約束の日。 二駅離れた郊外の駅に、真鍋は彼の愛車で待っていてくれた。 長かった梅雨も終わり、季節は初夏を迎えている。2週間ぶりに会う恋人を前に、果歩は胸も足も、躍り出すのを抑えることができなかった。 「真鍋さん!」 車に腰を預けるようにして立っていた真鍋は、果歩の声に気付いたのか顔をあげる。 サングラスは反則でしょ。―― いっそう魅力的に見えるアイテムをあっさり外し、真鍋はわずかに白い歯を見せて微笑んだ。 「元気そうだね」 「真鍋さんも―― 」 うわっ。 太陽を真正面から見たようになって、果歩は思わずよろめいていた。 ついに見てしまった……普段着の真鍋さん。ファンには垂涎ものってやつかもしれない。 ブルネットとセピアの二重カットソー。少し履き古した感のあるストレートのデニム。しばらく中東に滞在していたせいか、以前より少しだけ日焼けした腕が、惜しげもなく半袖シャツの下からのぞいている。 髪は無造作に流していて、少しばかり襟足が伸びていた。いつもと全く違う―― 野性的な雰囲気が漂っている。 「目が弱いんだ」果歩の荷物を積み込むと、彼はすぐに運転席に乗り込んだ。 「気づいていると思うけど、少し色素が薄くてね。視力はそんなに悪くないんだけど、紫外線には気をつけるようにと言われている」 「そうなんですか」 「向こうは日差しがきついから、サングラスが手放せなかった」 その綺麗な瞳に、そんな秘密が……。やはり、美しいものはもろいのだろうか。果歩には、そんな逸話でさえ、うっとり聴き惚れたくなるほどである。 「私も目が悪いんですよ」だからかもしれない。隠しぬきたい秘密を、ついうっかり漏らしていた。 「ああ、コンタクトだったね」 しまった! 「え、その、そんなに悪くはないんですけど、眼鏡だと……色々不便で」 「判るよ。僕も普段眼鏡を掛けているんだけど―― 実は、殆ど度が入っていないんだ」 「そうなんですか」 何でもないように続ける真鍋に、何でもないように答えながら、果歩は内心、多少の――嫉妬にも似た微妙な感情を抱いていた。 伊達眼鏡。この世で、果歩が一番嫌いな代物である。近視の人が嫌でもかけなきゃならない、いわば医療アイテムを、おしゃれで掛けようという根性がそもそも気に入らない。 「あまり、人に目を見られたくなくてね」 ステアリングを回しながら、真鍋は続けた。 「今は少し色が出てきたけど、子供の頃はもっとひどかった。よく外国の人に間違われてね。……視野が狭くなって面倒だけど、今でも癖みたいに眼鏡がないと落ち着かない」 そうだったんだ―― 。果歩は即座に、伊達眼鏡にむっとした自分を反省している。彼の綺麗な目に、ただ見惚れるだけだったミーハーな自分にも。 私、やっぱり……何も知らないんだな。まだ、真鍋さんのこと、何も……。 「昼食は、食べた?」 「あ、いえ……」 「途中に美味しいレストランがあるんだ。寄っていこう」 わずかに感じた寂しさと不安は、その言葉で吹き飛んでいた。今日に備え、ダイエットは万全だ、1キロ増くらいなら……大丈夫、多分、うん。 「じゃあ、今夜は果歩の眼鏡姿が見られるのかな」 助手席で、果歩は吹き出しそうになっていた。「―― は?」 「いや、可愛いんだろうな、と思って」 「は……はは」 強度近視の苦労を知らない奴め……。 「どうしよう。もしかしたら、忘れちゃったかもしれません、眼鏡」 果歩はさも困ったように手を顔の前で合わせて見せた。 「あまり度も入ってないし、そんなに困らないから、つい忘れちゃうんですよね」 「そっか、それは残念だ」 ――ん? 果歩は眉を寄せていた。なんだろう、眼鏡のことに気を取られて、何か大切なことを忘れているような……。 しばらく考え込んでいた果歩が、ようやくそのことに気がついたのは、信号を二つも過ぎた後だった。 「ま、ま、真鍋さん」 「―― ん?」 「さっき……その、聞き間違いじゃなかったら、その……」 果歩って……名前で。 「遅いね、ものすごく」 運転している横顔が、呆れたように笑っている。 「とても外した気分だった。いつまでも的場さんじゃ他人行儀だから、勇気を出して呼んでみたんだけど」 「……は、はぁ」 なんだか急に熱くなってきたような。じゃあ、なんだろう、私も真鍋さんじゃなくて雄一郎さんって……。わーっ、無理、そんなの絶対無理な気がする。 「でも、不思議だな」 果歩の動揺など知るはずもなく、運転している真鍋は涼しげな微笑を浮かべている。 「それまでずっと的場さんだったのに、一度名前を呼ぶと、もう果歩になってるんだ。名前には不思議な力があるというけど、本当かもしれないね」 「…………」 あ、暗に催促されているような……。気にしすぎだったらいいんだけど……。 「もう直着くよ」 が、真鍋はあっさりと話題を変え、右サイドのウインカーを出した。 そう言えば、今日はどこに泊まるんだろう―― 果歩は今さらながら、今日の予定を何も聞いていないことに気が付いている。 ************************* 「別荘ですか」 ランチを終え、再び走り出した車の中で、果歩は真鍋を見上げていた。「真鍋さんの?」 「僕の個人所有だよ」 果歩の不安を察したのか、真鍋はすぐに言い添えてくれた。 「母の所有していたもので、死後に僕が相続したんだ。親父も義母も関知してない」 個人所有の別荘……葉山……なんだか、全てが空想の夢物語のようだ。が、正直言えば、やはり真鍋家の敷地に足を踏み入れるのは気がひける。 いくら市長や義理のお母さんが関知していないといえ―― 少しばかり大っぴら過ぎるのではないだろうか。 ――別荘……。 その途端、ふっと果歩は思い出していた。もしかして、真鍋さんを生んだお母様が、療養していたという別荘のこと……? 「君は何か、こう、大げさに考えているようだけど」 真鍋は、面映ゆげにサングラスを押し上げた。 「僕の家は、特段、びっくりするほどの金持ちでもないよ。しょせん、地方都市を拠点にした建設会社だし、全国区で展開している会社とは比べ物にならない」 それでも、別荘なんて、庶民が早々手にできるものではない。黙る果歩に、真鍋は続けた。 「しかも、真鍋の家はもともとは土建屋だ。やくざと紙一重の商売だよ。実際、なかなか縁が切れずに、創業時の株主総会は随分荒らされたという話だしね」 「そうなんですか」 「それがバブルで成り上がって、一流企業の仲間入りだ。真鍋家の格なんて、……どの世界でも下の下だよ。本来なら、君の家にだって難色を示されてもいいくらいだ」 「そんなこと」果歩は言い淀んでいる。「……今でも、その……やくざさんと繋がりがあったりするんですか」 灰谷市には、戦後の昔から指定暴力団湊川会が拠点として存在している。暴対法ができて、その活動は随分縮小されたというけれど、灰谷市役所でも、昭和六十年頃まで対策室が設置されていたほどだ。 「暴力団の影がちらついただけで、銀行融資が打ち切られる時代だよ」 真鍋は笑った。「そうなったらうちみたいな会社は一巻の終わりだ」 「……中東へは、どういう関係で?」 「うん、色々ね」 その口調で、彼があまり語りたくないことが察せられた。 「別荘って、普段はどうなってるんですか」果歩は気づかないふりで話題を変えた。 「信頼できる人に管理を任せているよ。だから掃除や修理は行き届いている。幽霊屋敷を想像してた?」真鍋の声に、明るいものが戻っている。 「まさか。でも、夕食とかはどうするんですか?」 「ああ、それなら僕が作る」 「えっ??」果歩は、心底驚いていた。「真鍋さんが?」 「得意料理があるんだ。といっても、口に合うかどうか判らないけど」 「いえっ、それは……」 なんでも食べちゃいますけど、でも。 お、女としての私の立場というか―― なんというか。 「言ったろ、君はお姫様みたいにじっとしてればいいって」 真鍋は楽しそうに笑っている。「それより、夕飯までの時間をどうしよう。クルーザーで海に出てもいいし、君がもしテニスができるなら―― 」 「わぁ、素敵ですね!」 わざとらしくない程度の喜びを見せて、果歩は目を輝かせて見せた。 まずい…………。 この世で、果歩がどうしても苦手なものが三つある。 飛行機、船、そして―― スポーツ球技一般。その理由を語らせたら、おそらく朝までかかるだろう。そして一生語るつもりはない。 「あの……でも、もしよかったら」 頭の中で目まぐるしく、様々な言い訳の中から、ベストの回答をチョイスする。 「せっかく2人きりなので……少し、ゆっくり過ごしたいです」 ナイス! 「そう」 真鍋も、それには異存はなさそうだった。「じゃあ、あの辺りを散歩でもしようか。ペンションがいくつかあるし、女性好みの雑貨屋もあったと思うから」 「はい」 セーフ…………。 しかし、こんなことで本当に大丈夫なのかな。果歩は軽くため息をついて窓の外を見ている。 一泊二日の小旅行、夜から朝までずっと一緒で、私がずっと被って来た何かの皮がはがれなきゃいいけど……。 ************************* 真鍋家の別荘は、洋風木造二階建ての、多少古びた感のある、アンティークな建物だった。周辺は深い木々に覆われ、その隙間から差し込む日差しが、オリーブ色の屋根に映えている。 白い鉄柵が家の周辺をぐるりと取り巻き、表札はかかっていなかった。 格子窓のついた飾り扉が玄関である。真鍋が鍵を開けると、さぁっと中から涼しい風が流れてきた。 「風を通してもらっていたんだ」 真鍋が、荷物を下ろしながら言った。「到着時間は、伝えていたからね」 三和土は広く、古いながらも材質は大理石だった。 リビングキッチンは広々としていて、レースのカーテン越しに明るい日差しが差し込んでいる。グレーのソファの上には、グリーンとイエローのクッションが敷き詰められており、壁にはブルーを基調とした幾何学模様の絵画が掛けられていた。 対面キッチンの前には、ガラス張りのダイニングテーブルにラタンチェア。 本当に素敵な部屋だった。なんだろう、まるで……まるで……。 「新居に越してきたみたいだね」 うっとりと見惚れる果歩の背後で、真鍋がその心を代弁した。 「いつか本当にそうなればいいね。2階に荷物を運ぶよ」 「えっ、は、はい」 な、なになに? 今すごいセリフを何かのついでのように言われた気がするんだけど! ベッドルームは、もっと素晴らしかった。エメラルドグリーンのシーツに包まれたダブルベッド。見晴らしのいい窓からは、青い海と、緑の木々が絵画のように広がっている。 「クローゼットにある服は、自由に使っていいよ」 真鍋が窓を開け放ってくれた。清々しい―― 新緑と潮の匂いがする。 「楽な服に着替えて降りておいで。疲れたなら、少し休んでいるといい。あと、鍵の開いている部屋なら、自由に出入りしていいから」 「どこに行くんですか」 「僕の部屋は1階だ。少し確認しておきたいこともあるから、ゆっくり休んでいていいよ」 歩み寄って来た真鍋と手を繋ぐ。目を閉じて軽いキス。「……じゃあ、あとで」 彼の大人な態度を、初めて物足りなく思っていた。 そっか、同じ部屋じゃないのか……。 不思議な物足りなさを感じ、果歩は軽く嘆息している。せめて同じ階にすればいいのに、なんかこう、2人きりの家で律儀すぎるような気がする。 こんな状況だから、少しだけ期待していた。期待っていうのも変だけど、もっと身近に、この前のように、彼と深く触れ合いたいと思っていた。 私って、エッチなのかな。真鍋さんのこと、もっと知りたいと思ってる。もっと触れたいと思っている。自分のことはあまり知られたくないと思っているくせに―― 。 気を取り直し、クローゼットを開けてみた。中にはタオル地のローブと、可愛らしい麻のチェニック、レモングリーンのニットスカート、それからくるぶしまでの涼しげなコットンパンツが納められている。 多分、それが楽な格好。 もうひとつ、ハンガーにかかっているのは、マキシ丈のワンピースだ。南国様の花がプリントしてあって、胸元は合せ襟、ノースリーブで、スカートにはたっぷりのフレアーが入っている。 「なにこれ、すっごい可愛いんですけど……」 真鍋さんのコーディネートだったらすごすぎる。何も持ってこないでいいって言われたけど、本当に全部用意してあったんだ。 しかし、真鍋一族ってどういう神経をしてるんだろう。吉永さんもそうだったけど、女の人に何もかも買い与えるのが伝統なのかしら。 まぁ、今日は黙って甘えることにしよう。彼は年上だし、……断れば、また一人で考え込んで、気を悪くしてしまうだろう。 とりあえず、楽なほうの衣装に着替えて部屋を出た。 廊下には、5つの扉が並んでいる。果歩は息を飲んでいた。本当に広い家だ。下にも3部屋はあったから、……7LDK? ますます謎だ。なんだってこんなに部屋があるのに、わざわざ彼は一階をセレクトするんだろう。 鍵が開いている部屋は見ていいと言われた―― こんな機会はもうないかもしれない。果歩は扉のひとつを開けてみた。同じようなベッドルーム。色調とインテリアは少し違う。隣も同じ。ただし2部屋ともベッドには灰色のカバーがかけられており、人が使ったような気配はなかった。 もうひとつは書斎だった。天井までの本棚に、思わず「宮沢ルーム」を連想している。が、本棚にもビニールカバーがかけられており、無人の家の物悲しさが、どことなく漂っていた。 なんの本だろ。―― というより、いつくらいからこの家は無人だったんだろう。そっと書棚に近づいてみる。カバーは綺麗に掃除されていた。中の本が透けて見える。果歩は目を見開いていた。 ―― 児童書?? 絵本から文学全集まで、多分小学生くらいを対象にした本ばかりだ。なんだろう、こんな大人な雰囲気の家に、すごく不似合いな気がするんだけど―― 。 最後の部屋の扉も空いた。結局、鍵のかかっている部屋はひとつもなかった。 「わぁ……」 果歩は、思わず声をあげていた。 その部屋だけは、今までの部屋と全く趣が違っていた。 天蓋付きのベッドに、白とベビーピンクで統一されたアンティークで乙女な家具。まさに姫系の部屋だった。全てにビニールカバーがかけられているが、カーテンも薔薇模様で、レースは繊細で複雑で、いかにも高級仕様である。 なんていうか……時代錯誤であることを恐れずに言えば、ここは、<貴族>の部屋だった。何かこう、別世界のお姫様の世界と言う気がする。 果歩はおそるおそる、沈みそうなほど柔らかい絨毯に足を踏み入れた。 白とゴールドのチェストの上に、写真立てが幾つか並んでいる。果歩はそっと近づいてみた。ひときわ目についたのは、折りたたみ式の3枚つづりの写真立てだ。その中央で笑っているのは、茶褐色の巻き毛をした色白の可愛らしい女の子―― いや、男の子だ、真鍋さんだ。 「うわっ、マジで? すごーい、可愛い」 果歩は歓声をあげていた。 今日見たなかで、最高のサプライズかもしれない。 いくつくらいだろう。小学校低学年くらいだろうか。白いシャツに黒のベストを着て、いかにもお坊ちゃまという感じだ。確かに目色がひどく淡くて、透き通るような肌の色もあって、ハーフかクオーターに見えても不思議はない。 隣の一枚にも目を向ける。同じ年頃と思しき真鍋の隣に女の人がしゃがみこんでいる。肩に手を置いて、顔と顔をくっつけあうようにして笑っている。 ――お母さん……? 髪をきっちりとひとつに束ね、白いブラウスに灰色のスカートを履いている。なんだか、えらい地味な人だ。たとえて言えば―― 私みたいな? それより、真鍋の笑顔がひどく印象的だった。子供だから、こんな笑い方もするのだろう。でも―― でも、今の真鍋さんは、果たしてこんな風に笑うだろうか。 最後の1枚―― 果歩は、視線を留めていた。 透き通るような美しい女性が、あせた写真の中で微笑んでいた。 淡いストレートの長い髪、伏せたまつげの影は長く、唇は薔薇色の光を帯びている。目元と鼻筋に面影がくっきりと浮き出ている。間違いない、この人が真鍋さんの―― 。 「この部屋は、駄目だよ」 背後で、少し躊躇ったような声がした。 驚いて振り返ると、扉に手をあてて、真鍋が暗い面差しで立っている。 「鍵を締め忘れたんだな。……ここは、入ってはいけない。出よう」 「ごめんなさい。私」 彼の口調の暗さが、果歩の心を不安にした。ここは、入ってはいけない部屋。この写真は―― 見てはいけないものだったのだろうか。 「さぁ、出なさい」 果歩が立ちすくんでいても、真鍋は扉の傍から動こうとしなかった。「さぁ」 3度目に促されて、果歩はようやく真鍋の傍に駆け寄った。 彼の態度が不自然なのは明らかだった。部屋に入ろうとしないだけではない、彼の目は、感情の全てを消し去ったように淡々としている。まるで―― 何も見ていないかのように。 「ごめんなさい、鍵が空いていて……」 「いいよ。僕が確認しなかったのがいけなかった」 「勝手なことをしてごめんなさい」 「気にしないで」 扉を締め、鍵をかけた真鍋は、優しい微笑を果歩に向けた。 「下でコーヒーを飲んだら出かけよう。もう疲れはとれたかい」 手を繋いで、ようやく果歩はほっとしている。 そして、少し寂しく思っている。触れてほしくない秘密があるのは、私も真鍋さんも一緒なんだ。 恋人ってそういうものかな。……それともまだ、私とこの人は、本当の意味で恋人ではないのだろうか。 |
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