「的場君は、随分春日君に叱られたようだね」 笑いを抑えるような声だった。「ま、それも春日君の優しさだよ」 局長室。 灰谷市を揺るがした事件が、自身が長として立つ局から出たとは思えないほど呑気な素振りで、那賀康弘は最近お気に入りの乳酸飲料をストローですすっている。 「報告を聞く限り、責任は全て君にあるようだが、藤堂君」 「おっしゃる通りです」 局長席の前に立ったままで、藤堂は頷いた。 「僕の伝達不足でした。言い訳の余地もありません」 「――だとしても、叱られもせず放っておかれるというのは、随分辛いものだからね」 午後、穏やかな秋晴れの日差しが、猫みたいにまるまった老人をぽかぽかと照らし出している。 ふと藤堂は思っていた。 いったい、この人は、何のために今のポジションにいるのだろう。 判っているはずなのに、時折、全くその真意が読み切れない時がある。 「さて……どうするね。君が危惧したとおり、大河内夫人は、市のお墨付きがあったと言い張り、懲戒処分には訴訟も辞さない勢いだが」 「弁護士の入れ知恵でしょう。どうも最初から、言質を取られているような気がしていましたから」 藤堂が言うと、那賀は、口の中でくぐもったような笑い声をたてた。 「役所というのは、ひたすら揉め事を嫌うからねぇ。しかも負ける試合には絶対に手を出さない。しかし、今度ばかりは市長は引かんぞ。判っていると思うが」 「うちの課が起こした問題だからですか」 「それもあるがね」 那賀はにやりと笑うと、音を立てて残りのジュースを飲みほした。 「的場君は、とにかく社長に嫌われているからねぇ」 「…………」 まるめた紙パックを、那賀は器用に傍らのゴミ箱に投げ込んだ。 「まぁ、それもなくはないが、真鍋さんもそこまで子供じゃないよ。政治的な思惑、という意味だよ、今回はな」 那賀は、いかにも足腰が悪い人のように、よたよたと立ち上がった。 「被害女性の身元は調べたかね」 「……? いえ」 思いもよらない那賀の言葉に、藤堂はわずかに眉を寄せた。 「そういった情報の開示はないので」 「そうかね? 君なら、どんな手を使っても知ることはできるだろうに」 黙る藤堂を、老人はいたずらめいた目で見上げた。 「調べてみたまえ。ちょいと面白いかもしれん。案外な、深いかもしれんぞ、今回の事件は」 肩をゆするようにして、那賀はくぐもった笑い声をたてた。 「何度経験しても、市長選というのは面白い。権勢欲にかられた亡者どもが、早くもせっせと蠢いておるわい。……いってみれば、大河内君はその犠牲になったようなものじゃのう」 ************************* 「大河内って誰?」 「私知ってる、結構やばい見た目だよ。頭ハゲててさ。いかにもエロ親父って感じの」 「相手女子高生でしょ、変態? ロリ?」 「犯人がいる課も大変だよねー、議会前なのに、一人欠でやってんでしょ」 その課の人間が背後にいるとも知らず、お喋りに興じていた女の子たちは、楽しげにエレベーターを降りて行った。 「ま、気にしない気にしない。婿探しのバイトなんて、そもそも頭空っぽなんだから」 とんでもなく辛辣なセリフを吐くりょうに、背後から、背中をぽんと叩かれた。 アフターファイブ。 飲みに行かない? と電話してきたのは珍しくりょうの方だった。 今日、次長室で1時間説教されたことが、誰かの口から洩れたのかもしれない。 多分、その前だったら断っていた。でも、行ってもいいかなと思えたのは、あれだけ凄まじい叱責を受けて、少しだけ開き直れたせいだろう。 そうだ、私がくよくよしていたって、事態は何も進展しない。 「今夜は私が奢るからさ、賢い頭が空っぽになるまで飲んじゃいなよ」 「なんでりょうの部屋じゃないの」 「いい店、見つけたのよ」くすりと笑って、りょうは果歩の腕を取った。 「恋人みたいに可愛いこと言わないの。彼氏が全然できないの、もしかして果歩のせいじゃないかと思ってんだから」 「とんでもない言い訳に私を使わないでくれる? りょうはね、恋愛に自虐的なのよ。無意識に不幸へ不幸へと流れてるの」 「なにそれ、すごい侮辱に聞こえるんですけど?」 「だって、普通ありえないじゃない。りょうみたいな美人なら、誰だってよりどりみどりだよ?」 「そうなんだって、前園君」 なんで晃司がいるんだろう。そう思った時には、果歩は相当酔っていた。 イタリア風の居酒屋で、少しばかり賑やかな店だった。この3日間、食欲は全然なくて、今もオリーブオイルたっぷりの前菜を見ただけで、吐きそうになっている。アルコールだけが、がんがん胃に浸みて行って……最悪の状態だった。 晃司とりょうが、テーブルを挟んで楽しそうに話している。 なぁんだ、こうして見ると、2人かなりお似合いじゃない。美男美女っていうか……心なしか、晃司の横顔がひきつっている気もしないでもないけど。 てか、いつから晃司が合流したんだろう。最初はりょうと2人で飲んでいたはずなのに……。 「じゃ、私は次の店行くけど、送り狼にならないって誓うんなら、果歩のこと任せるわよ」 「なりませんよ。てか、本当に冷たい人なんですね」 「だって今夜は、君に頼まれたデートだもん。私なんて最初からお邪魔じゃない」 「しっ、だからそれは、言わないって」 「ま……そろそろやばいかな、とは思ってたけどね」 そんな会話が聞こえてしばらく経って―― 果歩はようやくぼんやりと意識を取り戻した。 ぎょっとした。店の喧騒が一気に耳に飛び込んでくる。まばたきしたら、目の奥がごろごろした。 やだ、こんなとこで突っ伏して寝てたんだ私。みっともない! カウンター近くのテーブル席。果歩は一人取り残されている。起き上った途端、肩にかけてあった服のようなものがずるりと落ちた。てか、りょう―― どこ行った? 「大丈夫ですか、お客様」 寝入っていた客の起床に気づいたのか、すぐに定員が水を持ってきてくれた。 「す、すす、すみません」 果歩は真っ赤になりながら、冷たいグラスを受け取った。なんだろう。こんな恥ずかしい思いをしたのは初めてだ。き、記憶、どこまで確かだったっけ。確か晃司が混じってきて――あれ? あれは夢だったっけ。 「急性中毒かと心配したのですが、連れのお客様が疲れているだけだからと」 「―― 果歩?」 定員の背後から声がした。果歩は咄嗟に顔をあげている。 「なんだ、お前起きてたのか」 夢じゃなかった……。 トイレにでもいっていたのか、ハンカチで手を拭いながらもどって来た晃司は、半分呆れた目のまま、果歩の対面に腰かけた。 「知らなかった。結構悪酔いするんだな、お前」 「は……初めてかしら」 「嘘つけ、宮沢さんが、しょっちゅうだって言ってたぞ」 「てか、なんで晃司がここにいるのよ」 果歩は開き直っていた。まぁ、今さら、晃司相手に見栄を張っても仕方がない。 「偶然、一緒になったんだよ。宮沢さんに呼びこまれて、断りきれなかったから……」 よほどそれが不満だったのか、晃司は少しばかりふてくされているようだった。 「……ふぅん」 ま、いっか。どこまでが夢でどこまでが現実かよく判らないけど。 「で、りょうは」 「帰ったよ。俺にお前を押しつけて」 「はぁ??」 「てか、出ようぜ。俺、目茶苦茶恥ずかしいんだけど」 「…………」 果歩は少しばかりうろたえながら、立ち上がった晃司の後を追った。 「いつから寝てた……? 私」 「8時前くらい? 通り過ぎる客が、みーんな珍しげに見てったぜ」 果歩は時計を見た。11時……!! さ、サイテーだ……。 確かに今も、店内の人誰もが果歩を見ているような気がする。 3時間もこの雰囲気の中で爆睡していたなんて……。ああ、穴があったら入りたい!! 「いいよ、俺払っとくから」 「でも」 「そういう約束――いや、いいから、カードで払うし、後で半分請求するよ」 伝票を見た晃司は、「っ…………とんでもないワイン頼んでんな、あの人」と、眉にわずかに震えを走らせたものの、結局は果歩の反対を押し切り、カードで決済を済ませてしまった。 「カードなんて、持ってたんだ」 「前は面倒で作ってなかったけど、最近な。ちょっとばかりリッチに見えるだろ」 「やっぱり、彼女ができると違うねぇ」 「……うるせーよ」 気分はすっかりよくなっていた。夜風が涼しくて気持ちがいい。 前を歩く晃司が言葉を探しているのが、なんとなく判ってしまった。果歩は少し楽しくなって、その背中を見つめていた。あと少しでこう言うかな……。もうちょっと……あと数歩で。 晃司が足を止めて振り返った。 「私が奢るよ」先に口を開いたのは果歩だった。 「缶コーヒー、飲むんでしょ」 ************************* 「落ち込んでるだろ」 「……まぁね」 「なんでお前が落ち込むんだよ。逮捕された主査と、何か関係があったわけじゃないだろ」 果歩はさすがに咳き込んでいた。「どういう疑い?」 「いや、須藤が言ってたから」 ――流奈が……? 夜の公園。2人掛けのベンチ。果歩が見上げると、晃司は、困惑したように視線を逸らした。 「お前の落ち込みが半端ないって。飯もろくに食ってないだろ。顔色もいっつも悪いし、見る度にふらふら歩いてるしさ」 果歩が黙ると、晃司はわずかに息を吐いた。 「南原さんも心配してたよ。庶務は今、完全に人間関係が崩壊してるって。てか、南原さんのぞく庶務係って、お前と藤堂しかいねーじゃん」 ――南原さんが……。 「藤堂と喧嘩?」 いつも意地悪に聞こえる晃司の声が、ひどく優しく耳に響くの何故だろう。 うっとこみあげてきそうな感情があって、果歩は慌ててそれを飲みこんでいた。 「喧嘩……じゃないよ。一方的に突き放されたって感じかな」 「例の、おしかけてきた婚約者のせいだろ。あれ、須藤が言ってたけど」 「違うって、それは全然関係ない」 その話には、できれば一切触れてほしくなかった。果歩の剣幕に驚いたのか、晃司が再び無言になる。 「悪かったな、関係ないのに、詮索して」 「ううん、そんなことないよ」 「うわ……結構冷えるな。これ飲んだらタクシー拾ってやるよ」 上着を脱いだ晃司が、それを果歩に投げてくれた。「肩にかけとけよ。風邪ひくぞ」 ぶっきらぼうだが、そういう優しさを特に気負いもなくやってくれるのが、晃司のいいところだ。 上着を肩にかけながら、ふと果歩は、これと同じ香りに先ほどまで包まれていたことに気がついた。 あ、そっか……店の中で。 目が覚めた時も、肩にこの上着が掛けられていた。 3時間も爆睡していた……。いったい晃司は、何時から一人きりで、眠る女の前に座っていたのだろう。 あ、なになに、やばい、この感じ。 今……めっちゃ、晃司に甘えたくなっている……。 てか、今のシチュだけでも、彼女が見たら激怒もんだ。これって晃司には、かなり迷惑な状況なのではないだろうか。 「大河内さんのこと……どう思う?」 なのに、口を開いていたのは、果歩だった。 「どうって?」 「政策ではどういう噂になってる? やっぱり、本当にやったんだと思ってる?」 「そりゃ……俺、そんなにあの人のこと知らないからさ」 晃司は、困ったように頭を掻いた。 「やったって本人が言うなら、そうなのかなって、程度かな。電車の中ならともかく、路上だろ? 不可抗力ってのもないだろうし」 「釈放されたんだって、昨日」 「へー、そりゃよかったじゃん」 晃司は本当に、何も知らないようだった。 「本当なら、被害者と示談が成立する予定だったんだけど……」 唇を噛むようにして、果歩は続けた。 「金額の折り合いがつかなくて、ダメになっちゃったんだって……。多分、強制わいせつ罪で起訴になるって……」 昨日の夜遅く、蒼白な顔で駆けこんできた大河内の妻の顔が、まだ目の前にちらついている。 女は果歩など目に入らないような勢いで執務室に入ってきて―― いきなり、出迎えた藤堂の頬を平手打ちにした。「嘘つき!!」 おりしも、フロアに人影はまばらで、すぐに残っていた志摩と春日が、興奮状態の女を16階の会議室に囲むようにして連れて行った。 果歩は、茫然と立ちすくんでいたが、藤堂は何事もなかったように書類をまとめ、「遅くなると思いますので、先に帰っていてください」 微笑さえ浮かべてそう言うと、春日らの後を追ってエレベーターホールに消えていったのだった。 「……藤堂さん、私を責めようともしないんだ。後始末は全部、自分がひっかぶってくれて……」 結局、全部話し終えて、果歩はうつむいたまま、唇を噛んだ。 何も説明されなくても、判っている。彼は、果歩の失態を、全部自分の指示だと言ったのだ。そうして全てを背負いこんでくれた。 「本当言うと、昨日は気が変になりそうだった。今日、春日次長に目茶苦茶怒られて、ちょっとだけ気が楽になったけど。……それでも私は、謝りに行くことさえ許してもらえないんだ」 晃司はずっと黙って聞いている。 「どう思う?」 「どうって?」 「……私、もう30だよ」 「前は、そう言われるとドキドキしたけどな」 「結婚迫られてるって? まぁ、半分迫ってたけど、そういう意味で言ってるんじゃなくてさ」 「……まぁ、判るよ」 晃司はしばらくの間黙って、それから缶コーヒーを唇にあてた。 「もう残ってねぇや」 「私のあげようか」 果歩は、ほとんど手つかずのコーヒーを晃司に手渡した。ブラックは失敗だった。この状態で飲みほしたら、多分、胃が完全にダメになる。 「確かに、藤堂さんに、助けて欲しいと思ったけど」 すがるように泣きついてしまった。あれは―― いくら動転していたとはいえ、今思い返しても、大失敗だった。今でも果歩は思っている。彼はあの時、部下ではなく、一時情を交わし合った女を庇うことに決めたのだ。多分、一人の男として。 「私……」 なんとも言えない気持ちがこみあげ、果歩は肩にかけた晃司の服を引き寄せていた。 「彼があんな風に、私を庇ってくれたこと……感謝しなきゃいけないと思ってる。……冷たい言い方をされたのも、後から思うと、私には判らない事情や考えがあったんだと思うし」 ――でも。 「……それでいいのかって、どうしても納得できないの」 晃司は黙って、ため息だけを一つつく。 「そんな、なんていうの。おんぶにだっこの子供みたいに庇ってほしかったわけじゃないのよ。やっぱり……私がしたことだから、自分で責任取らないといけないと思うし」 果歩は言葉をとぎれさせた。 人一人の人生を狂わすような真似をしておいて―― それで、全部他人のせいにして、のほほんとしているなんて。 「なんかもう……辛くて、情けないの、毎日」 「あのさ」晃司が頭を掻きながら立ち上がった。 「お前の話だけで判断するけど、それ、間違いなく藤堂の責任だと思うぜ」 「……いや、じゃあ、私の説明が悪かったんだと思うけど」 果歩も少し慌てて言い足している。 「いやいや、だって藤堂が責任者だろ。あいつが折衝窓口でお前は補佐。で、責任者は補佐役に一切自分の真意を説明せず、まぁ、ある意味手放しで仕事を任せた」 「……それは、どうかな」 「多分、忙しすぎたのと、お前がそこまで速く資料を揃えるなんて思ってなかったんだろ。俺に言わせれば、完全な意思疎通の欠落だよ。お前だって、最初から藤堂の説明を聞いていたら、そんなヘマしなかったろ」 「…………」 まぁ、それはそうかもしれないけど。「晃司は、あの時の状況を知らないから」 「まぁ、聞けよ、最後まで」 手をかざし、晃司は果歩の反論を遮った。 「それでも藤堂の責任なんだ。いや、もっと言えば志摩さんの責任であり、春日次長の責任でもある。組織で腹括る時って、そういうもんなんだよ」 そこで名前さえ出てこない那賀局長って……。 そう思ったが、果歩は黙って晃司の言葉を聞いていた。 「たとえば、お前が土下座して謝って片がつく問題なら」晃司は続けた。 「藤堂もそうさせてたと思う。あいつは――まぁ、ろくでもない木偶の棒だけど、ただ女に甘いだけのフェミニストとは、少しばかり違うだろ」 「…………」 「てか、お前、責任取るって、いったい何ができるわけ?」 「…………」 何が……できる? 不意に果歩は、自分を覆っていた目に見えない何かが、はらりと落ちるのを感じていた。 今日、春日にも似たようなことを言われた気がする。 (ふざけるな、責任を取るなど10年早い)(そんなたわごとは、責任が取れる立場になってから言いたまえ!) 「新人研修で、クレーム対策って講義受けたんだけどさ。すごく印象に残ってる言葉がひとつあんだ。なんだと思う?」 「いや、ちょっと幅広すぎて……」 「ま、そうだよな」晃司は苦笑して缶を投げるふりをした。 「悪くないなら謝れ。悪いなら謝るな!」 夜に向かって叫ぶような声だった。 「……どういう意味?」 「言葉どおり。自分が悪くないと思ったらとにかく謝れ。一見馬鹿げてるけど、謝って済むなら、これほど安いもんはないだろ。いくら正しくたって意地はってちゃなんにもならないことがある。だったら、とっとと謝っちまえばいいんだ。たとえそれが口先だけの芝居でも」 晃司はもう一度、ピッチャーの送球フォームを繰り返した。 「逆に悪いなら謝るな。―― 意味、判るか?」 「……ううん」 「組織としての責任が絡んでくるような失敗なら、簡単に謝るなってことだよ」 「…………」 「ずるいようだけど、そういうこと。俺らは個人プレーしてんじゃない。一応、市っていうでっかい看板しょってんだ」 黙る果歩を見下ろすように、晃司はその前に立った。 「言葉はきついけど、お前が大河内さんに謝りたいのって、単に自分が楽になりたいだけなんだよ。藤堂のことも、総務課のことも、謝られた時の大河内さんの気持ちだって考えてない。……あそこは、冷静に対処すべきだと言った藤堂の言葉どおりだと思うけどな」 「…………」 「お前は、思い込んだら無茶する時があるからさ。それで、わざと突き放すような言い方したんじゃないのかな。まぁ、俺の勝手な推測だけど」 なにそれ……。 なんで晃司が、あの人の代弁をするのよ。 意味わかんないよ。なんなのよ、それ……。 「晃司……」 「……なんだよ」 「………私……」 まだ心のどこかで、晃司の言葉に納得しきれていない自分がいる。まだ、頑なな感情に囚われて、意地になっている自分がいる。 「藤堂さんに謝らなきゃ」 が、素直な言葉と共に、涙が一筋頬を伝った。 一時の激情にかられ、腹を立てていられたのはたった1日だった。 本当はずっと謝りたいと思っていた。ずっと……彼と言葉を交わしたいと思っていた。 「すごく、ひどいことを言ったの……許してくれるかな、……私のこと」 「――俺なら許さないけど」 晃司は軽く肩をすくめた。 「木偶の棒には、弱みが沢山あるみたいだから、許すしかないんじゃないの」 「……うん」 もう一度こみ上げた涙を払い、果歩は晃司の上着を脱いで、手渡した。 「ありがとう。……なんか、彼女に悪いことした気分だけど」 「いやぁ、気にしない女だから、マジで」 「だったらいいけど……」 そういや、安藤さんに、一度思いっきりガン飛ばされたことがあったっけ。いや、今思えば、気のせいだったのかもしれないけど。 「今から役所に戻ってみる。まだ残ってるかもしれないから!」 「気をつけろよ」 「うん!」 晃司に手を振って、果歩は駆けだしていた。 なんだろう――今ならものすごく素直になれそうな気がする。 今なら……ずっと何かにわだかまっていた自分の気持ちも、素直に彼に打ち明けられそうな気がする。―― ************************* 「てか、何やってんだ? 俺」 呟いた晃司は、空になった缶を弄びながら、ベンチにどっかと腰を下ろした。 馬鹿だろ、ただの……。 ここまで見え見えのおぜん立てをしてもらって 。 励ますためじゃなくて、口説くために2人になったはずなのに。 ポケットで何度目かの携帯の着信音がした。少しいらついていた晃司は、勢いよく開いて耳に当てる。 「なんだよ、うるせぇな。今夜は掛けてくんなっつったろ」 「ああ……」 電話の向こうで、呆れたような女のため息が聞こえた。 「その反応は、逃げられちゃったんですね。もしかしなくても」 「逃がしたんだよ、完全に酔っぱらってたから」 「どうだかなー、こないだも前園さん、妙にいい人ぶってたから」 明らかにバカにしきった須藤流奈の声に、晃司は声に出さずに歯ぎしりした。 「だいたい、須藤がこんな見え見えの計画たてるから……」 ワインがボトルで3万円……。くそっ、絶対宮沢りょうには、今夜の計画を読まれていたに違いない。 「だって、今の的場さん、触れれば落ちる程度にへこんでんですよ? とんでもなくチャンスなんですよ?」 それは判っている。が…………判っていたのに、駄目だった。 くすっと、流奈が楽しげに笑うのが判った。 「だから的場さんに忠告してあげたのになぁ。香夜には気をつけろって。天使みたいな顔して、マジ半端ないんだから、あの女」 「窪塚さんが見てたらしいけど、結構可愛くて純朴そうだって言ってたぞ」 チッチッチッ。 電話の向こうで、流奈の可愛い舌打ちが聞こえた。 「あれ、全部芝居ですからね。最初からぜーんぶ判ってやってるんです。藤堂さんも的場さんもお人よしを絵に描いたような人たちだから、あの女の正体には、百年たっても気づかないと思いますけど」 まぁ、今あいつが落ち込んでいるのは、そっちが原因じゃないみたいだけど。 「お前のほうはどうなんだよ」晃司は訊いた。 「最近、妙に大人しいじゃん。藤堂の婚約者が宣戦布告をかけてきたって言うのにさ」 やっぱりそこは、先月の事件が尾を引いているのかもしれない。 新任の上司、入江耀子のイジメによって退職寸前まで追い詰められていた流奈である。 いくら入江耀子が異動になったとはいえ――傷はまだ、癒えていないのか。 「計算どおりですよ」 が、流奈は不敵に笑った。 「私は2人が競い合って、共倒れになった後に藤堂さんをいただきます。私の読みでは、まず、大人しい的場さんが疲れ果てて、前園さんに逃げる」 「は? それじゃ、木偶の棒は婚約者のもんだろ」 「それが違うんですよ。判りません? 藤堂さんが誰のことを一番大切に思ってるかくらい」 「…………」 知ってるよ。 そんなもの誰が見たって―― なのに、果歩一人が判ってないみたいだけど。 「前園さんに的場さんを奪られた怒りを、そのまま香夜さんに向かわせるって計算ですよ。そこからが強敵との戦いだけど、勝つ自信はあります」 「……どうやって」 「簡単ですよ。先に孕んだ者勝ちですから」 「………………」 晃司はさすがに絶句していた。よ、よかった……俺、こいつに本気で狙われなくて。 「それまで、せいぜい煽り役に徹しますから、前園さん、気合いいれて頑張ってくださいよ。私の読みでは、相当ポイントあがってます」 「ばーか、てめぇに言われたくねぇよ」 晃司は笑って電話を切った。 あーあ、散財するし、ピエロにはなるしで、なんて馬鹿らしい夜なんだ。 ま、いっか。 (簡単ですよ。先に孕んだ者勝ちですから) この世には俺よりバカな女もいるしな。 寂しいやつ。 そんなもんで、人の心まで掴めると、本気で思ってんのかな。 |
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