「的場様ですか」 果歩は、ひっくりそうな声で、かろうじて頷いている。 「は、はい、的場です」 「お連れ様は、まだでございます」 うつむいたままで頷く。 集合ビルの12階。降りた途端、深海の世界が果歩を待っていた。 せせらぎの音、南国めいた石のレリーフが四方を囲み、ガラス張りの床の下には、静かな水流が流れている。黒服のウェイターに案内されたのは、海の底のような、黒と青の色彩が漂う個室だった。 クロスのかけられたテープルには水差しとグラスと花が飾られ、窓からは外の夜景が一望できる。「わぁ、綺麗」果歩は思わず呟いていた。 繁華街を離れた海沿いの建物だけに、窓の下には星屑を散らしたような夜の海が広がっている。 アームチェアはゆったりとして広く、ふんわりしたクッションで、カバーには豪奢な刺繍が施されている。1人でも2人でも座れそうだった。それとは別に窓際には、いかにもそこで景色を見てくださいと言わんばかりの、大きな純白のソファが置かれている。 ―― デート、か……。 果歩は背もたれに背を預け、少し所在ない思いで天井を見上げた。淡いブルーの照明が、上品な光を放っている。 嬉しさより、緊張と不安が勝っている。 初デート……初でもないかな。でも、一応両想いになって初めてのイベントだから、初デートってことになるんだろう。 ―― にしても、急すぎるよ。真鍋さん、本当に私の気持ちなんかお構いなしなんだから……。 携帯に電話があったのが今朝である。「今夜会おう」「えっ、今夜ですか」思わず、そう答えていた。 「何か、用でもある?」 「いえ……別に」 用とかそういう問題じゃなくて、心の準備というか、服とかメイクの準備というか―― 。 「あの、私、仕事がいつ終わるか判らなくて」 「いいよ。帰れそうになったら連絡してくれ。タクシーを迎えに回すから」 彼はひどく急いでいて、電話はそれきり切れてしまった。8時になって、ようやく果歩は役所を出たが、迎えのタクシーに真鍋の姿はなかった。 ―― ああ、そうか。一緒にいる所を見られたら困るんだ……。その時、忘れていた寂しさと胸の痛みが今さらのように思い出された。 これからはいつも、こんな風にこそこそ隠れて会わなきゃいけないのかな。 自分で決めたこととはいえ、本当に、これでいいのだろうか。 今なら。 ふと、窓の外の静けさを見ながら考えている。今ならまだ、元に戻れるかもしれない。 「すまない、待たせたね」 心の静寂は、その刹那破られた。立ちあがった果歩は、彼を見ただけで、今感じた迷いが跡形もなく消えていったのを感じていた。 淡いブルーのシャツ―― それは、照明のせいかもしれない。そして黒のパンツだけの真鍋は、タイを外し、襟元も少しくつろげていた。引き締まったウエスト、長い脚。スーツを着て、きっちりとタイを締めている姿の何倍も、スマートでセクシャルな体型が際立っている。 「早速食事にしようか。こんな時間で、お腹がすいただろう」 「あ……はい」 ずるいな、と内心果歩は思っている。この瞬間、恋のケージがまたアップしてしまった。多分、果歩一人だけ……。 「何にする? 俺が決めてもいいかな」 返事も聞かずに、真鍋はメニューをとりあげ、傍らのウェイターに注文を始めた。果歩はただ、見ているだけである。 うん、こういう強引さは楽でいいや。……やっぱり、素敵だな、大人の男の人って。 完璧なデート、完璧な彼氏。でも、その中で、やっぱり果歩1人が不完全のような気がする。 「私、……ごめんなさい。仕事帰りで」 2人きりになって、ようやくのようにそう言うと、少し眉をあげて、真鍋は微笑した。 「君の雰囲気のことを言っているなら、俺にはそのくらいが丁度いいよ」 「ど、どういう意味ですか」 「今夜は、落ち着いて話がしたい。前は、少しばかり刺激的だったからね」 本当にどういう意味だろう。果歩は耳まで赤くなっている。 「見合い話がなくなったのに、こんな風に呼び出して悪かったね」 真鍋は最初から、果歩の寂しさを知っているようだった。 そう、彼の結婚話はなくなった。それはもう電話で聞いて知っている。なのに、2人はやはり、公に認められた恋人同士ではないのだ。果歩も困る。真鍋は多分―― なお、困るのだろう。 前菜が運び込まれる。涼しげなグラスに入った甘海老とキャビアのカクテル。 フルコースか! それまでの、寂しさやときめきも忘れて、果歩は俄然後悔していた。 この時間からは、まずい。食べられないこともないけど、明日から思いっきり食事を制限しなきゃ。 車で来ているのか、真鍋はアルコールを頼まなかった。果歩もそうしたかったが、彼が強く勧めるので、グラス一杯のワインだけもらうことにした。 彼が銘柄を選び、テイスティングをしてくれた。それだけで、もうふんわりと酔ったような嬉しさを感じている。 「このワイン、とても美味しいです」 「そう、よかった」微笑む彼はペリエを飲んでいた。 「俺は、君のことを何も知らないからね。趣味があわなかったらどうしようかと思っていたよ」 そして、少し思い出すような眼差しになる。 「前も殆ど食事に手をつけていなかった。……痩せているし、多少、偏食のきらいがあるのかな」 「特に、好き嫌いはないんですよ」 果歩は慌てて言い訳した。その……ただ、太りたくないだけで。 「前は緊張していたんです。今夜も少ししてますけど」 「そう、じゃ、しっかり食べて飲まないとね」 「は、はい……」 料理は、全てが新鮮であっさりしたテイストばかりで、酸味のきいた爽やかなワインとよくあった。 お腹は空いていたし、いやおうなしに食欲はそそられたが、やはりその夜の果歩も、緊張のあまり、胃が収縮してしまいそうになっていた。 彼は、食事の仕方まで完璧だった。フォークとナイフを巧みに使い、どの皿も綺麗に平らげている。口に運ぶ様もスマートで、ソースが滴る魚介のソテーも、食べにくいはずのサラダも、何か魔法のような美しさで、彼の唇に運ばれていく。 片や、果歩は悪戦苦闘の連続だった。作法を知らないわけではないが、今夜は緊張がいつも以上に手先を不器用にさせている。 それに加え、時折、真鍋の視線を感じることが、いっそう果歩の緊張に拍車をかけた。 彼は時々、食事の手をとめ、じっと果歩を観察しているようだった。なんだろう、もしかして私を見定めようとしているのだろうか。自分にふさわしい女かどうか―― 。がっかりされたらどうしよう、いや、もうされたに決まってる。 「静かだね」 「えっ」 「なんだか、いつもより無口だから」 ようやくメインの皿が終わった所だった。静かなのは、真鍋さんも同じじゃないですか、と言ってあげたかったが、確かに彼は何度か果歩に語りかけ、果歩はただ―― 「はい」とか「ええ」しか答えなかった。多分、今その話を蒸し返されても、なんの話題だったかも覚えていない。 彼は黙ったまま、綺麗な目を窓の外に向けている。 今夜の彼もまた、少しばかりいつもの彼とは違うような気がした。あまり笑わないし、果歩をからかうような真似もしない。 ふと、心細さにも似た寂しさを感じている。 今、真鍋が何を考えているのか、その胸にどんな思いを抱いているのか、果歩にはまるで想像もつかない。同じように真鍋にも―― 果歩の緊張や同席するだけで感じる気おくれは、判らないのかもしれない。 「おいで」真鍋が立ちあがった。「デザートは、こっちで食べよう」 真っ白なスウェード製の、広々としたソファ。窓に面して置かれ、その前にはアンティークなテーブルが置かれている。 立ちあがった果歩が近づくまで、真鍋は動かずに待っている。彼の傍らで足をとめ、おそるおそる見上げると、彼はわずかに微笑した。 「上着を脱ごうか」 「あ……はい」 別段、いやらしい意味で言われているのではないことはすぐに判った。 彼はくつろいでいるのに、自分だけ窮屈な上着を、しかも、ぴっちりボタンを締めた状態で着こんでいる。 ――うわ、ウエストがあまり細くないのが、ばれちゃうな。 そんなことを思いながら、停めていたボタンを外すと、背後に回った真鍋が、脱ぐのを手伝ってくれた。指先が肩に触れ、果歩はどきりとして、全身を緊張させている。 上着をハンガーにかけた真鍋が、戻ってきて果歩の手を取った。 何気ない行為だったが、彼と手を繋いだのは初めてだった。腕を、痛いほど掴まれたことはあったけれど―― 。 暖かくて、大きな手のひら―― 。優しい、……優しい真鍋さんの手。 今日、初めて彼に触れた。 指先だけではなく、身体にまで、喜びと嬉しさがこみあげてくる。 並んでソファに座っても、彼は手を離そうとしなかった。ウェイターが現れ、当然のように前のテーブルに、スィーツとコーヒーを並べる。その間も、ずっと。 恥ずかしくはあったが、それ以上に誇らしくて嬉しかった。こんな素敵な人に、包まれて、そして守られているという安心感。彼となら、きっとどんな場所に行っても怖くない。 「何か、欲しいものがある?」不意に真鍋が呟いた。 「え?」 「服でもアクセサリーでも、他の何でも構わない。何でも買うよ。君が欲しいものなら」 「…………」 どういう意味だろう。それが、いいことなのか悪いことなのか判らず、果歩はただ、戸惑って真鍋を見上げている。 「正直言うと」真鍋の視線が逸らされた。 「7歳も年下の君を、どうやって喜ばせていいのか、僕にはさっぱり判らないんだ。今夜、君が不機嫌そうな理由も」 ―― え……。 「僕の、失礼な振る舞いが原因なら」 「あの、私別に、不機嫌なんかじゃ」咄嗟に言葉を遮っている。 正面から視線があった。こうやって見つめて、見つめられる。何度そんな状況を夢みただろう。それでもやはり、最初に目を逸らしたのは果歩のほうだった。 「不機嫌なんかじゃ……ありません」 今さらながら、心臓がどくどくと音を立て始めている。 嘘みたい……真鍋さんが、そんなことを言うなんて。 私からみたら、むしろ真鍋さんが無口で不機嫌そうだった。彼はもしかして、ずっと私の態度を気にかけていてくれたのだろうか。 「僕は……以前、叔父が言っていただろう。女性に対して、少し傲慢というか……失礼な振る舞いをすることがある」 「…………」 「自覚がないと言えば嘘になる。確かに僕は心のどこかで、女性を―― こう言っていいなら、ひどく無神経な、汚れたものだと思っているのかもしれない。……理由は、―― そう、考えたこともないが」 「…………」 「少なくとも、女性を喜ばせる術にかけては、あまり経験がないと白状するしかない。もし君に、何か望みや、してほしいと思うことがあったなら」 彼が、今、どんな思いでこの告白をしているか―― そう思うだけで、胸がいっぱいになるようだった。 「何もいりません。……私……」 嬉しさと、彼を喜ばせたい気持ちから、少しだけ指に力をこめた。 「こうしているだけで、本当に幸せ……ですから」 ただ、幸せから緊張を引いたら、何も残らないような気がするけど。 肩を抱かれ、引き寄せられる。肩と肩がふれあい、少し躊躇ってから、彼が顔を傾けるのが判った。 キス―― 。5回目。果歩は、頭の隅で数えている。多分、場所を考えてか、そっと触れて、すぐに離れる、優しいキス。 肩を抱かれたまま、果歩はうっとりと目を閉じた。薄いブラウス越しに、彼の肌の温度を感じる。 ぱりっとしたシャツには、少しだけ煙草の匂いが残っていた。 髪と顎のあたりから、ほのかな香料の匂いがする。車の中で抱き合った時にも、今と同じ香りがした。真鍋さんの、香り―― 。果歩の胸は幸福に満たされ、もう、本当に何もいらない気持ちがした。このまま、ずっと2人でいられたら。 「……本当は、君を、父や母に紹介できればいいんだが」 果歩の肩をそっと撫でながら、真鍋が囁くように呟いた。 「今は、色々あって、少し時間を開けたほうがいいように思うんだ。……言い方は卑怯だが、その方が君のためでもある」 「…………」 彼が言いにくそうにしている理由が、果歩には手に取るようだった。 見合いを断るに際し、彼と家族の間には、相当の軋轢があったのだろう。しかも果歩は、彼の父親の下で働いている。―― 判っている。今は、公にすべきではない。 「叔父のことでは悪かったね。俺は誤解していて……君に、随分失礼なことを言った」 腕の中で、果歩は小さく息を引いていた。そうだ、忘れていた、吉永さんが私たちの写真を―― 。 「叔父から、全部打ち明けられたよ」 真鍋の横顔は落ち着いていたが、わずかな苦悩を滲ませてもいた。 「写真も見せられた。全部、俺の手で焼き捨てたから安心していいと思う。ただ―― 君が、何故あんな真似をしたのか……もっとよく考えるべきだった」 ―― 吉永さんが……。 「自分の短気さが、恥ずかしいよ。叔父のやり方はよく判っていたつもりだったのに」 「あの、」果歩は口を挟んでいた。 「吉永さんは、いったいなんのために、あんな写真を撮らせたんでしょうか」 「……さぁ」 わずかな間をおいて、真鍋は首を横に振った。 「何を考えてくれたのかな。とりあえず今は、僕と君を結びつけようと立ちまわってくれているようだけど」 何か含んだような言い方だったが、果歩にそれ以上の詮索はできなかった。 味方だと言いつつ、底意地の悪い悪戯をする。果歩には、それが、吉永の善意からきたものだとは思えない。が、たかだか数度会った男の内面まで果歩のような他人が知るよしもない。もしかすると、彼は本当に甥思いの、優しい人なのかもしれない。 「そうですか……。じゃあ、田舎まで追いかけてくれたのも、吉永さんが、何か?」 「あれは」 真鍋はやや、絶句したようだった。 「あれも僕の、短気から出た早合点だったんだろう。あの日は、君が見合いのために帰省していると聞いて―― 」 「…………」 はい? 見合い? 「俺としたことが、すっかり慌てて、あの様だよ。君の態度をみてもそんな風じゃなかったし、後から叔父の嘘だと気がついた。全く……」 唖然として見上げた真鍋の顔は、初めて見るような羞恥と戸惑いを浮かべている。 まぁ、見合いの話なら、本当に少しばかりあったみたいだけど。 そんなことより、初めて目にする真鍋のうろたえた姿が新鮮で、果歩は目を逸らすことさえ忘れて、まじまじとその横顔に見入っていた。 知らなかった……。 真鍋さんでも、こんな風に、困ったり焦ったりすることがあるんだ。 「……何?」 多分、いつになくしっかり見つめられていることに戸惑ったのか、真鍋が用心深く顔を向ける。 果歩は咄嗟に身を乗り出し―― 衝動的に―― 気持ちのままに、彼の唇にキスしていた。軽く、ちゅっと。そして逃げるように身を引いた。 真鍋は顎を引き、明らかに驚いているようだった。 「……なんの真似?」 「なんとなく……」 真鍋さんが可愛かったからとは、ちょっと言えない。 少しの、怖いような沈黙があって、果歩は彼の胸に抱き寄せられていた。 たまりかねたように唇が重ねられる。 胸が押しつぶされたようになって、怖さと幸福と激しい動悸を同時に感じ、果歩は強く目を閉じていた。6回目……7回……もう、数えなくていいかな。 いいのかな、お店の中で。誰も見てないと思うけど、なんだか怖い。こっちで食べようって、まさか私のことじゃないよね。 もともと肝心な時に余計なことを考える癖があって、それで上手くいきそうになった相手に振られたこともあったのだが、そんな馬鹿なことも、次第に考えられなくなっていく。 こんな情熱的なキスは初めてだった。なのに、次第に切ないような不思議な感情が募って、気づけば両手でしっかりと彼の首を抱いていた。彼の愛情は痛いほど判るのに、これ以上近づけないほど近くにいるのに―― 何故だろう、この繋がりが離れることが、もう不安で仕方なくなっている。 ようやく唇が離れ、果歩は薄く目をあけた。視界がわずか滲んでいる。真鍋の指が額を撫で、頬を撫でた。果歩は再び目を閉じたが、キスの代わりに、そっと瞼を撫でられた。 「……食べよう、コーヒーを淹れ直してもらおうか」 「いえ、私は……いいです」 今ここに、誰かに入ってきて欲しくなかった。まだ、もう少しだけ、彼の体温を感じていたい。 背に回した腕に力を込める。真鍋はあやすように、そんな果歩の背を優しく撫でた。 「明日から、仕事で中東方面に行くことになってね」 「そうなんですか」 言葉が胸に落ちてくるのに、しばらく時間が必要だった。 中東……日本じゃないよね。遠いのかな。あまりイメージできないや。 「いつ、帰ってくるんですか」 「判らない。しばらく向こうに滞在することになる。……帰ってきたら、連絡するよ」 「…………」 なんといっていいか判らなかった。やっぱり真鍋さんはずるいな、と思っている。こんなに一方的に好きにさせておいて―― 自分はさっさと外国へ行っちゃうなんて。 胸に埋めた頭に、真鍋が唇を寄せるのが判った。 「戻ってきたら、旅行に行こうか」 「……旅行、ですか」 見上げた眼差しは優しかった。 「え……でも私パスポートも持ってないし、無理ですよ、海外なんて」 「海外じゃないよ」額に唇が当てられた。 「僕の車で行こう。準備も全部僕がするよ。君は、お姫様みたいにじっとしていればいいんだ」 「……はい」 どう両親に言い訳しようかという躊躇いはあったが、それより、真鍋と一緒にいられる嬉しさのほうが勝っていた。「じゃ、お任せします」 「それと」 微笑していた真鍋の双眸がわずかに陰った。 「時間がたてば、親父も俺の話を聞いてくれると思うから―― それまで、僕とのことは、あまり人に言わないほうがいいと思う」 「……わかってます」 「特に、秘書課では……」 彼は言葉を選び、何かに逡巡しているようだった。 「女性は、口が軽いからね。男性と比較してという意味だけど」 「私も女性だから、その面ではあまり信用置けませんよ?」 冗談めかして答えたものの、自分の立場が、極端に悪いのは心の底から理解していた。 本当に賢い女性なら、真鍋のような男の手を取るべきではないのかもしれない。 単に父親の存在だけではない。彼とこの先どんな関係になろうとも、幸福な未来は、決してないような気がするからだ。まさに、ハイリスク・ノーリターン……。 先のことなんて、今は想像したくもないけれど。 「何?」 優しい目で見下ろされる。男心に鈍い果歩にも判る。彼は私に恋をしている。多分、私ほど熱烈じゃないだろうけど。 「……なんでもないです」 繋いだ指に力をこめる。 彼が、私に飽きるのはいつだろう。女の人を本当の意味で愛せないと、確かにこの人は告白したのだ。自分のものにした途端に冷めてしまうと。 今、この人は、それをどう考えているのだろうか……。 ************************* 食事が終わると、果歩は真鍋が用意したタクシーで自宅まで帰り、彼は自身の車で家に帰ったようだった。 「なに、えらく遅かったのね」 「忙しいのよ。電話したでしょ」 嘘をつくのは慣れっこだったが、今夜は、出迎えた母の顔をまともに見ることができなかった。 急いでシャワーを浴びて自室に戻る。美怜はとっくに寝てしまっているようだった。 あれから、なんだか幸福より不安のほうが先立って、あまり話もはずまないまま、二人は別れたような気がする。 ベッドに腹ばいになった果歩は、携帯を開き、登録したばかりの真鍋の番号を見つめた。 (―― 心配だから、帰ったら、一度電話をくれないか) 心配性の真鍋さん。私のこと、いったいいくつだと思ってるのかな。 たかだか同じ市内をタクシーで帰る私より、明日から日本を出ていくあなたのほうが、よっぽとよっぽど心配なのに。 少し怖かったが、初めて番号をコールする。 1回、2回……出てもらえなかったらどうしよう。繋がっても、もし会話がかみ合わなかったら? なんだか楽しかった今日1日の思い出が台無しになりそうで、激しく落ち込みそうな予感がする。 「帰った?」 が、声はすぐに繋がった。真鍋の柔らかい―― 電話だといつも以上に低く聞こえる声に、果歩は頬が上気するほどのときめきを感じている。 「はい、帰りました」 「遅いから、心配してた」 本当に心配症だこと。これじゃ、うちの父親と変わらないよ。 「あの、今夜はありがとうございました」声をひそめて、果歩は続けた。「すごく……楽しかったです」 「うん」 優しい声、うんっていう短い言葉から、彼の気持ちが伝わってくるようだ。 「あの……」その声に励まされるように、少しだけ大胆になっている。 「本当は、もう少し一緒にいたかったです」 「うん、……俺もだ」 胸の深いところに、声がゆっくりと浸みていくようだった。 本当に、真鍋と恋人になれたんだと、果歩は初めて実感していた。 「今は、もう家?」 「はい、真鍋さんは?」 最初の緊張が互いに解けたら、あとの会話はスムーズだった。 「部屋で、明日の支度をしてるよ」 「うそ、じゃあ切りますね。迷惑になってもいけないし」 「いいよ」 少し不自然な間があった。彼が電話の傍ら、何かの作業をしている気配がする。 「もう少し話していよう」 「……はい」 嬉しくて、飛び上がりそうな気持は、とりあえず表情だけでとどめておく。 「でも、もう11時過ぎてますよ。こんな時間から支度なんて、大丈夫なんですか」 「もう? まだ11時だろ」 彼の声は意外そうだった。「2、3、やっつけなきゃいけない仕事もあるから、もう少し起きてるかな。だいたい寝るのは、いつも2時前後だよ」 「そうなんですか」 それであの素敵な美貌を保っていられるなんて―― やっぱり、真鍋さんはタダものじゃない。果歩は一人で納得している。 「私は寝なきゃ……12時まで起きてられない性格なんです」 「健康的だね」 コンタクトをそれ以上装着できないという理由もある。その途端、果歩は、はっと息を飲んでいた。しまった、旅行!……眼鏡なんて死んだってかけられない。 もし彼氏ができて、お泊りすることになったら―― それは、メイクで別人になっている女子とド近眼女子の共通の悩みである。そんな恐ろしい現実がもうすぐそこに迫っているのだ。 果歩は、額に冷や汗が浮くのを感じた。 コンタクトの装着リミットが来るまでに、彼が寝てしまえばいいんだけど―― 2時じゃ絶対に無理じゃん、私がそこまで起きてられない。 「ま、真鍋さんも早く寝ましょうよ!」 「……? ああ」 「特にお休みの日とかは、リラックスしなきゃ。そうだ、私と一緒に早く寝る練習をしましょう」 「………それ、どういう意味で言ってる?」 えっと……。 真鍋が、電話の向こうで笑いをかみ殺している気配がした。 「いいよ、早く寝よう。俺も2時まで待つ気はないしね」 いや、間違ってもそういう意味じゃ……、しかし、この葛藤を彼に理解しろと言う方が無理だろう。 「パジャマとか、持っていきます?」果歩は、話題を変えることにした。 「え?」しかし、その話題も彼には意外だったのか、戸惑った声が返される。 「パジャマ?」 しまった。またおかしなことを言っちゃった。 実のところ、旅行ときいて、一番楽しみなのはそれだった。もしかして、もしかしなくても、真鍋さんのパジャマ姿が見られるかもしれない。 「特段、用意しなくていいと思うよ。ローブがあるし……俺は、普段はシャツとスエットだしね」 「そうなんですか……」 「……? 何か、がっかりさせるようなこと言ったかな」 「いっ、いえいえ、そんなことは」 この乙女の妄想もまた、真鍋には理解できないだろう。 ま、いいか、普段の真鍋さんが見られるなら、それで。 「楽しみにしてます」 「うん……いい子で待っておいで」 真鍋さんも気をつけて……。 彼のおやすみを最後に聞いて、幸福な気持ちで目を閉じる。 神様、これが全部夢なんてことはないよね? 何も結婚したいなんて贅沢な我儘は言わないから、この幸せが、ずっとずっと続きますように…… |
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