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年下の上司 exera2

復元ポイント(19)


 倉庫生活も、今日で7日目。
 なんだか、テレビの企画ものみたいだな。倉庫で何日過ごすことができるか―― なんてね。
 そんなことを思いながら、果歩はカートに積んだダンボールを再生紙保管庫に降ろし、再び空になったカートを押して戻り始めた。
 なんていうか、もう気分はゴミ処理職人だ。こと、文書仕分けにかけては、どんな熟練臨時より早く作業を済ませる自信が生まれた。
 まぁ、そんな自信……なんの意味もないんだけど。
 昨日、宮沢りょうは西区に異動してしまった。なんだか、急にぽっかりと胸に穴が開いたようになって、果歩は朝から、気の抜けたような感じになっていた。
 辞めちゃうのかな。……やっぱり。
 異動内示が出てすぐに辞めたら、異動先が大迷惑だから、頃あいを見て辞めるのだろう。多分、その方が彼女のためでもあるのだろう。
 こんな時期に異動―― しかも、本庁の花形部署から、区役所の総務だなんて……多分、異動先の西区でも、噂は広がっているに違いない。
 私も―― 。
 短く切った爪を見つめながら、果歩は、今まで我慢していた何かが、ひどくもろくなりかけているのを感じていた。
 そろそろ、限界かもしれない。
「えー、じゃあ、的場さん、まだ秘書課のままなんですか」
 声が聞こえたのは、倉庫の出入り口までカートを押してきた時だった。
 中から、数人の人の気配がする。
「そうなのよ。そのせいで、うちも正式に人がつかないから迷惑してるんだけど」
 果歩は凍りついていた。庶務の安田さんの声―― 。気のせいだろうか、それがひどく冷たく聞こえる。
「早く辞めちゃえばいいのに、意外に強情なのよね。結構面の皮が厚いっていうか」
「そりゃそうですよー。だって、真鍋市長の息子狙いなんて、それだけで、かなりずうずうしいですもん」
 いつも一緒に食事をしている、財政課の同期の声だった。
「割と、自信過剰だよね、的場さんって」
「なんか、自分のことお姫様か何かみたいに思ってる感じ? そんなに大した美人ってわけでもないのに」
「やっぱ、立場で勘違いしちゃうんじゃない?」
 他の同期の声もした。みんな、食堂で、果歩と真鍋のことを冷やかしていた連中だった。
 果歩は息さえできないまま、その信じがたい言葉の数々を聞いていた。いや、聞きたくなくても、否応なしに耳に入ってくる。逃げ出したかった。今逃げなかったら、きっと、取り返しのつかないほど深く傷ついてしまう。―― でも、足が、床に張り付いたように動かない。
「なんにしても、相手の会社にまで押し掛けるような人だから」
 安田沙穂の声だった。「神経は図太いよ。写真だって、自分で撮らせて、それを市長に送りつけてたんだからね」
 嘘の出所…………。
 安田さん、だったんだ……。
 なんで?
 どうして―― ?
 カートを置いて、どうやってトイレにまで辿りついたのか判らなかった。内側からカギを掛け、奥歯を噛みしめるようにして泣いていた。
 いやだ、もう……。
 怖い、もう、何もかも怖くて、誰も信じられない。
「助けて……」
 せきを切ったようにしゃくりあげながら、果歩は顔を覆ってしゃがみこんだ。 
 ―― 助けて、雄一郎さん……。
 いつまでそうしていたか判らない。涙も喉も枯れて、窓から差す日だけがうっすらと陰りはじめた。
 自分に限界がきて、泣いてしまったこと以外、何一つ変わらない世界が広がっている。
 果歩はぼんやりと立ち上がり、鍵をあけてトイレから出た。洗面台でハンカチを水に浸し、少し滲んだマスカラを直した。行動は殆ど無意識で、何も考えていなかった。
 いや、帰って辞表を書くことだけを考えていた。それだけが、かろうじて果歩に冷静さを維持させていた。もう辞める。役所を辞める。今日で終わりにしよう、何もかも。
 倉庫に戻ると、立っている人の気配がした。果歩はびくっと身体を震わせている。反射的に逃げようとした。
「的場さん?」
 声は、男性のものだった。優しい声―― 。果歩は、ようやく自分を取り戻している。
「……御藤主幹?」
 秘書課でペアを組んでいた御藤だった。
 あれから一度も会っていない御藤には、当然のことながら多大な迷惑をかけただろうし、その帰結として、顔も見たくないほど呆れられたのだと思っていた。
「すごい職場だね。ある意味やりがいはありそうだけど」
 天井まで積まれたダンボールを見上げながら、御藤は笑った。「どう? 元気にしてる?」
 その口調があまりに今まで通りだったので、ぐっと何かがこみあげそうになっている。
 果歩はかろうじて笑って「大丈夫です」と言った。
「市長のお伴で、急きょロンドンでね。……悪かったね、何もフォローしてあげられなくて」
「いえ……」
「しかし、がんばってるね! 実のところ、戻って来た時には、辞めてるものだと思っていたよ」
 快活に笑って、御藤は段ボールのひとつに腰を下ろした。そして、ふと視線を止める。
「的場さんの友達が来ていたようだよ。置き手紙と……これは、差し入れのお菓子かな」
 果歩は黙って、御藤が差しだした紙片とクッキーの包みを受け取った。
 <果歩へ、がんばってね、私たち、果歩の味方だよ。信じてるから、負けないでね>
 <的場さん。残ってた荷物、整理して持ってきたから置いておくね。何か困ってることがあったらいつでも言ってね。>
 一瞬、鳥肌が立つほどぞっとしたが、トイレで泣く前ほどの衝撃はなかった。
 ――人の不幸は、蜜の味か……。
 何故かふっと、以前宮沢りょうが嫌味っぽく言っていたセリフを思い出している。
 彼女は最初から、あの仲間たちの繋がりの希薄さと、無責任な好奇心を察していたのかもしれない。
 皮肉なもので、あの時一番嫌いだった同期が、この窮地で一番の理解者でいてくれる……。
「御藤さん。今回は、本当に迷惑をかけてしまって」
 ようやく落ち着いた気持ちになって、果歩は改めて頭を下げていた。
「申し訳なかったと思っています。……私がこうしている限り、いつまでも、女性秘書は不在のままですし」
「平気だよ」
 あっさりと御藤は遮った。「もともと俺1人でもできるんだ。規定上2人いるってだけでしょ。ぶっちゃけ」
 ものすごくぶっちゃけ、である。
 それで、最初は随分悩んだ。
 その頃はまだ、前任秘書がサポート役として手伝いに来ており、果歩の仕事は全くといっていいほどなかった。自分がいったい何のためにここにいるのか判らず―― 今思えば、随分ひねくれたものの考え方をしていたように思う。
「嫌われちゃったね、社長に」
 なんでもないことのように御藤は言った。
「ああいう人だから、……頑固で気難しい偏屈な老人って意味だけど、一度こうと決めたらもう変えないよ。的場さんの言い分が、どうであろうと」
「……判ってます」
 だから、最初から、市長に抗弁する気はなかった。
「俺は、そこそこ事情を聴いてるから、今、役所に広まってる噂が、殆どデマだって知ってるよ。ただ、それを言い訳して回ってもなんにもならない……判るだろ?」
「…………」
 ボスを敵に回しても勝ち目がない、つまりはそういうことだろう。
 笑ったつもりが、唇がわずかに震えただけだった。
「沈黙は金、だよ。すごく長い目で見る訓練が必要だけど」
 御藤はそれだけ言って立ち上がった。
 果歩は、戸惑って視線を下げる。この人は、なんのためにわざわざ地下に来たのだろう。市長に逆らうなと、忠告しに来たのだろうか。
「俺は、組みやすかったけどな、的場さんとは」
 何かのついでのように、出入り口で御藤は振り返った。
「今まで組んだ女の子の中じゃ一番だった。すごく、仕事がやりやすかったから」
「…………」
 一拍、間を置いて、果歩は茫然と訊いていた。「本当、ですか?」
「辞めるつもりの子に、お世辞言ってもはじまらないでしょ」
 御藤は笑った。
「感覚だけどね。きちんと空気を読んで、俺が仕事しやすいようにフォローしてくれる。どんな子でも、そこそこ前に出たがるもんだけど、的場さんはきっちり自分の影を消していくんだ。俺が通りやすいように」
「…………」
「俺も、いつまで秘書課でこき使われるか判らないけど、また、縁があったら、どこかで一緒に仕事をしましょう」
 じゃ、と、片手を上げて、そのまま御藤は出て行った。
 果歩は黙って突っ立っていた。
 役所に入って初めて同僚に、パートナーだと認められた。……いや、認められていた。
 天国と地獄を、わずかな時間に同時に体感した気分だった。
(また、縁があったら、どこかで一緒に仕事をしましょう)
 御藤のような優秀な男に、一人の社会人として認めてもらった……そう思っていいのだろうか?
 もう一度こぼれた涙を、果歩は急いで指先で払った。
 何故かその涙は、とても温かく感じられた。
 
 *************************

「本当に、どうしたの? 最近」
 玄関に出てきた母は、心底訝しげに眉を寄せた。
「ずっと定時帰りじゃない。あれほど残業続きだったのに……」
「うん……」いつも、目もあわさずに自室に戻るのに、その日は、初めて落ち着いた気持ちになっていた。
「実は、仕事が変わったんだ」
 靴を脱ぎながら、果歩は言った。
「あらま」
「前より楽になったから、これからは、そんなに遅くならないと思うよ」
 元々官公庁で仕事をしていた母は、それだけで何かあったと察してくれたようだった。
「ま、まだ若いんだから、がんばんなさいよ」
「うん……」
 胸のつかえがひとつ解けたようになって、果歩はふっと気が楽になっている。
「せっかく暇になったから、何か習い事でも始めようかな」
「あんた、不器用なんだから、二つのことをやるなんて無理よ」
 お母さん。ふと、打ち明けそうになっている。お母さん、私、仕事辞めるかもしれない―― 。
「……何? 人の顔じっと見て」
「ううん……」
 何故か、言葉が何もでてこなかった。「なんでもない、ご飯、遅くていいから」
 自室で着替えながら、果歩は、また自分の気持ちが判らなくなっていた。
 本当は、帰宅したら、迷わず辞めると告げるつもりだった。なのに今は―― どうしてだろう、まだ、その決意を口にしたくはない。
 まだ、未練のように、心が何かにしがみついている―― 。
 バッグの中の携帯が鳴ったのは、その時だった。
 着信を確かめて、はっと胸が躍り出す。果歩は、ひとつ深呼吸してから、携帯を開いた。
「もしもし……?」
「今、どこ?」
 真鍋の声だった。
 嬉しさと懐かしさと、それまでの辛さが一時に溢れて、果歩はぐっと唇を噛みしめた。
「今どこって、なんですか、それ」
 大丈夫、すごく明るい声が出せている。
「雄一郎さんこそ、どこなんです? しばらく出張するって言ってたけど……」
「覚えててくれたんだ」わずかに笑いを含んだ声がした。「てっきり、忘れられたのかと思っていたよ」
 今、どこ?―― 真鍋はもう一度繰り返した。
「家ですよ。今日は、早く仕事が終わったから」
「じゃあ、もう出てこれないかな」
「当たり前じゃないですか。内緒にしとけっていったの、雄一郎さんの方なのに」
「また、コンビニに買い物に行くのはどう?」
「もう……」
 果歩は笑って、立ち上がった。なんとなく真鍋が外にいるような気がして、無意識にカーテンを開けている。もちろん、彼がこんな場所まで危険を冒してくるとは思えないけれど。
「このへん、コンビニないんですよ」
「そうみたいだね」
「…………」
 マンションの対面にある道路の路肩―― シルバーのベンツが止まっている。彼は車に腰を預け、携帯を耳に当てていた。視線は別の方を見ている。
 はじかれたように、果歩は窓を開けていた。身を乗り出す。真鍋が顔を上げるのが判った。
「……降りておいで」
 電話から声がした。
「それとも、俺がそっちに行こうか」
「え……? ちょっ……」
 嬉しいのと困ったのが混在して、すぐに言葉が出てこない。
 そっちに行くってどういう意味? 家に来るってこと? まさか、そんな。
「行くよ。―― 部屋は判ったし、車を停めてくるから、待っていてくれ」
「ちょ、待ってください」
 少しだけ、真鍋の声に怒りがあるのが判った。「今、降りて行きますから」
 役所の噂を聞いたのだ。そうとしか思えなかった。
 果歩は脱いだ上着を羽織り、急いで部屋を飛び出した。
 
 *************************
 
「どうして、何も言ってくれなかったんだ」
 走り出した車の中で、真鍋はしばらく無言だった。
 電話ではそこそこ優しかったくせに、横顔は最初から怒っていた。
 少し、痩せたな。―― 果歩は別の感慨でもって彼の横顔を見上げている。仕事が大変だったんだろうか。すごく疲れている感じだ。
 団地を登りきった人気のない高台で車を停め、真鍋は初めて果歩を振り返った。そして、もう一度同じセリフを口にした。
「……心配、させちゃいけないと思ったから」果歩は、おずおずと口を開いた。
「どうして」
 ―― どうしてって。
「だって、仕事の邪魔になりたくなかったし」
 うつむいた顔を上げられなかった。暗い怒りを帯びた眼差しを頭上に感じる。
「それに……自分のことだから」言葉を選びながら、果歩は続けた。
「自分で、なんとかしようと思ったたんです」
「じゃあ聞くが、俺は君のなんなんだ?」
 声に、初めて聞くような凄味があったから、果歩はびくっと肩を震わせていた。
「あの……それは……」
「正直言えば、親父より、君の態度に腹がたったよ。君にとって、俺はいったい何なんだ。友達ですらない、知り合いか?」
「…………」
「子供じゃないんだ、どうして電話の一本もできないんだ、君は」
 なんて卑怯な人だろう。怒っているなら最初からそう言えばいいのに、電話では甘い声で誘い出しておいて……。
「……悪かったよ」
 気づけば広い胸に抱きしめられていた。果歩は子供みたいに泣きながら、両手を背に回して、真鍋のシャツを握りしめた。
 怖くて、ものすごく心細かった。それでも胸は温かで、懐かしい彼の香りがした。―― 安心した途端、逆に涙が止まらなくなっている。泣いた顔を見られたくなくて、肩に顔をあてるようにして懸命に嗚咽を堪えた。
「ごめん……責めるつもりで来たわけじゃないんだ」
「いいですよ、もう」呼吸を整えながら、果歩は言った。
「……私だって、逆の立場なら、怒ってたと思いますし」
「そうだね」真鍋の手が、髪を撫でてくれた。「俺も、逆の立場なら、言わなかったかもしれない」
「わかってくれたなら、……それでいいです」
「…………」
 真鍋の手が後頭部を支える。顔をあげさせられて、そのまま唇が被さって来た。
 みっともない自分の顔を見られるのが嫌で、果歩は逃げようと顔を背ける。真鍋の唇がそれを追い、両手でしっかり顔を固定されて、深い―― 目眩がするほど激しいキスになった。
 彼が全身で自分を欲しているのが、怖いほどの熱で果歩にも判った。果歩もまた、その熱に溶かされて、気づけば、うわごとのように彼の名前を呼んでいた。
「……君に触れて、ほっとしたよ」
 やがて額を合わせた真鍋の目は、いつもの優しさを取り戻していた。
「私も……すごく会いたかった」
 そっと真鍋の頬に触れる。少しざらっとした顎が、やはり果歩には心地よかった。
「それは、少し信用できないな」
「えっ、なんでですか」
「君は一度も電話を―― まぁいい、話の蒸し返しになる」
 やや、真鍋の機嫌が悪くなりかけた気がしたが、彼はすぐに、その感情を流してくれたようだった。
「もっと、俺に触れてくれないか」
 耳元で囁かれた。果歩は耳まで熱くなっている。
「な、なんですか、どういう意味ですか、嫌ですよ、こんな、車の中で」
「差し障りのない範囲で」真鍋は笑った。「何も、この前のようなことまでしてくれとは言ってない」
「わーっ、きゃーっ、も、もう、お願いだから、へんなこと言わないでくださいよっ」
 真鍋は笑いながら、果歩の両腕を掴んで、自分の背に持っていった。
「東京で、さんざんセクハラを受けたからね」
「えっ??」
 俄然、果歩は驚いている。「受けた? 真鍋さんがしたんじゃなくて??」
「……しないよ。俺は」
「まぁ、……そうですね」
 いや、結構しそうなタイプの気が……。精神的なセクハラを、果歩も随分受けた気がする。
「本当にされたんですか」
 だとすれば、少しばかり不安になった。「―― 本当に?」
 真鍋はわずかに眉を上げる。
「やたら、べたべた身体を触られて、ものすごく不快だった。いっそ、殴ってやろうかと思ったくらいだ」
 ―― 殴る??
 思わぬ過激さに、果歩は内心愕然としている。すごいな、女の人を殴るって発想。けっこうワイルドな人なんだ…………。
「どこ、触られたんですか」
 それでも、嫉妬がむくむくと湧いてくる。絶対に嫌だ、私以外の誰かが、この人に触れるなんて。
「言ってください。そこ……全部上から私が触りますから」
「じゃあ」真鍋は、勝利者のような微笑を浮かべた。
「お互い裸にならなきゃな」
「裸!!」
 ガーン…………。
「そういうセクハラですか」
「冗談だよ」
 真鍋は、呆れたように肩をすくめた。
「君は何か誤解しているようだが、相手は……」
 そこで、彼は、何かを思いついたように言葉を切った。
「まぁ、いい。誤解を解くのも癪に障る。でも、これで少しは判ったろう。俺が君と叔父を見て、いったいどんな気持ちになったか」
「………意地悪……」
 本当になんて心の狭い人だろう。果歩は唇をとがらせている。
「そっくりそのまま、お返しするよ」
 膨れたままでいると、抱き寄せられて、肩をぽんぽんと叩かれた。その仕草が本当に優しかったから、果歩の機嫌はすぐに柔らかく溶けている。
 顎……また少しざらざらしている。
 指で触れて、唇をあてた。それには、少し真鍋が驚いたようだった。
「君が顎にキスするのは……」
「二度目ですよね。なんのキーワードか判りますか?」
「…………」
 彼がしばし、真面目に考え込むのが果歩には判った。
「いや、悪いがさっぱり判らない」
「そうですか」果歩は平然と言って、真鍋を見上げた。彼は、訝しげな目で答えを待っている。
「待ってても、教えてあげませんよ。自分で考えてみてください」
 彼はしばし、唖然としていたようだった。
「―― …………本当に君は、性格が悪いな」
「真鍋さんほどじゃありませんよ。言ったじゃないですか、女性は守秘義務がいっぱいなんです」
「いや、絶対君の方が性質が悪い」
 それでも、怒ったように抱き寄せられる。果歩は嬉しくなってしっかりとその背に両腕を回した。
 この7日間、地獄みたいに辛かったのか嘘のようだ。あの辛さが、今の幸福と引き換えなら、何があっても耐えられる……。
「……結婚しようか」
 彼の声は、少し暗い響きを帯びていた。
「え?」
「役所はもう辞めるといい。あんな扱いまでされて、続けるような仕事でもないだろう」
「…………」
 果歩は顔を上げていた。
「本気だよ。今度のことで決心がついた。本当は旅行に行った時にも、ずっとそのことを考えていたんだ」
「ま―― 」待ってください。果歩は、混乱して視線を泳がせた。
「そんな、急すぎますよ。結婚なんて」
「確かに、色んなことが、まだ解決されないで残ってはいるけどね」
 真鍋の声は真剣だった。
「君が役所を辞めてしまえば、俺に怖いものは何もない。親父と完全に縁が切れるからね。結婚しよう。入籍だけ先に済ませて、式は落ち着いてから海外で挙げればいい」
「………あの」
 なんだろう、嬉しいはずなのに、頭が目茶苦茶混乱して…………。
「―― 果歩」
 思わぬ激しさで抱きしめられ、混乱したまま、果歩は真鍋の背に手を回して自分を支えた。
「結婚してくれないか」
「…………」
「君さえよければ、今すぐにでも、ご両親に挨拶に伺うよ。笑わないでくれ、不安なんだ」
 ――不安……?
「今、君を俺のものにしないと、……永久に失いそうな気がする……」
「…………」
 なんで?
 どうして、そんな風に思えるんだろう。私には、もう真鍋さんだけなのに……。
 何も答えられないまま、果歩は真鍋の背中をそっと抱きしめた。
 何を迷っているんだろう、私は。
 私だってこんなに、彼のことが好きなのに。今だって……もう、二度と離れたくないと思うほどなのに。
「うん、……判りました」
 理由の判らない逡巡を振り切るように、果歩は小さく呟いていた。
 真鍋が、歓喜を浮かべて果歩を見下ろすのが判る。
「じゃあ、今から君の家に行こう」
「でも、ちょっとだけ待ってください。まだ、仕事もことも、何も両親に話してないんです」
 冷静に、果歩は遮った。
「少しだけ、気持ちを整理する時間をください」
「……そうだね。君の言うとおりだ」
 真鍋は、素直に手を引いた。その手の上に、果歩は自分の手を重ねた。
「身辺のことをきちんとしてから、連絡します。……それまで、待っててもらえますか」
「いいよ」教師の答えを待つ、素直な生徒のようだった。
「でも、返事はもうもらったよ。……そう思っていて、いいのかい」
 少し躊躇ってから、頷いた。「―― はい」
「指輪は、パリに買いに行こう」
 夏休みを待つ子供のように、彼は目を輝かせた。「その時にウェディングドレスも注文しよう。式は、ギリシャの教会で挙げて、クルーザーで2人きりで旅行をするんだ」
 飛行機、船。さ、最悪のコースだよ……。
「あの……できれば、もう少し質素にいったほうが」
「そうだね、国内も悪くない。沖縄方面にも一度行ってみたいと思ってたんだ」
 いや―― できれば、新幹線でいける範囲で。
 でも、そんな真鍋の喜びようがおかしくて、果歩はくすくすと笑っている。
「日本でも式を挙げなきゃね。君のご両親に失礼だ。やっぱり、その時は神前だろうか」
 早くも真鍋は考え込んでいる。
「ねぇ、ちょっと待ってくださいって言った、私の言葉、覚えてます?」
「何も言わないでくれ。年内のスケジュールとして組み込まれた以上、俺はベストを尽くしたいんだ」
 唇に指をあてて考え込む真鍋を、果歩はまじまじと見つめていた。
 年内っていつ決めた?
 知らなかったなぁ……。結構子供で、面白い人だったんだ、真鍋さんって。
「ただ……」真鍋の口調が、ふと陰った。
「結婚しても、俺は子供は欲しくないんだ。……そう言ったら、怒るかい?」
 果歩は無言で、首を横に振った。
 そうか、……彼はまだ、心に闇を抱えている。いつかその思い出も分かち合い、2人で背負える日が来るのだろうか。
「雄一郎さんがいれば、私は他に……本当に何もいらないですから」
 黙ったままの真鍋の指が、果歩の頬を愛しむように撫でた。
「……ありがとう」
 抱き寄せられながら、すごく不思議な気持ちがした。
 今、私はこの人に自分の人生を預けたのだ。この先ずっと、彼と2人で生きていく約束をした。初恋じゃないけど、初めて結ばれた王子様―― それは、なんて素敵で幸福なことだろう……。
 でも―― 。
 夢よりも幸福な展開に、それでもまだ、一点、喜びだけでない何かがある。
(役所はもう辞めるといい。あんな扱いまでされて、続けるような仕事でもないだろう)
 あの刹那、果歩は確かに喜びよりも強い反発を覚えた。
 彼に仕事のことを、あんな風に言ってほしくなかった。確かに、大した事はしていないし、真鍋のような人から見れば、役所の仕事などさしたる魅力も感じられないのかもしれない。でも……。
 彼は、本当に私のことを理解してくれているのだろうか?
 それが、果歩には、少し不安なことのように感じられた。



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