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年下の上司 story12〜Janusry@

年末年始 役所は暦通りです(1)


「的場さん、お疲れ様」
 乃々子の声で、果歩は足を止めている。
 12月28日。5時過ぎのエレベーターホールには、「お疲れ様です」「よいお年を」という声が溢れかえっている。
 今日から役所は正月休暇に入り、1月の三が日、そして続く土日と8連休に入る。暦どおりしか休めない公務員にとって、1月の最初の土日がどこにくるかというのは、極めて重大な意味を持つのだ。
「今帰りですか? よかったら下まで―― 」
 と言いかけた乃々子が、はっと口を手で押さえた。
「す、すみません、私ったら、気がきかないというかなんというか」
「はい?」
 その時、果歩の背後を大きな影が通り過ぎた。
「じゃ、お先に失礼します」
 今日は仕事納め式に出席していたため、きっちりと正装した上にコートを羽織っている藤堂である。
「あ、藤堂さん、あの……今年はお世話になりました」
 もじもじと可愛らしく言ったのは、果歩ではなく乃々子だった。
「こちらこそ、大変お世話になりました」
 藤堂は足を止め、丁寧に一礼する。
「藤堂さん、年末はどうされるんですか」
「実家に帰ります。ずっと無精をしていたので」
「どちらでしたっけ」
「東京ですよ」
 ああ―― と頷いた乃々子が、ようやく果歩の不機嫌に気づいたように、こわごわと視線を彷徨わせた。
「よ、よいお年を」
「百瀬さんも」
 にこっと笑って、藤堂は背を向けた。エレベーターではなく、階段で下まで降りるらしい。
「藤堂さん、8日間も東京ですか」
 乃々子がおそるおそる聞いてきたので、果歩は思い出したくもないのに答えていた。
「そうなんですって!」
「も、もしかして、ケンカでもされたんですか」
「なんで!」
「いや、だって、藤堂さんも妙によそよそしい感じがしたから」
「…………」
 しましたよ。思いっきり……。
 多分、初めてってくらいのケンカらしいケンカで、あの温厚な彼をついに怒らせてしまったほどの……。
「乃々子、今夜暇?」
「いや、私はいつも暇ですけど」
 妙にやさぐれた言い方だった。
「……? 飲みにいかない? りょうの仕事が片付くまで、どっかで時間つぶさないといけないんだけど」
 りょぅと2人で忘年会をしようと約束したものの、「ごめん、10時すぎまで帰れそうもないんだけど」と、夕方りょうから電話が入った。
 しかし、最後の日まで残業とは……さすがは人事部。
「そりゃ、いいですけど」
 乃々子は面食らったようだったが、ふと何かに思い至ったように、俄然乗り気で頷いてきた。
「いいですね、ご一緒します!」
「悪いわね、穴埋めみたいで」
「いいんです。私も誰かに、色々話を聞いて欲しかったし」
「……話?」
 なんだろう、何か悩み事でもあるのかな。恋の悩みだったら、ちょっと勘弁してほしいとこだけど―― 。
「それ、私も参加していいですか」
 背後から、暗く沈んだ声がした。ぎょっとして果歩は振り返っている。
 あの釣り事件以来―― すっかり影が薄くなった須藤流奈である。
「ど、どうしたの? 言っとくけど女の子だけの飲みで、須藤さんが参加しても楽しくもなんとも」
「どうせ、暇だしー……」
 妙に精彩のない目で、流奈はへらっと笑った。
「それとも、私がいたらお邪魔ですかね?」
 そりゃ、どっちかといえば、邪魔なんじゃないかしら。
 と思ったのは事実である。何しろこれまでの関係が関係だし―― 乃々子だって当然警戒するだろう。
 果歩は、そういったリアクションを求めて乃々子を見たが、何故か乃々子は、同情濡れる目で、うんうん、と頷いた。
「判るわよ、須藤さんの気持ち」
「本当ですか?」
「行きましょう、一緒に!」
 ええ―― っと、果歩1人が思っている。
 な、なんだろう、この展開。もしかして私1人がつるし上げられたりしないよね?
 一応、果歩の認識によると、2人が熱をあげているのは藤堂のはずである。
 そう言えば、その藤堂さんと自分の、今思い出しても恥ずかしいラブシーン? を見られたのは、ほんの4日前のことだ。
 乃々子の態度は変わらないが、流奈はあの日以来妙に落ち込んでがっくりしている。
「やっぱり、頼りになるのは女子ですよね」
「須藤さん、今夜は飲もう!」
 あの、だったら2人で行ってくれば……。
 喉まで出かけた言葉を発することもできず、果歩は渋々2人の後をついていった。

 *************************

「で、なんで藤堂さんとケンカしたんですか、今さら」
 10時少し前。結局3人揃ってりょうの行きつけの店まで来てしまった。
「Dark clow」
 その名のとおり、闇鴉みたいな美貌のマスターが、1人きりで経営しているショットバーである。
(え? 百瀬さんと須藤さんが一緒なの? へぇ、じゃ、ついでだから2人とも連れて来たら?)
 9時前にりょうに電話したら、驚くほどあっさりとそう言われた。果歩には、2度目のえええーっである。
 せっかくりょうと、2人きりで大人の飲みがしたかったのに……(果歩は、自身が酒乱で、そもそも大人の飲みの相手にならないという自覚がない)。
 そんなこんなで、約束の店に着いて最初に乃々子が発したのがその質問だった。
「えーっ、ケンカしたんですか?」
 すでに半分酔っ払っている流奈が口を挟んでくる。
「そうなのよぉ、今さらよねぇ、あんなラブラブぶりを見せつけておいて」
 乃々子も、相当のものだった。
 前の店で、2人はまるで競うようにジョッキを空けあい、果歩はただ呆気にとられて見ているだけという有様だった。
 多少の責任を感じたので、支払いも全部果歩が済ませた。この年の背に、とんでもない出費である。
「それがね。まぁ、藤堂さんも藤堂さんだと思うけど、彼、8日間も東京に帰るっていうんですよ」
「ああ、カグヤ姫のとこに」
「そうそう、それで的場さん、カンカンなんです」
 そんなこと、いつ乃々子に話したのよ!
 繰り広げられる暴露話に果歩は蒼白になっていたが、しかし、大筋は乃々子の言うとおりだった。
 そんなに悪いことだろうか。
 8日間のお休みの、たった1日だけ一緒にいたいだけなのに―― 。
「駄目なんですよ」
 電話で、藤堂の返事は即座だった。
「すみません、年末年始は家の行事がたてこんでいて、1日もこちらには戻れないんです」
「なんですか、行事って」
 つい、むっとして聞いていた。それは、ちょっとあり得ないと思ったのだ。
 そりゃ、年末年始だから、親戚回りとか色々あるだろう。でも29日から5日までまるまる用事なんて、なんだか妙に言い訳くさい。
「うん……まぁ」
 案の定藤堂は言葉を濁しただけだった。
 そこでやめておけばよかった―― と、電話を切った後で後悔したが、その時は、むろん頭は回らない。
「なんか、おかしくないですか。藤堂さん、家を出たとかそんなこと言われていたのに」
「……それは、関係ないですよ」
「関係ないって、何がどう関係して、何と何が関係ないのか、私にはさっぱりなんですけど」
 そんなクレームのような押し問答が続いた後、藤堂が、少し苛立った声で反論してきた。
「そもそも的場さんが、僕の家の事情を聴きたくないといったんじゃないですか」
「なんですか、それ、全部私のせいだって言うんですか」
 大人しい男の思わぬ切り返しに、たちまち果歩は逆ギレする。
「いや……そういう意味では」
「じゃ、話してくださいよ。今話せばいいじゃないですか」
「それは……電話では話せませんよ」
 防戦一方の藤堂に、なぜか、ますます苛立ちがかきたてられる果歩である。
 ほんっとにもう、優柔不断というか、押しがないというか、本音を隠しすぎているというか。
「じゃあ、いつならいいんですか。ずっと会えないって言ってるの藤堂さんなのに」
「ずっとではないですよ。仕事始めには」
「お休みの間って意味です!」
 ああいえばこういう的な反論になっていると知りつつ、果歩の口撃は止まらなかった。
「だいたい、8日間も、いったい何の用なんですか」
 沈黙……。
 なんなの、いったい。秘密にされると、ますます勘繰りたくなるじゃない。
「……申し訳ないと思っています。もし、早く帰れるようなら」
「もういいです」
 果歩は遮っていた。まるで子供をあしらうような彼の口調に、本気でカチンときてしまったのだ。
「どうせ、東京で、香夜さんと会うんでしょ?」
 その一言が―― 後で思えば禁止ワードだったのかもしれない。
「………あのですね」
 しばらくの沈黙の後、藤堂がため息まじりに呟いた。
「お願いですから、少しは僕を信じてください」
「………だって」
 それでも、しつこく果歩は「だって」を繰り返している。だって、何を信じろというんだろう。確かな約束や繋がりをくれないのは、藤堂さんのほうなのに。
 それが、―― 多分彼を完全に呆れさせてしまったのだろう。
「また、来年、僕から電話しますよ」少し疲れた声だった。
「じゃあ、よいお年を」
 まるで、今年はもうあなたとは話しませんよ、と突き放された感じだった。
 それが、昨夜のことである。
「そりゃ、的場さんが悪いですよー」
「てか、4歳も年下の男に対して、よくもそう子供みたいな我儘が言えますね?」
「ほんっと、男あしらいが下手なんだから……」
 最後はりょうが呟いている。
 えっ、りょう、いつの間に混じってたの? てか私、何時の間に心の声を暴露してた?
「マスター、もう果歩にお酒は出さないで。とんでもなく口が軽くなってるから」
「はい」
 微笑したマスターが頷く。
「宮沢さんは、何かこう、むかつくとか腹が立つとかないんですか」
 何故か流奈が、いきなりりょうに絡み始めた。
「何に対して?」
 切り返すりょうの目が、不思議と挑発的に見えるのは気のせいだろうか。
「色々あるじゃないですかぁ。的場さんと同じ年で、男ナシってのはあり得ないでしょ」
「あり得ないわね」
 余裕しゃくしゃくでりょうはグラスを唇につける。
「なんだか、自信マンマンですね」
「そう見える?」
「見えますよ―、自分の男が高校生と出来てるなんて、想像もしてないって顔してますよ」
「へぇ……」
 りょうの眉が、初めてあがった。「……高校生」
「なんの話?」
「さぁ……」
 果歩と乃々子は、2人で顔を見合わせている。
 りょうに、今、彼氏はいないはずだけど―― そもそも、美人薄命ならぬ薄幸のりょうには、今までまともな彼がいた試しがない。
 妻子持ちを追いかけていたり、決して振り向いてくれないバツ一男に何年も片思いをしていたりと、結構気の毒な恋愛経験しかないのである。まぁ、果歩が言える立場ではないが。
 が、傍目には恋愛経験豊富の百戦錬磨に見えるのが、りょうの凄いところである。
「ふぅん」
 不意に目元に笑いを滲ませたりょうが、マスターに向きなおった。
「マスター、この間話してた香水、まだ残ってる?」
「ありますよ」
「この子たちにあげてもいい? なんだか全員、恋に悩んでるみたいだから」
 ――なに……? 香水?
 訝しむ果歩を振り返り、りょうは不思議な目になって笑った。「媚薬よ」
「えっ」
「えっ」
 同時に声をあげたのは流奈と乃々子である。
「マスターがインドで買ってきた恋の媚薬。これを、こうしてちょっと塗るとね」
 りょうは指で、果歩の耳のあたりを撫でる真似をした。
「ふらふらーっと近づいてきたお目当ての彼が、たちまち欲望の虜になるの。どう? 試しに使ってみない?」
 ごくっ……。
 と、全員が生唾を飲んだ。
 が、真っ先に我に返ったのは、この場合、極めて立場がまずくなる果歩である。
「ちょっ、ちょっと、りょう」
 果歩は、りょうを引っ張って、サニタリーまで連れて行った。
「なに、まずいこと言ってんのよ。私の足をひっぱる気? 2人が誰を好きだか、忘れたわけじゃないでしょうね」
「ああ、……藤堂君?」
 今さら気づいたように、りょうがこりこりと眉のあたりを掻く。
「そういや、そうだったわね」
「ただでさえ誘惑に弱いのに、あんな薬つかわれたらイチコロじゃない、そうなったらどうしてくれるのよ!」
 もう半分、涙目になっている果歩である。
「まぁまぁ、百瀬さんはともかく……須藤さんは、どうかな」
「え?」
「ふふ……誘惑に弱いなら、それまでのことじゃない。そんな浮気男、さっさと切っちゃえばいいのよ」
 意味深に笑って、りょうは果歩の肩を軽く叩いた。

 *************************

 ――なんだか、とんでもないものをゲットしてしまった……。
 机の上に置かれた指の先ほどの小瓶を見つめ、果歩は先夜のりょうの言葉を思い出している。
(ふらふらーっと近づいてきたお目当ての彼が、たちまち欲望の虜になるの。どう? 試しに使ってみない?)
 あれだけ誘惑に弱い藤堂さんが、この薬に反応しないわけがない。
 結局、流奈も乃々子も、同じ小瓶を分けてもらい、それぞれとんでもなく無口になって、その場は散会になったのだった。
 これはもう、早い者勝ちの世界ではないだろうか。
 誰が一番早く、この媚薬をつけて彼と2人きりになるかで、勝負は決まる。
 しかし、こうなってみれば、心からよかったとしか言いようがない。藤堂さんが東京で。
 流奈なんて、いつでも襲撃に行くだろうし、意外に一途な乃々子だって何をしでかすか判ったもんじゃない。
 確かに、月の住人は強敵だが―― 。
(お願いですから、少しは僕を信じてください)
「…………」
 信じるって、言ってあげたらよかったな。
 頭ではちゃんと判っているのに―― 意地っ張りで馬鹿な私。
 彼に対して苛立つのはいつものことなんだけど、その感情が長続きしないのもいつものことだ。
 だいたい数時間で頭をいっぱいにしていた熱気は冷めて、翌日には後悔だけが押し寄せる。
 どうしてこう、上手く立ち回れないんだろう。
 彼は私の恋人でもなんでもなくて、―― どころか、私のことをどの程度好きかも定かじゃないのに。
 恋にケージがあるのなら、私は常に100なんだけど、彼の目盛はせいぜい60……もうちょっといってると信じたいけど、まぁ、よく見積もってそのくらいなのに。
 なのに、どうして、彼の前だと得意のネコが被れないんだろう。まるで子供みたいに、我儘で、聞きわけのない女丸出しになっている。みっともない感情をむき出しにして……。
 年があけて、謝ったら、彼は許してくれるかな。
 年末年始はしっかりダイエットして、来年はもっともっと魅力的な私になって―― 。
「…………」
 ふと果歩の心に、邪悪なものがむくむくと湧いてくる。
 いや、その時にこの香水を使ってみれば……?
「お姉、そろそろ行くよ」
 カラッと襖が開いて、妹の美怜が顔を出した。
「準備できてる ? 何、それ香水?」
「なんでもない、出来てるわよ」
 慌てて邪念ごと小瓶をバックに投げ込んで、果歩は荷物を持って立ち上がった。




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