? 果歩?」
 トイレからハンカチを咥えて出てきたりょうに、ものも言わずに抱きついた。
「? ?? なに? なになに、なんの真似?」
 りょう。
「どした、果歩、何があった」
 りょう、私、ふられちゃったよ……。

 *************************

「落ち着いた?」
「……食べ過ぎて、胃が痛い」
 微かに笑ったりょうは、仰向けに倒れたままの果歩の頬を指で弾いた。
「で、明日からは、今日食べた分だけダイエットするんだ。なんのためのやけ食いだか」
 むっと、果歩は唇を尖らせる。
「悪い? もとが綺麗なりょうと違って、私は努力で維持してるんだから」
「みてくれなんて、清潔だったら、それでいいと思うけどね」
 りょうが、胃薬と水を注いだグラスを手渡してくれる。
 果歩は、半身を起してそれを受け取った。
 一人暮らしのりょうのマンション。
 リビング、寝室を問わず、壁面をびっしりと埋めた書棚には、本、本、本、本の山。
 ビジネス書や法律書にとどまらず、エッセイ、歴史、小説の類が襲いかからんばかりに壁を埋め尽くしている。
「こんな部屋で、寝れる?」
「世界で一番くつろげる場所よ」
「信じられない。悪夢みそう」
「私は果歩の部屋がダメ。香水とお化粧とダイエット器具に埋もれて死んじゃいそうよ」
 胃薬を飲みほし、果歩はむっくりと起きあがった。
「ポテチある?」
「まだ食べるの??」
「胃がすっきりしたら、欲しくなった」
 呆れながらも立ち上がったりょうが、棚からうま塩味を取り出してくれる。
「食べないのに、買い置きがあるんだ」
「ここは果歩の避難所だからね」
 避難したのは、たった一度。しかも7年も前のことだ。
 もちろん、ポテトチップスの賞味期限は7年前の日付ではない。
 照れ臭さにも似た胸の温みを感じた時、ベッドに腰を下ろしたりょうがくすりと微笑した。
「それにしても、果歩にしては、あがいたね」
「……なんの話よ」
「だって、私が知る限り初めてだもん。男の人と別れる時、果歩が泣いたり喚いたり……あげく、相手を罵倒して、ぐーで殴ってとどめだなんて」
「ひっ、人聞きの悪いこと言わないでよ。殴ったのは随分前だし、しかもぐーじゃなかったわよ!」
「それを進歩とみるのか、後退とみるのか」
「もうっ」
 りょうは楽しそうに、くすくすと笑っている。
「真鍋さんに逃げられちゃった時、私がいくら張り飛ばそうって意気込んでも、ただ、涙ぐんで身を引いただけの果歩がねぇ」
 封印していた過去に、なにげなく触れられる。
 少し黙ってから、果歩は両膝を腕で抱いた。
「彼は……年上だし、立場もある人だったから」
「藤堂君は年下だもんね。いい子ぶりっ子の果歩でも、さすがに本音が出せちゃうわけだ」
「…………」
 そうだろうか。
 よく判らないし、今はあまり考えたくない。
「でも、いくら年下でもよ? あのデリカシーのなさは考えられないわよ」
 果歩は薄いチップスを摘まみ、口の中に放り込んだ。
「普通言う? さんざん気をもたした相手にごめんなさいって謝ったその口でよ? 上司としてでなく同僚としてとかなんとか……なんの話かと思ったら、結局流奈の心配なのよ。冗談じゃないわよ。なんでもかんでも、流奈の言い分を真に受けて」
「ま、恋する男ってそんなもんじゃない?」
「まぁ……そうかもしれないけど」
 りょうの切り返しに、果歩は内心、「そんなんじゃない」と反論したい、理不尽な衝動を感じていた。
 ばかだな、と口を噤む。
 こんなになってもまだ、藤堂さんを信じたいと思う自分がいる。
 自分では目茶苦茶なことを言ったくせに、他人に彼をけなされると我慢ならない自分がいる――。
 立ちあがったりょうが、締め切っていた窓を開け放つ。
 秋の夜風が、涼やかに室内を潤していった。
「藤堂君のご指摘、少しは耳に留めておいたほうがいいかもよ」
 微笑を浮かべたりょうの横顔は、果歩の内心などお見通しのように見えた。
「どういう意味?」
「ずばり、私はこう読んだけどね。入江耀子には気をつけろ」
「…………」
 三拍置いた果歩は、失笑を堪えてりょうを見上げた。
「なにそれ、どういう意味? 彼女になんで、気をつけなきゃいけないのよ」
 あんなに仕事ができて、人間もできて、優しくて可愛らしい人に。
 むしろ、若くて美人な分、セクハラ被害に遭わないよう、気をつけてあげたいと思うほどなのに。
 りょうは壁に背を預け、解いた黒髪をさらりと払う。
「だって、うちにも、ちらほら聞こえてきてるから」
「何が」
「都市整備局の入江係長は、元市長秘書の的場さんを右腕につけて、局の女子を牛耳ってるって」
「…………は?」
「果歩の知らない間に、ちゃっかり派閥に組み込まれてるってことじゃない?」
 ――派閥……。
「そんなつもりは……彼女、ないと思うけど」
「彼女のつもりも、果歩のつもりも関係ない。肝心なのは、そんな噂がたっちゃってるってこと」
「…………」
 不意に、藤堂の言葉が胸に蘇る。
 今のりょうと、似たようなことを、確かに彼も言わなかっただろうか。
「あの子は何年かしたら本庁に帰る人――多分ね。だから、うちで何をしようと、どんな敵を作ろうと、はっきり言えば彼女本人には無関係。でも果歩は違う。判るわよね」
 果歩は、ただ黙って唇を引き結ぶ。
「藤堂君も、そこを心配したんじゃないかしら。私が彼を買い被ってなきゃだけど」
 褒められると、逆に面白くないのが、ふられた女の性である。
「入江さんは、敵を作るような人じゃないと思うわ」
 確かにまだ24歳という若さは、妬みややっかみから、それなりに敵を作ってしまうのかもしれないけど。
 が、なんといってもバックは本省霞が関、そして三環自動車の看板は大きい。いったいどこの誰が、あえて敵に回ろうというのだろう。
「りょうも、話してみれば判るわよ。礼儀正しいし、尊大ぶったところもないし、朝も一番に来て机なんかを拭いてるし。最近の新採より、よく出来た新人だわよ。うちじゃ、みんなの人気者なんだから」
「うちにも、いい噂しか聞こえてこないわよ」
 りょうは笑った。
「物腰が丁寧、性格が明るい、飲みの席では気さく、えらぶらない、嫌な仕事も進んでする、仕事は完璧」
 指を折るようにして数えたりょうが、天井を見上げて「しかも美人」と言い添えた。
「その通りよ」
 藤堂をこき下ろす代わりに、何故か入江耀子を持ち上げたい果歩である。
「加えて言えば、カリスマ性のあるリーダーシップの持ち主だわよ。うちの女の子たちなんて、もうみーんな、入江さんの信者なんだから」
 まぁ……1人を除いて。
 最近「藤堂さん、います?」と、甘えた声でやってくる流奈をとんと見なくなっている。
 自業自得とは言え、今、政策部でやりにくい立場になり下がってしまったのは、流奈のほうで、藤堂に言われるまでもなく、最近、妙に存在が小さくなった流奈のことが、多少の後ろめたさとなってしこっているのは確かだった。
「うさんくさいなぁ」
 りょうは、目に笑いを滲ませて、果歩を見下ろした。
「何が」
「入江耀子」
 果歩は、まじまじとりょうを見る。
「りょう、もしかして、嫉妬してるの?」
「嫉妬ねぇ」
 りょうは楽しそうだった。
「どこを突いてもいい噂しか飛んでこない。ねぇ、そんな完璧な人っている? なーんか匂うのよね。胡散臭い匂いがぷんぷんと」
「りょうは、入江さんを知らないから」
「まーね。だから本物かニセモノかは判らない。でも、いっこだけ忠告するなら、だったらなんで、彼女はこんな時期に、市役所なんかに飛ばされてきたんだと思う?」
 一瞬言葉に詰まり、果歩はりょうを見上げていた。
「それは……」
 考えたこともなかったけど。
「色々事情があったんじゃない? 以前、うちにいた本省の人たちもそうだったけど、それと仕事の評価とは無関係じゃない」
「道路管理課の氷室課長は女性問題、行政管理課の柏原補佐は上司を殴った。……ま、どっちも愚にもつかない噂だけど、環境を変えてやろうっていう何かの理由があったんでしょうね。ただ、入江耀子とあの人たちが違うのは、彼らは予定された人事異動で本省枠にきっちり入ってやってきたけど、入江耀子の場合、異例ずくめだったってこと」
「……どういう意味?」
「さぁ? 平の私に判るのは、彼女のバックが強引に動いたのかもしれないってことかしら」
 三環自動車。
「それだけでも、入江耀子を危険視するには十分すぎると思うけどね。特に、人事の裏事情や、派閥に疎い果歩はなおさら」
 それだけ言って、りょうは、話を打ち切るように歩きだした。
「ね、シャワー浴びちゃいなさいよ。今夜はうちに泊まるんでしょ? 私が明日、家まで送ってあげるから」
「りょうが電話してくれなきゃ、信じてくれないわよ、うちのパパ」
「相変わらず厳しいなぁ。自分の娘の年、忘れてるんじゃない?」
「言えてる」
 声を揃えて笑っている。
 屈託のない笑顔のりょうに、すでに入江耀子の話題に拘泥する気はないようだった。
 果歩にしても、これ以上、好意を寄せていた後輩の事情を、あれこれ詮索する気にはなれない。
 が、胸の底には、妙に後味の悪い苦さだけが残っていた。


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