「知りませんでした。本当に瑛士とそっくりなんですね」 仏壇の前で手を合わせた人は、穏やかな口調でそう言った。 「似ているのは顔だけではないのよ」 藤堂佳江は苦く微笑んで、こちらに向き直ったその人の方に、お茶受けに乗せた湯飲みを進める。 「出会った頃のあの人と性格もそっくり。融通のきかないところや空気の読めないところとか」 「瑛士の場合、読み過ぎているんです」 微かに笑って、綺麗な指が湯飲みを取り上げる。 「読み込み速度が速すぎて、僕らの想定外の答えを出す。だから普通の人間からみると空気が読めないということになるんでしょう」 佳江は黙って、耳障りのいい声で話し続ける人を見た。 真鍋雄一郎。 3月最後の休日の午後、突然訪ねてくれた人は、初対面にも関わらずどこか懐かしい匂いがした。 血はつながっていないが、この男もまた二宮家と縁続きの人なのだ。 というより、息子とこの男との関わりについていえば、二宮家を切り離して考えることはできない。 7年前、二宮家を飛び出した瑛士を運命のように救ってくれたのは雄一郎だが、以来雄一郎の背後には、常に姻戚であり叔父でもある二宮喜彦の影がある。 この7年、瑛士がずっと邂逅を避けている人だ。 「……突拍子のないことを言うように見えて、長い目でみれば、瑛士の予測どおりになる。他人に思考回路が理解されにくい分、生きにくいのではないかと心配になります」 優しい声で続ける雄一郎を、佳江は少しいたずらっぽい目で見つめた。 「でも人の感情は機械ではないのよ。雄一郎さん」 「と、言うと?」 「息子を褒めてくださるのは嬉しいけど、人間関係においては、あの子の予測は大抵外れます」 練り切りの和菓子を取り上げた佳江は、切り分けた欠片を口に含んだ。 雄一郎は苦笑し、手にした湯飲みに唇をつける。その綺麗な鼻筋と憂いを帯びた瞳を見ながらふと思った。 息子が唯一心を許しているこの男の顔が、息子が壊れる原因となった男と瓜二つなのは、どういう運命の皮肉だろう。 佳江に分かるのは、雄一郎が息子の『贖罪』の証ということだけだ。 だから、雄一郎の言うことなら、瑛士はなんでも聞くだろう。 それで去年も帰国したし、未だ日本に留まっている。 その雄一郎が居住まいを正し、正面から佳江に向き直った。 「実は今日は、東京に寄ったついでにお詫びに伺おうと思ってお邪魔しました」 「お詫び?」 「瑛士は明日から、灰谷市役所で勤務します。入庁に当たってはお母様から随分反対されたと、本人から聞きましたので」 「……またあの子が、東京を離れてしまうのが嫌だったのよ」 佳江は窓から見える花曇りの空を見上げて、ため息をついた。 「ようやく日本に戻ってきたのはいいけれど、二宮の行事にも一切顔も出さず、逃げ回ってばかり。それでも東京にいれば、いずれ過去と向きあうことができると思っていたのだけど……」 結局、帰国してから、瑛士は一度も二宮家に顔を出さなかった。 ただそれも、息子の性質上無理もないのかもしれない。 あの子は、忘れられないのだ。 他人には遠い過去でも、瑛士には昨日の出来事のように鮮明だ。 心に負った傷も同じくらい生々しく、あの子はそれを上手に隠して生きているに過ぎない。 「役所の件は、僕が無理に頼んだことで、瑛士はあまり乗り気ではありませんでした」 少しだけ考え込むような目になって、雄一郎は再び口を開いた。 「役所には雑多な人がいて、その平均値の中でそれなりの仕事をすればさほど苦労することはありません。年功序列で、むしろ高すぎる能力は邪魔になる。周囲の同調圧力で潰されます。――瑛士はこれまで、そういった環境で仕事をしたことがありませんでした」 「……そうね。運のいいことに、あの子の特殊な能力が発揮できる職場でお世話になっていたようね」 「1年です。そういった現場を経験するのも、瑛士の将来に必要なのかもしれないと思いました。――いずれ瑛士が二宮の家に戻るなら」 「…………」 「二宮の家を統括するには、何より人間力が、そして政治力が必要になります。僕にあの家の全部が分かっているわけではありませんが、伯父さんを見ていれば嫌でもそう思いますから」 今の瑛士にないものばかりね。 そう呟きかけた言葉をのみ込み、佳江は立ち上がって仏壇の扉を閉めた。 「この部屋に私以外の人を入れたのは、実は雄一郎さんが初めてなのよ」 「……、そうなんですか?」 頷いて、佳江は元の場所に座り直した。 「瑛士は絶対にこの部屋には入らないの。ごく自然に、あたかも空気みたいに素通りするだけ。そうやって見たくないものから目を逸らすことで、あの子は今も自分の世界を必死で守っているんでしょうね」 「…………」 「それが壊れないことには、あの子は二宮の家に戻れないわ。戻ったとしても、同じ結末になるだけよ」 雄一郎は何か言いかけたようだが、眉を微かにしかめて口を閉ざした。 「瑛士の気持ちは、僕にも少しだけ分かります」 「……そうね。ご実家を出たあなたにする話ではなかったわね」 「そうではなく――いや」 苦笑して首を横に振り、雄一郎はもう一度湯飲みに唇をつけた。 飛行機の轟音が夕暮れの空に響き、再び静けさが戻ってくる。 「瑛士も僕と同じで、ようやく作り上げた今の自分を壊されるのが怖いのかもしれません。その気持ちは、なんとなくですが分かります」 「あら、あなたのような完璧な人にも、怖いものが?」 「ありますよ」 薄い唇に微かな苦笑が刻まれる。 「会えば僕の世界が壊れてしまうほど、怖い人がいます。だから僕は、最初からそんな人などいなかったように振る舞っているんです」 微笑もうとした佳江は、口角を上げたままで固まった。 今と同じような言葉を、随分昔に聞いたことがある。 そう――私にも、胸の奥底に閉じ込めていた思い出がある。 思い出すと、自分が壊れてしまいそうになるから。 「……昔、ある人が教えてくれたことだけど」 それでも微笑んで、佳江は続けた。 「物質と物質の間には全て引力が働いているのだそうよ。たとえばこんな湯飲みとお皿にも」 佳江が手にとった湯飲みを見て、雄一郎が訝しく瞬きをする。 「星と星が近づきすぎてどちらかの引力圏内に入ると、お互いに離れられなくなるでしょう? もちろんこれだけ小さな物質に生じる引力はごくわずかだから、目に見える三次元の世界では何の変化もみられないけど」 「……、三次元、ですか」 (――引力がどうしてあるか? それはこの世の誰にも分からないことなんだ。分かっているのは、この宇宙に引力という力があるということだけなんだよ) (――そんな不確かな世界に、僕らは今生きているんだ。君は何もかも分かったようなことを言うが、この世に確かなものなんて何一つ存在しない) 「人と人にも、引力があるんだそうよ」 佳江はいたずらっぽく言って、湯飲みを元通りに置き直した。 「だから他人の引力圏に近づくと、見えない力が作用して、お互いに変化が起きてしまうんですって。あまり近づきすぎると、最後はその人から離れられなくなるのかしら。地球と月のように」 「物理は苦手でしたが、今の話で思い出しましたよ」 雄一郎が優しげに微笑んだ。 「確か、月の地球に対する引力圏半径は、6万6千キロくらいだったかな。子供の頃の話ですが、ずっと、月が地球の周りを周回しているのが不思議だったんです」 「月は地球の引力から逃げられないの。だから永遠に地球の周りを回り続けるしかないのよ」 「そう、逃げるには脱出速度が必要だ。ロケットが地球の大気圏を抜けるほどのエネルギーが」 二人は目を見合わせ、声を出さずに笑った。 「あなたが、あの瑛士のお母様だということを、迂闊にも今まで忘れていました」 「やめて。私は高卒だし、勉強なんててんでできない人だったから。今のはただの受け売りよ」 もうこの世のどこにもいない、私の人生に、驚くほど多くの宝物をくれた人の。 「瑛士は、きっとあなたの引力に捕まっているのね。あなたの周りを永遠に回ることが、あの子の安定周期なのよ」 目から笑いの余韻を消すと、雄一郎はうつむいて苦笑した。 「ご承知だと思いますが、瑛士を捕らえているのは、僕じゃない」 「……そうね。でも瑛士にとっては、きっとどちらも同じなのよ」 あの子の――他人には理解できない頭の中で、二宮脩哉は真鍋雄一郎に置き換わっている。 置き換えることで、ようやくあの子は前を向いて生きられるようになったのだ。 「月が、地球の引力圏から抜けるのにはどうしたらいいのかな」 苦笑した雄一郎が、どこか寂しげに呟いた。 彼を捕らえている引力は何だろう――と、佳江は初めて彼のプライベートにほんのわずかだが関心を抱いた。 この人物の私生活について佳江が知っているのは、若くして妻を亡くしたということだけだ。 佳江は閉じてしまった仏壇の扉に目をやった。 その向こうでは、27歳から永遠に年を取らない人が穏やかな目で微笑んでいる。 ――あなたならこういう時、どう答えるの、和彦さん。 (君なら大丈夫だよ。佳江さん) (瑛士を頼む。僕はもう……二度と、会わない) 「そうねぇ……」 一瞬、強く込み上げた感情をのみ込み、佳江は小首を傾げて天井を見上げた。 「きっと、もっと強い引力を持つ他の天体が、瑛士をのみ込んでくれたらいいんだわ」 「ええ?」 初めて素の笑顔を見せた雄一郎に、佳江は子供に対するような愛おしさを覚えた。 「それにはまず、誰かがあの子の引力圏内に入らないといけないわね。それが恐ろしく難儀なのだけど」 「確かに。仮に入ったところで瑛士のガードは堅いですからね」 「鉄壁よ。強烈なカウンターパンチでそのガードを壊せるような女性でないと、無理ね」 「はは……、確かに」 きっと喜彦さんも、同じことを考えているでしょうね。 あの人も私以上に、瑛士のことを気にかけてくださっているから。 瑛士の奥さんになる人は、喜彦さんが決めることになるのだろうけど――さぞかし強烈なパンチを持つ女性を選ぶでしょうね。あの瑛士がぐうの音も出ないほどの。 「…………」 上手くやっていけるかしら、私。 「きっと、優しい人だったんでしょうね」 「え……?」 腕時計に目をやってから立ち上がった雄一郎は、仏壇の方に向き直って手を合わせた。 「瑛士が、とても優しい奴だから。きっとカウンターパンチがなくても、瑛士の心に入れる女性が現れると思いますよ」 「そうかしら」 「ええ。誰かが誰かの心に住みつく時、そこには様々なタイミングや奇跡のような巡り合わせがあって……、知っていますか? 物質に引力がある理由は、今でも解明されていないそうです」 「……、ええ、知っているわ」 「安定周期から外れそうになった時、瑛士は、相当じたばたするんだろうな。その時の顔を見てみたいような気もします」 飛行機の時間があるのでと断ってから、雄一郎は丁寧に辞去の挨拶を述べて、家を出て行った。 ――複雑ね、母親としては。 でもその出会いは、息子に見える景色を鮮やかに一変させるに違いない。 そしてきっと知るだろう。自分が生きる世界の美しさと残酷さを。 「頑張りなさいよ、瑛士」 苦笑して呟くと、佳江は三日月が淡く輝き始めた夕暮れの空を見上げた Someone's March 31 終 |
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