「じゃあ、二次会行く人手ぇ挙げて―」 なんとなくいい雰囲気になった全員が、出たばかりの料亭の前で屯している。 完全に酔っ払い状態の流奈は、藤堂の腕をしっかり抱きしめるようにして寄り添っている。 「すいません、僕は、宇佐美送って帰りますから。……なんだってオレンジジュースでここまで酔えるかな」 自分より頭三っつは大きい宇佐美を抱えつつ、迷惑そうに水原がぼやく。 「南原さんの行きつけの店じゃなかったら、行きたいところでしたけど」 思いっきり棘のある口調で言ったのは乃々子で、「誰も、てめぇに来いとは言ってないだろ」女性に対する言葉とは思えない言い方で返したのが、南原である。 「行くだろ、果歩」 晃司が、2人にしか聞こえない声で囁いた。「明日は休みだしさ。少しくらいならいいだろ」 「うん……」 どうしよう、あまり遅くなると父親の機嫌が……。 「藤堂さぁん、家まで送ってくださいねぇ」 「そうね、行きましょうか!」 流奈の声に背を押されるようにして、咄嗟にそう言っていた。 まぁ、いいや。今夜は晃司と話せて楽しかったし。だいたい、もう晃司は彼女持ちだもんね(注・果歩は、晃司と安藤の顛末を知らない)。色んな意味で気をつかわなくていいってのは、楽なもんだ。 「じゃ、藤堂さん。申し訳ないですけど、須藤さんをよろしくお願いしまーす」 にっこり笑って果歩は言った。 「般若……」 「しっ、黙ってろ、宇佐美」 南原が、タクシーを呼びとめるべく手をあげる。 もういいや。そうだ、今夜を機会に、もう藤堂さんからは卒業しちゃおう。それで、何もかもすっきりするなら……。 携帯でも鳴ったのか、藤堂がふと視線を下げて携帯電話を胸ポケットから取り出した。 「すみません、ちょっと」 流奈を押しやるようにして、携帯を耳にあてて背を向ける。 なんだろ、またお母さんだったりして。果歩は少し皮肉っぽく考えている。それとも香夜さん? どっちでもいいけど、なんてナイスなタイミングだろう。 「はいー、タクシー来ましたんで、二次会行く人は乗って乗って」 南原が手を振って促し始める。――その時だった。 「すみません」 振り返った藤堂が、初めてよく通る声で全員を止めた。 「あー? 藤堂さんも行きますかぁ? だったらタクシーもう1台止めなきゃな」 「いえ、違うんです」 少し躊躇ったような素振りを見せ、藤堂はわずかな沈黙の後、口を開いた。 「申し訳ありませんが、今夜は全員、散会してもらえませんか」 えっ……? 果歩も耳を疑ったが、南原はもっと驚いたようだった。 「は? な、なんすかそれ? どういう上司命令ですか?」 半ばあきれたような、半ば嘲るような、思いっきり反発丸出しの口調である。 「申し訳ありません」藤堂は淡々と繰り返した。 「事情は月曜日に説明します。今夜は、何も聞かずに、僕の言うとおりにしていただけませんか」 「何も聞かずにって、あんた」 酔いもあってか、南原はますます好戦的に身を乗り出した。 「俺らをバカにしてんすか。今のなんの電話だったんですか。事情あるなら、説明くらいしてくれてもいいでしょうが」 「申し訳ありません」 藤堂は、同じ言葉を繰り返して、ただ頭を下げるだけである。 「何かあったんでしょう」 さすがに冷静さを保っていたのは、主幹の谷本だった。 果歩も、その匂いは感じていた。もし、局で何らかの事件―― 例えば警察沙汰にでもなるような事件が起きれば、一報はまず総務の庶務係に届く。 「帰りましょう、みなさん」 果歩も、気を取り直して言っていた。 「状況がはっきりすれば、連絡網が回ると思います。忘れないでください。係長だって、課長の指示がないと、こういった判断は下せないはずですから」 ようやく南原も、苦々しげに頷いた。「わかりましたよ、わかったけど――だったらそう言えばいいのに」 藤堂はただ、陰った顔で頭を下げるだけである。 「えー、じゃあ、あたしはどうなるんですかぁ」 一人駄々をこねるのは、多分半ば本気で酔っ払っている流奈で、それは晃司が仕方ないといった風に引き受けてくれた。 「おい、俺が送ってくから、帰るぞ、須藤」 「やだぁ、藤堂さん以外の人は私に触らないでくださーいっ」 てか、なんか変なノリなんだけど……今夜の流奈。まぁ、いいか、今はそんなことにこだわっている場合じゃない。 「もしかして、今から役所に戻るんですか」 果歩は、急いで藤堂の傍に駆け寄った。 「戻ります」藤堂は即座に頷く。「志摩課長も、向かわれていると思います」 「いったい、何があったんですか」 「そんな、ご心配されるようなことではないですから」 初めて藤堂は、わずかな微笑を口元に浮かべた。 「自宅待機は、次長からの指示ですので、少し大げさに言いました。……多分、月曜には片がついていると思います」 はぁ、と、果歩は曖昧に頷いた。なんでもないことで春日次長のような慎重な人が、自宅待機を命ずるだろうか。よく判らないけど、藤堂さんは、何かを隠そうとしている―― 「……わかりました。じゃあ、私も帰りますね」 ほんの少しだけ寂しかった。プライベートはダメでも、仕事では私が彼のパートナーだと思っていたから。それは――職責も立場も全然違うとは判っているけど。 「……的場さん」 藤堂が、何かを言いたげに口を開いた。多分、今の感情を気づかれたんだと果歩は思った。 「あ、じゃあ、月曜日には、何があったか教えてくださいね」 取り繕った明るさで果歩は言った。いけない――まだ飲み会での感情が尾を引いている。少なくとも仕事では大人にならなくっちゃ。私が、彼に役所に残って欲しいと言ったのだから。 「それから、大河内主査には、私が電話しておきます。主査のことだから心配はないと思いますけど、一人で飲み歩いてるかもしれませんから」 「……的場さん」 静かな声がして、顔をあげると、藤堂が軽く息を吐くのが判った。 「主査には、今、連絡が取れないと思います」 その声の暗さに、嫌な予感がした。「……どういう意味でしょう」 「留置されているからです」 「…………」 一瞬、頭の中が真っ白になった果歩は、思わず口に出していた。 「人身ですか」 グラス1杯程度のアルコールなら、飲んでいた。それでも立派な飲酒運転である。 「そんな……大河内主査が……」 2006年に福岡の公務員が、飲酒運転で3児を死なせてから、飲酒運転に関する世間の目は格段に厳しくなった。各自治体では、のきなみ免職規定が改正され、飲酒運転という事実だけで懲戒免職とされるケースも多い。灰谷市も、同様である。 まさか―― 想像もしていなかった。よりにもよって、総務課職員が事件を起こしていたなんて……。 それは、気短な春日が自宅待機を命じるはずだ。これが飲酒運転なら、飲みの席に同席していた者まで共犯だと疑われかねない。 藤堂は、微かな息を吐いた。 「実のところ、僕にも詳しいことは判らないんです。説明しようにも、曖昧なことばかりで」 「ただの事故じゃないんですか?」 「わかりません……まだ、逮捕されたという一報が、ご家族から入ったばかりなので」 どこかで救急車のサイレンが聞こえた。繁華街の夜の喧騒が、いきなり恐ろしいものに感じられる。こんな状況で、甘えたことを言っている場合ではないと判っていても、今、藤堂と別れて一人きりになることが、たまらなく不安に感じられた。 藤堂の手が、そっと果歩の腕に触れたので、果歩は驚いて顔を上げていた。 「タクシーで帰ってください」 「…………」 「じゃあ、僕は役所に戻ります」 ――藤堂さん……。 今度は、藤堂に気持ちを読まれていたことが嬉しかった。 駆けていく彼の背を見送ってから、果歩は少しだけ温かな気持ちになる。 不思議だな。 4歳も年下なのに、彼には私のことが、何もかも判るみたい……。 「……………」 なわけないか。 こと恋に関する、藤堂の救いようもない鈍感さを思い出し、果歩は現実に立ち戻って軽く嘆息した。 ************************* 「あー、いずれ、正式に説明があると思うが」 明けて月曜。 空席だらけの総務課で、始業開始のベルが鳴った直後に立ちあがったのは、計画係の課長補佐、中津川だった。 椅子を回してそのほうに向きなおりながら、果歩はごくり、と唾を飲んだ。 結局、あの場にいたメンバーは、全員が土日は自宅待機。原則外出を禁じられた。 なのに、――情報は一切降りてこない。 果歩もインターネットで情報を収集してみたが、それらしいニュースはなかった。りょうに電話もしてみたが、そういった情報は、まだ人事課にも届いてはいないらしい。 晃司からは逆に電話があった。局で何が起きたか気にしているようだったが、当然ながら果歩に教えてあげられる情報はない。 むろん、この曖昧な状況では大河内の名前も出せない。 あらためて、藤堂が何も説明できなかった理由が判ったような気がした。 朝、果歩は少し早目に出勤したが、考えることは皆同じで、8時前には、殆どの人員が顔を揃えている。 ただし、次長室は締めきってあり、局長室は不在。課長と藤堂、それから当然のことながら大河内の姿はなかった。 「いったい、何があったんすか」 たまりかねたように口を挟んだのは南原だった。 「人を自宅に閉じ込めておいて、何一つ説明がないってどういうことなんですか。理不尽にもほどがあるじゃないっすか」 「わしに言うな。次長の指示だ。わしだって今朝になって説明を受けたんだ」 久々に存在感を示す中津川は、しかし相当不機嫌そうだった。 「簡単にいえば、こういうことだ。金曜に総務課で忘年会が催された。幸いなことに、わしは出席しとらんがね」 あまりに空気を読まない嫌味な言い方に、全員が鼻白む。 9月に、課内でお茶当番を決めた時、最後まで猛反発した中津川は、「わしはコーヒーは二度と飲まん」と言い棄てた。 以来、中津川は、課内で孤立しているのだ。 「その帰りに、大河内主査が―― 」 「主査が?」 「大河内さんが??」 さすがに半数から驚愕の声が飛んだ。のこる半数が、ああ―― という顔をしているのは、今朝電話さえない状態で大河内が出勤していないことについて、薄々何かを察していたからだろう。 「場所や状況などの詳しいことは判らんが、女性となんらかのトラブルになって……まぁあれだな、疑いとしては痴漢、ということになるのだろう。現行犯逮捕ということになったらしい」 息を詰めたような沈黙があった。 ―― 痴漢……。 まるで想像していなかった事態に、果歩はただ唖然としていた。咄嗟に頭に浮かんだのは電車内で急増しているという痴漢冤罪のことだった。映画にもなり、ドラマにもなり、女性専用車両までできて社会問題化している。 主査は足代区だ。通勤手段は電車である。あの夜も当然電車で帰ったろう。 「もちろん、本人は完全否認しておるらしい。だから留置も長引いておる」 中津川は軽く咳払いした。 「大河内君をよく知る君らはもちろん、むろんわしも冤罪だと信じておる。が、公務員という立場も相まって、置かれた状況は極めて厳しい。当然、記者発表という流れになるだろうし、新聞の論調如何では、総務課も厳しい風当たりの元に置かれるかもしれん」 「実名で公表されるんですか」 南原が再び口を挟んだ。「本人、否定してるのに?」 「そんなことまで、わしが知るか」中津川も苛立っているのか、口調が吐き捨てるようなものになった。 「少しばかり大きな記事にはなるだろう。なにしろ公務員が痴漢だからな。マスコミが食いつかんはずがない」 「実名は、出ないでしょ」 背後で落ち着いた声がした。 「ひと昔前ならともかく、今は痴漢冤罪はひとつの社会問題ですからね。本人否定してんなら、マスコミも慎重になりますよ」 カウンターに肘をつき、ひょうひょうとした風体で立っているのは―― 窪塚主査。同じフロアの都市デザイン室の職員である。 「きっ、きき、君、これは、立ち聞きしていいような話じゃないんだぞ」 中津川は目を白黒させている。 「いや、歩いてたら、たまたま耳に入ってきたんで」 しれっとして窪塚は、耳のあたりを指で掻いた。 「あの……」おずおずと口を挟んだのは水原だった。 「さっきから気になってたんですけど、僕らみたいな公務員がそういう事件を起こしちゃったら 、最悪、免職って可能性もあるんでしょうか」 手厚く身分が保障される公務員が、唯一意に反して成される死刑判決。――懲戒免職。 この処分が発令されると、将来約束された一千万を超える退職金も同時に消えてしまう。失業保険が掛けられない公務員にとっては、まさに死を宣告されるに等しい処分。 「状況わかんないけどね。でも、本人否定してんでしょ?」 そのフランクなため口が、決して中津川に向けられていないことを祈りたい果歩だった。 「だったら、裁判で刑が確定するまでは、懲戒免は出せないはずだよ。そのあたり人事の裁量になると思うけど、多分、留置中は休職か……人事課付扱いで対応するんじゃないかな」 「絶対冤罪に決まってますよ」 水原が、怒ったように息まいた。「主査が、そんな真似するわけないじゃないですか」 「まぁ、男だからね。目の前におっぱいちらつかされたら、そりゃ、手ぐらい出るんじゃない?」 「僕は嫌ですよ。見知らぬ女の胸なんて、むしろ気持ち悪いです!」 草食系男子水原は、心底嫌そうに眉をしかめた。 「まぁ、誰だって裏の顔はあんだからさ。絶対とは言えないけど……」 南原が、腕を組みながら呟いた。「少なくとも本人否定してんなら、俺らは信じてやりたいよな」 それには、全員が頷いて同意する。果歩もむろん同じだったが、普段団結力の欠片もない男どもの反応は、少しばかり意外だった。 だいたい南原さんって、そんな熱血漢だったかしら。なんだかキャラが違っているような……。 「そういや、僕が昔いた東区で、総務の主事が酒に酔ってOLに抱きついたって事件がありましたよ」 新家主査が口を開いた。 「なんだかそのOLもひも付きのわけありで、結局示談になったそうなんです。もしかすると美人局の類だったのかもしれませんが、その職員は減給と戒告だけで、職場復帰してますよ。新聞記事にはなりましたが、実名が出ることもなかったですし」 「それでも減給っすか、厳しいっすねぇ」 南原が呻く。「なんだか、つくづく主査には同情しちゃうなぁ。男には、どんな不細工相手でも、反応しちまう時があるからな」 「女性の服装も問題だよ」 中津川が、何か個人的に恨みでもあるのか、激しい剣幕で口を挟んだ。 「スカートが短すぎたり、化粧が濃すぎたり……最近では、背中など丸出しの服を着ているからね。あれで少しでも見られたら、なんとも嫌な顔をするんだ。だったらそんな破廉恥な服など着るなと、わしは言いたい」 おおっと、男性一同から拍手が起こる。 「女も、もっと気をつけろって言いたいよな」 「女性専用車両に乗るくらいなら、全員男みたいにきっちりスーツでも着てればいいんですよ」 「見られたくて着飾るくせに、見れば、痴漢だと騒ぎたてる……本当にひどい話ですよね」 果歩には、ようやく男どもの団結の理由がうっすらと判った。 さすが、市創立以来の男性中心の職場……。女性として聞き捨てならないセリフが思いっきり飛び交っている。 その手の話には興味がないのか、窪塚だけはあくびをしながら自分の執務室のほうに戻っていったが、男どものシュピレヒコールはまだ続いている。 「コーヒー、淹れてきまーす」 果歩は仕方なく席を立った。誰も、ここに一人女が座っていることなど……ま、どうでもいいけど。しょせん男と女には、何千年かかっても超えられない壁がある。 が、それでも果歩も、今は大河内を信じてあげたかった。状況も被害女性のことも、まだ何も判らないけど。 ************************* 「もう、私には何がなんだかわからなくて……」 翌日――地元新聞に小さく記事が出たその日、15階の会議室には、大河内の妻が訪れていた。 大河内良子。ひどく痩せて神経質気に見える。さすがに時が時なのか、化粧気のない白茶けた顔をして、目は腫れぼったく充血していた。 長机を挟んで対応しているのは、藤堂と果歩である。 家族対応と情報収集、それがこの件で藤堂に割り振られた仕事で、果歩はそのサポートをするよう指示を受けた。 事件の概要は、すでに局の全員が知らされている。最も、情報は極めて少なく、新聞に出た程度の内容なのだが……。 やはり事件は、忘年会から大河内一人が抜けた夜に起きていた。 8時半に足代区の駅に降り立った大河内は、そのまま徒歩で、15分離れた自宅に向かった。 その途中、人気のない高架下で事件は起きる。 被害女性は18歳の高校生。高架下ですれ違いざま、いきなり抱きつかれて下着の上から局所などを触られた。悲鳴に気づいた友人らが駆け付けて騒ぎになり、逃走しようとした大河内を近くの交番警察官が取り押さえた。―― 以上である。 「主人は否定しているんです。ひどいじゃありませんか、認めたらすぐに釈放されるのに、否定しているから家に帰れないって……あれじゃまるで、監禁して白状しろと責められているようなものですよ」 大河内良子はハンカチを振り絞るようにしてむせび泣いた。 「何も悪いことをしていないのに、新聞にだって……あんな風に」 「お察しします」 藤堂が、穏やかに口を挟んだ。「――それでは、まだ、ご主人とは連絡が取れないんですね」 良子は顔をそむけるようにして、ハンカチで涙をぬぐう。 最初からずっとそうだったが、この場合、明らかに若くて経験の薄そうな藤堂は、いまだ女の信頼を得られていないようだった。 「最初にあったきり……」呟いた女は、救いを求めるように果歩を見た。 「それも、急かされるように切れてしまって」 「では、ご主人が否認されているというのは、弁護士さんの聞き取りですか」 「そうですよ。だからなんだっていうんです!」 今度女は、はっきりと非難がましい目を藤堂に向けた。 「そんなの当たり前じゃないですか。家族とは一切話せないっていうんですから。そんなことも警察から聞いていないんですか」 「……申し訳ありませんでした」 女の苛立ちの理由が、判るようで判らない果歩は、ただ黙って同じように頭を下げた。 確かに今の状況が尋常ではないことは判る。だからって、藤堂さんに当たってなんになるんだろう。 「すみません、取り乱してしまって」 良子は視線を逸らしながら、気まずそうに自身の態度の非礼を詫びた。 その程度には常識人なのだと、果歩はわずかにほっとする。 「弁護士さんとは、今後の方針などを相談されましたか」 片や藤堂は、感情の片鱗さえ見せずに、穏やかに落ち着き払っている。 「典型的な冤罪だろうと言われました」 そこだけは、きっぱりと良子は言いきった。 「でも、こういった事件は証拠が互いの証言しかなくて……裁判になると水掛け論の泥沼になって、挙句、無罪になる確率は極めて低いそうなんです」 よほど悔しかったのか、良子の唇からきりきりと歯ぎしりが漏れた。 「……極力、示談にするよう勧められました」 「……示談ですか」 その刹那、藤堂が、わずかに言葉に迷うのが果歩には判った。 「だから、争っても勝ち目がないんですよ!」 きっと、充血した目で、女は藤堂を睨みつけた。いきなり、女の怒りケージが跳ね上がったことに、果歩は内心驚いている。 「さっきからそう言っているじゃないですか。私の話、ちゃんと聞いていたんですか、あなた?」 果歩でもおののくほどの剣幕だったが、藤堂は落ち着いて、非礼でも詫びるかのように、わずかに頭だけを下げた。 「お腹だちとは思いますが、もうひとつ教えてください。相手とは、もう、そう言ったお話をされているのでしょうか」 「相手の名前さえ、私は知らされていないんですよ!」 再び良子は、怒りをあらわに藤堂を睨みつけた。 「なんですか、さっきから失礼な……。言っておきますけど、これは弁護士先生のアドバイスなんです!」 確かに藤堂の問いかけは、わずかだが非難めいて聞こえた。が、何故そこで、いきなり女が激昂するのか、果歩にはいまひとつ理解できない。 「あなた、藤堂さんとおっしゃいましたっけ」 藤堂は落ち着き払って頷いた。「はい」 「係長さんだと言われましたが、どうみても主人より年下ですよね。―― 失礼ですけど、本当に役所の方なんですか」 果歩はようやく、女の態度に少なからず得心した。 それはそうだ。藤堂はどう見積もっても30を超えては見えない。 女からすると、自分よりかなり年下の若造に、こんな風に尋問されるのは苦痛に違いない。 「係長は、外部から来られた方なんです」 果歩は、さりげなく言葉を挟んだ。「昇進の基準が、市とは異なる部署から来られたんです。でも、身分は市職員ですし、確かに大河内主査の直属の上司です」 「立場は新人と一緒ですから、勉強させてもらっています」 藤堂は、丁寧に頭を下げてから、微笑した。 「ご心痛だとは思いますが、今は、大河内さんの現状をお聞きして、役所として、少しでもお役にたてることはないかと、そう思っているんです」 「はぁ……外部から」 納得はしたようだったが、それでも良子は、どこか不満そうだった。「……そうですか……それは……失礼しました」 「示談のことに、話を戻してもよろしいでしょうか」 藤堂が、仕切り直した。「相手から、そのような要求はまだ出てはいないのですね」 「弁護士さんが」やはり、どこか非難がましい口調で良子は続けた。 「弁護士さんが連絡を取ってくださっているので、その辺りはまだ判りませんけども。相手も学生さんだし、外聞もありますから、そういった解決を望んでいるんじゃないですか」 言葉とは裏腹に、いかにも金目当てでしょう、と言いたげな表情だった。 そして女は、ぐっと身を乗り出してきた。 「正直言えば、今日は、このことがお伺いしたくてお邪魔したんです。もしですね、仮に主人が相手と和解したらどうなります? どの程度の懲戒になるんですか」 「僕に、それを断じる権限はありませんよ」 「それくらい判ってますよ。だから、あるでしょう、今までのケースとか一般的な例だとかが」 「それは、……そうですね、少し調べてみませんと」 ばしん、と女の手が机を叩いた。「あなたも杓子定規な人ね、それくらいのことも判らないの!」 「申し訳ありません。すぐにはお出しできませんので」 急いで確認して、すぐにでも安心させてあげればいいのに、何故か藤堂は慎重だった。「よく調べて、近日中にお答えしましょう」 「ほんとに……役所は能無し揃い……主人と一緒よ」 ぶつぶつ呟きながら、女はバッグをひっつかむようにして立ち上がった。 「じゃ、急いで連絡してくださいね。もう私のほうからお伺いすることもありませんから!」 藤堂が立ちあがって一礼する。ばたんと扉が荒々しく閉められた。 ************************* 「なんかひどい……まるで私たちが加害者みたいな雰囲気でしたね」 2人になって、果歩はややむっとしていた。 「まぁ、誰だって、身内がいきなり逮捕されたら、平静ではいられませんよ」 片や、藤堂は全くの普段どおりである。いつも思うが、若いのに、このクレーマー慣れした態度はなんだろう。 まぁ―― そうだよね、私が怒っても仕方ないか。果歩は気を取り直して立ち上がった。 「私、調べます。人事には知り合いもいるし……免職扱いに関する過去の事例ですよね」 「そうですね、じゃ、お願いしてもいいですか」 「もし、他にもお手伝いできることがあれば――」 藤堂を振り返った果歩は、思わぬ距離の近さに驚いて顎を引いた。 藤堂はまだ椅子に座っていた。立ったまま振り返った果歩を、丁度藤堂も見上げていて、そのせいか顔がごく近くの距離にある。 「……な、なんでも言ってくださいね。主査の仕事まで引き受けて、藤堂さんが大変なのは判っていますから」言いながら、目がぐるぐる回っているのが果歩には判った。 「じゃっ、じゃ私、仕事たくさん残してますので、お先に失礼しまーす」 しまった。あれだけ2人になるのを避けていたのに―― 主査の事件で、頭から藤堂さんとの確執? が吹っ飛んでしまっていた。 あれ? 動けない。 なになに、なんで藤堂さんの顔が、まだ近くにあるままなの? 両腕を、手首より少し上で掴まれていると判ったのはその時だった。 「……的場さん」 思いつめた目が見上げている。 は、ははは、「―― はい」 著しく動揺し、が、それを顔には出さず、強張ったまま果歩は頷く。 大きな手……温かな体温がブラウス越しに感じられる。 ふっと果歩は、自分の中の頑ななものが溶けていくのを感じていた。 このまま―― もし、抱きしめてくれたら。 その大きな胸で包み込んでくれたなら―― 。 「的場さんは、何も悩まなくていいんですよ」 が、次の刹那、両腕からふっと力が抜けて自由になった。 藤堂が、机の上で両手指を組み合わせる。果歩は目を逸らし、ただ胸を押さえていた。 ――どういう意味……? 「先月、僕の取った行動も態度も、的場さんにはひどく不可解だったと思います。これだけは言わせてください。ずっと、言いたかった。――それは、香夜さんとは一切無関係です」 無関係……? 果歩は眉をひそめ、じっと藤堂の言葉の続きを待った。 先月、彼が取った行動や態度というのは、もちろん、果歩との別れを切り出したことだろう。そして、役所を辞めると言った。 その時は、てっきり彼は、自分ではなく流奈を選んだのだと思っていた。後日、その流奈の口から聞いて全ては誤解だったと判ったものの、彼はあえて――その誤解を増長させる真似をしたのだ。 まるで、果歩の方から、彼を嫌いになるのを待っているかのように。 そして現れた真打ち――藤堂の婚約者、香夜。 彼が果歩と距離を開けようとしていたのは、突然現れた婚約者のせいではなかったのか。 そして今も、その婚約者と私の間で、少なからず揺れているのでは、……ないだろうか? 「あの、話ってそれだけですか」 やや、唖然としながら、果歩は訊いた。 「私、もっと、色んなことを……ご家族のこととか、そういう話をされるのかと思っていました」 「そのつもりでした」 静かな口調で藤堂は言った。 逆に果歩は、胸を鈍く突かれたようになって黙っていた。 「でも、的場さんが、知りたくないと思うなら――僕は、今は何も言いません。ただ、今の件だけは、誤解をされているなら、解いておくべきだと思ったんです」 優しい口調で言うと、藤堂はにこっと笑って顔をあげた。 「的場さん」 「は、はい」 果歩は気圧されて頷いている。 「僕らは今までどおりでいましょう。どんな状況でも僕は、的場さんには、いつも自由でいて欲しいと思っているんです」 「え……」 自由? 「よかった。ようやく話ができた」 安堵したように笑うと、藤堂は実にすっきりした顔で立ち上がった。 は…………はい?? てか、自由って……ナニ? 「じゃ、次長に報告しに戻ります。大河内夫人への連絡は僕がするので、資料が揃ったら教えてください」 藤堂は、何事もなかったように微笑すると、軽い目礼をして出て行った。 後半は、全くもって意味不明……。 藤堂さーん。今までどおりって、いったい、どの時点を指すんですか。私たち、くっついたり気まずくなったり、しかも一方的に別れ? を切りだされたりと、わけのわからない展開の連続なんですけど。 しかも自由って……。いつ私が、あなたに束縛されてましたっけ。いや、いっそものすごく束縛してほしいんですけど、そんな素振りさえ見せないじゃないですか。 「…………」 まぁ、そうか。 確かにこの最近、見え見えの態度で藤堂さんを避けてるのは―― 私だもんな。 しかも、その理由が自分でもよく判らない……。 藤堂さんも、私の態度をみて、今話すべきじゃないと判断したんだろうな。 りょうの所に行こうとしてやめた。電話で済まそう、今、りょうに会ったら、なんだか思いっきり嫌なとこを突かれそうな気がするから……。 |
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