真鍋に、ことの経緯を手短に説明した果歩は、再びトイレで化粧を直して、改めて外に出た。 すると、壁に背を預けて立っていた真鍋が顔をあげた。 どうして、待っていてくれたんだろう―― 。 果歩は複雑な気持ちのまま、ぺこり、と頭を下げる。 「ご心配かけてすみません。でも、もう大丈夫ですから」 「コンタクトだったんだ」 真鍋の声は、店内とは別人のように優しかった。 が、その嬉しさよりも、近眼を知られたショックの方が大きくて、なんとも情けない笑いしか出てこない。 目が充血している理由を、コンタクトがずれたからだと誤魔化した。今にして思えば、もっと別の言い訳はいくらでもあったのに。 ――ええ、ものすごく近眼なんです。家じゃ冗談みたいに度の強い眼鏡をかけて、そのせいで高校まで全くもてない子ちゃんだったんです。それが私なんですよ、真鍋さん。 「そんなに度はきつくないんですけど」 それでも、妙なところで見栄を張っている自分がいる。 「仕事中は、遠くまで見えないと……不便なこともありますから」 「そうだね」 まるで、子供を安心させるような眼差しで、真鍋は頷く。 「…………」 なんだかますます気づまりなものを感じ、果歩は歩き出していた。 なんだろう、この理由の判らない彼の豹変ぶりは。さっきまでの冷たさと素っ気なさはどこに消えてしまったのだろう。 それに―― どうして追いかけてきてくれたんだろう。 その真鍋が、果歩の後からついてくる。 「送ろう、家はどこだったかな」 「大丈夫です。バスがまだありますから」 脚を速めながら果歩は答える。 「私のことより、吉永さんはいいんですか」 「叔父が、君の先輩を口説くことを心配しているなら」 真鍋の口調に、店内と同じ冷たさが滲むのが判った。 「そんな心配は無用だよ。あの人の目的は、彼女じゃない」 「そうなんですか」 意味はよく判らなかったが、とりあえず答えた。というより、これ以上真鍋と一緒にいたくない。 エントランスでベルボーイの1人とすれ違う。一瞬、先ほどコンタクトを見つけてくれた人を探そうかとも思ったが、真鍋がまだ背後にいたので、折り畳み傘を広げて、外に出た。 きっと、追い掛けてきた真鍋を連れと誤解して、気をきかせてくれたのだろう。そうか、私はその人の顔を知らない。探そうにも探しようがないんだっけ。―― 「じゃ、ここで失礼します。今夜は本当に―― 」 そっけなく挨拶しようとして、そこで果歩は、ようやくはたと気付いた。 しまった、お会計。当然のように支払もせずに店から出てしまった。 お礼も言わずに―― それは、一社会人として、とても失礼なことではなかったろうか。 「あの……、吉永さんに、よろしくお伝え願えますか」 「叔父に?」 答える真鍋の肩に雨がかかっている。彼はうつむいて眼鏡を外した。 「叔父に……俺が何を言えって?」 「今夜は、……色々と、お世話になりましたから」 その打って変わった冷たい口調に、内心怯えながら果歩は答える。「私、お礼もちゃんと言えなかったし」 「黙って帰るのは、どうやら君の流儀なんだね」 真鍋の声は、皮肉な冷やかさに満ちていた。声と同じくらい冷たい目―― 、色素の薄い琥珀色の瞳。 「しかも、すぐに嘘と判る判りやすい言い訳をする。悪いが、あまり利口なやり方とは言えないよ」 「どういう、意味ですか」 「もし男の気を引くつもりなら、上手くないという意味だ 」 その瞬間、もし傘を持っていなかったら、真鍋の頬を叩いていたかもしれなかった。 「失礼します。……こんな時間に女が出歩くのは、真鍋さんの感覚では、みっともないことなんでしょうから」 気丈に言ったつもりで、声がわずかに震えていた。真鍋は答えない。彼の言葉の続きを言おうともしない。 歯を食いしばるようにして顔をあげた果歩は、そのまま踵を返そうとして―― 視線を凝固させていた。 えっ……? エントランスから、一組のカップルが出てくるところだった。 互いに寄り添うように、楽しそうに顔を見合せながら、タクシー乗り場のほうに歩いて行く。 女のほうが、視線に気づいたのか顔をあげた。この場合―― 何故か果歩が、先に目を逸らしてしまっていた。 が、間違いなく一瞬だけ、2人の視線は空で絡んだ。果歩が相手を認めた以上、宮沢りょうもまた、果歩を認めたに違いなかった。 「篠田さん……?」 タクシーが去った後、茫然と立ちつくす果歩の耳に、小さく呟く真鍋の声が聞こえた。思わず、ぎょっとして顔をあげている。 「ご存じなんですか??」 それまでの葛藤も忘れて、果歩は真鍋に詰め寄っていた。逆に真鍋が驚くのが判る。 「石田純一のこと、ご存じだったんですか!」 「……石田純一?」 ―― あ、違った。石田純一じゃなくて。 「その、……し、篠田補佐のことです」 やや当惑したように、真鍋は小さく頷いた。 「篠田さんなら大学が一緒なんだ。その伝手で一度飲みに行ったことがある。……相手は知らないが、どこかで見たことのある美人だ」 「…………」 「役所の子? 的場さんの、知り合いのようだったね」 「…………」 ああ―― 最悪。 絶対あり得ないと思っていたのに、さっき聞いた話は本当だったんだ。 嘘みたい、悪夢みたいだ。本当に宮沢さんは―― あんな、あんな最低な男と不倫を……。 それでも、妙に堂々としていたのは何故だろう。果歩と目があっても、逸らすことなく顔をあげて、慌てるでも逃げるでもなく、普通に2人でタクシーに乗り込んでいった。 そうだ、とても後ろめたいことをしている人の態度とは思えなかった。―― なにか、理由があるのかもしれない。 「真鍋さん、あの、お願いがあるんですけど」 もじもじしながら、それでも意を決して果歩は言った。 「今見たことを、誰にも言わないで欲しいんです」 特に、あなたの父親には―― とは、心の中で付け加える。 「篠田さんのこと?」真鍋は、すぐに察したようだった。 「ああ、……彼はそういえば、既婚者だったね」 「…………悪い噂がたったら、彼女が、気の毒ですから」 何かの間違いか、別の理由がきっとある。 宮沢さんは―― そんな人とは違うから。 「男は女と違って、こういうことを迂闊に話したりしないよ」 真鍋が、苦笑するのが判った。彼はうつむき、水滴を払った眼鏡を元通りにかけ直した。 そして顔をあげる。―― その真剣な眼差しに、果歩は声をなくしたまま、ただ息を詰めていた。 「それでも君が望む以上、僕には条件をつける権利がある。もう一杯だけ、僕とつきあってくれないか。それから君を家まで送らせてほしい」 ************************* タクシーでわずかに移動して連れて行かれた場所は、クリスタルビルと呼ばれるオフィスビルだった。 こんなオフィスビルに、夜、飲めるような場所なんてあったかしら―― 果歩が訝しむ通り、真鍋が入って行った場所は、いかにも事務所の入り口風で、とても飲食店のようには見えない。 が、一歩中に入ると、そこはまぎれもなくバーだった。 うす暗い店内は、上品なブルーの内装と照明で統一されている。穏やかなジャズ風のメロディ。客席は、麻のカーテンと室内樹で仕切られて、客のプライベートをさりげなく守る気配りが感じられる。 「クリスタルビルは、1階のカフェには何度か行きましたけど」 驚きを隠さずに、果歩は傍らの真鍋を見上げた。「こんな場所があるなんて知らなかったです。すごく素敵ですね」 「広告を一切出していないからね」 すぐに案内された場所は、窓際のスツール席だった。並んで座ると、外の夜景が一望できる。 テーブルは広々としていて、左右はゴールドクレストで仕切られている。果歩のバックを取り、真鍋は脚元に置いてある籐篭に入れてくれた。 「上着を脱ぐ?」 「あ、いいえ……このままで」 表情も仕草も、最初の店とは別人のように優しかった。 「紹介された人だけが入れる、隠れ家みたいなバーなんだ」 席についた真鍋は、ようやく緊張を解いたようにリラックスした口調になった。 「僕も、立場は篠田さんと同じだからね。君と、あまり目立つ場所には入れない」 最後の声は、少しだけ沈んで聞こえた。 「僕みたいな評判の悪い男と一緒だと、君に悪い噂がたつだろう」 「そんなこと……」 ないです。と言ってあげたかったが、それは半ば事実だった。真鍋の評判が悪いとは思わないが、彼と噂になることは―― 色んな意味で、自分にとってマイナスだということは判っている。 「それにしても、不思議だな」 「え?」 顔をあげると、真鍋の横顔が苦笑しているのが判った。 「いや……あれだけ強情だった君と、こうして2人で座っていると思うとね」 「……? どういう意味なんですか」 「わからなければいいよ。最初の店でも、僕はそれなりに緊張していたけどね」 「…………」 緊張……? 意味は判らないまでも、果歩は少しだけ頬が熱くなるのを感じていた。 私もずっと隣に座る真鍋さんを意識して……怖いくらいだった。それは、私がこの人に、多分特別な感情を抱いているから―― もしかして、真鍋さんも? いや、まさか彼が私なんかのことを、そんな風に思うはずがない。 「まさか緊張してたから、冷たかったんですか」 自分の想像を打ち消すように、冗談めかして果歩は訊いた。 「冷たかったかな」笑いながら、真鍋が逆に訊き返してくる。 「とっても。泣きそうでしたもの、私」 「そうか、あとひと押しだったか」 「えーっ、ひどい」 笑いの余韻を互いの唇に残したまま、運ばれてきたグラスをあわせる。顔を傾けて微笑する真鍋は、抗議の言葉を忘れるほど魅力的だった。 「今夜は、本当にありがとう」 囁く声も……武装した心ごと吸い込まれてしまいそうなほど。 いまさらながら、果歩は我に返っている。本当にこれでよかったんだろうか。彼との距離が必要以上に縮まってしまった。でも、いまさら、この距離を広げることなんて出来そうもない。 「今日だけじゃない、……この前は、わざわざ社まで来させてしまって」 グラスに指をあてたまま、囁くように真鍋は続けた。わずかな躊躇いが感じられる口調だった。 「帰りのタクシーの中で気がついてね。いくら急いでいたとは言え、自分の迂闊さに腹がたったよ。あれには細かなスケジュールや企画が色々メモしてあって……見る相手によっては、とんでもない失態に繋がるところだった。判るだろう?」 無言のまま、果歩は頷く。 「正直言えば、社内の人間にさえ、見られたくなかったんだ。だから、僕自身が取りに行くつもりだった。―― 持ってきてくれたのが君で、本当によかったよ」 横顔が、いたずらっぽく果歩を見下ろす。 「君になら、中を見られても構わないからね」 「えっ、あの、私、中は見てないですから」 少し慌てて付け加えると、くすりと、真鍋が笑うのが判った。 「じゃ、少しも興味はなかったのかい?」 「な、ないですよ!」 不自然な否定は、肯定も同然だ。果歩はますます赤くなり、真鍋はますます楽しそうに笑った。 「絶対に見てないです」 「本当に?」 「本当です!」 むきになって声を強める。笑いを堪えるように、真鍋が緩く握った手を唇にあてる。 「ふぅん。挟んでおいたしおりが、定位置からずれていたけどな」 「それは―― 」 しおり―― 。 忘れていた胸の痛みを、ふと果歩は思い出していた。随分年季のはいったしおりだった。おそらく、手造りの―― ラミネートフィルムの中に閉じ込められた四つ葉のクローバー。 頭からつま先まで一部の隙さえ見せない真鍋が持つには、絶対に相応しくない代物だ。 だからこそ、特別な匂いが感じられる。 「どうしたの? 急に黙って」 気づけば真鍋が、不思議そうに見下ろしている。「あ、いいえ」果歩は慌てて首を振り、所在なさを誤魔化すように、目の前のグラスを持ち上げた。 「いただきます」 今度の沈黙は、少しばかり気まずかった。妙なところで言葉に詰まったのは果歩だったし、その言い訳も上手くできなかった。真鍋は―― どう思ったろう。 「見ては……ないんですけど」 「ん?」 ああ、何を言おうとしているんだろう、私。 「しおりを……落としちゃって、……それが、あまり真鍋さんらしくなかったから」 「…………」 「ちょっと……気になってたのかもしれません。ごめんなさい」 真鍋の眼差しが、沈思するように動きを止めた。 果歩もどきりとして、胸の内で激しく後悔している。いったい、何を無駄に大胆になっているんだろう、私は。 「しおり、か……」 グラスを指で撫でながら呟いた真鍋が、いきなり果歩の顔を覗き込むようにして言った。 「今から、君を口説こうか」 「……え……はい?」 言葉の意味を飲み込む前に、横を向いた彼の笑い顔がそれは嘘だと教えてくれた。 「誤解されないように、前振りだ。そんな気はないよ。……あのしおりはね、そうだな、母との思い出なんだ」 「お母様……?」 雄一郎の母親といえば、光彩建設の会長で、経済界に名の知られたトップビジネスマンだ。が、彼女が後妻だということも、当然ながら役所では周知の事実である。 この場合、彼が言う母親が「生み」と「育て」、どちらを差すのか果歩には判らないし、それこそ、立ちいって訊ける質問でもなかった。 スーツの内側に手を差し入れた真鍋が、そっと件の手帳を取り出した。手のひらに載せて開き、中からラミネートフィルムのしおりを取り出す。 「見てごらん」 中に閉じ込められた親指の先ほどの四つ葉のクローバー。 テーブルの上においたそれを、真鍋はそっと指で果歩のほうに押しやった。 「これ、実は四つ葉じゃないんだ」 「えっ」 「よく見てごらん、葉っぱが1枚だけ、二つに割れているだろう」 「…………」 目の前に引き寄せて、まじまじと見つめる。本当だ―― 二枚だけ小さくていびつな形に割れている。 「僕は不器用な子供でね。いつだったかな。色んな家族と連れ立ってピクニックに行ったんだ。そこは川沿いの丘で、一面がシロツメクサで覆われていた。何故だか四つ葉のクローバーが大量に見つかってね。一緒にいた友達は、ひとつふたつ見つけては、自分の母親のところに誇らしげに持って行った」 果歩は黙って聞いていた。彼が不器用なんてありえない。なのに何故か目の前に、一生懸命四つ葉のクローバーを探す子供時代の真鍋の姿が見えてくるようだった。 「やがて、帰る時間がきて、四つ葉のクローバーを見つけられないのは、僕一人になった。母さんが、帰ろうと僕を呼んでいる。焦った僕は、ようやくそれらしいものを見つけて、喜び勇んで走って行った。……が、差し出してがっかりした。葉が重なって見えただけで、それは三つ葉だったんだ」 当時のことを思い出すように、彼の唇が優しくほころんだ。 「なのに、母さんはすごく嬉しそうだった。僕の頭を何度も撫でて、―― それから、葉のひとつを二つに裂いてくれたんだ。僕にとっては母親との唯一の思い出なのかもしれないな」 母と子の、どちらの優しさも、果歩の胸に温かな雨のように浸みていった。 多分、病気で亡くなられたという、市長の前の奥さまのとの思い出なのだろう。 胸が切なくなって、不意に目の前の人に対する愛しさがこみあげてくる。 だから彼は、手帳を誰にも触らせたくなかったのかもしれない。中身ではなく、挟んであったしおりが大切だったから―― 。 が、いきなり表情をがらっと変えると、雄一郎はおかしそうに横顔を砕けさせた。 「―― と、このエピソードほど、女性を口説くのにふさわしいものはない。そうは思わないか?」 「えっ」果歩は、唖然と目の前の人を見上げる。 「……まさかと思うけど、嘘なんですか」 「まぁ、半分くらいはね」ひょい、と男は肩をすくめた。 「考えてもごらん。僕の年で、そこまで過去にセンチメンタルにはなれないよ。昔は大切な思い出でも、何時の頃から、女性と親しくなるための必需品になった。まぁ、半分ばかりは脚色だ。実際、クローバーを裂いたのは母親じゃなくて、傍にいた別の誰かだったんだから」 果歩は、まじまじと真鍋を見た。 「……冗談じゃなくて?」 真鍋は、眉をあげて耳のあたりに手をあてる。 「まぁ、この話全部が冗談といえば冗談だけど……」 「ひどい」果歩は、それこそ本気で憤慨した。 「ちょっと本気にして損したじゃないですか!」 「だから、僕は予防線を張った。何も、この話で君を口説こうとしたわけじゃない」 「そういう問題じゃないですよ」 真鍋は、すでにくっくっと喉を鳴らして笑っている。果歩は憤慨したまま、グラスのカクテルを一口飲んだ。 本当に、なんて人だろう。馬鹿みたいにあっさり信じてしまうところだった。てゆっか、なんだか恐ろしい。この人が本気になったら、私なんて簡単に―― 。 「…………」 もう、好きになっているのかもしれないけど。 「お見合いするって、本当ですか」 自分と彼との境界線を引き直すための質問だった。真鍋が驚いたように振り返るのが判る。その目が本当に意外そうに、しかも果歩をまじまじと見つめたから、果歩はたじろいで視線を泳がせた。 「あの、へんな意味じゃないですよ。役所には真鍋さんのファンが多いから―― さっきの沙穂さんだってそうですし。お見合いするって聞いたら、がっかりするかなーって思って」 沙穂さん、ごめん! 「君は?」 「え?」 顔をあげた果歩を、真鍋は微笑を含んだ目で見下ろした。 「君も、がっかりする?」 ――私……。 「寂しいって意味では、そりゃ、少しは。結婚されたら、今までみたいに役所にも来られなくなるのかなぁとも思いますし」 冷静に答えられたのは奇跡だった。 「別に、結婚するからって、この世から消えてなくなるわけじゃないんだけどね」 真鍋の声は、少しだけ寂しそうに聞こえた。 「するんだろうね。最初は断固断るつもりだったけど、今はするべきだと思っている」 彼の指が、液体が満たされたグラスを撫でた。 「あまり、いい状況じゃないんだ」 「会社が、ですか」 陰った表情から、つい口を挟んでしまっていた。会社のためにお見合いって、なんだかドラマかマンガみたい。が、果歩の想像もまた、そのあたりが限界である。 「海外の事業で、どうやら巨額の損失が出そうでね。……こんな時代だからね。公になれば銀行融資にも影響が出るだろうし、そうなれば一気に会社が傾く可能性だってある」 「そうなんですか」 正直、心臓がドキドキしていた。どうしてこんなことまで、彼は私に打ち明けるんだろう。 「はっきり、そうと聞かされたわけじゃないよ。ただ、そういうバックグランドもあるのかな、と思う。みんな恐ろしいくらい乗り気だからね。僕を除いて」 「……相手の方と結婚すれば、会社は助かるんですか」 それには、真鍋はわずかに考えこむような素振りを見せた。 「どうだろう。俯瞰的に見れば、そうとも言える。……正直、そのあたりの皮算用は、僕の仕事じゃないからね」 果歩は、返すべき言葉に窮して口ごもった。こんな風に、自分のことを他人ごとのように話す男が、少しだけ気の毒だった。 会社のためにお見合いとか、結婚とか、自分には生涯縁のない話である。が、真鍋には現実なのだ―― 。そして彼は、そういった人生を望んでいない。 「あまり、気が進まないんですか」 何か、気のきいたことを言いたかった。が、果歩にはそう訊くのが精いっぱいだった。 「叔父が言ったろう。僕は性質の悪いハンターだって」 真鍋の横顔は、苦笑していた。 「あれは全部本当の話だ。僕は、今まで女性とまともにつきあったことがない。冷めてしまうんだ―― 相手が、自分のものになった瞬間に」 「…………」 「君とこんな風に話をするのも最後だと思うから、正直に打ち明けると、人を好きになっても、いつも同じ結果が待っている。なのに判っていても―― そうならずにはいられない」 真鍋さん……。 一瞬、垣間見せた孤独を振り払うように、真鍋は肩をすくめて微笑した。 「確かに僕は、叔父の言うところのハンターだ。見合いが嫌なわけでも、相手が気に入らないわけでもない。僕には女性と長い間―― 一生か、一緒に暮らすなんて、そもそも耐えられないんだ。子供ができたらと、想像するだけでぞっとする。女よりなお子供が嫌いだ。こんな僕は、よほど最低の人間なんだろうね。ひとつ言えるのは―― 」 ひとつ息を吐いてから、真鍋は続けた。 「僕の妻になる人は、ひどく不幸だということだよ」 グラスの氷が、音を立てて崩れた。 「そうでしょうか」 果歩は、咄嗟に言っていた。 「そうって?」 訝しげに見下ろされる。つい口を挟んでしまった迂闊さに、果歩はいまさらながらうろたえた。でも―― これだけは、伝えてあげなければ、と思っていた。 「あの……生意気言うようでごめんなさい。うちの母が、いつも言っているから……どんなに好き合って結婚しても、2年か3年で愛なんて冷めちゃうものだって。あとは、残りの時間をどう寄り添っていくかが大切なんだって」 果歩の母親は、父親より三つも年上の、もとは霞が関のキャリアウーマンだったという。結婚してしばらくは別居婚、果歩が生まれて仕事を辞めた。今は呑気に専業主婦をしている。 「子供だって、最初はつくる気なんてなかったって。でも、できてしまえば、自然に愛情が湧いてくるものだって。そんなに、悲観的に考えないでください。私は……幸せだと思います。だってパジャマ……」 「パジャマ?」 しまった! 一瞬、頭をよぎった妄想を、果歩は慌てて打ち消した。 「いっ、いえ。きっと幸せですよ。真鍋さんの奥さんになれる人は」 興奮の後の沈黙が気まずかった。 横顔を見せたきり、真鍋は何も言おうとしない。 彼の指の間で、グラスの氷はすっかり溶けてしまっている。所在なさを取り繕うように、果歩は自分の腕時計に視線を落とした。そろそろ―― 本当に帰らないとまずい時間だ。 「帰ります。そろそろ、本当に父が怒りだす時間だから」 「そう」 特段未練らしい素振りも見せず、真鍋は、微笑して、手つかずのグラスを押しやった。 「無理をさせて、悪かったね。どうしてもお礼が言いたかったから」 「いいえ。こちらこそ、ごちそうさまでした」 「…………」 「…………」 彼が何か言いたそうな気がしたし、果歩も、それを待っているような気がした。 それでも次の瞬間、真鍋は席を立ち、果歩のバッグを取ってくれた。 「帰ろうか」 「はい」 2人の距離が、役所でのそれに戻っている。 その刹那感じたものが、寂しさなのか安堵なのか、果歩には判らなかった。 |
>>next >>contents |