「――で、なんだってうちに来るわけ?」 「着替えるだけよ。すぐに帰るから」 扉を開けたままの宮沢りょうは唖然としている。果歩は構わず、その傍をすり抜けた。「入るわよ」 「……って、もう靴脱いでんじゃん」 エントランスのインターフォン越しに、用件は告げていた。それで家にあがっていいと言われたんだから、もう遠慮する必要がないと果歩は勝手に思っている。 リビングとその奥にもうひとつ、寝室めいた部屋が見えた。明かりが微かにともっているから、もしかしたらもう寝ていたのかもしれない。 圧倒的なのは、リビングの四方、窓をのぞき、ほぼ全てを占めている天井までの本棚で―― 地震が来たら、死ぬしかないな、というような部屋だった。 「いったい何のつもり?」 ストールを首から外すと、背後から呆れたような声が追ってきた。 「私、あなたとお友達になったつもりは、全然ないんだけど」 「いいじゃない。お互い秘密を握りあってんだから」 「はい?」 「着替えたいんだけど、こっちの部屋使っていい? 別に見たいなら見てていいけど」 「…………」 口を半ば開けたまま肩をすくめ、宮沢りょうは玄関の方に戻って行った。 「どうでもいいけど、なに? いきなり開き直ったその態度は」 「別に」果歩は背中のホックに手をまわした。 「とんでもなく切羽詰まってるだけよ」 ざーっとお湯の出る音がした。 その音を聞きながら、果歩は漠然と思いだしている。 (果歩はいつも頼りないけど、開き直ったら怖いとこがあるから) いつだったか、子供の頃、母親にそんなことを言われた記憶がある。あれはいつのことだったろう。家族でいった北海道旅行で―― 両親とはぐれて妹と2人になって―― 。 小学校6年だった。幼稚園の妹を連れて、お金もないのにタクシーに乗って、先夜泊ったホテルに向かった。フロントにタクシー代を立て替えてもらって、後はどうにでもなれ、という気持ちで待っていた。 確かに自分にはそんなところがあるのかもしれない。いつもは気を遣いすぎるほど周りに気を使ってしまうのに、追いつめられると、多少のことはどうでもよくなる。そんな―― いい加減で、やけっぱちなところが。 そういや、プラまで取り換えたんだった。透け透けのレースを少し唖然としながら見下ろしていたら、背後から宮沢りょうの声がした。 「よかったら、お風呂使う?」 「……いいの?」 果歩は、少し驚いて振り返っている。 「今、お湯足してるから。それに少し興味あるからね」 りょうは、わずかに首をかしげてにっと笑った。 「的場さんの素顔」 「…………」 笑顔がひきつったが、迷わず好意に甘えることにした。とにかく、この派手な化粧をなんとかしたい。 「……もしよかったら、ついでに基礎化粧品とか借りたいんだけど」 「どうぞ、洗面場にあるから、ご自由に」 りょうの態度も、どこか開き直っているようだ。 一番苦手な人に、とんでもない借りができちゃったな。そう思いながらバスタブを借りて出てみると、外にはきちんとタオルがたたんで置いてあった。 化粧品の類も、使いやすいように全て揃えて籠の中に入れてある。 「…………」 なんだ……。 ずっと意地悪な人だと思っていたけど、案外、すごくお人よしなのかもしれないな。 「飲む?」 リビングに戻ると、りょうは一人でソファに座り、赤ワインのボトルを開けていた。 「……いいの?」 「そこまで図々しいことしてんだから、今さらいいも悪いもないんじゃない」 まぁ、それもそうかもしれないけど……。 隣り合って座り、無言でグラスを傾ける。眩暈がしそうな本棚を除けば、白黒で統一された趣味のいい部屋だった。一人暮らしか……すごく高そうなマンションだけど、家賃とかどうしてるんだろう。 きっと、いい家のお嬢様なんだろうな。出身大学も、いかにもお金がかかりそうな私学だったし。 てっきり「何があったの」と聞かれると思ったが、宮沢りょうは何も言わず、果歩もまた、何一つ口にはしなかった。 2杯目で、ちょっと頭がくらっとした。そんなに強い方じゃない……しかも今夜は何も口にしていない。 「こないだは、ちょっとだけ悪かったわね」 先に口を開いたのは、宮沢りょうのほうだった。 「少し苛々してたのかもしれない。真鍋ジュニアのことあんな言い方して、……悪かったわ」 「いいのよ、本当のことだから」 酔いが、開き直りに拍車をかけた。 「あと少しで宮沢さんと同じ、不倫街道まっしぐらだったんだから。でも、今日で終わったの。全部真っ白」 「そうなの?」 「そ……、でも、初めて宮沢さんの気持ちも判っちゃった……。彼は今日お見合いしたばかりだったけど、……」 あのまま―― ずっと、抱きしめられていたかった。離さないでほしかった。 それが、結ばれない恋で、誰かを傷つけるだけになると判っていても。 「なんかの映画であったじゃない? たまたま好きになった男が極道だった」 「?? なにそれ、たとえがとんでもなく飛躍してるんですけど」 「好きになった男が妻子持ちだっただけなのよ。それのどこが悪いっていうのさ!」 「……もしかして、もう酔ってる?」 「酔ってない、酔ってない」 だから、謝るのはむしろ私なのよ。宮沢さん。無神経なこと言ってごめんなさい。私なんかに指摘されるまでもなく、宮沢さん自身がきっと一番よく判っているはずなのに。 しでかしたことの責任も罪も、全部自分1人にあるんだって。 「……ポテチ、ある?」 「はい?」 「できればうま塩……ないよね。買いにいってくる」 「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。そんな酔っ払い1人じゃ行かせられないわよ」 なんで宮沢さんと2人で、夜道を肩並べて歩いてるんだろう。 私この人苦手だったはずなのに―――ま、いいか。 「ね、恋愛ってタイミングだと思わない?」 公園のプランコで、2人揃ってビールのプルタブを切っていた。りょうがそう切り出したのが、何本目のビールだったかは忘れてしまった。 「タイミング?」 「偶然を運命に変える何か。ただのすれ違いで終わるか、そうでないか。たとえば彼が的場さんを見てる時に、的場さんは他の誰かを見てて、的場さんが彼を見た時に、彼は余所を見ているの」 「……それ、誰の話?」 今夜の不愉快な経験を思い出し、少しばかりむっとしている。 「架空の話、たとえば、よ」 りょうは笑った。 「篠田さんとは、私が高校の時に知り合ったの。……友達の家庭教師で最初から彼女がいたわ。彼がフリーになった時には私が別の人に夢中。ようやく目が覚めた時には、篠田さんはもう婚約してた。……多分、とことん、タイミングが合わない相手なのね」 果歩は黙って聞いていた。酔いで、思考の半分は霧散している。それでも、りょうの言葉だけは不思議な静けさで胸の底に響いてきた。 タイミング、か……。 「極めつけは私が海外行ってる間に離婚して……戻る直前にできちゃった再婚したの。ね、なんだってこう、タイミングがあわないんだと思う??」 あまり気のきいたことも言えないから「そういう運命なんじゃない」と答えてしまった。 怒られると思ったが、意外なことにりょうは笑った。 「同じこと言われたわ。篠田さんにも」 少しさびしそうな微笑だった。 「そんなにいい加減な人じゃないのよ。少なくとも私と、今の奥さんに対しては。私が一方的につきまとって、優しい彼を困らせているだけ。―― 信じてもらえないかもしれないけど」 「……噂、否定しなくていいの」 「いいの……そんな風に追い詰められて、やっと彼から離れられそうな気がするから」 迂闊にも、今頃果歩は、その篠田の言葉を思い出している。先夜、車から降りる直前の宮沢りょうに、篠田はこう言っていたのだ。「明日はさぼるなよ」―― そうだ、あの日の午後、やはり宮沢りょうは傷ついていたのだ。だから……。 「タイミングが多少ずれてても」 少し考えて果歩は言った。 「本当に運命が繋がってるなら、どこかで、合う時があるんじゃないかな」 「そうね……。本当に、運命なんてものがあるならね」 そんな不確かで……今は、何一つ見えないものが。 ふと、不思議な気持ちに囚われている。こうして私は、隣にいるちょっとばかり苦手な彼女と、何年先も―― こうやって語り合っているのではないだろうか。 その時私たちは、いったい誰を愛して、そして愛されているんだろう。恋の終着点、妻というポジションを果たして掴んでいるのだろうか。 この広い広い世界のどこかにいる―― たった1人、私と運命で繋がれている人……。 「また、遊びに行ってもいい?」 「二度とごめんよ」 果歩が買ったポテトチップスを、りょうは一つだけ口の中に放り込んだ。 ************************* 「なんだ、もう帰ってたのか」 雄一郎が照明をつけると、間借り人が奥の一間から顔をのぞかせた。 「おかえりなさい、雄一郎さん」 「先に寝てろ。明日も朝早いんだろう」 上着を脱いでネクタイを外す。 「大丈夫です。バイトは今日で終わりですから」 ここに居着いた最初こそ不器用だったが、今では家事全般を器用にこなす18歳の少年は、タイミングよく雄一郎の上着をとりあげてハンガーにかけた。 「ミセス・グレースは、てっきりお前が、系列ホテルの経営に携わるもんだと思い込んでるぞ」 それには答えず、寡黙な少年はわずかに微笑した。 その肩に背負うものの重さを思い、雄一郎はふと気の毒になっている。 制服を着た姿はいかにも凛々しい大人なのに、こうしていると、年より幼い子供のようだ。―― 数ヶ月前、本当に棄てられた子犬のような惨めな姿で、この少年は雄一郎の家に転がり込んできたのである。 「明日、一度、東京に帰ろうと思います」 「……そうか」 幾ばくかの寂しさを覚えながら、雄一郎はシャツのボタンを外した。 「大学、休学扱いになってるんだろ。戻れよ。誰もが望んで入れる場所じゃないんだ」 「……そうですね」 曖昧な返事。おそらく戻る気はないだろう、と雄一郎は思った。 救いになるなら、いくらでも手を貸してやりたい。が、当の本人がそれを望まない限り、雄一郎に何もしてやることはできない。 静かな眼差しのままで、少年は口を開いた。 「今日まで、本当にありがとうございました。……いつか、僕にお礼が出来る時がくればいいんですが」 「何言ってるんだ。未成年が」 鼻で笑うようにして、雄一郎は目線が上の少年を小突いた。 「そんな水臭いことを言わずに、困ったらいつでも来いよ。俺はお前を、本当の弟みたいに思ってるんだから」 頭をくしゃって撫でてやる。少しまぶしそうな目になって、少年は雄一郎を見下ろした。 「……? なんだ」 その目に、言外にこめられた何かがあるような気がする。羞恥でも憧憬でもない、何か―― 名状できない感情が。 「吉永さんは、本当に結婚するんですか」 「え?」 「今夜、パーティに連れて来ていた人と」 「ああ――」 最悪で最高だった、今夜の記憶が蘇る。雄一郎は動揺を隠すように、眉を寄せて息を吐いた。 「さぁな。それよりお前、パーティに来ていたのか?」 「エントランスで」 雄一郎に背を向けた少年は、今日が着収めになるはずのスカイブルーの制服を、名残惜しそうにそっと撫でた。 「吉永さんが、女の人を連れているのを見たんです」 「あの人も、女はとっかえひっかえだからな」 雄一郎は肩をすくめた。 「叔父さんはお前と近づきたがるだろうが、あの男だけは信用するなよ。どうせ、お前を利用して」 そこで、ふと雄一郎は眉を寄せた。 今夜、その冬馬も首をひねっていた。彼女――的場果歩の荷物と着替え。ホテルの従業員が気をきかせて本人に届けたという話だが、それも不思議な話だった。 逃げるように駆け去った彼女の荷物を、冬馬がキープした部屋からわざわざ持ち出したのは誰だろう。冬馬は、それを雄一郎の仕業だと思い込んでいるようだったが。―― 「なぁ、もしかしてお前」 いつだったか、同じホテルのトイレの前で――あの時、彼女の傍にいたのも。 「明日の朝、早い便で帰ろうと思ってます」 が、振り返った少年は、いつもの物静かな表情に戻って微笑していた。 「身体に気をつけてください。1人暮らしなんですから、食べる物にも少しは気を使わないと」 雄一郎もまた、つられるように優しい笑みを浮かべている。 この2カ月、助けられたのはむしろ俺だ。色んな意味で最悪の時期だった。家で誰かが待っているという幸福を、本当に何年かぶりに味わった。…… 「お前もな。―― あまり思い詰めるなよ」 何もかも、お前1人が背負いこまなくてもいいんだぞ―― その、気休めに過ぎない言葉を飲み込んで、雄一郎は軽く、少年の背を叩いていた。 「頑張れよ、瑛士。俺はいつだってお前の味方だ」 ************************* 「やぁ」 二度と見たくない人の顔を目の当たりにして、さすがに笑っていられる自信はなかった。が、ある意味、その後の顛末が気にならないと言えば嘘になる―― 。 ホテルリッツロイヤル。二度と来るつもりのなかったホテルのバーで、果歩は吉永と待ち合わせていた。 本当は声を聞くのさえ腹立たしいほどで、そのしたり顔をひっぱたいてやりたかったが、いまだ果歩が―― この男に最大の弱みを握られていることだけは間違いない。 「何か、御用でしょうか」 席について、果歩はすぐに用件を聞こうとした。 「明日から休みだそうですね」 にっこりと笑って吉永冬馬は両手を膝の上で組み合わせた。 「ご実家で法事だとか。どちらにご帰省ですか」 「何か御用でしょうか」 果歩は、同じセリフを繰り返した。吉永が苦笑する。 「お願いだから、そう、つっけんどんな顔をしないでくださいよ」 なんと言われても、果歩にはそれ以外の表情はできなかった。 あれから1週間。正直、翌週市長の顔を見るのがどれだけ辛かったか判らない。ひょっとしたら気づかれているのではないだろうか。胸の内では、とんでもなく怒っているのではないだろうか―― 想像するだけで、胃が収縮するほどだった。 「私が帰省するって……誰にきいたんですか」 「安田さんですよ」 吉永はあっさりと内通者の名を明かした。 「あれから時々、メールをやりとりする仲になったんです。―― 友人としてね。その中で的場さんの話もよく出るんですよ」 ぞっとした。安田沙穂に悪意があるとは思えないが、こうやって簡単に情報が漏らされるのではたまらない。まるで日がな、吉永に監視されているようなものではないか。 「安心してください。僕のほうは何も言ってはいませんから。ただ、彼女は、あなたと雄一郎の仲に興味津々のようでしたがね」 「…………」 こうやって、がんじがらめに……この男の言いなりになっていくのだろうか。 果歩は眉を寄せたまま、膝で拳を握りしめた。 「それで、……今日は何の御用なんですか」 「よければ何か食べませんか。会議が長引いたので、ろくに食事をしていないんです」 「結構です。何度も言いますけど、私は真鍋さんとは何の関係もないし、今となっては顔も見たくない人です。正直今も、彼の話が出ると思うだけで、胸がむかむかしているんです」 多少誇張した言い方をしたが、会いたくないのは本当だった。 ただ―― 嫌いだからじゃない。嫌いになってしまえれば、どんなに楽かしれないだろう。その逆だからこそ、もう彼の顔を見たくないのだ。 吉永はわずかに黙った。そのまま火をつけない煙草を唇に挟む。 「あなたは、僕が何のためにあんな真似をしたか……むろん、お判りにはならないでしょうね」 判るはずがない。が、ひとつ言えるのは、そこには底知れない悪意があるということだけだ。自分ではない―― 多分、真鍋さんに対して。 果歩は黙っていた。ウエイトレスが、2人の前に冷たいコーヒーリキュールを運んでくる。吉永は続けた。 「雄一郎は、早くに母親を亡くしました。……七つの時です。そして2年後、ご存じのとおり、僕の姉が、雄一郎の義母になった」 煙草を唇から離し、吉永はどこか物憂げな表情を見せた。 「雄一郎はさぞかし嫌だったでしょう。……当時の光彩建設で、姉は社長一家のハウスキーパーのようなことまでさせられていましたから。雄一郎にとっては、昨日までの使用人の1人が、いきなり母親になったようなものなんです」 吉永はわずかに言葉を切った。 「それでも、もし、姉と真鍋市長が……いや、当時はまだ市長ではなく、光彩建設の代表取締役でしたが」 もし2人が―― 暗い口調で、吉永は続けた。 「本当に雄一郎の母親が死んでから、恋仲になったのであれば、あいつの気持ちも違っていたのかもしれません。実際は、おそらくはそうではなかった。僕はまだ中学生かそこらでしたが、夜遅く、姉を送ってくる真鍋市長と姉の様子は、ただの上司部下という感じではありませんでしたからね」 「…………」 ―― 不倫、……つまりは、そういうことだ。 「雄一郎は、多分、どこかの時点でそれを知ってしまったんでしょう。そして、自らの母親の死と結びつけた。仕方ありません。―― 雄一郎の母親は」 そこで、吉永はかすかに息を吐いて言葉を切った。 「自殺だったんです。遺書はありませんでした。……公には病死ということになっていますが、実際は自宅で首を括っていたんです」 ************************* 「僕は以前、雄一郎は、女を好きになれないというようなことを言いましたね。多分、あなたの前でだったと思いますが」 果歩は、息を詰めるようにして吉永の言葉の続きを待った。 まさか、そんな、想像してもいなかった。 真鍋市長の最初の妻が亡くなっていることは情報として知ってはいたが、そんな……小さい子供を残して、自殺していただなんて。 「雄一郎自身もそれは自覚しています。が、奴はその理由だけは頑として認めようとしない。いや、認められないんでしょう。―― 僕には判ります。雄一郎にとっては、……そうですね、愛とは、すなわち裏切りの前哨のようなものなんです」 「……どういう、意味なんでしょう」 果歩は眉をひそめていた。 「愛しても、いつかは必ず裏切られるということですよ。それどころか、破滅と憎しみと死に転じていく。奴はそれが怖いんです。……意外に強情な男だから、決して認めないでしょうがね」 「…………」 「あいつはひどく多感な時期にそんな風に思い込んでしまったんでしょう。周りに色々吹きこまれたことも原因のひとつだと思います……憐れな男です」 吉永はリキュールを一口飲みほした。 「あなたにとって雄一郎とは、白馬の王子様のような存在かもしれませんが、むろん、僕には違います。むしろ酷薄で、冷淡な男だとさえ思っています。奴は、一度関係を持てば嫌悪感しか残らないと知りつつ、今まで何人もの女性を落としては棄ててきました。……女を、いずれ裏切るものだと思い込んでいるあいつにとって、女性とは蔑視の対象であり、傷つけようが貶めようが、一切心の痛まない存在なんです」 「それは、違うと思います」 果歩は初めて、口を挟んでいた。 それは違う。真鍋さんだって傷ついていた。そんな自分を嫌悪していた。それでも誰かを好きにならずにはいられないと―― そう言っていた。 「そうかもしれません」 かすかに微笑し、吉永はあっさり頷いた。 「あるいは僕より……あなたのほうが、雄一郎の内面に近いのかもしれませんから」 「…………」 「しかし、僕にはそう見えていた。時に僕は雄一郎の恋路の邪魔をして、それで奴には今でもかなり警戒されているのですがね―― 誤解をおそれずに言えば、それは全て、雄一郎のためを思ってやったことなんです」 「どういう、意味ですか」 「軽い恋愛には不向きな女性というのがいるでしょう。―― たとえば、あなたのような」 指を鼻の前であわせ、吉永はじっと果歩を見つめた。 「真面目すぎる相手……時に、もっと性質の悪い相手もいる。たとえば、計画的に妊娠を企むような、ね」 ひどく嫌な気持ちがした。女性を蔑視しているのは、むしろこの人のほうではないのだろうか? が、反論したい気持ちを抑え、果歩は男の話の続きを待った。 「まだ若い雄一郎には、そういった分別がついていませんでしたからね。後々、尾を引きそうな相手は、僕が介入して事前に手を打っていたんですよ。おせっかいだと笑われても構いません。僕は……そう、誰より姉が困ったり傷ついたりするのが、我慢ならない男なんです」 吉永のシスコンぶりは、彼のはばからない態度で察している。 この人もまた、早くに両親を亡くし、姉一人を頼って生きてきたのだ。その姉が、ある日突然、他人の子供の母親になった。いや、それ以前に、その子供の父親の愛人だった。―― 吉永にとっても、その状況は、複雑で耐えがたいものだったに違いない。 「だから、私と真鍋さんの写真を撮らせたんですか」 「そのとおりです」 思い切って切り込んだ刃は、あっさりと受け入れられた。簡単に開き直られ、逆に果歩は、問い詰める言葉を無くしている。 「ただ……あなたの場合、今までの女たちとはどこか違った……」 吉永は、わずかに考え込むような眼差しになった。 「雄一郎は、あなたを本当の意味で、自分のものにしようとしてはいなかった。……そのくせ、僕の挑発にあっさり乗るほど夢中になっている。……正直、驚きでした。あの雄一郎が、本気であなたに恋をしているらしいから」 真鍋さんが―― 私に? 混乱しつつ、果歩は視線を逸らしている。 それはない。そんなことは……絶対ない。あの真鍋さんが、私なんかに。 「雄一郎は、見合い結婚などでは決して幸福にはなれませんよ。僕は先日、あなたに逆のことを言いました。その時は、あなたの存在が、姉の邪魔になると思ったからです」 「…………」 「が、今はこう思っています。……僕は、雄一郎に幸せになってもらいたい。多分、それは姉も同じです。姉もまた、雄一郎が不幸の連鎖を断ち切り、新しい場所で幸福に生活することを願って―― 見合いを勧めているのですから」 「まってください」 それ以上聞くのが恐ろしくなって、果歩は立ち上がりかけていた。 「彼は……真鍋さんは、結婚するんじゃないんですか」 「まだ、正式に決まったわけじゃないんですよ」 吉永の目は真剣だった。 「もし、あなたが……自分が傷つくリスクを恐れずに、奴を受け止めてくれるのなら」 私が傷つくリスク……? それは、―― もし真鍋さんに愛されても、いずれは嫌われてしまうという……そういうことだろうか。 「それで、雄一郎が過去のトラウマから抜け出すことができるのなら……。僕はいくらでも手を打って、見合いの話をなかったことにすると約束します」 ************************* ――そろそろだな。 雄一郎は腕を傾けて時計を見た。 会社のオフィス。午後9時を回っていた。今日、芹沢しほり本人から、このオフィスに電話が入る。見合いの返事だ。それに雄一郎が形通りの承諾をすれば、秋には挙式する段取りになっている。 ――しかし、何故本人が掛けてくる? 正直、そこだけが腑に落ちないといえば、落ちなかった。 実際は、真鍋家の意向はとうに相手方に伝えてある。そもそも、見合いを受け入れた時点で、話は半ば決まっている。こちらに異存はない。いや、言えるような相手ではないからだ。 これでいいのか? 雄一郎は、タイを緩めて煙草を持ち上げた。 この一週間、同じ迷路で思考はいつも堂々巡りだ。本当に―― これでいいのか? 正直、この見合いには、不審な点ばかりが残っている。 まずは両家の格の違いだ。あまりにも違いすぎる―― 年もそうだ。3歳違いは、確かに大した差ではないが、男親からみて、娘をわざわざ―― 格下の、3歳も年下の男の元に嫁がせたいと思うだろうか。 実際、「嫁ぐ」のは雄一郎の方なのだから、そこは感覚的に違うのかもしれないが。 そもそも、当の芹沢しほりの父親に、雄一郎は一度も会っていない。 汚職だ逮捕だと連日聞に騒がれている時期だからだろうが、―― いや、だいたい、そんな時期に、娘の見合いなど呑気に企むものだろうか? もしかして、この見合い話は、芹沢議員の意向とは違うのではないか……? 煙草の煙を吐き出し、雄一郎は立ち上がった。 それに、芹沢家のようなスキャンダルにまみれた相手と姻戚になって―― それが、本当にうちの会社のためだろうか。 今、芹沢議員が検察捜査のやり玉に挙げられているのは、ゼネコン会社からの政治献金が適正に処理されていなかったため―― 究極、工事受注に関わる贈賄が疑われているからだ。 可能性は極めて低いが、もし新たな証拠が出てくれば、議員生命が終わることだって考えられる。そうなった時―― 、同じゼネコンであるうちの会社は、果たして無傷でいられるのだろうか。 単純に、会社の損益を考えた時、有利になる結婚だろうと思っていた。が、本当にそうなのか。思えば、父も義母も、そのあたりの皮算用は一切口にしない。 判らない。 場合によっては、株価の下落さえ招きかねない結婚のではないか―― 。 黙って夜の闇を睨んでいた雄一郎は、ふっと愁眉を開いている。 いや、それも全て言い訳だ。俺は……ただ、この見合いを断る口実を探しているのだ。こんな状態で、まだ結婚などしたくない。まだ―― 未練がこの胸で尾を引いているから。 (離して……) あんなキスをして―― なのに、まるで何もなかったかのように素っ気なく顔を逸らされた。 あの時の俺は、もう何もかも棄てて、あのまま2人で、どこかに逃げたいとさえ思っていたのに。 ――あんなことを……言うつもりはなかった。 ひどく傷ついた顔をしていた。当たり前だ、最低のことを言った。ぶるぶると唇と拳が震えていた。 さぞかし、悔しかったろう。さぞかし俺を憎んだろう。それでいいんだ。どうせいずれ傷つけるなら、まだ、傷の浅い内に断ち切ったほうがいいのだから。 なのにどうして、思考はいまだ、定まらないままなのだろう。 同じところで回っている―― そうして問いかけ続けている。 本当に、これでいいのかと。 机の上で携帯が鳴った。雄一郎は眉を寄せて振り返る。 携帯の番号は教えていない。不審に思いながら取り上げた時、今度は卓上電話のベルが鳴った。 それより早く、雄一郎の視野は携帯ディスプレイの着信相手を読みとっている。 ――叔父さん……? 冬馬からだ。 電話は重なり合って鳴り続けている。 何故か、どちらを先に取るかが、自身の運命の分かれ目のような気がした。 |
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