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年下の上司 exera2

復元ポイント(3)



「あれ、今帰っちゃったわよ、真鍋ジュニア」
 戻った途端声を掛けてくれたのは、秘書課庶務の安田沙穂だった。
「えっ、そうなんですか」
 あからさまに残念そうな声を出していた。―― 果歩は、ぱっと頬を赤くし、沙穂はにやりと微笑する。
 6月の半ば、外は朝から雨が降っていた。
 灰谷市役所10階秘書課。
 市長秘書室は、無機質な役所の中で、唯一赤い絨毯の敷かれたフロアである。
 が、課としての機能が秘書だけでは回るはずもなく、課内には多々のセクションが存在している。
 庶務係もそのひとつで、沙穂は果歩より7歳年上、この職場では3年目になるベテランである。5年前に結婚しており、旧姓が的場だったことから「同じだねーっ」と仲良くなった。さばさばして気のおけない女性である。
「残念ねー、入れ違い。今日は私が彼にコーヒーを淹れてあげたわよ」
 誇らしげに沙穂は胸を逸らす。果歩はがっくりと肩を落とした。
「ありがとうございます……」
 はぁ……うらめしい。議会事務局に書類を届けに行って、そこで長話に巻き込まれたばかりに。
「携帯に電話があって大慌てで帰られたから、何かトラブルでもあったのかしら。いつもなら、的場さん帰るまで必ず待っててくれるのにね」
 にやり、とまた意味深な目が向けられる。
「そ、そんなことないですよ」
 あからさまにがっかりしていたくせに、そこはムキになって否定していた。
 とはいえ、多分、沙穂には見抜かれている。真鍋への憧れ好意や、もしかするとそれ以上の気持ちも。
「そんなことあるって。いいなぁ、的場さんは。私なんて、どんなに憧れたって可能性ゼロだもんね」
 上席が全員不在なためか、沙穂の口調は滑らかだった。
「若いってうらやましい、私も、結婚なんてしてなかったらなー」
「何言ってんですかー、あんなに素敵なダンナさんがいるのに」
 果歩は肘で、沙穂をつつく真似をした。
 沙穂の配偶者は、南区収納課の主査をしている。一度結婚写真を見せてもらったが、背の高いハンサムだった。その幸福そうな時の断片は、まだ果歩の脳裏に強く焼き付いている。
「真鍋ジュニアに比べたら、あんなの、屁みたいなもんよ」
 沙穂は鼻の頭に皺を寄せて見せる。果歩は笑ったが、それは、ちょっとばかり嫌味に聞こえた。
 結婚なんて夢のまた夢。果歩には、いまだはっきりつきあったといえる男性さえいないからだ。
 まさかこの年で、男性経験がないとも言えないから、―― それは、ひた隠しにしているが。
 秘書室に戻ると、確かに来訪者がいた痕があった。
 応接ソファが、少しだけずれている。粗忽な沙穂が対応したらしく、テーブルには水の痕が残っている。
 ――ここに……真鍋さんが座ってたんだな。
 自然に胸が温かくなる。少しためらったが、そっとソファの背に手で触れてみた。
 やぁ、―― 今にもそう言って、彼が入って来そうな気がする。
 親父、いる?
 彼の、「親父」という言い方が好きだ。イメージ的に、いかにも言いそうにないから。果歩の前でだけ、素顔を見せてくれるという気がするから。
 それから、いつも怖い市長に、少しだけ親近感が持てるから。
 彼は、家ではどんな風なんだろう。スーツ姿しか見たことがないけど、カジュアルな服も着るのかな。ジーンズとか似合いそう。ううん、何を着ても似合いそう。
 パジャマとか……ふっと頬が熱くなる。彼の、その姿を見ることができる幸運な女性は誰だろう。
 どんなテレビをみて、どんな本を読んでるんだろう。きっと洋書、しかも原書だったりするのかしら。テレビはきっとビジネスニュース。間違ってもバラエティなんか見ないわよね。
 あの目は、どうしてあんなに綺麗なんだろう。透き通った琥珀色の宝石みたいで、いくら見つめても飽き足りない気がする。もっとも、現実には一秒以上見つめたことはないけれど。
 私がもっと美人だったら。
 もっと年上で、大人で、彼と対等に話ができるような知的な人だったら―― 。
「…………」
 果歩は、対面のソファに目をやった。
 きっと、ここに座って、彼と目を合わせて話をしていただろう。コーヒーを片手に、ちょっと生意気に足なんか組んだりしちゃって―― ああ、なんてあり得ない空想!
「的場さん?」
 いきなり入ってきた沙穂の声。果歩はぎょっとしてソファを撫でていた手を頭の高さにまで上げていた。
「?―― なに、なんの真似?」
「う、ううん、ちょっと―― こう、肩が凝って」
 わざとらしく、両腕をこきこきと曲げて見せる。
「ふぅん、若いのに」
 訝しげな目になったものの、沙穂はあっさりと話題を変えた。
「今日、残業?」
「あ……いえ。多分早く帰れます」
 市長は今夜、珍しく定時に帰宅する予定になっている。当然、秘書もお役御免である。
「じゃ、用事頼んでいいかな。公務か私用か微妙だけど、とりあえず残業代はつかないから」
「……?」
 眉をひそめる果歩の前に、沙穂は黒い皮手帳を差し出した。
「真鍋さんの忘れ物」
「えっ??」
 差し出された手帳は、B5サイズで、光沢のある皮表紙で覆われている。
 確かにそれは、時々彼が取り出しては、何か書き込んだり確認したりしている手帳だった。
「すぐに会社に電話したんだけど、本人と連絡がつかないらしくて、取りに行かせますってって言うから、ついでがあるから届けますって言ってあげたの」
「ついで??」
「もうすぐ5時だし、私が届けようと思ってたけど、……的場さんに譲ってあげようかなーって。でも、もし嫌なら」
「行きます!!」
 激しく即答してから、みるみる頬が熱くなった。一瞬あぜんとした風に黙った沙穂が、ぶぶっとたまりかねたように吹き出した。
「わっかりやすーい、的場さん」
「いえ、そのその、わかってますよね。ただ、憧れているだけで……そんな、リアルに好きとかじゃないですから」
「なんでー? そんなに控え目に恋しなくても、十分勝算有りだと思うけどなぁ」
「ないですっ、ないないっ、そんなの、想像しただけでバチがあたります」
 こんな会話をしているだけでも、頭の中はぐるぐるで、いっそ、ぎゃーっと叫びたい気分である。
 くすくすと笑いながら、沙穂は手帳を手渡してくれた。
「中、見ちゃう?」
 想像さえしていなかった誘惑に、一瞬言葉を失った後、即座に果歩は首を横に振った。
「ぜっ、絶対に駄目です!」
「まっじめだねー」けらけら笑いながら、沙穂が退室する。
 皮製品の香りに交じって、わずかに雨の匂いがした。
 会社……初めて行くけど、どんな所だろう。とはいえ、本人は不在だろうし、せいぜい受付までしか入れないだろうけど。
 まるで宝物を扱うように、そっと手帳を持ち上げて、新品の封筒に納めようとした。
 はらり、と、手帳から紙片が落ちてきたのはその時だった。
 ――しおり……?
 幸いなことに、膝の上でとどまったそれを、果歩は指先でつまんで持ち上げる。
 フィルムでラミネートされたそれには、しおりらしくトップ部分に緑色の紐がついている。随分古い物だ。色あせて、ところどころ皺も入っている。
 中に閉じ込めてあるのは―― 。
 四つ葉のクローバー?
 意外だった。彼のような洗練された都会的な人が、こんな……いかにも手造りめいた……。
 思い入れのあるものなのだろうか。
 はっと胸を突かれたようになって、果歩はあわてて、しおりを手帳の表紙の部分に挟みこんだ。
 見てはいけないものだったのかもしれない。
 不思議な胸騒ぎと寂しさを同時に感じた時、5時を告げるチャイムが鳴った。

 *************************

「お待たせしました」
 ロビーで所在なく待つこと5分―― 柔らかい声に促されて振り返ると、そこには、果歩より頭ひとつ長身の女性が立っていた。
 目の覚めるような美人だった。襟の開いた白いシャツに、膝までのスカート。
 すらりと伸びた膝から下の脚は、驚くほど長くて細い。人形みたいな完璧な踵は、公務員の安月給では到底変えない高給そうなヒールに収まっている。
 そうでなくとも、果歩はすでに、ここまで来たことを後悔していた。
 光彩建設本社は、市内オフィスビル内でも、ひときわ目立つ場所にあった。
 磨き抜かれた大理石の床、豪奢でクラッシックなエントランス、広々としたロビーには噴水と白亜の彫刻が飾ってある。
 モデルのような受付嬢は、定時過ぎにおずおずと入ってきた果歩を、警戒心たっぷりに出迎え、安物の靴や上着を値踏みするような目で見つめた。
 果歩が、用件を告げるとようやく納得したようで、すぐに電話が掛けられ―― 降りてきたのが、この人だった。
「前原です。真鍋の秘書をしております」
 つま先から頭のてっぺんまで自信に満ちた女の前で、果歩は生徒のようにおどおどと一礼した。
「あの、これなんですけど」
 バックに入れておいた封筒を取り出す。外は土砂降りで、少しだけ封筒は濡れていた。一瞬だが、前原と名乗った女の笑顔が曇るのが判った。
 が、それはすぐに、接遇のお手本みたいな笑顔で上書きされる。
「すみません。こんな悪天候の中、わざわざお越しいただいて……本来なら、真鍋がお礼を申し上げなければならないのですが、生憎外出中でして」
「い、いえ、結構です。ついでがあっただけですので」
「本当に、ありがとうございます」
 ほかに、言うべきことも交わすべき会話もなかった。女は笑顔を張り付けたまま、果歩が去るのを待っている。本当に綺麗な人だった。メイクもヘアスタイルも完璧だ。もちろん素材はそれ以上だ。
 真鍋さんは、こんな人と毎日一緒に仕事をしているんだ―― 。
 わずかな期待も夢みたいな想像も、一気に流されて跡形もなくなった気分だった。
 こんな場所まで浮かれあがって来た自分が馬鹿みたいだ。馬鹿というか――後悔した。
 おとぎ話に出てくる通行人は、しょせん、王子様のお城に入るべきではなかったのだ。自分のポジションを思い知らされるだけだというのに。
「役所の方ですよね」
 一礼して踵を返した時、背後から声がかけられた。質問の意味が判らず、「はい?」と果歩は振り返っている。
「あ、ごめんなさい。もしかして制服のまま来られたのかなって思ったものですから」
 くすりと笑われ、果歩は耳まで赤くなった。
 地味なグレーのスーツを見て、そう判断されたのだろう。あまり、ファッションにもお洒落にも自信がないから、果歩はいつも地味目のスーツを買ってはそれを着ている。時に、就職活動中の学生に間違われることもあるくらいだ。
 失礼します―― 。果歩は、失礼にならない程度の早口で言って、歩き出した。
 なんだろう、もう、一刻も早くこの場を出たいと願うばかりだ。ものすごく場違いだった。せめてもの救いは真鍋さんがいなかったことくらいだ。
 私は……もしかしてずっと、1人で勘違いして、夢を見ていたのだろうか? 彼があまりに優しくて、あまりに身近に感じられたから……。
「よく調べてくれ。そうだ―― データは今夜中に俺のところに送ってほしい」
 エントランスの自動ドアから、携帯を耳に当てながら入ってきた人に気がついたのはその時だった。
「構わない。俺からの依頼だとはっきり名前を出してくれ。そうだ、もう隠す必要はない」
 声に、初めて聞くような棘がある。眉根には、別人のように険しい皺が刻まれている。果歩は委縮して立ち止まった。顔を背けようと思った時には、遅かった。
「――的場さん……?」
 苛立ったように携帯を胸ポケットに滑らせた真鍋は、その一瞬、呆けたような目になってから呟いた。「どうしてここへ?」
「専務、おかえりなさいませ」
 動揺のあまり言葉さえ出てこない果歩の傍らから、さっと前原秘書が前に出る。
「こちら、役所の方で、専務の忘れ物を届けていただいたんです」
「忘れ物?」
 真鍋の目が、訝しくすがまる。彼はすぐに、事態を飲み込んだようだった。
「それなら、こちらから取りに伺うと言っただろう」
 厳しい声に、果歩は心臓が嫌な風になりだすのを感じていた。
 想像もしていない、彼の、会社内での姿である。
「お断りのお電話をかけたんですが、もう、こちらの方が、役所を出られていたそうなので」
「わざわざお届けいただいたのに、この場でお帰りいただいたわけか」
 冷徹な口調に、自分が言われたわけではないのに、果歩は居心地の悪さを感じている。
「面識のない方を、専務室に上げろというんですか」
 が、美人秘書も負けてはいなかった。そんな態度が民間では許されるのか、きりかえす目が思いっきり反抗的だ。
 ―― というより、喧嘩はどうか2人だけで……果歩は、完全にのけもので、しかも帰るタイミングさえ見失っている。
「君になくても、僕にはあるよ。この人は的場さんで、灰谷市長の公設秘書だ。僕の親父の秘書に、君はとんでもない失礼な応対をしたんだな」
 はじめて自信満々だった女の顔が陰るのが判った。
「それは……私の、勉強不足でした」
「届けていただいたものは?」
 無言で、女が包みを差し出す。冷淡にそれを受け取ると、真鍋は初めて果歩を見下ろした。
「ありがとう」
「い、いえ……」
 先ほどまでの冷たさが解けてなくなったかのような、優しい目だった。
「今から帰るところなんだ。よかったら、どこかでお礼をさせてくれるかい?」
「いえ、それは本当に」
 いまさらながら、果歩は自分のみっともない格好に気が付いていた。
 外は土砂降りだったから、パンプスは濡れてストッキングまで水が浸みている。多分、かかとには泥が跳ねていて―― 髪も、風にあおられてほつれている。
「帰ります。本当についでがあったので、気になさらないでください」
「…………」
 真鍋の視線が、どこかぎこちなく周囲を見回し、それから彼は、「ちょっと」と果歩を視線でいざなった。
 前原秘書の、痛いほどの視線を感じる。受付嬢2人も、場の成り行きを興味津々とばかりに見守っている。
 彼に、市長秘書だと、果歩の立場を守るようなことを言ってもらえたのは嬉しかった。でも、多分、この場の誰もが―― 真鍋をのぞけば、こんな子が市長秘書? と思っているに違いない。
 できることなら、この場から消えてしまいたかった。が、真鍋が先に立って歩き出すので、果歩としては後をついていくしかない。
 噴水の前まで来て、ようやく彼は脚を止めた。
「5分で降りてくる。ここで待っていてくれないか」
 振り返った目に、懇願するような色があった。
「それは―― 」
「こんな大雨の日に来させておいて、お礼をするなと言う方がどうかしているよ。食事―― 」
 自分が言った言葉に戸惑うように、真鍋は視線を泳がせた。「は……無理かな」
「…………」
 果歩は、胸がどうしようもなく高鳴るのを感じていた。
 よく分からないけど、ここで緊張しているのは自分だけではないような気がする。―― いやいや、そんなことない、あるはずがない、勘違いしちゃだめだ、絶対に。
「せめてお茶でも一緒にどうかな、5分でいいから」
「あの……でも」
 5分でお茶? 注文して待ってる間にたってしまいそうな……。
「とにかく、ここで待っていてくれ。急ぎの用事を済ませたら、すぐに降りてくる」
 断る暇もなかったし、第一そんな雰囲気でもなかった。どこか切羽詰まった真鍋の勢いにのまれるように、気がつけばぎこちなく頷いている。
「……ありがとう」
 安堵したように唇をほころばせ、その視線を素早く腕時計に落とすと、真鍋は即座に踵を返した。元の場所に佇んでいた彼の秘書も、同時に歩き出している。
 エレベーターのボタンを押して、真鍋が乗り込んだ時、その―― 秘書の目が、ちらりと果歩を振り返った。
 挑発でも怒りでもない、嘲笑を含んだその視線に、果歩は一瞬にして胸が冷たくなるのを感じていた。
 ――そう……だよね。
 足元を見る。泥はねの散った汚いパンプス、地味な灰色のスーツに、仕事帰りで少しばかりくたびれたブラウス。髪は後ろにひとくくりにしているだけで、それも多分、少しばかりよれている。
 こんな姿で、あの完璧な真鍋さんとお茶―― ?
 どこで―― ? 果歩が行くレベルの喫茶店ではないことは判っている。いや、どこだって、恥をかかせることには変わりはない。そうだ、私は彼に釣り合わない―― 。
「あの、やはり帰るとお伝え願えますか」
 勇気を出して、受付まで戻ると果歩は言った。丁度来客が訪れていたのか、2人の内一人は、長身の男の相手をしている。
「真鍋に、でしょうか」
 だいたいの成り行きを察したのか、受付の女性は、どこか訝しげに声をひそめた。
「はい、急用を思い出したので」
「では、すぐに真鍋に電話しますので、このままお待ちいただけますか」
「えっ……」―― それは困る。
「あのっ、すみません、本当に急いでいるので」
「でも……それでは」
 受付嬢は困惑した態で、それでも受話器に手を伸ばそうとする。この人には悪いが、果歩はそのまま逃げだそうとした。その時だった。
「雄一郎の客?」
 隣から、低いハスキーな声がした。
 最初から受付に立っていた長身の男だ。
「誰―― ? あいつのお相手にしては、随分と幼いね」
 唖然、と果歩は口を開けた。
 誰? は、私のセリフだ。というより、初対面で、なんて失礼な言い草だろう。
 精一杯の虚勢を張って見上げた人は、真鍋と同じくらい背丈がある。が、受ける印象は随分違った。
 少し長めの真っ黒な髪は、どこか野性的に左右に散って、くせ毛なのか、自然なうねりを帯びている。切れあがった鋭い目は、気おくれするほどはっきりとした二重で、威嚇するように果歩を見下ろしている。
 鼻梁が高く唇は薄い。南国の熱とアジアの冷たさが混在したような顔をしている。
 普通の会社員ではないのだろう。身につけているスーツはいかにも高級そうで、芳醇な光沢と艶を帯びていた。磨き抜かれた靴は漆黒で、タイではなく、スカーフを襟に巻いている。
「吉永部長」受付嬢が、ほっとしたように男を見上げた。
 果歩は逆にびっくりしていた。
 部長―― ? じゃあ、この会社のえらい人? でも、とてもそんな年には見えない。20代は超えているようだけど、せいぜい30代の半ばくらいだ。
 しかも、部長が専務を雄一郎と呼び捨てにする……ということは、この人も真鍋家の縁者だろうか。
「先ほども、この方をお帰ししようとした前原さんが、ひどく叱られていたんです。真鍋専務の大切なお客様らしくて」
「ふぅん」
 男の濃い眉と目の間が、さも意外そうに広がった。
「大切な……、ねぇ」
 果歩は無言で、唇だけを引き結んでいた。
 どうでもいいけど、なんて余計な説明をしてくれるんだろう。真鍋との仲をどう誤解したのか、男は唇に指をあて、値踏みでもするように果歩をじろじろ見まわしている。上から下まで―― 決して嫌味な表情ではなかったが、すごく、不快になる目つきだ。
「帰ります。電話いただいても結構ですけど、私はこれで失礼します」
 果歩はきっぱり言い切って踵を返した。
「俺が、雄一郎に伝えておくよ」
 背後で、からかうような声がした。果歩の耳に届くような大声だったが、その言葉は、受付嬢に向かって言っているようだった。
「気にしなくていいさ。本当に大切なお客なら、ロビーに1人で残したりしない」
 胸を、見えない刃物でさっと裂かれたような痛みが走った。
 果歩は黙って歩き続けた。なんだろう、嫌な人。でもあの人の言うとおりだ―― 約束を反故されたことで、少しは怒るかもしれないけど、しょせん、それだけのことだろう。
 どう考えたって、彼にとって私は大切なお客ではないもの―― 。
 



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