「じゃあ瑛士さん、週末はうちに帰ってくるのね」 携帯から響く母の声に、藤堂瑛士は信号に目をやりながら頷いた。 「以前の会社より休みが取りやすいと聞いています」 「公務員でしょ?」 電話の声に、微かな笑いが含まれる。 「亡くなったお父様が、一番なりたくないと言っていた職業よ。あなた、どこまでもお父様と反対の道を行くのね」 歩行者信号が、青になったことを示すメロディを奏で出す。 藤堂は、視線を路上の広葉樹に向けたままで歩き出した。 4月――花曇りの空を遮るように、15階建てのチャコールグレイの建物が、広葉樹の向こう側にそびえている。 人口百万を抱える政令指定都市、灰谷市。 その行政棟である市役所本庁舎。 今日から藤堂が勤務する建物である。 「また電話します。では」 母の意図的な皮肉をいつものように聞き流すと、藤堂は通話を切った携帯を上着のポケットに滑らせた。 桜が咲き乱れる庁舎前の小道には、その奥にあるガラス張りの玄関に吸い込まれるように、春のコートを羽織った男女が慣れた足取りで歩いている。中には、いかにも新入社員らしい緊張しきった顔も混じっている。 「配属先、どこか聞いた?」 「ここじゃなくて区役所なんだって。入庁式の後、9時頃に区役所の人が車で迎えに来てくれるみたい」 通り過ぎざま、黒スーツ姿の女性2人の会話を聞きながら、ああ、そういえば今日は入庁式があったんだな、とふと思った。 4月1日。今日灰谷市役所に入庁する新人職員は、約300人。その内この建物で勤務するのは50人に満たないと聞いている。残る250人は、灰谷市の8区にある区役所や施設、学校や保育園などに配属される。 新人職員は、まず本庁舎2階講堂で入庁式を済ませてから、各配属場所に移動するのだ。 ――わざわざ遠方から車で迎えに来させるのか。なんとも効率的が悪いな。 正面玄関をくぐり、エレベーターホールに向かいながら、藤堂は軽く眉を寄せた。 近隣市町村と合併を繰り返しながら人口百万都市にまでなった灰谷市は、面積でいえば東京都の4倍はある。遠方の区ともなると往復1時間以上かかるだろう。 エレベーターに乗り込んだ藤堂は、8時半から入庁式の行われる2階ではなく、14階のボタンを押した。 (――君は入庁式に出る必要はない。その代わり、朝の8時半までに14階の第一会議室に来るように) まだ8時前という早い時間のせいか、人が埋まりきらないエレベーターの扉が閉まる。1、2、3……と上昇していくデジタル数字を見ながら、藤堂は昨夜電話のあった、春日という男の陰気な声を思い出していた。 ************************* 「座りたまえ」 ただっ広い会議室の中央の長机に、その男はぽつんと座っていた。 てっきり自分の方が早いだろうと思っていた藤堂は、多少面食らいながらもその前に歩み寄り、一礼してから席についた。 入庁試験を受けたのも、確かこの部屋だった。 1次試験の筆記と小論文、2次試験の面接。どういう仕組みなのか受験者は藤堂1人で、名乗りもしなかった面接官は、白髪強面の初老の男だった。 目の前に座る春日という男は、どこかその時の男に印象が似ている。 風体というよりは醸し出す雰囲気と佇まいが。 「都市計画局次長の春日だ。君のラインの決裁者に当たる。そして君を本採用するか否かの、最終判断者でもある」 一瞬面食らったが、その意味はすぐに分かった。 市の職員は、最初の一カ月は仮採用という立場である。 一カ月後に、配属先の所属長が本採用か否かを決定するのだ。 そのことは最初から知っていたが、その段階で不採用になることはほぼないという話だった。 たとえば犯罪を犯すとか、重大な事故を起こすかでもしない限り、不採用になることはないと。 「君の履歴を見た。立派なものだ」 手元の書類に視線を移すと、言葉とは裏腹に、ひどく冷めた口調で春日は続けた。 「これほどの資格の持ち主は、さすがに役所にはいないだろう。試験結果は筆記が満点。小論文が――75か。どうやら君の答案は、藤家局長のお気に召さなかったようだな」 「藤家局長?」 「知らないのか? 君の面接官を務めた人だよ」 どこか皮肉な声で言って、春日は書類を裏返した。 この場合、春日の皮肉の矛先が自分なのか藤家という男なのかは分からない。 が、あまりいい雰囲気で迎えられたわけではないことだけは察しがついた。 「ここ数年、人事課が特別採用枠なるものを設けて、社会人経験者を雇用していたことは知っておる。――ただし噂程度にな。表向きは社会人経験者の採用。しかしその実態は、人事、法律、監査――様々な分野のプロ中のプロの採用だ」 窺うような目が、ちらりと藤堂に向けられるが、すぐに逸らされる。 「私の知る限り過去4年で3名が任用された。最初の2年が制度の試験導入、正式導入は昨年からだ。つまり、君がその特別枠の4人目だよ」 「僕もまたテストケースだと聞いています」 「ふむ、誰に?」 「前職の上司です。その方が僕を市側に推薦したという話でした」 それは本当の話だが、最初にテストケースのことを藤堂に話してくれたのはその人ではない。――が、その人物の名前をこの街で口にしてはいけないことも知っている。 (――俺は、親父に嫌われて灰谷市を追い出された人間だからね。役所ではなるべく俺の名前を出さない方がいい。今となっては、俺のことを覚えている人の方が少ないだろうが) 今から半年前、突然藤堂の元を訪ねてきた人の穏やかな語り口が蘇る。 (――このプロジェクトは、俺が灰谷市にいた頃、お世話になっていた何人かが立案し、進めているものだ。俺にその頃の恩を返せるとしたら、瑛士のような優秀な人間を紹介するくらいしかない。俺の顔を立てて、採用試験を受けてみてくれないか) 「その時、任用期間は1年だとも聞きました」 「採用通知にもあるように、双方に異議がなければ1年間自動更新される仕組みだ。過去この枠で採用した3名は、いずれも役所に在籍しておるよ」 「差し支えなければ」 「名前は言えん。そもそもこの枠自体未だ庁内ではアンタッチャプルだ。何しろ市長の反対を押し切って進められたプロジェクトだからな。その最終年が今年度だ。つまり、君が最後の任用者になる可能性が極めて高いというわけだよ」 今の言葉で推測できるのは、現時点で灰谷市長に、このプロジェクトを継続稼働させる気はさらさらないということだ。 つまり今年度が終了すれば、民間からプロを採用するという人事制度は廃止される。 「一部事情を知る幹部の間では、この制度はこう揶揄されている。庁内の反藤家派を一掃するために、藤家局長が始めたスパイごっこだろうと」 「…………」 「だから、藤家さんのお膝元である総務局以外では、この制度で任用された職員は概ね冷遇されているのが実情だ。君もその例に漏れずそうなるだろう。君の扱いはあくまで一般職員で、うちの課においては一係長にすぎない。むろん、華々しい経歴も極秘扱いだ。それが、この採用枠の存続が市長に許されている条件でもあるからな」 それは採用条件にも書かれていたことだから、最初から承知している。 が、同時にひどく不思議に思ったのも事実だった。 だったら一体なんのために、様々な道のプロを役所に招聘しているのかと。 「……つまり、一般採用と同じ条件下で、何ができるか見定めているというわけですか」 「もっとはっきり言えば、制度の完全なる骨抜きだ。市長にしてみれば、牙と毒をもがれた蛇に何ができるか、やれるものならやってみろというスタンスだろう」 「そのような制度を何故4年も継続しているのですか」 素朴な疑問が口をついた形だったが、何故か春日はひどく訝しそうな――ただし掠めるほど一瞬ではあったが――眼差しになる。 「私は知らんよ。そもそもこれは総務局のマターだ。藤家さんが1人で決めて1人で市長と交渉して決めた。私は必要最低限のことしか知らされていない。むしろ君の方が、その辺りの事情に詳しいのではないのかね」 春日の警戒心の理由がようやく分かったような気がしたが、藤堂はそれには反論せずに話題を変えることにした。 そもそも自分が推薦された経緯からして――そこに、現市長の息子が絡んでいることに違和感を覚えていたのは事実である。なんとすれば、来年は市長選があるからだ。 そこに、市長の息子である真鍋雄一郎がどのような形で絡んでいるのか、長年海外にいた藤堂には想像すらできない。 「僕は、どのような仕事をすれば?」 「総務の――簡単に言えば庶務係長だ」 「庶務?」 「君には全く縁のない仕事だったろうが、ようは局内の調整役だ。人事、予算、決算、議会対応はもちろん、局内でもめ事があれば、それが職員のプライベートに関わることであろうと、君がその解決の助力をすることになる。いわば局のなんでも屋だよ」 込み上げた動揺を、藤堂は咳払いという形で発露した。 それは――さすがに想定外だ。 「僕の職務上の経験は――お聞きになっていなければ申し上げますが、統計学と確率論を基礎とした分野だけです。前職でも、統計に基づく経営アドバイザーという立場でした」 「役所というのは、藤堂君」 手元の書類を無為に手繰りながら、ひどく事務的に春日は続けた。 「民間とは違い、ひとつの部署に長くいて3年から5年が望ましい。いや、そうでなければならんのだ。その理由が分かるかね」 「許認可権の私物化を防止するためですか」 「その通りだ。役所の権力というのは、民間の君が想像している以上に大きいものだ。その上、やっかいなことにガードも堅い。つまり意図的に悪事をなすことも可能なら、それを隠蔽するのも簡単だということだよ。――隠すための様々な条例、要綱を定めればいい。それら殆どは職員の権限で立案が可能で、ものによっては議会の承認すら必要ないんだ」 仮に承認が必要だったとしても――冷めた口調で、春日は続けた。 「票集めにしか興味のない地方議員がそのからくりを暴くのはほぼ不可能だ。つまり、いったん権力を得た者がその座に長く居座ると、不正を内部で質すのは不可能になる。質せるのは、その権力の傘の外にいる第三者だけだ」 頷きながら、目の前の男はその傘のどちら側にいるのだろうかと、ふと考えてしまっていた。 つまり質したい側か、質したくない側か。 今日、この場で聞いた話を藤堂なりに推測すると、少なくとも市長は質されたくない側だ。 だから民間採用枠の効能のひとつを排除した。権力の傘外からの干渉と是正である。 「分かりました。つまり前提として、今の市役所にプロフェッショナルは必要ないということなんですね」 「今の話をどう解釈するも自由だが、少なくとも、市長はそうお考えだ」 自分がこれから直面する仕事への不安はさておいて、藤堂は初めて春日という男に人間的な興味を覚えた。 明らかに権力の傘の外に立つ自分に、今のような話をしたのは何故だろう。 しかもこの男がよほどのおしゃべりか軽率な性格でなければ、今の話には、重大な隠喩が含まれている。 長期政権が続く真鍋市長がその座についてから、今年でもう12年だ。 「さて、前置きはそのくらいにして、君の仕事について話を戻そう。前職の上司の上申にも、君は極めて分析能力に長けていると書かれてあった。私としては、その能力を利用しない手はないと思っている」 「……先ほどの話と矛盾していますね」 「言ったはずだ。これは元々総務局のマターだと。それを都市計画局で引き受けることになった以上、私の好きに使わせてもらう。むろん、今話していることは部外秘だ」 藤堂の質問を乱暴な理屈で切り捨てると、春日は初めて書類を置いて藤堂を見上げた。 「今日から君が在籍する都市計画局は、様々な問題を抱えている。今から言うのもそのひとつと思ってくれたまえ。――うちの局は極端に異動者が少なく、また男女比率が歪なせいか、業務の妨げとなる悪しき習慣が多々残っている。また、私が強権を持って命じたところで、それを簡単にどうにかできる状況でもない」 「……それで」 「まず、君に分析してもらおうか。上司の命令を持ってしても、状況が改善できない原因はなんだと思う?」 「原因といわれても……、こちらからいくつか質問させていただいてもよろしいですか」 「却下だ。では、それが君の答えだな」 「…………」 一体これは、なんための質問だ? ――そうは思ったが、10秒考えて藤堂は口を開いた。 「それは、制度の問題ではなく、人の心の問題だからではないですか」 「ん?」 「あなたに制度を変える権限があるなら、という前提の上での答えになりますが。――それがあるにも関わらず現状を変えられないなら、あなたの力の及ばない部分にその原因があるとしか考えられない。だとすれば、それは人の心です」 「ふむ……」 初めて春日という男の目が、まじまじと自分に向けられるのを感じながら、あるいはこれもまたテストかもしれないと藤堂はようやく気づいていた。 今の回答のひとつひとつが、すでに最終テストの評価の対象になっているのだ。 「そうか」 鷹揚に頷き、手元の書類をブリーケースに収めると、春日は初めて目元にわずかな苦笑を浮かべた。 「……なるほど、確かに私は人の心を動かすことが苦手だ。他人の気持ちなど、そもそも頓着したことがないからな」 「断っておきますが、僕はあなたの人柄を一切知りません」 「君のその、歯に衣着せぬ物言いは、これから局内で少なくない衝突を招くと警告しておこう。――が、それを恐れることはない。むしろ私は、そうなることを期待してもいるんだ」 藤堂がその意味を問い質す前に、春日はブリーフケースを持って立ち上がった。 「藤堂君。君の経歴は人事から聞いている。いわば経営のスペシャリストの君が内部監査的な役割を担ってこの局に配属されたことは承知しているつもりだ。私は助力も邪魔もしないから、その辺りは好きにやりたまえ」 そんな話は聞いたこともないと言いたかったが、反論しても無駄なようなので、沈黙を守ることにした。 それに正直言えば、この枠に自分を押し込んだ真鍋雄一郎の真意が、藤堂にはいまひとつ分からない。 「むろん、君はまだ仮採用という立場だ」 春日は続けた。 「――まずはこの一カ月で、君の実力を見せてもらおうか。君が私の期待に答えられる人間かどうか、この目で確かめさせてもらうよ」 自分が放った刃が、この男の胸をえぐったことは自覚していたが、その刃はそれ以上の鋭さで藤堂の胸に突き刺さった。 藤堂は、これまで一度も管理職という立場で仕事をしたことがない。 海外で勤務していた時も個室を与えられていたし、前職の都英建設では、実質役員待遇だった。 それが――局のなんでも屋か。 「君もすぐに分かるだろうが、役所の管理職には、部下を思い通りに動かすだけの権限は与えられていない。たとえ部下がどれだけ物わかりの悪い阿呆でも、公務員はよほどの理由がなければ免職させることができないのだ。決して少なくないケースだが、部下が昇進への願望を一切持っていない場合、その人物を思いのまま動かすのは、ほぼ困難だと思いたまえ」 返事に窮する藤堂に追い打ちをかけるように、春日は続けた。 「むろん君には他の管理職にはないアドバンテージがある。君自身はさも意外そうな顔をしたが、仮に君が藤家さんに上申すれば、君の要望――部下の人事面や待遇面については、少なからず考慮されるだろう。逆をいえば、市長の意に背く君のような火だねを引き受けた以上、私自身がその程度の働きを期待しているということだ」 「……分かりました」 「ま、何もかも君が正式採用された後の話だがな」 聞きたいことは山ほどあったが、それをのみこんで藤堂も席を立った。 自信は全くなかったし、思った以上に面倒なことになったというのが本音だった。 が、その面倒なことを一身に背負っているらしい目の前の男に、ふと手を貸したいような不思議な気持ちになったのだ。 この男は誰かに似ている、誰に――面接官だった藤家という男に? いや、そうではない。同じように大きなものを1人で背負って、それでもひょうひょうと生きている――今となっては藤堂の唯一の血縁者である男にだ。 ************************* 「……なんだって、俺の方が振り回されてんだよ」 そんなぼやきとともに、男の背中が壁の中から出てくる。――と思ったのは錯覚で、途切れた壁の向こうにあるのは多目的トイレだった。 背後の藤堂に気づかないのか、長身の男は急いでネクタイを締め直し、乱れた髪を片手で直しながら非常階段のある方角に消えていった。 役所というのは、こんなわかりにくい場所にトイレを設けるものなんだなと、どこか不思議な気持ちで立ち尽くしていると、自動ドアが稼働する音がして、同じトイレの中から女性が出てきた。 その意味に藤堂が気づく前に、女性はちらりと藤堂を見上げ、こんな場所で何してるのと言わんばかりの不審げな目を向けてくる。 ひどく小柄な――190近くある藤堂にしてみれば、意図して視線を下げなければ視界に入らないほど小さな女性だ。目頭が深く切れた猫みたいな目、肩までの真っ直ぐな髪はキラキラと明るく、風に踊るようにふわふわした桜色のフレアスカートは膝の上までしかない。 その顔が記憶に焼き付く前に、藤堂は何気なく視線を逸らして、先ほどの男が去って行った非常階段に向けて歩き出した。ここは14階で、今から向かう都市計画局はひとつ下の13階である。 ――妙なところに出くわしてしまったな。向こうが何も気づいていなければいいが。 早朝の人気のないフロアで、多目的トイレから時間差で男女が出てきた理由は考えるまでもない。この本庁舎で働く人の数は約1000人。再び会う確率は限りなく低いだろうが……。 ――役所の人間関係というのは、思った以上に面倒なのかもしれないな。 そんなことを思いながら、藤堂はこれから一年間仕事をするフロアに降りていった。 |
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