「よう、色男」 オフィスを出た時だった。ある意味義母より不快な声に、雄一郎は眉をひそめて顔を上げた。 「めかしこんで、デートか、おい。会社が大変な時だってのに、余裕だな」 廊下の壁に背を預けた男が、にやにや笑いながら片手をあげている。――。 吉永冬馬。義母の実の弟で、雄一郎にとっては、7歳年上の義理の叔父。 ロンドンで建築士をしていた吉永が、突然勤めていた事務所を辞めて帰国したのが去年の春のことだった。 おそらく会長―― つまり吉永にとっては姉に呼び戻されたのだろう。帰国後は、当然のように光彩建設に入社し、瞬く間に部長にまで上り詰めた。 今や会長の片腕としてすっかり会社の顔となった吉永は、いずれは姉の後を継いで会社の実権を握るだろうと囁かれている。それまで、実質、後継者候補だった雄一郎が会社を去ることになったからだ―― 少なくとも、役員たちの間では、そういうことになっている。 その、互いの立場の微妙さを差し引いても、雄一郎はこの叔父が苦手だった。 どんな時でも、敵意と軽蔑をむき出しにして挑まれる。そのくせ、内心を決してあかしはしない。 「僕のセクションには、その大変さが伝わってきませんのでね」 素っ気なく言って、雄一郎は、男の傍らをすり抜けた。 雄一郎にしてみれば、この男は危険極まりない狂犬だ。いや―― 義母の番犬とでも言うべきか。常に飛びかかる隙を窺われていそうな気がしてならない。関わりにならないに越したことがない。 吉永が、鼻で笑うのが判った。 「アザルに目をつけたのは正解だったな。現地の人間と、頻繁に連絡を取り合っているそうじゃないか」 「まだ、データを集めている最中ですがね」 感情を殺した声で、雄一郎は続けた。 「今年の決算が、粉飾まがいの誤魔化しだった程度には、掴んでいますよ」 「ほーう。やるじゃないか、ドラ息子」 吉永はにやにやと笑っている。 「そのドラ息子に、会社株の15パーセントを握られていますからね」 冷静に、雄一郎は切り返した。 「あの人が、何故、リスクを負ってまで僕の縁談を進めようとするのか―― ずっとそれが腑に落ちませんでした。僕は、この会社にいる限りは何もできない安全牌ですが、株を持ったまま、他家に出てしまえば別でしょう」 「姉さんは、お前の幸せを心から願っているんだよ!」 吉永は笑いながら両手を広げてみせた。 「お前を大事に育ててくれたおふくろさんじゃないか」 「今、うちの会社で抱える不安要素は、アザル共和国の内乱くらいですからね」 冷静に、雄一郎は続けた。日本では、まだどの新聞でもすっぱ抜いていない極秘情報である。 「現政府が崩壊すれば、うちが受注を受けた工事費用の回収だって危うくなる。少なくとも、事実を隠して粉飾を指示した現会長の立場は危ういでしょう」 「そうだなぁ、大事な一人息子を婿に出すんだから、よほどの理由が必要だよなぁ」 最初から、この男にまともな会話をする意思がないことに、雄一郎は冷えた馬鹿馬鹿しさと共に気がついた。 「申し訳ありませんが、急いでいるので、これで」 「彼女なら、帰ったよ」 雄一郎は脚を止めていた。「……なんの話です」 にやり、と吉永は、薄い唇に笑いを浮かべた。 「ロビーでお前が待たせてた子。市長秘書だって? よせよ、今度は親父の秘書にまで手を出すつもりか?」 「………あの子に、何か言ったんですか」 「警戒心の強い子ウサギみたいな目ェしてたな。俺が言わなくとも、ちゃんと判ってるって顔してたぜ? お前みたいなろくでなしに遊ばれても、自分が傷つくだけだって」 「…………」 「見合いしながら、あの子とも遊ぶ気か? よせよせ、可哀そうだ、第一親父さんの性格知ってるだろ? 許されるわけがない。尻軽女の烙印を押されて、あの子のクビが飛んじまうぞ」 「そういう相手じゃない!」 雄一郎は声を荒げていた。はっと我に返っている。くそ、これじゃ、この男の思うつぼだ。 が、たとえあり得なくとも、想像さえされたくはなかった。この叔父の頭の中では、多分彼女はすでに服を脱がされて、あらゆる汚され方をされている。それが―― どうしても許せない。 それでも、ぎりぎりで感情を抑えて、冷静に雄一郎は続けた。 「遊ぶつもりも、からかうつもりもないですよ。僕のことなら、放っておいてもらえますか。彼女の立場なら、叔父さんよりよく知っているつもりです」 「なぁ、賭けないか? 雄一郎」 「…………」 ――賭け? 「あの無垢なパンビちゃんを、俺とお前、どっちが先に落とせるか、だ。笑ったな? お前は、自分が勝つと思い込んでいるかもしれないが、女の気持ちなんておっそろしいほど移ろいやすいもんなんだぜ」 「……馬鹿馬鹿しい」 腹立ちを通り越して、ただ、呆れた。 「叔父さんにとっては、義兄の秘書に手を出すというわけですか。ご勝手にどうぞ。ただし、いっておきますが、この先、より有力な配偶者を押しつけられるという意味では、叔父さんも僕も変わりませんよ」 「いや、ひとつ大きな違いがある」 吉永は、楽しそうに野性的な目を細めた。 「お前と違って、俺は、あの子が傷つこうがどうなろうが痛くも痒くもないってことだ。お前があの子を本当に気に入ってるなら、俺は勝手に賭けをスタートさせるが……」 「わかりましたよ」 何もかも面倒になっていた。何を考えているかさっぱり判らない男だが、ひとつだけ、この男の行動にはゆるがない指針がある。 それは―― 実の姉を心の底から敬愛しているということだ。 この男の全ての行動が姉のために成されている。もう女としては、何一つ価値のない腐った豚のような女を―― 。 逆に、雄一郎は余裕を持った冷笑を浮かべた。気持ちは切羽詰まっていたが、死んだってこの男の前で弱気の片鱗さえ見せたくはなかった。 義母にしても、叔父にしても、他人の財産を食いつぶして今の地位にのしあがった屑だ。俺とは、根本的に生きている場所が違う。 「僕に、大人しく見合いをしろというんでしょう? 義母にどう言い含められたか知りませんが、見合いはします。あの子は、――そういう対象じゃないですよ。親父の秘書で、だからぞんざいには扱えないだけです」 「なるほどな」 わざとらしく笑い、吉永はいかにも納得した風に頷く。 「知っているでしょう? 見合いの相手が何者なのか。正直、いい話すぎて驚きました。断る理由を探すほうが難しいくらいですよ」 「そう……その答えで正解だ」 義母の忠実な腹心は、満足そうに頷いた。 「さすがは、いい子の雄一郎坊ちゃんだ。その美貌を使って、せいぜい会社の役にたってみせるんだな」 「……むろん、努力は怠っていないつもりですがね」 歯ぎしりしたい胸中を堪え、雄一郎は目礼して、男の前を通り過ぎた。関わったら負けだ。どんな挑発も無視するに限る。 以前も―― あれは高校生の頃だったか、雄一郎が思いを寄せた家庭教師が、てひどいやり方でこの叔父に弄ばれた。 「男女の自然のなりゆきだ」と叔父は笑っていたが、あれはどう考えても甥への嫌がらせだとしか思えなかった。もし、あの子が、同じような目にあったなら―― 。 泡立つような思いを抱いたまま、雄一郎は、エレベーターで階下に降りた。 がらんとしたロビーには、当たり前のように人の気配はしなかった。受付もすでに閉じられ、照明も半分に落とされている。 「…………」 そうか、帰ったか。 失望とも憤りともつかないため息が漏れる。あれだけこの俺が懇願したのに、なんだってあの子は―― ああも、意固地で頑固なんだ。 が、苛立つ思考の半分では、これでよかったと理解している。 この微妙な状況下で、今までみたいにあの子に近づくべきではない。冬馬叔父のような危険人物の前ではなおさらだ。 それでなくとも、今日の自分の態度は、明らかに度を越していた。前原友香の目には、随分と奇異に映ったろう。そうだ、そういった全てが、あの子にとっては大きなマイナスに働くのだ……。 それでも、―― それでも、瞼の裏に焼きついた景色を、雄一郎は思い出している。 今日は朝から最悪だった。灰色の空、相次いで届けられた信じがたい真実。盤石だと信じていたものが、砂の城のようにもろかったと思い知らされた驚き―― 。 何より、許せなかったのか、真偽を確かめたかったとはいえ、父親のもとに行ってしまった自分だった。 普段、雄一郎の前では、全くと言っていいほど素の感情を見せない父は、久しぶりに顔を赤くして怒気を露にした。多分、義母の中傷にきたと思われたのだろう。 (―― それがどうした) (―― 本当に愚かで浅はかな男だな。そんなことを注進しにきて、お前を20年育てた人を蹴落とそうという腹か、雄一郎) (まだお前の背には、梶川と有布子の亡霊がとりついているようだ。二度と私の前で、そんな愚にもつかない話をするな!) 最初から判っていたことなのに、俺は何を期待してあの人のところに行ったのだろう。 あの女を妻にした時から、父は、息子を棄てたのだ。 淀んだ泥にも似た気持ちを引きずったまま、夕刻に帰社して、そして―― 。 彼女を、見つけた。 透き通った頬にはうっすらと陽光が差していた。照明のせいか、ほつれた髪は額の周りで金褐色に輝いて見えた。わずかに開いた唇。大きく見開かれた黒鳶の瞳。――。 そのままずっと見惚れていたいと思うほど、その瞬間、雄一郎の全ては、目の前の人にくぎ付けになっていた。 格段、美しいというのではない、そういう意味で目が離せないわけではない。セクシャルな魅力を感じたわけではない。ただ―― 。 例えていえば、ずっと濁った灰色の街にいて、不意に優しい太陽が差しこむ空を見つけたような―― そんな感じだったのかもしれない。 だからこそ、その美しい光景を汚すべきではないのだ。 雄一郎は唇を噛み、かすかに息を吐くと、再びエレベーターホールに戻って行った。 ************************* 「遠慮しないで、なんでも頼んでいいからね」 果歩の緊張をほぐすように、安田沙穂はぽん、と自分の胸を叩いて見せた。 「抽選で当たったの。ここのペア食事券。だから全然気にしないで、どんどん好きなもの頼んじゃって」 ホテルリッツロイヤルの最上階。 午後8時。灰谷市の夜が一望できる展望ダイニングレストランは、さざ波のような賑わいで満ちていた。 ビアノの生演奏、ドレスのような衣装を身につけているウエイトレス。絨毯は足首が埋まるほどの柔らかさで、ワインは一番安いグラスで1000円―― 果歩には、何もかも初めてだった。 「でも……いいんですか、私なんかと」 「いいの。だんなは残業ばっかだし、会話なんててんで合わないし、女子と飲みに行く方が楽しいじゃない」 カクテルグラスを持ち上げて、沙穂はにっと笑って見せた。 「それに、的場さん最近元気なかったから。ちょっと心配だったのよ。もしかして何かあったのかなーって」 胸が、少しばかりじんと浸みて温かくなった。 今日の仕事帰り、突然沙穂に「今夜、2人で飲みにいかない?」と誘われた。 相も変わらずの地味な服で、いきなり高級ホテルのラウンジレストランに連れて行かれたのには驚いたが、「いったい誰が服なんて見るの? みんな自分のことで手いっぱい、他人の服をいちいち気にしてる人なんてよっぽどの暇人か自分に自信のない人よ」と、さばさばさ言い切られて、気が晴れた。 そういう沙穂は、最初から食事に行くつもりだったのかドレスアップしていたが、確かに、カップルや接待中のサラリーマンばかりの店内で、他人の服にいちいち気に留める人はいない。 先週が続く長雨は止まず、今夜も、外は雨が降っていた。そのせいか、店内にも雨の匂いが浸みているような気がする。 「別に何もないんですけど、遅れてきた五月病かもしれないです」 チョコレートを摘まみながら、果歩は答えた。この小さな銀チョコがいったい単価あたりいくらするのか、と少々恐ろしく思いながら。 あてはずれの答えだったのか、沙穂は露骨に疑わしげな表情になる。 「そう? もしかして、プリンスと何かあったのかなーって思ったんだけど」 「何かあるほどの仲だったら嬉しいんですけどね」 「またまたー、上手く逃げるんだから」 大人の回答で交わす果歩の胸中は、おそらく沙穂も察している。あの雨の日―― 忘れ物の手帳を届けた日から、明らかに果歩の態度も表情も沈み込んでいて、そのことを沙穂はずっと気にかけてくれていたのだから。 「あったとすれば、あんなすごい会社の専務さんなんだなーって再認識したくらいで」 果歩はグラスを持ち直した。「ちょっと現実に立ち戻ったって感じですね」 「ま、実際、雲の上の人だわよね」沙穂も神妙な顔で頷いた。 「しかも市長の息子なんて、条件としては最悪じゃない? 私だったらそれだけでパス」 「あはは、確かに」 互いに笑顔で、淀んだ感情を押しながし、再度グラスをチン、と合わせる。 沙穂が、その話題に触れたくてうずうずしているのは判っていたが、もう真鍋のことなど考えたくもかった。考えれば―― なんだか理由のわからない憂鬱と悲しみに押しつぶされそうな気がするから。 沙穂が、生ハムをフォークで持ち上げる。プレートを支える左手の薬指には、控え目なシルバーが輝いている。結婚指輪―― 人生を添い遂げるパートナーがいるという証。 うらやましいな、と果歩は思った。 もう、叶わぬ思いに悩んだり苦しんだりすることもない。恋の終着点で悠然と構えている勝ち組の女の証―― 。 いつだって沙穂は優しいし親切だが、時折、すごく上から見下ろされているような気がするのは、彼女がまとう人生の余裕みたいなオーラのせいかもしれない。 今、沙穂が立っているのは、しょせん、果歩には永遠のように遠い場所にある地点なのだ。 「ねぇ、そういえば、国際交流の宮沢さんって、的場さんの同期だったっけ」 オーダーしたアボガドとサーモンのサラダが届いた時、不意に、思いだしたように沙穂は話題を変えた。 「宮沢……りょうさんなら、確かに私の同期ですけど」 何故に宮沢さん? 用心深く果歩は答えた。職場の先輩と宮沢りょうの間に、とりたてて接点があるようには思えない。 「ははぁ、その顔。実はあまり好きじゃないでしょ、彼女のこと」 フォークを向けて、沙穂は得意げに決めつけた。 いったいどんな顔をしてたんだろう、自分。果歩は内心驚いたが、確かに沙穂の言うとおり、宮沢りょうの名前を耳にした途端「えーっ」みたいな微妙な表情になってしまったのは確かである。 こういってはなんだが、どんな女だって宮沢りょうみたいな完璧な人と比べられたら分が悪いに決まってる。頭脳明晰で役所同期の中では出世頭、しかも美人でスタイル抜群、性格も……。 「…………」 まぁ、性格はかなり悪そうだけど。 「じゃ、知ってる? 彼女が不倫してるって噂」なんでもないように沙穂は言った。 「いえ、知らないですけど」 不倫? 果歩もまた、なんでもないことのように答えて―― ようやく、沙穂の言った言葉の意味が、胸の中に落ちてきた。 「え?………………えええっっ??」 「しっ、的場さん、驚きすぎ!」 席を蹴って立ちあがった果歩を見上げ、沙穂が泡を食った顔で指を唇にあてる。さすがに注目を集めたのか、訝しげに向けられる店内中の視線に、ようやく果歩も気がついた。 「す、すみません……」 こそこそと座りながら、それでも頭はパニックである。 まさか、そんな―― あの男なら選り取り見取り(勝手な推測)の宮沢さんが?? ありえない。不倫? つまり妾? 二号? 信じられない。いかにも潔癖そうで、そんなだらしない真似なんて死んだってしそうもないタイプないのに。――。 「まさか、相手、役所ですか」 はっと気づき、おそるおそる果歩は訊いた。いつだったか、飲みの席で上司に聞かされたことがある。「役所内の不倫は、自分たちだけはバレてないつもりでも、絶対誰かに見られてるもんだからね。気をつけた方がいいよ」 まさか―― 宮沢さんの相手も、役所の人? 「石田純一の新しいお相手だって。総務じゃそこそこ噂になってるよ」 「…………え?」 「美人なのに、バカだねー、彼女。よりによって石田純一だよ? 意外に下半身は軽い子なんじゃない?」 それは…………。 <石田純一>。むろん、タレントのその人ではなく、役所に蔓延する隠語である。 所属は総務局行政管理課。名前は篠田課長補佐―― 下の名前まで果歩は知らない。法規部門の係長も兼ねているエリート職員である。 すごくいい大学を出ていて、役所に入ったその年に同期と結婚、一児を設けた翌年に離婚。次に役所の受付嬢と結婚、一児を設けて離婚。総務局長の勧めで、民間人の女性と見合い結婚したのが果歩が入庁した前年だと―― 聞かされている。 確かに甘い顔立ちをしたハンサムだが、片っぱしから女を落として棄てていく彼の女性遍歴はあまりにも有名で、密かにつけられたあだ名が石田純一なのだという。 「篠田補佐は、局長のお気に入りだからね。不倫がバレて痛い目にあうのは女のほうだよ。今までも何人もそれで泣かされているのに、頭のいい子がそのくらいも判んないかなぁ」 沙穂は、心底呆れた口調で続ける。 「まぁ、みんな、あの見た目に騙されるんだろうね。宮沢さんも、いかにもクールで才媛って感じなのに、あんなのに引っかかるようじゃ、先が知れてるよ」 いや…………。 「それはないですよ」 少し考えた果歩は、きっぱりと首を横に振った。 それは違う。あり得ない。 「ないって?」 「何かの誤解だと思います。宮沢さん、そんな人じゃないですから」 「そう? でも、実際、2人を見た人、かなりいるみたいだよ」 沙穂は、やや不満げに眉をあげる。 「でも彼女、本当にそんな人じゃないですから」 宮沢さんは違う。 もし、そんな噂が蔓延しているのだとしたら、誰かが流した悪意ある嘘に違いない。 彼女がいかに周囲からうとまれ、妬まれているかはよく知っている。確かに、万人受けするキャラじゃないけど……その噂はひどすぎる。 「的場さんって、いい人だね」 「え?」 気づけば、笑いを含んだ沙穂の目が、下から果歩を見上げていた。 「それともとことん真面目な人? 色んな人から宮沢さんの噂は聞いたけど、みんな楽しそうに話してたよ」 「…………」 「優しいんだね」 同期だから……と、それしか返すことができなかった。 なんだろう、この感じ。仲間内で1人だけ空気が読めずに飛んでも発言をした時とよく似ている。沙穂は明らかに、果歩に別の反応を期待していたのだ。気持ちを汲んでもらえなかった冷めた失望が、ありありと感じられる。 不意に2人の間に見えない壁ができたような気がして、果歩が慌てて何か言葉で取り繕おうとした時だった。 「やぁ、奇遇だね。こんな場所で会えるなんて」 ハスキーな低い声が頭上で響いた。―― どこかで聞いた声のような気がする。沙穂にも意外な声だったのか、2人は同時に訝しんだ視線をあげている。 果歩の斜め後ろに、長身の男が立っていた。ピンストライプのダークなスーツに臙脂のスカーフ。微笑する男は、親しげに果歩の座る椅子の背に手をかけた。 「大きな声がするから、どんなおてんば娘かと思ったら……君だったんだ」 あっ、と果歩は、驚きの声をあげるところだった。 光彩建設の受付であった男の人―― 名前は確か……ヨシナガ部長と呼ばれていた。専務である真鍋のことを、雄一郎と呼び捨てにしていた横柄な人だ。 「どなた?」 沙穂が声を潜めて―― ただし興奮を隠しきれない口調で囁いた。 「すっごく素敵な人じゃない!」 果歩に紹介できるはずもない。困惑する果歩の内心を見透かしたように、男はいたずらめいた笑いを浮かべた。 「彼女、役所のお友達?」 「え、はぁ……」 「紹介してくれるかな」 にこやかに促され、しぶしぶ果歩は、男に沙穂を紹介した。これではまるで、自分とこの男が旧知の間柄のようだ。てか、先にお前が名乗れとまず言いたい。 「やだ、私、指輪外してくればよかったわ」 沙穂はもう、興奮の態である。 「へぇ、ご結婚されているんですか」さも意外そうに、吉永は凛々しい眉をあげた。 「そうは見えないな、随分お若く見えるから」 「嘘ばっかり、お口がお上手なんですね!」 「お2人ですか?」 沙穂が思いっきり見せた隙に、男は素早く入り込んだ。 「よかったら、僕らとご一緒しませんか。男2人の飲みというのも味気なくて。ああ―― 僕は吉永冬馬といいます」 そして男は、初めて背後を振り返った。 「今、甥と一緒に飲んでいるんですよ。こう言えばいいのかな。僕は真鍋雄一郎の叔父で、あなたがたのボスの義弟です。こんな所で役所の方と会えたのも何かの縁だ。兄貴の様子をぜひ聞かせてもらえませんか」 果歩は―― すでに凍りついていた。 話の途中で、吉永の連れの姿は目に入っていた。 彼は少し離れたボックス席にいて、まるで紹介されるのを待っていたように、微笑して目礼をしてくれた。 「ええっ、真鍋さん??」 沙穂が素っ頓狂な声をあげる。「ま、的場さん、どうする??」 どうするも―― この状況で、断ることなどできるのだろうか。沙穂はもう半ば腰を浮かせているし、吉永はウエイトレスに席の移動を指示している。 真鍋は無言で、グラスを唇にあてている。 さきほど彼が見せた微笑は、いかにも取り繕った、儀礼的なものだった。―― 果歩には、判った。彼は、内心少しもこの邂逅を喜んでいない。 もしかして……あの時のことを、怒っているのかもしれない。 待っていてくれと頼まれたのに、本人には何も告げずに1人で会社を出て行った。以来、真鍋から連絡はないし、もちろん果歩からもしていない。 「さぁ、立ってください。今夜は僕が奢りますよ。もちろん断ったりはなさらないでしょうね」 上機嫌の吉永が促す。果歩は、真鍋から目をそらすようにして立ち上がった。 それまで気にならなかった濃紺のスーツが、もう嫌で仕方なくなっている。ストッキング……まさか、つってたりはしないわよね。パンプスに泥跳ねは……そんなの確認してる余裕なんてない。 化粧直しも適当だったし、すでにコンタクトがごろごろしてアイラインも滲みがちになっている。 ああ―― なんて最低な夜だろう。 |
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