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年下の上司 exera4 Gravity

藤堂瑛士の4月・前編(2)



「ああ、あなたが新任の係長ですか。どうもどうも、お世話になります。私は庶務係の大河内といいます」
 時刻は8時10分。
 思った以上にがらんとしているフロアの一番東側に、都市計画局総務課はあった。
 カウンターの前に立つと、すぐに飛び出して来てくれたのが、頭頂部のやや薄くなった人の良さそうな男だった。
 年のころは、40くらいだろうか。雰囲気はとても温厚そうだ。
「話は聞いていましたが、お若いですねぇ。いえ、悪い意味ではないですよ。ただ役所では、あまりこういったケースはないもので、はい」
 にこにこ笑ってはいるが、なんとなく言葉が上っ面を滑っているような違和感がある。
 男の額の汗を見て、緊張しているんだな、とようやく分かった。
 二宮家時代も、都英建設時代も、よくやられた反応だ。しかし今は? 春日次長の話では、一係長の僕に部下を怯えさせるまでの権限はないはずだ。
「ええと、席は……、ああ、いやいや、先に局長に挨拶に行きましょうか。あ、それは僕がやっちゃいけないか。ええと、的場さんはどこに行ったんだろう」
「マトバさん?」
「うちの庶務の女性です。人事給与の手続きなんかは全部彼女がやってます。元市長秘書で、そりゃ綺麗な人ですよ。ああ――それは余計でしたね」
 元市長秘書という響きに、過去の思い出が掠めるように脳裏をよぎる。でもその人の名前はマトバではなかったはずだ。
「そういえば係長、入庁式はいいんですか? 確か8時半からじゃなかったですっけ」
「ああ、それは」
 藤堂が口を開きかけた時、そう聞いた大河内の目が助かったといわんばかりのものなった。
「的場さん! こちら新任の係長さん。藤堂さんです」
「えっ、もう来られたんですか?」
 ――!
 胸の底にある何かが、音もなく収縮する。
 この声に、聞き覚えがあると思うのは気のせいだろうか? 何度も思い出しては記憶に深く刻み込んだ、あの人の声だと思うのは。
 一度こくりと唾をのんでから、藤堂は振り返った。
 その人は、手にした給湯ポットを急いでカウンターに置いているところだった。
 袖までまくった白いブラウスに、爽やかな水色のスカート。胸の辺りまである髪は右肩で緩く束ねている。
 数度瞬きした目が大きく開いて藤堂を見つめた時、胸に落ちた雨の滴と共に自分の中の時が止まったような気がした。
(ベルボーイさんは、エントランスに立っているのがお仕事じゃないんですか)
 8年前よりやや細面に見える顔が、親しみを込めた――けれど儀礼的な笑みを浮かべている。
 彼女はその表情を顔に貼り付けたまま、お手本のように綺麗なお辞儀をした。
「はじめまして、庶務係の的場と申します。これから1年、よろしくお願いします」
 一瞬激しく波立った気持ちは、彼女のその反応で凪いだように静まった。
 人の何倍も記憶力のいい藤堂にとってはよくある話だ。こちらが覚えていても、相手は全く記憶していない。いや、覚えられていると思う方がどうかしている。なにしろもう8年も前の話なのだ。
 現実の彼女は、記憶の中の女性より少しだけ小柄に見えた。
 身長は多分160と少しくらい。スカートに包まれた腰はほっそりとして膝下が長い。
 首まわりを覆う髪色の程よい黒さが、彼女の肌の白さを余計に引き立てている。
 虹彩の大きな黒い瞳は、白すぎる肌と混じり合ったかのようにどこか霞ががっていて、それが彼女の――ともすれば気の強そうに見える整った顔だちをふんわりと優しく見せていた。
 ただ、その優しさとは裏腹に、完璧な来客向けの笑顔で微笑んでいる彼女からは、びんと張った糸のように張り詰めたものが伝わってくる。
 綺麗に伸びた背筋や、怯むことなく相手を真っ直ぐに見つめる目は、まるでよく教育された受付嬢を見ているようだ。
「藤堂です。――的場さん?」
「? ええ、はい、的場果歩です」
 不思議そうに瞬きして、すぐに元通りに微笑むその人を見つめすぎる危険を感じ、藤堂は逃げるように視線を伏せた。
 トバマホだと長年思い込んでいたが、それは記憶違いか聞き間違いだったようだ。
 あの時、雄一郎さんに確認するべきだったな――と思ったが、仮に確認していたとしても、結末が今と変わっていたわけではない。
 藤堂の記憶の中にしかいない女性の名前が、トバから的場になるだけの話だ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 藤堂は居住まいを正し、果歩以上の慇懃さで一礼した。

 
*************************


「あ、すんません、その資料は元々係長が作ることになってんですよ」
 しょっぱなから軽いパンチをくらった気持ちで、藤堂は「はぁ」と手にした書類を引っ込めた。
「前の係長からの引き継ぎ、机の上になかったっすか? それ読んだら分かると思うんで」
 その書類に、担当「南原」と書かれていたのだが、そう説明したところで、パソコン画面から目も離さない男が動くことはなさそうだ。
 南原亮輔。31歳。最初の挨拶の時、わざとらしく携帯をいじっていた男である。
 その南原の対面席の大河内が、一瞬物言いだけな目になったが、それはすぐになんでもないように自身のデスクに向けられる。
 南原の向こう側に座る的場果歩も、一瞬だけ顔を上げたが、その視線もすぐにデスクに伏せられた。
 2人の顔に掠めた感情はいずれも同じだ。――面倒なことに関わりたくない。
 4月5日。南原含めたこの3人が、ここ数日相当なオーバーワークだったことは時間外勤務表で分かっている。
 藤堂にしても、ここで無駄な論争をするつもりはないし、はっきり言えば自分が作った方がはるかに早い。――ミスを直さなくていいという意味では。
 繁忙期の忙しさは前職で経験済みだったが、役所の4月というのは、藤堂の想定以上の忙しさのようだった。
 全員が疲れ切った顔をしているし、回ってくる書類にもミスが多い。
 ――前任の係長は退職か。……言っては悪いが、あまり仕事ができるとは言えない人のようだな。
 雑すぎる引き継ぎ書類に愕然としたのは初日のことだ。
 その行間を必死に埋めている間に、あっと言う間に午後5時になった。決裁箱には決裁文書が山盛りで、その隣に的場果歩が、例の、隙のない笑顔で立っていた。
(今日中に回さなければならない決裁があるんです。よろしければ内容を説明しますので、印だけいただいてもよろしいでしょうか)
 その1日で、彼女のみならず課全員に、仕事の効率が悪い人の烙印を押されてしまったようだ。
 が、一度印を押した者の責任を知っているだけに、藤堂はそれでも、自分が納得できるまで印を押そうとしなかった。
 むろん提出期限は確認しての上だし、不必要に早く設定してある期限物は、適正な期限内を基準にしている。
 とはいえ、それは課の誰にも伝わっていないようで、今も山と積まれた決裁箱を見て、南原が忌々しげに舌打ちをした。
 その南原が、自席でパソコン画面をのぞきこんで眉をしかめる。
「的場さん、もしかして3月末の決算見込み、数字いじった?」
「え? いえ、私は何もしてないですけど」
「本当かよ。だったらいいけど勝手なことしないでくれよな」
 殺伐とした会話に藤堂は息をのんだが、果歩の返事にはなお驚かされた。
「気をつけます」
 慣れきっているのか表情ひとつ変えていない。それどころか、なんでもないように微笑んでいる。
 数字を変えたのは藤堂だった。昨夜、財務システムの数字と照合したところ、明らかに不適切な数字が入力されていたからだ。
「南原さん、それは僕が変えたんです」
「はっ?」
「すみません、数字の一部が間違っていたようでしたので」
「この忙しい時に、何勝手なことしてくれてんだよ」
 ばんっと南原は机を叩いた。
 部下に怒鳴られたということにまず驚き、藤堂は言葉を失って瞬きをする。
 南原の剣幕に驚いたのか、一瞬課内が静まりかえる。さすがに気まずかったのか、南原は眉をしかめて咳払いをした。
「あー、あのですね、何と照合したのか知らないですけどね。この時期の決算見込みは――あー、決算見込みって分かります? 昨年度の予算の収支を、財政課に報告する資料なんですけどね」
「はい」
 説明されるまでもなかったが、藤堂は物わかりのいい生徒のように頷いた。
「システム上は、いくらか金が余ってるかもしれませんが、それはこれから支出――支払いをする金なんですよ。支払いは5月いっぱいまでできるんで、今、全部が全部余るわけじゃないんです。民間の人には分かんないかもしれないですが」 
 随分と大雑把な説明だが、地方自治法で定められている単年度会計主義のことをいっているのだろう――多分。
 単年度会計主義とは、年度内の予算は必ず年度内で執行するという原則だ。
 しかし3月末日まで履行期間のある契約については、その支払いは5月――行政用語で出納閉鎖と呼ばれる時期まで延ばされる。
 南原が言いたいのは、システム上まだ予算が残っているように見えても、それは使う予定がある。だから未処理分として財政に報告するな――ということなのだろう。
「市の予算のことが分かんないなら、勝手なことしないでくださいよ。こんな数字を財政に提出したら、執行算として全部吸い上げられるじゃないっすか」
「分かりました、すみません」
 昨夜藤堂が修正したのは、南原が執行算0円として報告していた箇所である。
 システム上、そこには百万以上の残金が残されており、執行伺いさえ起こされていない。伺いさえ起こしてあれば南原の言うように5月末まで支払い可能なのだが、それすらできない案件なのである。 
 が、そのことを今説明しても、大声で説明してくれた男に恥をかかせるだけだと思い直した。
 ここで議論を長引かせるより、今は効率よく仕事を片付ける方が先だ。
「気をつけます」
 はからずも果歩と同じ口調で言い、藤堂は新しい決裁文書を取り上げた。


*************************


「えー、嘘、それ本当なんですか」
「局長の愛人って……。気持ちわる。いくらえらい人でも、もうお祖父ちゃんじゃないですか」 
 くすくす笑いながら、執務室と通路を隔てる観音扉から入ってくる女性3人。
 藤堂は足を止め、3人が通りやすいように脇に避けた。
 真ん中の女性が、猫みたいな目でちらりと藤堂を見上げてから、表情を変えずにそれを逸らす。
 これも巡り合わせだろうが、入庁初日に14階で鉢合わせになった女性である。
 都市政策部の須藤流奈。どうやらこの局ではアイドルのような存在らしい。
(うちの局じゃ一番の人気じゃないですかねぇ。若いし、可愛らしいし。アイドルグループのなんとかって子と似てるって、去年あの子が来たときには、そこそこ話題になりましたよ)
 とは、初日に大河内がこっそり教えてくれたことである。
 その須藤流奈の左右にいるのは、都市政策部で雇用している2人の臨時職員だ。
 この局の女性正規職員は3人。的場果歩と須藤流奈。そして住宅計画課の百瀬乃々子。
 その他の女性は全員臨時職員――つまりアルバイトらしい。
 藤堂が配属された総務課にも1人臨時職員がついているが、その女性はまだ一度も出勤していない。
 お子さんが小さいんですと果歩が説明してくれたが、いくらでも替えのきくアルバイトならば、せめてこの時期休まなくともいい人を雇えばいいのにと思ったのも事実だった。
 そのアルバイト――流奈の隣にいた1人が、藤堂の隣を通り過ぎ様「あ、やば」と囁くような声で言った。
「聞こえたかしら」
「大丈夫でしょ」
 その不穏な会話の意味は、数歩進んでから理解した。
 先ほど藤堂が通り過ぎた給湯室――今、彼女たちが通り過ぎたばかりのそこでは、果歩が1人で局長のミルクを温めていたのだ。
 局長――都市計画局のトップ、那賀康弘。
 果歩が局長のお気に入りで、那賀が局次長の頃から足かけ8年、この総務課で局長秘書を務めていたこともまた、大河内が教えてくれたことである。
 その那賀局長の要求に応じて、果歩がミルクを温めて出す――という習慣についても、大河内は教えてくれた。
(まぁ、時代も時代ですから、そこまでするのかという声もありまして……、むろん的場さんも、そういった批判は織り込み済みでやってるんでしょうが)
 いずれにしても、先ほどの会話は、果歩に対する陰口とみて間違いない。
 大丈夫でしょ、と軽く答えたのは流奈だったが、あの距離で、藤堂にまで聞こえた会話が、中の果歩に聞こえていないはずがない。
「…………」
 少し迷ってから、藤堂はきびすを返して、給湯室の方に向きを変えた。
 窺うように中をのぞき込んでから、馬鹿なまねをしたことに気がついた。
 彼女とは、まだ一度も業務外で話したことがない。そもそも用事もないのに女性と気軽に会話できるほど、自分は器用な性格でもない。
「私が係長にお願いしたんです。もしミスがあったら係長の方で直してもらって構いませんって」
 いきなり中から聞こえてきた声に、藤堂は驚いてその場で足を止めた。
 すぐに顔をひっこめたが、中にいたのは間違いなく果歩1人だ。
 なんだ? 独り言か? それとも僕に話しかけたのか?
 さすがにどぎまぎしていると、中から再び声がする。
「あー、私って馬鹿。すぐにそう言ってあげればよかったのに」
 そしてため息。
「……心配だなぁ。身体は大きいけど気の弱そうな人だったし」
 ――僕のことか。
 ようやく謎の独り言の意味を察した藤堂は、目が覚めるような気分で瞬きをした。
 先ほど、南原に大声で叱られた時のことだ。
 彼女はすぐに目を逸らしたが、――その時の藤堂には厄介事をやりすごそうとしたように見えたが――心の中では新任係長をどうフォローしようかあれこれ考えてくれていたのだ。
「あっ、やだ、どうしよ、熱くしすぎちゃった」
 立ち尽くす藤堂の耳に、慌てたような声と、勢いよく水を流す音が聞こえてくる。
 藤堂は顔を伏せ、込み上げてきた微笑を飲み込んだ。
 ひどく落ち着いているように見えるのに、案外慌て者なんだな。
 ずっと別の人を見ているような気分だったが、やっぱりこの人は7年前のあの人だ。
 儚げなのに凜として、綺麗なのに可愛くて、話し方はどこかチャーミングで愛嬌があって。
 コンタクトを探そうと涙の底に沈んだ彼女の瞳をのぞきこんだとき、その奥深いところにある優しい何かに、心のどこかをそっと掴まれたような錯覚を覚えた。
 その時の――胸が収縮するような不思議な感覚は、今でも昨日のことのように思い出せる。
(ちょっとだけ、そこで待っていてくださいね)
 はにかんだように笑って手を振った人は、今はもう記憶の中にしか存在しない。
 いや、最初からどこにもいなかったのかもしれない。しょせん藤堂は、的場果歩という人間の、ほんの一部の――そしてごく一瞬の感情を知っているに過ぎないのだ。
 それでもどこか温かな気持ちのまま、藤堂は彼女に気づかれないように給湯室から遠ざかった。

 




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