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年下の上司 extra3〜 After Christmas

ハッピーエンドの後の夢


「お綺麗ですよ」
 果歩は、鏡に映る自分を見た。
 純白のヴェール越しに、美しい花嫁が微笑んでいる。
 ――私……?
 目の細かなレースで顔が隠れているせいか、ぼんやりとした輪郭しか捕えられない。
 果歩はそっと、レースの覆いを払いのけようとした。
「あ、だめですよ」
「だめなんですか」
「ええ。花嫁の顔を最初に見るのは、花婿と決まっていますから」
 それは判るけど――「自分でも、ですか」
「ええ、ご自分でもです」
「…………」
 結婚式なんて初めてだけど、そういうもの?
「さ、急いで。花婿がお待ちかねです」
 付添い人に急かされて、果歩は慌てて立ち上がった。
 まずいなぁ、少し目が乾いている。
 夕べ寝不足だったから。いや、寝すぎだったかしら。
「あの、目薬……」
「だめです」
 びしっと遮られ、仕方なく歩き出す。
 西洋風のアンティークな扉が開かれる。眩しさに目を閉じた途端、わっと歓声に包まれた。
「おめでとう、的場さん」
「お幸せに!」
「いやぁ、職場とは別人のようですねぇ」
「その程度かって気もするけどな」
「果歩さん、ほんま綺麗ですわ」
 都市計画局総務課の人たち――。
 志摩課長、大河内主査、水原君に南原さん。宇佐美君。
「ああ……ついに、果歩ちゃんが嫁になぁ」
 那賀局長……。
「的場さん、幸せになってくださいね」
 乃々子――。
「いつ離婚してもいいですから」
 …………流奈。
 にしても、ついにこの日がやってきたのね。
 みんなに祝福されて、彼の元に嫁ぐ日が。
「的場さん!」
「的場君!」
「幸せにな!」
「幸せになってくださいね!」
 あ……うん、それは判っているんだけど。どうしてぐいぐい寄ってくる?
 これってまるで、芸能記者と芸能人の構図だぞ?
 お願いだから、少し先に――進ませてくれないかしら。
 だって、背中が見えている。
 人の輪の向こう側で、彼の背中が私を待ってくれている。
 ……あれ? 藤堂さんってあんなにすっきりした後ろ姿だったっけ。もう少し肩幅があってもよさそうなのに。
 それに――なんだろう。彼が被っているへんてこりんなブルーの帽子。あれじゃ花婿さんじゃなくて、まるで――。
「的場君!」
 大きな声が、果歩の前に立ちふさがった。
 中津川補佐。
 なんだろう。何か臭うぞ? およそ結婚式にはまるで不釣り合いなこの臭い……。
 軽やかな音楽が流れ出す。ウェディングマーチと思いきや、サンタが街にやってくる?
「結婚おめでとう。これはわしからのプレゼントだ!」
 満面に笑みを浮かべた中津川が、ぐい、と果歩の顔面に巨大な魚を押しつけた。
「きゃ――ーっっっ」
 
 *************************

「的場さん?」
「……、……、……」
 果歩は肩で息をしながら、ぱちぱちと瞬きをした。
 ―― 夢……?
 ぼんやりと薄暗い視界、覗き込んでいる人の顔――藤堂さんの顔。
 次の瞬間、果歩の頭に、ここに至る全ての現実が猛烈な勢いで流れ込んできた。
 今日がいつで、ここがどこで、今、何故私は藤堂さんと2人きりなのか。
 時間にすれば、おそらく1秒にも満たない刹那に、巨大な渦のようになだれこんできたのである。
 微かに聞こえるクリスマス・ソング。
 爽やかとは言い難い潮の香り。
 周囲を照らす煌々とした灯り。
 そして――そして。
「すっ、すみません、私」
 果歩はがばっと跳ね起き、次いでぱっと顔を背け、ごしごしと目の下をこすった。
 マスカラとアイラインを引いたまま寝たらどうなるか。
 その顔は――決して光の下で、恋する人に見せられるようなものではない。
 今、間違いなく目の下には、どす黒いクマができているはずだった。
「大分、楽になったみたいですね」
「は、はい。本当にもう――ご迷惑おかけしちゃって」
 12月24日、クリスマス・イブ。
 恐怖の釣り船からようやく降りることが許された果歩は、極度の緊張と度を超えた船酔いのために、立つこともできなくなっていた。
 そこへ藤堂が戻ってきて、少女漫画のヒロインみたいに抱えあげられてハッピーエンド。
 それが果歩の、今年のクリスマス最大の思い出になるはずだった。
 が、当然のことながら、現実は漫画とは違う。漫画はページが終わったらそれまでだが、現実には、世界はそこで終わらない。
 港のターミナル駅まで運ばれた果歩は、地に足を着けた途端、強烈な嘔吐感に見舞われた。
 後のことは……もう思い出したくもない。
 港の責任者まで出てきて、すわ救急車か、という騒ぎにまでなったが、結局は守衛室を解放してもらって、そこで休ませてもらうことになった。
 そういった手続きというか、交渉の全ては藤堂がしてくれた。
 果歩は、へろへろになったまま、ターミナルのベンチでへたりこんでいただけである。
 そして――どれだけの時が経ったのか。
「皆さん、もうお帰りになったんですか」
 顔を背けたまま、果歩は訊いた。
「ええ、先に帰ってもらうように言いましたから」
「すみません。あの――もう大丈夫ですから。……あの、藤堂さんも、……こんなに遅くまで……お疲れなのに」
 ひたすら目をこすり続ける果歩に、何か危険なオーラを感じたのか、藤堂はすぐに立ち上がった。
「じゃあ、僕はしばらく外に出ていますよ」
「すみません」
「的場さんの荷物はそこにありますので、支度が終わったら声をかけてください」
 扉が閉まり、果歩はようやく安堵の息を吐いていた。
 出て行ってくれって見え見えだったかしら……。でも、化粧を直して表に出たいと言う女心、決して間違っていないわよね?
 だいたい藤堂さんは、いつから傍にいてくれたんだろう。
 無防備な顔で寝ている姿を見られたなんて、きゃーっと叫んで穴に入り込みたい気分である。
 果歩は、目から手を離して顔を上げた。きらきらっとしたものが目の前で弾けた気がした。それもほんの一瞬、かすめる程度に感じた感覚である。
「……?」
 不思議な違和感にきょとんとした果歩は、次の瞬間蒼白になっていた。
 見えない――。
 飛んだ。
 コンタクトが飛んじゃったんだ!
 し、しまった――っっ。
 身体は、条件反射で彫像みたいに固まっている。動いてはいけない。ここで動いたら最悪である。見つかるものが見つからなくなるばかりか、万一踏み潰してしまったら――。
 果歩は、そろそろと両手で顔を触ってみた。次いで、首。
 しかし、そうしている間にも、もし袖か襟のあたりに付着していたら――? という不安が、自然と動きをぎこちなくさせる。
 両方飛んだ。
 かつて、これほど悲惨な遭難事故があっただろうか? 片方ならなんとかなる。しかし、両方なくなったとあっては。
「的場さん」
 外から扉がノックされた。
「すみません、駅の人が――」
「藤堂さん!」
 果歩は咄嗟に叫んでいた。
 もうこうなったら、猫の手でも――藤堂の手でも構わない。
 強度近視の果歩は、大袈裟でなくコンタクトを失っては生きていけない。眼鏡なんて、そもそも人前で掛けるつもりがないから、持ち歩いてさえいない果歩である。
 この場合、恥も外聞も考える余裕はなかった。
 
 *************************

「ど、どうですか……」
「うん、……床には多分、なさそうですね」
 数分後、果歩は最初の姿勢のまま人形みたいに固まっていた。
 わずかに離れた場所では、膝をついた藤堂が、畳敷きの床に、じっと視線を這わせている。
 果歩は申し訳なさで泣きたくなった。
「本当にごめんなさい……。この恩を、どうやって返したらいいのか」
「いいですよ。大袈裟な……」
 藤堂は、特に気にした風もなく顔をあげた。顔――しかし彼の顔が、今どんな表情を浮かべているか、果歩にはさっぱり判らないのだ。
「じゃあ、少し近くに寄りますが」
「は、はい」
 レスキュー藤堂の捜索は、実に合理的かつスピーディーなものだった。
 果歩から事情を聞き取るや否や、彼は即座に一歩も動くなと果歩に命じ、さらに遭難者(コンタクト)の形状、どういった状態で、何が原因で目から飛んだのか、詳しい事情を聴取した。
 その上で、彼の優れて優秀な頭脳はコンタクトが飛んだ予想地点を弾きだし(多分)、その地点を中心に、丁寧に床をチェックしていったのである。
 固まる果歩の傍に、藤堂が膝を進めた。
 彼に見落としがないと仮定するならば、ブツは間違いなく果歩の衣服に付着しているはずである。
「ハードレンズは、そんなに取れやすいんですか」
「そうでも……。両方無くなったのは、今回が初めてです」
 半分泣きたい気持ちで、果歩は答えた。
 藤堂の身体が、手を伸ばせば触れるほど近くにある。
 果歩は畳の上に横座りになっており、藤堂がその前で片膝をついている。
 なのに――なのに、これだけ近くにいる人の顔が、果歩にはさっぱり見えないのである。
 いったい今、彼はどんな顔をして、私のどこを見ているのだろうか?
 それが全く判らないから、羞恥する以前に、まず藤堂の表情を確認したいばかりの果歩なのだった。
「……的場さん」
 藤堂の声がした。
 彼の視線は、多分果歩の腹部の辺りに向けられている。
「は、はい」
 やばっ、ウエストが先月より増えたこと指摘されるんじゃ――。
「すみません、……そんなに僕を見ないでもらえますか」
「はい……? えっ」
「別に、悪いことをしているつもりじゃないんですが、そんなに見られると、ちょっと」
 藤堂の声が初めて戸惑っているので、果歩は耳まで赤くなって顔を背けていた。
「………」
「………」
 ……、なに、なんなの、この空気。
 おそらく互いの姿勢といい、息が掠めるほど近づいた顔といい、これ以上ない程いいムードになっているのだけは間違いない。――ただし、傍目にはである。
 なにしろ藤堂は大真面目だし、果歩は果歩で切羽詰まっている。
 互いにそんな風には……が――彼は確かに耳のあたりを赤らめ、果歩も果歩で、藤堂の熱が伝染したように真っ赤になっていた。
「すみません、ちょっと……」
 彼が、溜まりかねたように顔を上げる。
 そして、横を向いて一度深呼吸した。
 その行為に、一体何の意味があるのだろうか?
 想像しただけで、みるみる全身が熱を帯び出すのを感じる。
 やっかいなことに、互いのこうした感情は、まるで映し鏡のように伝染する。
 今、果歩がどんな思いで身を強張らせているか藤堂は当然知っているし、果歩もまた、彼がどんな気持ちで自分を見ているのか判るような気がした。
 藤堂が、わずかに身を乗り出してくる。
 果歩は慄きながら、その分だけ背を逸らした。
 彼の髪の匂いがした。
 上向いた顔、翳った目、ほんの少しでも身体を傾ければ、2人の身体はそのまま崩れてしまいそうだ。
 ―― 藤堂さん……。
 果歩は目を閉じていた。
 もう……コンタクトなんかどうでもいいから……このまま……。
「的場さん……」
 彼の掠れた声がした。
 ドキン、と果歩の心臓はその刹那限界まで跳ね上がっている。
 はい、分かってます。もういいんです、もう――私たち……。
「絶対に、動かないでください」
「………?」
 思いのほか、真剣な声だった。
 目を開くと、彼の指が目の前に迫っている。
「動かないで」
「は、はい」
 果歩は慌てて目を閉じた。
 ――え……?
 睫に、彼の指が触れて、そっと離れた。
「…………」
 なに……この感じ。
「ありましたよ、睫にくっついていました」
 この感じ……この感じ、どこかで……。
 さっき見た夢、藤堂さんの背中、雨の匂い――。
「……的場さん?」
「えっ、いえ、はい」
 果歩は、混乱しながら顔をあげた。
 ――あれ、変だぞ。私、
 今、いったい、なんの幻を見ていたんだろう。
 でも……これって本当にただの夢で、ただの幻?
「あの、藤堂さ」
「ちょっと」
 藤堂が、果歩を素早く遮った。
「今、もう一つも見つけました。袖」
 ―― 袖?
 固まったままの果歩の袖の内側から、藤堂は、そっと青色の欠片を摘まみ上げた。
「一度、目の形にあっているかどうか、検査されたらいいと思いますよ」
「あ……」
 果歩はしばし呆然として、それから我に返ったように頭を下げた。
 すごい、奇跡だ。1枚見つかっただけであり得ないと思っていたのに。
「本当にありがとうございます! すごい藤堂さん。失くし物探しの天才ですよ、あなたは!」
「いや……あまり、嬉しくないですけどね」
 立ち上がった藤堂の表情は、やはり果歩には判らなかった。
「じゃあ、今度こそ外で待っています。ゆっくり支度されていいですよ」
「あ、はい……」
 果歩もまた、なんとも言えない不思議な感情をもてあましたまま、彼の背を見送った。
 なんだったんだろう、今の。
 今、すごく大切なことを思い出したような気がしたのに。
 すごくすごく大切で――なのに、記憶にも残っていないことを。
 
 *************************
 
「藤堂さん……」
 外に出ると、彼の姿はどこにもなかった。
 荷物を持ったまま、待合室の方に行ってみると、大きな背中が、海に面した出入り口に立っている。
 果歩は急いで、その方に駆け寄った。
「ごめんなさい。お待たせして」
「いえ」
 明瞭になった視界に、普段と変わらない控え目な笑顔があった。
 職場とは違うラフなスタイル。風で無造作に流れた髪。
 一瞬、まじまじと藤堂の顔を見つめた果歩は、いましがた感じた不思議な既視感が、跡形もなく消えて行くのを感じた。
「なんですか?」
「あ、いえ……」
 誤魔化すように、果歩は急いで視線を下げた。
「駅の人に、お礼をしなくていいでしょうか」
「それなら、僕が済ませてきました。あちらの方もお忙しいようなので――今度、改めてお礼を持って行きましょう」
「はい」
 素直に頷いて、ようやく果歩に、遅れて嬉しさがこみ上げてきた。
 背後の待合室から、クリスマスソングが聞こえてくる。
「藤堂さん」
 歩きながら果歩は訊いた。
「今日は何の日か、知っていますか」
「……そうですね。明日は議会の最終日で」
「もうっ、知ってて言ってるでしょ、絶対」
 藤堂の横顔がわずかに笑んだ
「どこかで、食事でもして帰りますか」
「はい!」
 あとわずかで、今年も終わる。
 来年は……来年も、こうして2人でいられますように。
 果歩は祈るように思い、藤堂の温かな手を握り締めた。




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