「聞いた? 秘書課の的場さん」 「市長怒らせちゃって、今は倉庫で、毎日文書の整理してるらしいよ」 「ほら……市長の息子の。婚約者がいるのに、的場さんがしつこくつきまとって、それで市長が激怒しちゃったんだって」 廊下から、無遠慮に響く声―― 。 果歩は無言で、書類の束から、ホッチキスの芯を取り続けていた。 5日間、ずっと同じことをしていたから、爪がすっかり傷んでしまった。なんかこう、この極限の惨めさがいっそ快感とでもいおうか……。 「…………」 深刻な状況で、無駄なことを考える癖が、今もまた役にたっている。 というより、あまりに今の状態が非現実すぎて、まだ感情が追い付いていないのかもしれない。 黴と埃の匂いがたちこめた地下倉庫。窓がないから、薄い蛍光灯だけが頼りである。 果歩の仕事は、保存年限の切れたケースを出して、中の書類からホッチキスやダブルクリップの類を取り除くこと。ファイルごと収納されているものは、ファイルから取り外しし、そのファイルも分解して再生紙に回さなくてはいけない。 けっこう新しそうなファイルも、中にはまじっていて、それはさすがに棄てるにしのびなくて別の箱によけている。 ―― こんな仕事もあるんだ……。 としか、言いようがなかった。逆に、仕事だと割り切ることで、かろうじて気持ちの平静を保てていたのかもしれない。 地下には庁内メールを仕分けする文書庫と、再生紙の保管庫があって、そのせいか、日がな臨時や若い女子職員が出入りする。 倉庫の隅で黙々と作業している果歩に気づかず、彼女たちは、今、庁内で一番話題になっている事件を―― こうやって大っぴらに話していくのだった。 「お、新品のクリップ発見」 独り言が無意味に増える。 時々、何かこう、我慢できない感情がこみあげてきて、しばらく動けなくなることもある。 もちろん、親には言えなかった。「今週は、帰りが早いのね」母に言われた時も、「今、市長が出張中なのよ」咄嗟にそんな嘘で誤魔化していた。 何度、携帯に手が伸びたかしれない。 でも、その度に我慢した。今―― 彼は忙しいのだ。 はっきりとは言ってくれなかったけど、多分、お見合いが流れたことで、彼は責任を感じているのに違いない。どういう方法か知らないが、会社の業績を立て直そうと奔走している。だから、中東にも2週間近く滞在していたのだ。 それに、会ってしまえば―― 。 今、ぎりぎりのところで保っている何かが、あっけなく壊れてしまう。そうしたら、もう二度と、役所には戻ってこられないような気がする……。 「へぇ、案外、元気そうじゃない」 嫌味な声がしたのは、昼休憩のチャイムが鳴った直後だった。 「なにこれ? 的場さんの私物? 驚いた。本当にこんなとこで仕事してたんだ」 果歩は、驚いて立ち上がっている。 「ランチしない?」 宮沢りょうは、コンビニの袋を目元まで持ち上げ、楽しそうに笑って見せた。 ************************* 「え、異動……?」 耳にした言葉が信じられず、果歩はりょうを振り返っていた。 役所の屋上―― 初夏の日差しが、少しばかり肌に痛い。殆どすっぴんに近いのに、宮沢りょうは一向に構わず、日差しに白い肌をさらしている。 ベンチに座った2人の前には、錆びたフェンスとオフィス街。 果歩に、屋上は初めてだったが、2人の他にも、食事をとっている職員が点在している。 「そ、西区の総務だって。今日内示があって、正式異動は来週の月曜」 さばさばとりょうは言って、サンドイッチをぱくついた。うわっ、けっこう大きな口……二口で食べるかな、普通。 「本当は、ワイドショーの主役は私が一人占めだったんだけど」 唇の端についたマヨネーズを、りょうは舌で舐めとった。 「的場さんのおかげで、すっかり影がかすんじゃった。今日はお礼とお別れを言いに来たのよ」 「…………」 じゃあ、懲罰的な異動ってことだろうか。 自分のことではないのに、果歩は胸が悪くなるような気分の悪さを感じている。 あれだけ噂になっていたのだから、人事がなんらかの手を打ったのは十分考えられる。特に、今の真鍋市長は、風紀や規律に厳しい人だから―― 。 「ちゃんと、違うって言ったんでしょ?」 りょうは答えず、ストローで野菜ジュースを飲んでいる。 「おかしいよ。宮沢さんみたいな優秀な人が区役所なんて、……それに、本当に不倫してたわけじゃないのに」 「優秀な人でも区役所に行くし、優秀じゃない人でも本庁にいるわよ? 私に言わせれば、だけどね」 「…………」 「それに聞くけど、どこまでが不倫じゃなくて何をしたら不倫になるの? キス? セックス? そんなのね、間違っても他人に判断なんかされたくないわ」 サンドイッチのビニールをくしゃっと丸めて、りょうはコンビニの袋の中にしまい込んだ。 「私が出なきゃ、篠田さんが出されるじゃない。本当言うとどうでもよかったの。別に、何かがしたくて役所に入ったわけじゃないし」 「じゃ、辞めるの?」 「ふふ……」 何故か不敵にりょうは笑った。「資格もスキルもないあなたと違って、転職先なら、いくらでもあるから」 そっか、じゃあ、辞めるんだ。 まぁ、もともと役所にはもったいないほど綺麗で頭のいい人だったから、その選択も正解なのかもしれないけど。 ―― 辞める、……か。 りょうが立ち上がったので、果歩もようやく食べ終わった弁当を包み直して立ち上がった。 「的場さんは、内示は?」 「ないの。いつかは、出ると思うんだけど」 「そっか」 歩きながら、今度はりょうが押し黙った。 彼女が、真鍋とのことをあれこれ聞かないのが不思議だった。今、庁内では、誰が言いふらしたか、相当不確かな―― しかも、悪意に満ちた噂が溢れかえっている。で、その悪意の対象は、概ね果歩一人に向けられている。 先ほど聞いた噂が、まさにそれだった。 真鍋雄一郎には婚約者がいるのに、果歩が一方的に言い寄った。会社に押し掛けてストーカーまがいの行為を繰り返した。自分で証拠写真をねつ造して、婚約破棄を市長に迫った―― 云々。 微妙に真実を突いているその噂は、必ず出所があるはずだった。それが……市長だとは、思いたくないけれど。 それでも、りょうから口火を切ってくれさえすれば、言い訳したいことは沢山あった。 が、確かに、今彼女がはからずも口にした通り―― 自分と真鍋の関係を―― それをどういう形であれ、他人に簡単に断じてほしくはない。 そうか……。と、果歩はようやく納得している。もし、今、自分が人事に呼ばれて、今回の件を説明しろと言われたら―― そうだ、私でも、何も言い訳はしないだろう。 真鍋さんとの関係を、宝物みたいな思い出を、誰にも汚されたくないから。 「専門家に相談するって手もあると思うけど」 昼休憩のエレベーターは、たいてい混み合っているので、2人は階段を使って降りることにした。 「専門家?」 果歩が訊くと、りょうはわずかに頷いた。 「はっきり言うけど、これって退職の強要でしょ。裁判でも起こせば、的場さんが勝つ確率、限りなく高いと思うけど」 「…………」 退職の、強要か……。 宮沢りょうに異動の内示があって、自分にはないということは、市長に、果歩を異動させる腹がないことを意味している。最初から予感しなくもなかったが、やはり自分は、自主退職することを期待されているのだ。いや、そうしたくなるように仕向けられている。―― 「ま、できないか。勝っても役所にはいられないし、―― 的場さんのお父さん、民間?」 「え、うん……」 「一サラリーマンが、役所や大企業相手に裁判起こすなんて、相当のプレッシャーだと思うしね」 「…………」 「あとは、労組を頼るのも手だと思うけど。まぁ、思想があわなきゃ、後が少々面倒かな」 果歩は、しばらく物が言えなくなっていた。 宮沢さん、もしかして……。 「なに、へんな顔して」 もしかして、私に助言したくて、わざわざ訪ねて来てくれたんだろうか。 私なんて、自分のことばかりで、宮沢さんのことなんか思い出しもしなかった。なのに―― 。 ************************* 「素晴らしいプレゼンでした。ミスター」 背後から声を掛けられた雄一郎は、振り返ってイギリス人の男と握手を交わした。 「いい返事を期待しています。ミスターバートン」 アビー・バートン。三十二歳、米国大手金融銀行メイルリンチの日本支部代表である。栗色の髪と、濃い翠色の瞳、筋のとおった鼻。―― ハンサムと言えなくもないが、口がやたら大きく、顎が割れているのが、少しばかり男を粗野に見せている。 「事前の調査でも、限りなく感触は良好です」 なめらかな日本語で、アビーは続けた。「わが社は、日本の建設業界に非常に興味を持っています。その一端に食い込めるというなら、とても魅力的な話ですよ」 「うちは優良企業です」 雄一郎は、ビジネスシーンに多用する―― 最良の笑顔を浮かべてみせた。 会社のために、身体まで売る気はさらさらないが、この英国人が、自分に必要以上の関心を寄せているのは察している。 「ただ、アザルの件は不可抗力でした。運と―― 時勢を読む力に欠けていた」 「ああいった地域の経済事情は、時に、 思いがけず不安定になりますから」 「そう言っていただけて、幸いですよ」 雄一郎は手を解こうとしたが、アビーの手は執拗に離れない。 「メイルさんとの業務提携が、いい形で進むことを期待しています」 微笑して、再度強く握りしめた手を振ると、ようやくハンサムなイギリス人は雄一郎を解放してくれた。 「よかったら、夕食でもいかがですか」 「ありがとう。でも、今夜は予定が入っているので」 東京に滞在して今日で3日、あれから1週間以上がたつのに、いまだ強情な恋人からは1本の電話もない。 エレベーターに乗り込みながら、雄一郎は携帯を取り出してみた。 見るまでもない。着信もメールもなし。さすがに少しばかり呆れている。 ―― いったいどこまで強情なんだ。本当につきあっているという自覚があるのか? 普通は……これだけ離れていれば、少しは寂しくなるものだろう。 ここまで反応の鈍い女性も初めてだ。飽きようにも飽きられない。今も―― いや、時間があれば、あの子のことを考えている。 (―― 雄一郎さん……) 早く会いたい。会って、あの子の声がききたい。くそっ、こんなに立場の悪い関係も初めてだ。これじゃ、俺1人が夢中になっているみたいじゃないか。 今夜には灰谷市に戻る。やるべきことは全てやった。あとは、結果を待つだけだ。 エントランスの階段を降り、再び携帯を取り上げた時だった。 「ミスター、ひとつだけいいですか」 まだ傍らにアビーがいたことに、雄一郎は初めて気がついた。そういえば5時は過ぎている。外国人に、あまり残業の概念はない。 「ええ、何か?」 「実は、社ではお話できなかった。……いや、本当は今も、お話すべきではないのですが」 「…………」 妙にもって回った言い方が気になった。「なんのお話でしょう」 「日本企業とつきあう時」 アビーは、大きな唇を広げ、意味深な微笑を浮かべた。「絶対に気をつけるように言われていることが、ひとつあります。これは、日本の、いわゆる文化のひとつなのかもしれませんが」 背中に手が添えられる。雄一郎はわずかに眉をあげたが、そのままにさせておいた。 「それで?」 「今夜、お時間は取れますか。これは、あなたの会社にとっても、とても重要なニュースになるでしょう」 「…………」 わずかに考えて、雄一郎は携帯をポケットに滑らせた。 「いいでしょう。今夜はこちらに泊りますから」 「それはいい」アビーは目元を細めて笑った。「あなたの、好きそうな店を知っています。ぜひ、ご一緒しましょう」 ホモ野郎め、まさか新宿二丁目だとか言うんじゃないだろうな。 自分の顔が、心底疎ましく思えるのはこんな時だ。特に目だ―― この目が……こんな色さえしていなかったら。 「楽しみです」 内心の感情はおくびにも出さず、雄一郎は最上の笑顔で、それに応じた。 |
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