「ここは……どこだ? 暗い視界、ぼやけた声、天に浮かぶ黒ずんだ葉の欠片。 ここは―― いつもの場所だ。暗い、暗い、水の底。 (雄一郎!) (雄一郎さん) (ゆーうーぅ) (可哀そう……可哀そうな、雄さん) 5色の四角形。風に踊るシロツメクサ。僕の頭を撫でてくれる手。 何故だろう。次第に息ができなくなっていく。 苦しくて、怖くて、やみくもに手足を動かす。 赤く染まっていく視界、白と、そして胸が悪くなるようなピンク色。 また、灰色の闇が降りてくる。 ああ、駄目だ、その扉を開けてはいけない。―― ************************* 「専務?」 はっと息を引き、真鍋雄一郎は目を見開いていた。 「どうなさったんですか。なんだか、うなされていたみたい」 「……いや」 肩に柔らかな手が置かれている。近づきすぎた距離に、雄一郎が訝しんだ視線をあげると、秘書の前原友香はますます魅力的な微笑を浮かべて見せた。 「すみません、ドアを叩いてもお返事がなかったので、お客様がおいでなんです」 「客?」 「ええ、それが」 友香が口を開く前に、扉が音を立てて開いた。 機敏な女は、慌てた素振りも見せずに立ちあがる。雄一郎はゆっくりと眉をひそめた。 開け放たれた扉の前では、太った蝦蟇のような女が、嫌悪をこめて義理の息子を見つめている。 「お楽しみのところ、失礼するわよ」 「……なんの御用でしょう」 「こんな時間に真昼の情事?」 女の声は、あざけりと嘲笑を含んでいた。 「用事があるから来たのよ。そこに座ってもいいかしら」 「仮眠していただけですよ」 立ちあがった真鍋雄一郎は、最上の笑顔を来客に向けた。 「どうぞ、お座りください、会長」 「当然、用向きは、判っているでしょうね」 どっかとソファに腰を沈めた女は、棘のある目で、義理の息子をねめつけた。 「いったい何が気に入らないの。それとも、私たちへの嫌がらせのつもり?」 「嫌がらせとは?」 口元の微笑で義母の非難を遮り、雄一郎は背後の前原友香を振り返った。こういった状況下でも、泣いたりおどおどしたりせず勝気な顔ができるのが、この秘書の使える所だ。 「コーヒーを頼むよ」ちらりと、来客の表情を窺う。「それとケーキも」 「結構よ」しゃがれた声が割って入った。「長居するつもりはないから」 「苛々している時は、甘いものが一番ですよ」 「本当にいいの。すぐに帰るから」 貫録たっぷりにイタリア製の皮張ソファに背を預けると、真鍋麻子はむっちりと超えた脚を組んだ。 「暑いわね、この部屋、むしむしして最悪だわ。空調が壊れてるんじゃないの?」 「下げましょう、僕には丁度いいんですが」 ――また太ったな……。 父親の元愛人で、今は義理の母親となった女を、立ったままの雄一郎は、値踏みするように見つめて微笑する。その視線に気づいたように、女は凄味のある切れ長の目をすがめ、唇に煙草を挟みこんだ。 「まるで、娼婦でも見るような目ね」 蔑笑を唇に張り付けたまま、雄一郎はわずかに肩をすくめた。 「わかりますか、さすがは会長だ」 「あなたの母親だからよ。20年も前から」 「ああ、うっかり忘れてしまうところでした」 互いに針で差し違えたような沈黙が満ちる。麻子は煙草に火をつけ、雄一郎はただ、その姿を冷やかに見つめた。 肥え太った豚―― どうしてこうも、女とは醜くなれるものなのだろうか。 年々横に嵩を増していく女は、肌も黒ずんで脂ぎり、化粧だけが毒々しく浮いている。なのに、不似合いに派手な赤いスーツ……ピエロか。憎悪を通り越して、憐れささえかきたてられる。 「どうして、お父様に恥をかかせるの」 コーヒーと苺を乗せたショートケーキが運びこまれ、再び友香が退室すると、麻子はすぐに本題を切り出してきた。 煙草の吸いすぎでしゃがれた声は、引き攣れたガマガエルのようだ。 「恥とは?」 雄一郎は、さも意外そうな演技で切り返す。どのビジネスシーンでもそうだが、会話の主導権とは、常に質問者のほうが握っている。 「どうして約束をすっぽかしたの!」 金きり声で、麻子は一気にまくしたてた。 「今度の見合い相手が誰だか判らないほど、あなたも子供ってわけじゃないわよね。最初から断るつもりなら、どうしてしかるべき時にきちんとお断りできないの。何も言わずに相手に待ちぼうけをくらわすなんて―― 」 真っ赤な唇が鯉の口のように動いている。 「僕は何度も断りを入れたと思いますが、一向にお返事がなかったので」 冷静に、雄一郎は耳触りな声を遮った。 「父には昨日も話しましたが、僕に、結婚する気はありません。今までと同じですよ。今回の話も、お断りしてください」 一瞬の後、濁って黄ばんだ目が、あざけるように雄一郎を見上げた。 「で? お父様が、あなたの提案をそのまま了承されたのかしらね」 匂いのきつい煙草の香りが室内に満ちている。雄一郎は、自身のコーヒーを一口だけ含んだ。 「するはずがないわ。今まではあなたの我儘が通っていたかもしれないけど、今回は特別なの。今度の縁談に乗り気なのは、私よりむしろ真鍋のほうだから。ねぇ、いったい何が不満なの? もし、婿養子という点にこだわっているなら」 「父が、よく了承したな、と思いまして」 苦笑して、雄一郎は口を挟んだ。 「不肖の息子といえ、まがりなりにも僕は真鍋家の一人息子ですからね。それを、他家に婿に出すなんて」 「それだけ、今回のお話が特別だということよ」きつい口調で遮られる。 「あなたにとっても、うちの会社にとってもね」 「では、―― 伺いますが」 昨日の父と同じセリフを繰り返す義母を、雄一郎はうんざりした目で見上げた。 「昨年、うちは創業以来の最高収益をあげたばかりです。業績は右肩上がり、今年は大きな公共工事の受注も請け負っている。いったいこれ以上、どんな後ろ盾が必要だというんです」 「長引く不況で、建設業界がいかに苦境に陥っているか、あなたも知らないわけはないでしょう?」苛々と、女は煙草の煙を吐き出した。 「冬の時代よ、雄一郎さん、備えはいくつあったって十分とは言えないわ」 「なるほど」―― 備えね。 「昨日、お父様の所に行ったというなら、この程度の話はしたんじゃないの? 私が無理強いさせた縁談じゃないのよ。判っていると思うけど」 「あなたが僕を追い出すために目論んだにしては、話が大きすぎますからね」 雄一郎は顔をあげた。 「―― しかし僕は、結婚はしません。誰とも、相手がどんな女性であっても」 「は? 何をふざけたことを言ってるの」 「いたって、本気ですよ」 雄一郎は苦笑し、その表情を残したままで、眉をしかめる女を見つめた。 「どうにも女性が苦手なのでね。一緒に暮らすなんて、とうてい無理な話なんです」 たちまち女の太い眉が跳ね上がる。 「嘘をおっしゃい、あなたの素行なら調査済よ。女が苦手なんてよく言えたものね!」 「なんとでも。それでも僕は、結婚はしません」 言いきって、雄一郎は両手を膝の上で組んだ。「たとえ、勘当されてもね」 「雄一郎さん……」 うんざりするようなため息を吐いた後、女は、濁った目で雄一郎を見上げた。 「とうに理解しているものと思っていたけど、もし、あなたがうちの会社にこだわっているなら、それは賢い選択とは言えないわよ」 雄一郎は無言で、笑いを滲ませた視線だけを余所に向ける。 「まだ判らないの? 光彩建設に、もうあなたの居場所はないの。血縁で後継を決める時代は終わったわ。私があなたを、我が子というだけで後継に推すと思ったら大間違いよ」 「僕は別に、会社を継ぎたいだなんて思ってもいませんよ」 「へぇ、それを実行できるだけの株式を、いつまでも執念深く掴んでいるくせに?」 毒々しく吐き捨てると、女は鼻に浮いた汗をハンカチで拭った。 「母の、遺産ですからね」 雄一郎は冷静に答えた。 「誰にも渡したくないのは、子として、当然の情だと思いますが」 「言っておくけど、それだけの株を持ち続けていれば、必ず禍根のもとになるわよ」 荒々しく、麻子は鼻から煙を吹き出した。 「何も取り上げようというんじゃないの。さっさと真鍋なり私なりに売ってしまえと言っているのよ。あなたがどうあがいても、私と真鍋、それから冬馬が所有している株には敵わないんだから、損な取引じゃないはずよ」 「何も会社の意思決定に首をつっこみたくて、手放さないわけじゃないですよ」 余裕を見せて、雄一郎は微笑を浮かべた。むろん、手放すつもりはない。これが自身の唯一の切り札であり、麻子にとっては決して無視できないアキレスの踵だからだ。 「株も資産運用のひとつですからね。これから伸びていく企業の株を手放すかどうかは、僕の胸算用次第です」 「…………」 ふぅっと、女が疲れた息を吐くのが判った。 「……雄一郎さん、あなたはこの会社を出て、新しい道を切り開くべきだわ。うちの会社で、今、あなたがいかに孤立しているか―― わかるでしょう? 私の気持ちくらい」 「判りますよ」淡々と頷く。 「昔からの役員は皆解雇され、今会社に残っているのは真鍋麻子の取り巻きだけのようですからね」 「……そうね。あなたの、唯一の味方だった梶川副社長も死んだことだしね」 眉をひくつかせるようにして、麻子は笑った。 「つまりあなたは、梶川がいないと何一つできない子供だったってことかしら」 答えずに、雄一郎はわずかに肩をすくめてみせた。 なるほど、その通りかもしれない。今や、重要なラインからはことごとく外された雄一郎は、「会社のお荷物」だの「会長のドラ息子」だのと密かに陰口を叩かれている。「女の尻ばかり追いかけ回す無能」だとも。噂の出所は確かめるまでもない。 そうやって、序々に邪魔者を追い詰めて―― 20年前も、この女は会社を手に入れたのかもしれない。自らの親友だった女を追放し、その夫と家庭まで奪い取って。 (―― 絶対に忘れないでください) (―― お嬢様を殺したのはあの女です。あの女が、会社もお父上も財産も奪い、お気の毒なお嬢様を死に追いやったのです) (ゆーうぅー) はっと何か暗い眩暈のようなものを感じ、雄一郎は椅子の肘に手をついていた。 視界に降りてくる、夜の色――。 「雄一郎さん?」 「何か?」 はっと現実に引き戻された雄一郎は、内面の嵐などおくびにも出さずに微笑した。 時折発作のように起こるこの症状にも、――もう、すっかり慣れてしまった。 (―― 詳しい診断はできんが、PTSDの可能性もあるな) (早くに母親を亡くしたことが、心の傷になってるんじゃないか? 一度医者に診てもらった方がいいぞ、真鍋) 精神科医になった大学の同窓に、酒の席で話した時に、そう言われた。何故、そんなくだらない相談をしてしまったのか、雄一郎は今でも後悔している。 大丈夫だ、この程度なら、いつだって自分でコントロールできる。 「それにしてもあなたは得ね。そのルックスで、何倍も人生を得しているわ」 義母の声で、雄一郎は再び現実に立ち戻って微笑してみせた。 「顔なら、母親に似ましたからね」 「そうね……まるで、有布子の若い頃を見ているようね」 今度互いを刺したのは、針ではなく、もっと太くて鋭い刃だった。 麻子は汗でぎらついた顔を歪ませて笑った。 「悔しいけど、この縁談が、あなたの負け犬人生にとって、逆転満塁ホームランであることは間違いないわね。会社のためにはぜひとも結婚してほしいけど、本音を言えば、いっそ流れてしまえばいいとさえ思っているのよ」 早口でそれだけ言うと、麻子は煙草を灰皿におしつけて立ち上がった。 ************************* 「専務、もう、会長はお帰りに?」 入ってきたのは、秘書の前原友香だった。 「ああ……」 ぼんやりしていた自分に驚きながら、雄一郎は立ち上がった。 磨き抜かれた卓上には、手つかずのショートケーキが残されている。ゼリーでコーティングされた紅苺は、この時期手に入れるのは難しい最上のハウスものだ。 歩み寄ってきたスレンダーな女に、雄一郎は目で座るようにいざなった。 「食べない?」 「いいんですか」 形よい膝が折られ、魅力的な顔が雄一郎の目線まで下りてくる。そう―― 女はこのくらい素直じゃないとな。そして、このくらい綺麗じゃないと。 「僕は甘いの、駄目だからね」 「てっきり、お好きなんだと思ってました」 「苦手だよ、昔から」 立ちあがって煙草に火を点ける。 一瞬ではあるが、女が不服そうな眼差しを見せるのが判る。この間の続きを期待しているのは判ったが、気づかないふりでデスクに戻り、雄一郎はたまった仕事を片付け始めた。 「専務って変わってますね」 「そうかな」 「お若いせいかしら。私たちみたいな秘書とでも友達みたいにつきあってくださいますけど……」 ものおじせずに言いたいことを口にするのがこの女の魅力だが、それにはさすがに笑ってしまった。 「僕よりいくつも年下の君に、お若いとは言われたものだな」 綺麗な唇にケーキの欠片を運びながら、友香はじっと雄一郎を見上げた。 「ご結婚、されるんですか」 「さぁね」 「会社、辞めたりしないですよね。随分噂になってますけど―― 」 「君は、転任願いを出したほうがいいよ」 そっけなく雄一郎は遮った。 「結婚も退職も、僕にはどうなることやらさっぱり判らない。でも、ひとつだけ確かなのは、この会社で僕についていても、なんの得にもならないということだ」 その言い方には、気丈な秘書も、さすがに傷ついたようだった。 「みんな言っています。来年この部屋には、開発部の吉永部長が来るだろうって」 「なるほど。だったら君は、彼の機嫌を取るべきだね」 「…………」 小賢しくて懸命な反撃は、それで終わりのようだった。 それでも、どこか毅然と立ち上がると、友香は勝気な目で雄一郎を見下ろした。 「この間、ご自宅に電話したら、出てこられた方……どういうご関係か、訊いてもいいですか」 そっちが本題か。やや呆れつつも、雄一郎は手早く最後の書類に押印して、傍らのペンを取り上げた。 「ペットかな」 ぎょっとした風に女が口ごもるのがわかる。 「最近犬を飼い始めたんだ。可愛かったろ」 「…………」 わずかな沈黙の後、「やっぱり、専務って変わってますね」やや諦めが滲んだ声が返された。 「じゃ、失礼します。ケーキごちそうさまでした」 「ああ―― ちょっと待って」 手をかざし、雄一郎は秘書を呼びとめた。 「悪いがひとつ、頼まれてくれないかな」 「はい」 振り返った大きな瞳が、期待に輝くのが判る。漏れそうなため息をかみ殺し、雄一郎は事務的に続けた。 「アザルの公共工事の件だが、現場の長峰室長とアポをとってくれないか。大至急だ」 「はぁ」 「いいよ。行って」 つまらなそうな辞去の声と共に扉が閉まる。 やれやれ。 ようやく雄一郎は息を吐いた。 女は本当にやっかいだ。しかも無意味に好奇心旺盛ときている。たかだか一度のキスくらいで、他人のプライバシーに踏み込んでいいとでも、本気で思っているのだろうか。 だいたい、あまりに露骨に誘惑してくるから、一度答えてやっただけだ。キスで留めたのは、この女が秘書として優秀だから。 互いの恥部を見せあった女など、自分の傍に置きたくもない。 ――そういえば、彼女と同じ年だったな。 ペンを走らせながら、ふと、思い出していた。 (お、お話なら、立ったままでも伺えますから) 瑞々しくて青い。落ちそうで落ちない果実に似ている。名前も確かそんな感じだった――的場、果歩。 ふっと唇が緩むのを感じ、雄一郎はそんな自分に驚きながら、再び書類に視線を向けた。 仕事中に、女のことを思い出して笑うなんて、どうかしている。 いや―― どうかしているが、今日が初めてというわけでもない。 あの子のこととなると、少しばかり自分のペースが狂わされていることに、雄一郎は少し前から気が付いていた。 初対面の時は、さほど関心が持てなかった。 3度会ってようやく、ああこんな子がいたな、程度の印象しか残らないような相手だった。 たとえば、美人という面で比べてみれば、十人中十人が、友香のほうが美しいというだろう。磨き抜かれた玉と、野に咲く草花。的場果歩は、―― まだ自身を輝かす術を知らない、初心で未熟な原石のようなものだ。 なのに、今まで出会った女性の中で、あの子が一番可愛いと思うようになって、もう随分たっている。 柔らかいうりざね顔に、きりっとした――でも、優しい印象の目鼻立ち。 最初は少々生意気に思えた口角が上向いた小さな唇は、笑うとかなり愛らしい。右頬に二つ、笑窪が刻まれるのもチャーミングだ。 肩甲骨までの髪は緩くウェーブがかかっていて、いつもそれがルールであるかのように後ろでひとつに括っている。解けばいいのにと会う度に思うが、言えば彼女は、今度は鋼鉄の輪で髪を一まとめにしてくるだろう。 が、そのせいで露になっている耳と顎の形は、見惚れるほどに完ぺきで、これこそ不思議に思うのだが、本人は、それがいかに男の官能を刺激しているか、想像してもいないのだろうか? 切れ長の瞳は、一見控え目で冷たげで、なのにぱっと見開かれると、花が咲いたかと思うほど鮮やかだ。 普段、何の気なしに見過ごしている風景の中に、ある日、ふと雨に洗われたみずみずしい秋桜が一輪―― そこに、最初からあったと気づかされるように。 昨日、珍しく女相手に苛立った自分をどうしても思い出している。 むしょうにあの子を、言いなりにさせたくて―― スカートに収まったお行儀のいい膝が、しどけなく折れる様がどうしても見たくて―― 話なんて何もなかったのに、いったい、何を話すつもりだったんだろう、あの時の俺は。 ある意味いまいましいほど幸福な回想は、デスクに置いていた手帳からはみ出した物によって、あっけなく遮られた。 「…………」 雄一郎は無言で、古びたそれを抜き取って光にかざす。 (―― ゆーうぅー) そうだな。 たとえそれが、百歩譲って恋であっても。 (―― ゆーうぅー、行くわよ) 彼女を傷つけるだけになるなら、このままの距離でいい。―― |
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