「見合い?」 果歩は、あやうく口に含んだお茶を吹き出してしまうところだった。 S県の北部。母の実家である白川家に、的場一家は祖父の三回忌法要のために訪れていた。高速を使って車で2時間の距離だが、山間に囲まれた古い旧家は、都会とは別世界のド田舎である。 「まさかと思うけど、私に?」 咳き込みながら、果歩は聞いた。 法事も終わり、祖母と叔父夫婦は親戚の家に行っている。夕刻、だだっ広い家には今、的場一家だけが残されていた。父は隣室ですでにいびきをかいており、母と果歩と妹の三人が、居間でお茶を飲んでいる。 「ま、向こうも半分冗談だけどね」 母はさばさばと言って、かりんとうを口に放り込んだ。 「東京の昔の知人が……私の娘なら間違いないでしょうって。いや、間違いだらけですからって断っておいたわよ」 ああ……そうなんだ。その断り方は母親としてどうなのかと思うけど、なんだ、もう断った後の話なのか。 「えーっ、断る前に会ってみればいいじゃんかぁ」 口を挟んだのは妹の美怜だった。8歳年下の幼い妹は、口も達者で随分ませたことを言う。果歩には宇宙人のような存在である。 「なんか素敵、お見合いなんて古風な感じじゃん?」 「だって、相手信州の人なのよ。果歩、仕事やめなくちゃいけないじゃない」 「やめればいいじゃん」 「何いってんの。女は仕事を持ってなきゃだめ。果歩なんて、まだ仕事のなんたるかも判ってないんだから……」 「母だって、やめてるじゃん。仕事」 家族のことを母とか父とか呼び捨てにするのが、今の美怜のマイブームである。果歩にはとうてい真似できないし、しようものなら、厳しい叱責が待っている。 「全く美怜は……口ばっかりが達者なんだから」 今もぼやくだけで、母は何も言おうとはしない。 ようは父も母も、年とってからできた妹が可愛くて仕方ないのだ。自然、姉とは扱いが違ってくるし、果歩にしても、もうそんな葛藤で悩む年でもない。 「散歩、行ってくる」 果歩は軽く嘆息して立ち上がった。 今日は金曜で、明日から祝日を含めて3連休だ。1日だけ休暇を取って4連休―― 悲しいことに、予定は全く入っていない。 「ったく、田舎は退屈だよねぇ、明日には家に帰れるんでしょ?」 美怜が後からついてくる。土間でサンダルを履いて外に出る。 「母がまだ泊るって言ったらさ、私らだけでも電車で家に帰ろうよ。だってここ、テレビもろくに映らないんだよ? パソコンだってないしさー」 「自分の小遣いで帰りなさいよ」 「え―― っ、何それ、ずるいじゃん。まがりなりにも税金もらってるくせに!」 わけの判らない反論は聞き流す。 「ほんっと、姉はいい子ちゃんなんだから。そういうとこが、23年彼氏なしの所以なのよ」 ぶつぶつ言いながら、美怜が後からついてくる。 のどかな田舎道。少し歩けば山道に入り、アスファルトさえなくなる。 「わーっ、サイテー、ねぇ、帰ろうよ。サンダルが傷んじゃう」 砂利道に入った時、ついに美怜が音をあげた。 「だったら1人で帰りなさいよ。私は、もう少し歩いてから帰るから」 「ほんっと、姉は変わってるね。こんな田舎に何日でも平気でいられるあたり、私には理解不能だよ」 ぶつぶつ言う美怜は知らないだろうが、果歩が四つの年まで両親は別居婚をしていた。父は灰谷市の自動車メーカー、母は東京で働いていたからだ。 果歩は幼稚園までこの田舎で祖父母に預けられて育てられた。ここは―― 果歩にとっては実家も同然の場所なのだ。 懐かしいこの道は、幼いころ、死んだ祖父に連れられてよく歩いた。山間から濃い赤紫の夕日が見えて、風は燃え立つ野性の匂いをはらんでいた。背の高い祖父は果歩のために、よくあけびの実を探してくれた。もういらないと言っても、何度も何度も……。 ふっと滲んだ涙をぬぐった。あの頃に戻りたいな。 そんなこと絶対に無理だけど……もう一度祖父と手をつないで、2人であけびを探しにいけたら。 祖父の死は、果歩には初めての肉親との別れだった。長患いの挙句の死だったから、悲しみというよりは、「よく頑張ったね」と言ってあげたくなるような死にざまだった。 通夜、葬儀とあわただしく、殆ど涙も出なかった。 すでに祖父母の家には叔父夫婦が同居を始めており、年に一度しか帰省しなくなって何年にもなる。久しぶりに見た病床の祖父は別人のように老いて痩せ、果歩のことを認識できるような状況ではなかった。 臨終の時も、叔父夫婦や同居していた従兄たちが泣きむせぶ中、果歩は少し離れた場所で―― ただ見守るだけだった。 祖父の死を、実感として受け入れたのは、いつも2人だった散歩道を、1人で歩いた時かもしれない。もう、会えない。その事実に、果歩は初めて愕然として途方にくれた。 もうこの世界で―― いつでも会えると思っていた人は―― どこを探してもいない……。 「ねぇ、あの車、なんだろ」 ふと、美怜が遠くの方を指差した。 「ベンツだよ?? えーっ、こんな田舎に、いったい何の用だろう」 田地を横切るように作られた舗道を、シルバーの車がのろのろと上がってきている。 濃い夕闇の中、果歩も目を細めていた。 「こっちに来るよ? もしかして、道に迷っちゃったのかな」 「ちょっ、美怜、やめときなよ!」 ベンツなんて、普通の社会人が乗るような車じゃない。下手したらヤ○○とか、そっち系の……。 が、怖いもの知らずの中学生は、ぱたぱたと車のほうに駆けていく。果歩も仕方なく後を追った。 近所の人の車ではないことは間違いない。この先には山しかない。しかも砂利道の行き止まりだ。あんな高級車で……到底上っていけるような場所ではないからだ。 車が停まり、ウインドウが開いた。 「すみません、道に迷ってしまって」 どちらをお探しですか。果歩はそう言うつもりだった。その言葉が、喉の奥に張り付いている。 顔だけを窓からのぞかせた人も、多分、驚きは同じだった。 口を半ば開けたまま、身じろぎもせずに、美怜の背後に立つ果歩を見つめている。 「あれ……もしかして……姉の知り合い……とか?」 最初に口を開いたのは、この沈黙の意味が全く理解できないであろう美怜だった。 果歩は答えられなかった。何故だろう、どうして真鍋さんが……なんのために、こんな場所に。 偶然だろうか、こんな―― こんな、何もない場所に、いったいどうして真鍋さんみたいな人が―― 。 「妹さんですか」 冷静さは、多分、真鍋が先に取り戻した。 「よく似ていますね。……今、何年生かな」 「中2です。え、てか、姉の恋人ですか? マジですか?」 「美怜!」 果歩は、妹の服の袖を掴んでいる。 「少し……時間あるかな」 真鍋が言った。その言葉は、果歩に向けて言われたようだった。 「話があるんだ、長くはかからない」 美怜を意識してか、口調はいつも以上に穏やかだった。が、その目に切迫した色があることが、果歩には判った。 「あります。大丈夫、母には私が上手く言っておきますから!」 もちろん、そう答えたのは果歩ではない。 「そういう言い訳、大得意なんです。あっ、仕事の電話があって、急いで帰ったことにしたらいいですよ。父は寝てるし、母は夕飯の支度で大忙しですから。姉の荷物は、私が上手く隠しておきます」 「ばっ、あんた、いったい何言ってんのよ」 そんな見え透いた嘘、つけるはずがない。が、真鍋は素早く頷いた。「ありがとう。では、好意に甘えます」助手席の扉が開いた。 「いくらでも、お兄さん」 ―― 美怜…………あんた…………。 はしゃいで手を振る妹をひと睨みして、果歩は助手席の扉に手をかけた。 「5分だけですから」 真鍋は答えずに、窓越しに美怜に一礼すると、ゆるやかに車を発進させた。ざりざりっと、タイヤが砂をこする音がする。はっと我に返った果歩は、無言を貫くつもりの戒めを破っていた。 「まっ、真鍋さん、この先は行き止まりですよ」 「え、本当に?」 「しかも、すごい砂利道だし、タイヤ、ぼろぼろになりますよ」 「…………」 黙って眉を寄せた真鍋が、背後を振り返ってギアを引く。そして、背後に視線を向けたまま、片腕だけでハンドルを回してバックを始めた。 運転してる姿はかっこいいけど、ちょっと間抜けだ……全く真鍋さんらしくない。窓の外では美怜がくすくすと笑っている。 果歩も、自然に笑っていた。 ************************* 車を停めても、真鍋はしばらく何も言おうとしなかった。 空はもう、夕闇が濃くなっている。いったい美怜はどういう言い訳をしてくれたのだろうか……。5分はとうに過ぎている。 人気のない畔沿いの路肩。ここなら、最悪歩いてでも家に帰ることができる。時折、車で通り過ぎるくらいで、人の気配は全くない。当然ながら街灯もないから―― 。 「あまり遅くなると、本当に帰るのが大変になりますよ」 おそるおそる、果歩は言った。 「真っ暗になるんです。このあたりの県道、街灯が全然つかないから」 「寂しい所だね」 初めて真鍋が口を開いた。彼はまだ、果歩のほうを見ようとしない。 「……どうして、車に乗った?」 どうしてって……。果歩は口ごもっている。 「真鍋さんが……乗れって言ったから」 「君をつれて、このまま俺の部屋まで戻ると言ったら?」 果歩は息をつめていた。 「君は……この車を降りるかい?」 「…………」 彼は何が言いたいのだろう。私を連れて―― ? でも、彼は他の誰かと結婚するつもりなのに。 動揺が、ますます動悸を強くする。 「吉永さんに、何か言われたんですか」 「叔父のことは関係ないよ」素っ気ない口調だった。 「他の誰も関係ない。君の気持ちを聞きたいんだ」 私―― 私はどうしたいんだろう。 いずれ、嫌われて棄てられると判っている人の手をとるの? しかも、他の誰かと婚約している男の人の。 馬鹿げている。考えるまでもない、そんな選択、するほうがどうかしている。私はこの人のために、そうして何もかも無くすのだ。彼は何一つ失わないというのに。 「聞いて、どうするんですか」 不意に悔しくなって、堪え切れない涙が、一粒だけ頬をつたった。 どうしてこんなことになったんだろう。どうして、こんな人を好きになってしまったんだろう。私……私は……。 「俺は、君が好きだ」 懊悩を振り切るような声だった。 「ずっとそうでなければいいと思っていた。でも、もう、認めるしかない」 彼の言葉が胸に落ちてくる前に、振り返った真鍋の腕に抱きしめられていた。 咄嗟に抗おうとしたが、激しい何かに突き動かされるように、気づけば、両腕を彼の背に回していた。薄いシャツごしに、真鍋の温みと硬さが感じられる。 唇が重なった。 果歩は目を閉じ、自分の中に真鍋が入ってくるのを感じていた。そうだ、もうとっくに境界は壊れている。私だけがそれを、認めないようにしていただけだった……。 「私も、好きです」 キスを続けながら、果歩は、うわごとのように呟いた。広い背を抱きしめ、ようやく繋がったものを離すまいとした。好き……大好き……。 真鍋さんが、大好き……。 やがて唇を離した真鍋は、果歩の頬に、額に、短く優しいキスをした。 指の背でそっと頬を撫でられる。果歩は目を閉じていた。それから、再び胸に抱き寄せらせるまで、彼がとても深い愛情で自分を包んでくれていると実感していた。 「遅くなったね」やがて髪を撫でながら、真鍋が低く呟いた。 「……もう、真っ暗だ」 携帯が一度振動したから、美怜からメールが来たのは察していた。全てはその内容次第だが、まだ、この胸から離れたくない。 「家に戻れなかったら、どうすればいいですか」 「俺の部屋に来る?」 少し期待して聞いたのは確かだったが、ストレートに言われ、逆に身を硬くしている。 突然、自分とこの人の未来には何もないことが思い出され、少しだけうろたえてもいた。 「それは……ちょっと……早いですけど」 しどろもどろになっている。 「最悪、友達の家に泊めてもらいます。前もそうやって……役所の子だから、両親も信用してますし」 ごめん、宮沢さん。また行かせてもらいます! 「携帯をみてごらん」 真鍋もまた、果歩の携帯が鳴ったことを知っていた。 「言い訳はそれから考えよう。僕がご両親に説明してもいい」 冗談でしょ、―― そう思っても、果歩は自分の頬が熱くなるのを感じていた。真鍋さんがうちの親に会うなんて、それこそ天地がひっくりかえってしまいそうだ。 ごそごそと、上着のポケッとから携帯を取り出してみる。 ごめん、無理。 駅前までバスで買い物に行ったことになってるから、帰りはなるべく早く戻ってきて。 まぁ……それはそうだ。 散歩に出たきり、一言も告げずに灰谷市に戻るなんて、どう考えたって不自然だ。 「あの……ひとつ、お願いしてもいいですか」 携帯を閉じて果歩は言った。 「少し先にコンビニがあるんです。そこで、ちょっと……何か適当に買いたいから、連れて行ってもらえませんか」 「いいよ」果歩を優しく見つめたままで、真鍋は頷く。 「……やっぱり、帰らなきゃだめみたいです。手ぶらじゃ親に疑われますから」 「そう」 あっさり頷く真鍋の横顔は、以前2人で飲んだ時の、別れ際の彼と同じに見えた。 あれだけ熱心に誘ったくせに、いざ別れるとなると、ひどく簡単に承知する……。 「随分あっさりなんですね」果歩は、少し悔しくなって嫌味を言った。 「私は、ちょっと残念なのに」 「じゃ、もう少しこのままでいる?」 「そ、それは―― あまり、よくないですけど」 それでも、真鍋が、意地悪なほど魅力的な笑みを浮かべて腕を広げたので、果歩はその胸に額を預けていた。 熱を帯びた唇が額をかすめ、耳に触れる。少しだけ身体が震えた。怖さとは違う何かで。 もう一度キス―― 。今度は真鍋に余裕がある。キスを続けながら、親指が果歩の顎を優しく撫で続けている。全身の力が抜ける……なんでだろう、何も……考えられなくなる。 「……よくないだろ?」 唇を離した真鍋が、果歩の目を見つめながら、かすれた声で囁いた。 「ない……ですね」 強がりが、ようやくそれだけを返せていた。 そのまま暗闇の中で寄り添いあい、2人は互いの熱と鼓動だけを感じていた。 果歩は、彼の言葉を待っていた。何か―― なんでもいい、次の約束とか、これからのことととか、なんでもいいから先が見える何かを話して欲しかった。 携帯が再び震える。タイムリミットが近づいている……。 やがて、かすかな真鍋の吐息が聞こえた。 「行こうか」 内心感じたショックを悟られないように、果歩は悲しみを押し殺して頷いた。 「……はい」 ――そう、話すことなど、何もないのだ。 不倫なんて……絶対自分には縁のない、遠い世界の話だと思っていた。それが今、真っ暗な口を開けて眼前いっぱいに広がっている。 彼と恋をするつもりなら、それだけは覚悟しなくてはいけないのだ。この人は私を好きだと言った。でも、それ以上の約束は、多分何ひとつできない。―― 。 きっと私は、それでも、真鍋さんを思いきることなんてできないだろう。もう、感情の一端が走りだして、止まらなくなっているのが自分でも判る。 「……君を、傷つけるような真似だけはしないよ」 果歩の不安を読んだように、真鍋は低く呟いた。 「君が想像しているとおり、僕はまだ……なんら責任をとれる立場として、君の前にいるわけじゃない」 「…………」 「でも、努力はするつもりだ。少し時間はかかるかもしれない。それまで、待っていてくれるかい?」 果歩は、黙ったまま頷いた。騙されているのかもしれない、ふと思った。ずるい男の口約束―― 。でも、そうであっても構わないという気持ちのほうが強かった。 今夜知った彼の温もりを手放すなんて、絶対にできそうになかったから。…… ************************* 「どういうつもりだ、雄一郎」 「僕には、相手方と連絡をとる術がありませんので」 雄一郎は、冷静に言葉を繋いだ。 「……この度の縁談を、あなたの口から、正式に断っていただきたいんです」 気難しい父親の額に、青筋にも似た苛立ちが浮かぶのが判った。 隣室では、おそらく義母が聞き耳をたてている。ずっとここに来るのが嫌で、父に直接話をする際には市役所を利用させてもらっていた。何年かぶりに足を踏み入れた実家は、相変わらず死のような冷たい静寂で満ちている。 世田谷の一角に建てられた豪奢な住宅。ここで母は死んだのだ、いや―― この男に殺された。会社も財産も何もかも奪われて。 なのに、改装もせずに当時の愛人と住み暮らす男の頭の中が、雄一郎にはまるで理解できない。 が、ただの地方会社だった光彩建設を、上場―― 一躍全国区の企業にまで成長させたのは、間違いなく、この男の手腕である。 ビジネスマンとしては超一流―― その腕を買われ、財政立て直しが叫ばれていた灰谷市の市長にかつぎだされた。剛腕、辣腕、気まぐれで気難しい。しかし腹の底は誰にも見せない―― そんな噂が定評のように付きまとっている。 正直、実の父親ながら、この男の腹の底は、雄一郎にはまるで窺い知れなかった。ひどく鈍感なように見えて、その実、恐ろしく暗いものを胸の底に隠しぬいているような―― そんな恐ろしささえ、感じられる 。 立ちあがった真鍋正義は、傍らのゴルフパックからアイアンを取り出して、磨き始めた。 「お前は、一度承諾したんだ、雄一郎」 随分の間の後、吐かれた言葉だった。 「相手の容姿が気に入らなかったか? それとも話があわなかったか? 判らないのか、こちらから断れる相手じゃないんだぞ」 「失礼は重々……理解しています」 では、一昨夜、俺が電話に出なかったことは、どんな形であれ、知られてはいないのだ。雄一郎は内心眉をひそめながら続けた。 「相手が気に入らなかったわけではありません。ただ、僕には、やはりまだ、結婚は」 「冬馬と女でも取り合っているのか」 吐き捨てるような声だった。 「いい年をして、お前らはいったい何をやっているんだ。冬馬も冬馬だが、お前もお前だ。少しは外聞というものを考えてみろ」 「彼女は、友人なんです」 苦しい言い訳をするしかなかった。 「あの夜のことは……僕に、誤解がありました。叔父さんに遊ばれているのではないかと思ったので」 あの夜、しでかしてしまったことは迂闊だとしか言いようがない。叔父の罠の巧みさが判ったのは、全てが終わってからだった。 あの男にとっては何一つ失うものがない悪戯―― 雄一郎にもそうかもしれない。が、的場果歩だけは違うのだ。 「では、言ってみろ。あの女は何者だ。どこのなんという女性なんだ」 父の口調には、正体が掴みきれない女への多少の苛立ちが滲んでいる。 「僕ではなく、叔父に聞いてみてはどうですか」 雄一郎は、表向き平然と言ってコーヒーを一口飲んだ。 くそっ。立場が苦しいのは俺だけか―― 叔父が真実を明かせばどうなる? あの子は役所を追い出されてしまうだろう。 が、そうなったらそうなったで構わないという開き直りも一方である。叔父の目的は、おそらく俺が持っている15パーセントの自社株だ。それを手にいれるための脅しが、的場果歩という存在に違いない。 しかし、叔父は想像もしていないだろうが、彼女を守る方法がひとつだけある。 自分にとっても賭けのような手段だが―― 最後はそれを行使する覚悟を、雄一郎はすでに固めていた。 「お前の女癖の悪さならよく耳にしているが」 さげすむような口調で、父はかすかに口元を歪めた。 「あんな場所で、実証されるとは思ってもみなかった。本当に、私に恥をかかせるためだけに生きているんだな、お前は」 「……父さんの息子ですからね」 判りあう努力なら、もうとっくに放棄している。しているはずなのに―― 時々、未練のように、無駄にあがいてしまうのは何故だろう。 互いに傷つけあうだけの結果になると、もうそれは判っているのに―― 。 「用はそれだけです。帰ります」 「会社を見捨てる気か」 背中から呆れたたような声が掛けられる。 「お前の母親が遺した会社だ。有布子に誰よりも愛されたお前が、それを棄てる気か」 「棄てませんよ」 抑えた感情の一端が、こぼれ出してしまいそうだった。 ここで、どうして母さんの名が出せるんだ。あんたが殺したも同然の女を、どうしてここで出すことができる。 「僕が何のために、―― 二度と顔も見たくないあなた方のやっている会社に、こうして残っていると思っているんですか」 「有布子の遺言か、それとも梶川の入れ知恵か」 父の言葉は侮蔑に満ちていた。「いずれにせよ、お前の考えではあるまい」 「母さんの遺言?」 雄一郎は笑った。 「母の死を、まぬけにも病気のせいだと信じていた僕に、いったいなんの言伝があったというんです」 切り込むように言うと、正義の灰色に濁った目が、わずかにすがめられた。 「では梶川か。あのおいぼれに、意地でも会社にしがみつけと焚きつけられたか。有布子の無念を晴らすために」 「梶川を悪く言うのはやめてくれませんか」 冷静さをぎりぎりで保って、雄一郎は答えた。 「確かに梶川には、会社に残るよう頼まれました。母の血を引く直系はもう僕一人ですからね。会社の創業から携わってきた古参役員としては、当然の願いじゃありませんか」 「あれは、私を毛虫のように嫌っていたからな」 父の返事はそれだけだった。 無言で一礼しながら、雄一郎は、―― もう何年も前に受け取った、母の<遺言>を思い出していた。 何一つ書き遺さずに死んだ母は、生前、財産の全てを雄一郎に遺していた。それを雄一郎は、10歳の夏に、梶川から知らされた。 (不動産も株式名義も、全て雄一郎様名義に書き換えられております。そう、お嬢様はご存じにございました。あの男が、吉永麻子と長年通じ合っていたことを―― ) (お嬢様のお気持ちを、どうぞお察しくださいませ。お嬢様は、あの男にも吉永麻子にも、自身の財産をびた一文渡したくはなかったのでございます) 昔、真鍋家の執事をしていたという梶川は、往年になってもなお、雄一郎の母親をお嬢様と呼んでいた。 真実を知った日から、父と自分の間には見えない壁ができたようだった。 いや、母親が死んだ直後から、ずっと胸の内に渦を巻いていた疑惑がその日を境に、くっきりとした憎しみに変わったのかもしれない。 雄一郎は何も語らず、父もそれは同じだった。これだけ何もかもが噛み合わないのに、そこだけ、互いの心を読み取ったように、映し鏡を見合うように、2人の行動は一致して―― 形ばかりの、一切口をきかない父子になった。 小学校を卒業すると、雄一郎は当然のように全寮制の学校に入り、以来一度も真鍋家には戻っていない。やがて成人した雄一郎とその父親は、互いに不干渉の仮面をつけて、笑顔で向かい合える関係を手にいれた。 が、―― 心はおそらく、一緒に暮らしていた時以上に離れている。 「僕が、会社を見捨てると思っているなら、それは誤りです。それだけは弁明します」 こんな風に、この人と話すことはもうないかもしれない。そう思いながら雄一郎は続けた。 「アザルの件なら承知しています。だから僕も一時は結婚しようと決めました。でも、今は―― 別の方法で、うちの会社を立て直すことができれば、と思っています」 無言でクラブを磨き続ける父から、返される言葉はない。 「……失礼します」きびすを返そうとした時だった。 「雄一郎、待て」 驚いて顔をあげる。正義の灰色の目が、じっと雄一郎を見つめている。 「お前は優秀だ。判断力もあるし、それを実行する力もある。きっとどの道を選んでも成功するだろう。が、―― お前は優しすぎる、雄一郎」 「…………」 なんの話だ。 「そんなお前には、守ることも壊すこともできやしない……。お前が光彩建設に入って何年だ。5年だな。その間、お前はいったい何をした」 ――なにを、した? 「見合いなら、先刻相手方から断りの電話があった」 思いもよらない父の言葉だった。雄一郎は一時思考を停めている。 「向こうのお嬢様が、お前を気に入らなかったそうだ。ふん、なかなか男を見る目があるじゃないか」 「…………」 そうか。―― そうだったのか。しかし、だったら何故。 「出ていけ、雄一郎」 正義の視線は、再び興味をなくしたように手元のアイアンに向けられた。 |
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