「研究開発部……? なんだか、建設会社のセクションじゃないみたいですね」 「建設資材の研究と開発をやっているんです。まぁ、僕はポストの空きにころがりこんだ、いわば名ばかりの部長ですがね」 前の席では、吉永と沙穂が盛り上がっている。もらった名刺を餌に、沙穂は吉永を質問責めにしていた。 「冬馬さん、ですか。変わったお名前ですね」 「両親が競馬好きで、冬に競馬に行った日に僕が生まれたそうなんです」 「えー、まさか、それで冬馬なんですか」 「もっと夢や未来のある名前だとよかったんですが、しょせん、ギャンブルですからね」 果歩は笑顔で聞くふりをしながら、隣の人に神経を集中している自分を感じていた。 まさか、こんな風にして、初めて彼と同じ席に腰を下ろすことになるとは思ってもみなかった。 同じ重みで沈んだソファ、わずかな距離をあけて座る人の、体温や香りまで伝わってきそうな近さである。 真鍋は、受け答えこそ丁寧で柔らかく、会話が途切れれば自分から振る程度の社交性を見せたものの、ほとんどの場合で聞き役に回り、決して果歩に、自分から話しかけようとはしなかった。 こちらを見て笑いかけられても、目だけが別のことを考えているのが、漠然と感じられる。 「的場さんは、競馬に行かれたことはありませんか」 不意に吉永の目がこちらに向けられた。顎に指をあてて、じっと見つめられる。 こうして視線の合う位置で見つめられると―― 強い眼差しに吸い込まれてしまいそうだ。 「いえ、私は」 「今度ぜひご一緒しましょう。今はね、女性でも普通に入れる雰囲気なんですよ。若い女性も随分多いですよ」 「ええ……機会があれば」 果歩が答えると、それまで怖かった吉永の目が、いきなり柔和になって魅力的な笑いを滲ませた。 「約束ですよ。じゃあ、今度、本当に誘いますからね」 真鍋の手が不意に伸びてきて、果歩の前にあるグラスを取り上げたのはその時だった。 「お代わり、同じものでいいかな」 ドキッとしたが、儀礼的な笑顔でそれに頷く。「同じものを」真鍋は背後のウェイトレスにそう頼み、それきり無言になって自身のグラスを持ち上げた。 「随分飲むんだな、雄一郎」 楽しげに吉永が言った。 「いつもこんなものですよ」即座に、それより楽しげに真鍋が答える。 「そうだったかな。あまり飲まない印象があったけどな」 「一緒に飲むのは久しぶりですから」その声は、どこか自棄のように聞こえた。 「叔父さんが知らないだけですよ」 「まだお若いのに、叔父さんなんて不思議な感じ」 くすくすと沙穂が笑いながら口を挟んだ。「お二人の年は、どのくらい違うんですか」 「7歳差です。雄一郎が来年30で、僕がプラス7歳ですか。叔父さんと呼ばれても不思議な年ではないですがね」 楽しそうな吉永の目は、それでもじっと果歩に注がれている。 「僕は、雄一郎と友人気分なんですが、雄一郎は頑なに僕を叔父さんと呼ぶんです。きっと僕が嫌いなんだな」 その時、ウェイターが新しいグラスを運んできた。 「そちらの方に」果歩のほうを見もせずに、真鍋が指示する。そして、にっこりと沙穂に笑いかけた。 「沙穂さんには、何か別のものを頼みましょうか」 「いえ、私はもう十分です。お腹いっぱいで」 「じゃあ、美味しいデザートを頼みますよ。お勧めがあるんです」 「気をつけた方がいいですよ」吉永が口を挟んだ。「こいつは、天性の女たらしですから。この笑顔が曲者なんです。どんな女もくぎ付けになってしまう」 何故、私を見ながら言うんだろう。果歩は思った。そんなに見つめられたら……目のやり場に困ってしまう。 「叔父さんほどじゃないですよ」 さらり、と真鍋は肩をすくめるようにしてそれをかわした。 「親父さんが、今、こいつを結婚させようとやっきになってましてね」 構わずに、吉永は続ける。 「今、いい話がようやくまとまりそうなんです。プレイボーイも年貢の納め時ってやつかな。だから、この男に誘われても、イエスと言っては駄目ですよ」 「的場さんとはよく話しますけど、そういえばあなたとは、あまり話したことがありませんでしたね」 吉永を無視するように、真鍋は沙穂に話しかけている。 「役所とは別人のようだから……最初は誰だか思い出すのに時間がかかりましたよ」 「まぁ、ひどい」 「綺麗だと言っているんです。結婚されているのが、残念だな」 沙穂の華やいだ笑い声を聞きながら、果歩は、どうしようもなく気持ちが沈んでいくのを感じていた。 この席に座る時間が長くなればなるほど、辛さが増してくるような気がしてならない。 今夜の真鍋は、明らかに機嫌が悪く、しかも果歩1人を露骨に無視している。 多分、果歩が約束を反故にして帰ったことで……不愉快な思いをさせてしまったのだ。 7歳も年上の真鍋が、それほど心が狭いとは思わなかったが、そうとしか考えられない。 「親父がいつも言っているんです。役所の秘書課はベテラン揃いで安心できるって、きっと、沙穂さんのことを指して言っているんだな」 「えーっ、そんなことないですよ。私なんて、たかだか3年しか在席してませんし」 帰りたいな。 所在なくグラスを口に運びながら、果歩は半分泣きそうになっていた。 帰りたい。もう、真鍋さんの傍にはいたくない。 なんかもう……惨めで悲しくて、仕方ない。 「ごめんなさい。主人から電話みたいです」 その時、いきなり沙穂が立ちあがった。あわただしくバッグを探っているから、携帯の着信音が鳴ったのかもしれない。「ちょっと出てきますね。失礼します」 「ごゆっくり」真鍋が笑顔で送り出す。 えっ、1人にしないで―― と、内心追いかけたい気持ちを抑えて、果歩は自分も席を立つ言い訳を考える。 そうだ、そろそろ化粧直しに行かないと。それで、親から電話があったと言って、そのまま帰ってしまえばいい。 「見合いは、来月だったかな。雄一郎」 吉永がなんでもないように口を開いた。果歩は思考を止めている。 見合い―― 今まで何度もその噂は流れたし、格別、珍しい話題ではない。 それでも、叔父の口から出るその話は、いつも以上のリアルさをもって果歩の胸に響いてきた。真鍋さんが―― 見合いをする。 「まだ、決まったわけじゃないですよ」 素っ気なく、真鍋は答えてグラスをあおる。 「親父さんがああも乗り気なのに、お前に断れるわけがないだろう」 「みんな、肝心ことを忘れているようですが、結婚するのは僕ですからね」 「こいつには、昔から悪癖がありましてね」 果歩を情熱的に見つめたままで、吉永は続けた。 「女を口説き落とした後、不意に飽きてしまうようなんです。いってみれば、ハンターなのかな。狩ることに意義があるわけで、落ちてきた獲物には興味はない」 「はぁ……」 どう答えていいか判らなかった。そのくせ、胸の深いところで、果歩はひどく傷ついていた。 宮沢りょうも、確か同じようなことを言っていた。……そんなの、ただの噂か中傷だと思っていたけど。 無言でグラスをあおる真鍋は、肯定も否定もしない。 「まだ学生の頃から、女はとっかえひっかえでしてね。それも一カ月も続いた試しがない。聞いてみてごらんなさい。多分、こいつも自覚はありますよ。自分が性質の悪いハンターだって」 「長続きしないのは、本当ですね」 まるで人ごとのように真鍋は答えた。「確かに自覚していますよ。僕は、女性とまともにつきあえない性格らしい」 「病気だな、一種の」 おかしそうに言って、吉永は立ち上がった。 「失礼、どうやらお得意様からの電話のようです。僕も少しばかり席を空けますので」 嘘―― 。 果歩が慌てる前に、吉永はさっさと背を向けている。 その場には、2人だけが取り残された。 ************************* 「……この前は、失礼しました」 沈黙に耐えきれず、最初に口を開いたのは果歩だった。 「私……急に用事を、思い出したものですから」 「気になさらなくていいですよ」 必要以上に丁寧に、真鍋は答えた。 「あの日は、本当にありがとうございました」 それきり、2人の会話は途切れる。 店内のピアノが奏でるクラッシックメロディが、意味もなく大きく聞こえた。 果歩の視線には、真鍋の逞しい腿だけが映っている。少し身体をかたむければ触れてしまいそうなほど近く―― なのに永遠よりも遠い距離。 「遅いですね、2人とも」 暗くなりそうな気分を奮い立たせて、果歩は言った。 「電話が、長引いているんでしょうか」 「さぁ」 グラスを持ち上げた真鍋は、先ほどとは打って変わった素っ気なさで応える。そして、ふと気付いたように眉を上げた。 「僕も、失礼してもいいですか。電話を掛けたいところがあるので」 「ええ、どうぞ」 笑顔で、答える。あ、まずい―― 泣きそうになっている。それを誤魔化すように、自分のグラスを持ち上げる。 「適当なところで帰ったほうがいいですよ」 立ち上がりながら、目も合わさずに真鍋は言った。 「あなたのような若い女性が、夜遅くまで飲み歩くのは、みっともないですからね」 「…………」 そうですね。 おっしゃる通りだと思います。 私だって―― 好きでこんな場所にいるんじゃないんですよ。信じてもらえないかもしれないですけど。 1人になった果歩は、ぱらりとこぼれた涙を慌ててぬぐった。 どうして、こんなことになってしまったんだろう。 もう考えないと決めた人と―― もう会いたくないと思っていた人と―― どうして。 バッグを持って立ち上がる。 入口を出たところで、戻ってくる途中の沙穂に出会った。 「ごめんなさい、父から電話があって、すごく怒ってるみたいだから」 そんな言い訳を早口でまくしたてて、沙穂が何か言う前に走るように通り抜けた。 また私は、真鍋さんに失礼な真似をしたのだろうか。でも、いい。どう思われようと構うものか。こんな辛い思いをするくらいなら―― いっそ、顔も合わせられないほど嫌われたほうが、まだましだ。 真鍋さんに何かを期待していたわけじゃないのに、お見合いの話を聞いてしまっただけで、心が乱れ、やるせなさで一杯になっている。 それだけじゃない。他の誰かに優しくしているあの人を見るだけで―― そうだ、私は、私以外の誰かに、彼が熱っぽく話しかける姿を―― そんな現実を見たくはなかったのだ。 涙を必死にこらえながらエレベーターを降りて、閑散としたロビーに出る。今到着したらしい外国人団体客が、キャリーバッグを持ってぞろぞろ受付のほうに向かっている。 その隙間を縫うようにして、エントランスに辿りつく。 外は真っ暗で、雨はまだ止んでいないようだった。 丁度入ってこようとした外国人男性の隣をすり抜けて外に出た途端――、どん、と誰かにぶつかった。 「す、すみません」 結構な衝撃だったのか、一瞬目の前が滲んで揺れた。弾みで、溜まっていた涙が頬に零れ、果歩は慌てて掌で拭った。 目の前に大きな背中がある。咄嗟に外国の人にぶつかったと思った果歩は、そのまま言葉に詰まっていた。 ひどく滲んだ背中がゆっくり振り返る。目も覚めるような鮮やかなブルー。ああ、お客さんじゃない、このホテルのベルボーイ……。 でもなんで、こんなにぼやけて見えるんだろう。 涙のせい――? 瞬きしても、視界は相変わらず水の底だ。 「あっっ」 ようやく果歩は、気がついた。 コンタクト! 嘘! どっかに飛んじゃってる。し、しかも両方とも?? 「大丈夫ですか」 優しい声がした。というより、相手の声しか果歩には判らない。若い男の声である。 「大変申し訳ございませんでした。……どこか、お怪我でもなさいましたか、お客様」 「えっと、その」 しどろもどろで果歩は答えた。 実は、コンタクトが飛んじゃって―― と言うべきなのかどうか判らない。片方なら、多分なんとかなっていた。でも、両方なくなってしまったら。 か、帰れないじゃん、私。 強度近視の果歩は、裸眼では自分の顔さえ見ることができない。ものすごく度の強い眼鏡は恥ずかしくて持ち歩いてないから……これは、本当に最悪の事態である。 「だ、大丈夫です。あの、失礼しました」 それでも、なんとか体裁を取り繕ってその場を離れようとした時だった。 「―― そのままで」 指先がいきなり近づいてきた。果歩は驚いて息を引いている。 「……睫に……」 低い呟きだけが聞こえた。反射的に目を閉じようとした果歩は、ようやく意味を察して大きく目を見開いた。 綺麗な指先だけが見えた。しっかりとした太さがあるのに、関節と指の形が美しい。 額に、その人の吐息がかかる。こんなに近くに見知らぬ人の顔があることに緊張しながら、果歩は顎をあげ、見えない目を動かさないように開き続けていた。 指先がまつげに触れる。果歩は反射的に目をつむり、その途端、感情を伴わない涙が一筋頬にこぼれた。 胸が詰まるような悲しみはすでに引き、今は感傷どころじゃないのに、涙だけが瞳の奥に残っていたのだろうか。 果歩は急いで瞬きをして、おそらく驚いて手を止めてしまった相手を見上げた。 「…………」 何か聞かれると思ったが、余計な詮索をしないのが客商売の鉄則なのか、その人は何も言わず、再び指先を果歩の方に近づける。 ――あ……、雨の匂い。 ぼんやりと滲む青の制服を見ながら、果歩は思った。 その人の袖から微かな雨の匂いがする。一時、雨でも降っていたのだろうか。―― 「どうぞ。不快な思いをさせてしまったのなら、申し訳ございませんでした」 静かな声と共に、差し出された指の上には、淡いブルーのレンズがきらめいていた。 「もう片方は、右目の上の方にあるみたいですよ」 「あ、ありがとうございます」 言われてみれば、確かに右目がごろごろしている。涙の原因は、きっとそれだ。 それにしても、いくら客商売とはいえ、なんて親切な人だろう。 相手の顔は全く見えないが、優しそうに微笑んでいることだけはわかる。 「サニタリーまで、ご案内しますよ」 その人は言った。 「もしよろしければ、手をお貸ししましょうか」 「い、いいです。かろうじて見えますから。はい」 果歩は慌てて手を振った。その人の顔のあたりを見るが、多分目はあっていない。相手からみると、さぞかしちんぷんかんぷんな方角を見ているように映るだろう。 「本当に、ありがとうございます」 やがて、大きな背について歩きながら果歩は言った。 鮮やかなスカイブルーと、仄かに香る雨の香り。感じられるのはそれだけだ。 「仕事ですから」 穏やかな声が返される。 「それに、僕もぼんやりと突っ立っていた。大変失礼いたしました」 「ベルボーイさんは、エントランスに立っているのがお仕事じゃないんですか」 「ぼんやりしていたのは、事実ですから」 そんな風に自分の非を認めてしまっていいのかしら――そうは思ったが、果歩はますます、目の前ののっほの男性に好感を覚えた。 「助かりました。滑稽に映ったかもしれませんけど、私、本当に視力が弱いんです。正直、1人だったらどうしていいか分かりませんでした」 「コンタクトレンズですか」 その人が、独り言のように呟いた。 「初めて見たけど、とても綺麗なものですね」 「………」 そ、そうだろうか。 目から外したばかりコンタクトって、そんなに綺麗じゃないというか、むしろ不衛生というか――。 それでも果歩は、そこはかとなく暖かな気持ちになって「そうですね」と答えていた。 その人が、適当でもサービストークでもなく、心の底からそんな風に思ってくれたのが分かったからだ。 なんだか面白い人だな。コンタクトが綺麗だなんて。 声は随分若そうだけど、態度はひどく落ち着いている。年は、いくつくらいだろう。背はかなり高いけど、喋り方は少年のようにも見えるし―― 「あの、すぐに入れてきますから」 やがてサニタリーにつくと、果歩は手前で立ち止まってその人を見上げた。 「もどって、きちんとお礼を言わせてください。ちょっとだけ、そこで待っていてくださいね」 返事も確かめずに、果歩は大急ぎでサニタリーに駆け込んだ。 両眼のコンタクトを直し、視界が鮮明になってみると、思いっきりアイメイクが崩れ、悲惨な涙目になっている自分がいる。 うわ……と、思ったが、待ってもらうのも悪いので、さっとハンカチで目元をぬぐって外に出た。 「すみません」 「――的場さん」 その声を聞いただけで、果歩は凍りついていた。いままでの暖かな気持ちが消えて、氷が胸に広がっていくようだった。 もう、声だけでわかっていたとはいえ、果歩にはなんといっていいかわからなかった。 先ほど別れたばかりの人が、ゆっくりと歩み寄ってくる。 なんでだろう。 どうして真鍋さんが、ここにいるの――? 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