「あっ、藤堂さん、そこにいたんだぁ。おはようございますっ、今日もいい天気ですねっ」 翌日――午前8時27分。 始業前に自席に突撃してきた人を見上げ、藤堂はこくりと唾を飲んだ。 一体昨日から、何がどうなっているんだ? 元々理解できない人だったが、須藤流奈が完全におかしくなった。 昨日の夕方から、やたら甘ったるい声で、用もないのに頻繁に話しかけてくる。 「藤堂さん、朝は何を飲むんですかぁ? よかったら、流奈がコーヒーを煎れましょうか」 「いえ、結構です」 「そうですかぁ? あ、そうだ。昨日クッキー焼いたんです。藤堂さん、味見してもらえますか」 「……いえ」 「うふふっ、眼鏡がない顔もかっこいいですね」 総務課は不気味なくらい静まりかえっている。 昨日の夕方から突如始まった「藤堂さぁん」攻撃は、すでに局中の噂になっている。 ただでさえ評判の悪い26歳の係長の立場は、これでますます悪くなってしまった。 「いい気なもんだ、若い奴らは」 棘のある声で中津川が呟き、「手が早いなぁ〜、民間の人は」と南原も嫌味を言う。 果歩は――硬い表情で黙り込んでいた。 昨夕見たその横顔は心ここにあらずという感じで、何かあったのかと思ったが、今の藤堂の立場で聞けるはずもない。 自分と流奈のことで彼女が怒っているとは考えにくかったが、軽蔑されているなら、誤解だけは解いておきたい。 ただ、流奈が藤堂に報復するつもりでこんな真似をしているなら、その気持ちは少しだけ分かるような気がした。 (うそつき) ――たまたま会っただけだと言い訳した的場さんと、二度も屋上で食事をしたからだろうな。 ――その前に、僕は須藤さんの誘いを断っている。それで怒っているんだろうが……。 まぁ、これも身から出た錆だ。 僕自身にやましいことは何もないのだから、堂々としていよう。 が―― 「なんか的場さん、珍しく苛々してませんかね」 午前十時過ぎ。会議帰りのエレベーターホールで、ぽろりと漏らした大河内の言葉に、藤堂はぎくりと眉を寄せた。 「――、そうなんですか?」 「気づきませんでした? 須藤さんが来る度に笑い方がひきつっているような……」 大河内は回想するように、顎に指を当てた。 職場では、南原に気をつかってか、何が起きても我関せずの態度を貫く大河内だが、藤堂と2人の時は、ざっくばらんに話してくれる。 課内の微妙な人間関係や、表には出てこない係の慣習などをそれとなく教えてくれるのもこの男で、藤堂も表に出さないようにはしていたが、大河内にはある程度本音で話すようになっていた。 「あまりそういう感情を見せない人なのに、珍しいなぁ。あはは、まんざら係長にやきもちやいてたりして」 「ははは」 あり得ないだろう。 「ま、ないでしょうけどね。ちゃんと彼氏がいるみたいだし」 自分で言ったことを、あっさり自分で否定すると、大河内は少し真面目な目で藤堂を見た。 「ただ、放置していていいことは何もないですよ。係長が、須藤さんをどう思っているか知りませんが」 「……どうといわれても、僕にも、何が起きているのか分からないんです」 「なにがって、あの子、係長が好きなんでしょう? つきあうならつきあう、駄目なら駄目とはっきり言って、職場でああいう態度を取らせないようにしないと」 「……はぁ」 そうか。 的場さんには彼氏がいるのか。 まぁ、――そうだよな。っていやいや、それはまた別の問題で、ひとまず僕には関係ない。 今は須藤流奈のことだ。 「実は須藤さんとは色々あって、僕にその気がないことは分かっていると思うのですが」 「じゃ、もう告白されてるんですか?」 「告白というか……、言動がとにかく分かりにくくて参っています」 「まぁ、むげにして怒りを買っても、あとあと面倒そうですからねぇ。あの子は局の人気者ですし」 大河内は、気の毒そうな目で藤堂を見た。 「ただ、的場さんにはちゃんと説明した方がいいと思いますよ」 「そうなんでしょうか」 「そうですよ。やきもち云々は冗談ですが、彼女は係長のバディですから」 思いも寄らぬ助言に、思わず咳き込みそうになっている。「バディ?」 「おかしな意味じゃないですよ? 庶務係長と局長秘書は一心同体。いわば局の父と母なんです。2人が不仲だと、局全体がぎすぎすしますから」 そのたとえに、今度は噴き出しそうになっている。局の父と母? 「本当の話ですよ。的場さんはそれをちゃんと心得ていて、前の係長とも上手くやっていましたから」 そこで大河内の表情が微かに陰ったので、つい藤堂は聞いていた。 「前の係長は、難しい方だったんですか?」 「的場さんがどう捉えていたかは分かりませんが、平気でセクハラっぽいことを口にする人でしたから。まぁ、そういう年といえば年ですし、うちの局にはそういうことを言っても許される空気があるので」 「…………」 「的場さんの人あしらいが上手な部分も大きいですしね。ああいうところが年の功なんでしょうが、上手く受け流してやってくれてましたよ」 そうか―― 僕はまだ、彼女のことが何も分かっていないな。 僕が思うよりずっと強いような気もするし、反面ひどくもろいような気もする。 前の係長のセクハラがどの程度のものだったのかは知らないが、大河内の言葉を額面通りに受け止めない方がいいような気はする。 しかし、その人あしらいの上手いはずの果歩は、藤堂が執務室に戻ると、露骨に顔を強張らせて微笑んだ。 「係長、須藤さんが来られてますよ」 ――ん? 「お約束されているなら、業務に差し障りのない範囲でお願いします」 藤堂はこくりと唾をのんだ。 眼鏡をかけていないので気のせいかもしれないが、唇は微笑んでいるのに、目が全く笑っていないような。 どんっ、がしっ、ぱんっ。 椅子に座り、ボールペンを取って、書類に印を押す擬音が、文字で見えるほどとげとげしいのは気のせいだろうか。 「あっ、藤堂さん」 藤堂はぎょっとした。 自席の傍らでは、藤堂を待っていたらしい流奈が目を輝かせて手を振っている。 「すみませぇん、市長印、今から500枚押さなきゃいけなくて」 公用文書に押す市長印は、局の庶務係長が管理している。 つまり藤堂が管理者なのだが、そんなものは係の誰でも代決可能だ。 藤堂が何かを言う前に、流奈はいきなり近づいてきて背伸びすると、耳元に口を寄せた。 「だってぇ、的場さんの目が怖かったんだもん」 藤堂は、あえてなんでもないように微笑すると、すっと一歩後ろに引いた。 自分が爆弾解体班に配属された気分だ。 この危険物の取り扱いを間違えたら大惨事になる。 「いいですよ。では、市長印を持っていってください。500なら、2つ持っていきますか」 「いいえー、今うち、外部のお客さんが来て大変なんです。ここでやらせてもらってもいいですか?」 ここで? と言いかけた藤堂にしか聞こえない声で、流奈がこそっと囁いた。 「話があるんじゃないですか、私に」 藤堂は黙って流奈を見下ろした。錯覚ではなく、顔に危険物注意と張り紙が貼ってあるような気がする。 「……構いませんよ」 流奈は公印ボックスを持ってカウンターに移動したが、そこからがまた地獄だった。 大きな声で、ひっきりなしに藤堂に話しかけてくる。 「お仕事、大変じゃないですか?」 「私、尊敬してます、係長のこと。民間から役所に変わるなんてすごいですね」 「聞きました、食堂の騒ぎのこと。大丈夫ですか、顎」 「うっせぇなぁ」 たまりかねたように南原が声を上げた。 「いつまでうだうだやってんだよ。しゃべってねぇで先に手を動かせよ」 藤堂の忍耐もそこが限界だった。 果歩といえば、とうに席を立ってどこかに行ってしまった。 これでは信頼関係もへちまもない。 「……手伝いますよ。須藤さん」 「えーっ、本当ですかぁ? 優しいっ、南原さんとは顔も性格も大違い」 「…………」 ここまでくると疑う余地はない。これは明らかな僕への嫌がらせだ。 中津川が不在なのが唯一の救いだが、これは本当に――まいった。 「僕がどうすれば満足なんですか」 流奈の隣に立つと、藤堂はさっそく切り出した。流奈はにこっと笑ってキスでもねだるように唇を尖らせる。 「んー、言いませんでした? 私と一緒にお布団に入って欲しいって」 「……、断りました。それにそういう話は、職場ではやめてもらえませんか」 「じゃ、一緒に屋上でご飯を食べるのはありですか? 嬉しそうにいちゃいちゃしちゃって。馬鹿でしょ、藤堂さん。的場さんなんて、何年もつきあってる彼氏がいるのに」 「それに関して、僕が何か答える義務がありますか」 藤堂の言い方が冷たかったせいか、流奈がはじめてむっとしたように眉を寄せる。 「ふーんだ、せっかく教えてあげようと思ったのに。的場さんの彼氏のこと」 「興味ありません」 「だったら流奈とつきあいません?」 口を開き駆けた藤堂は、目の前を通り過ぎる人を見て口をつぐんだ。 ひどく殺気だった目でちらっとこちらを見て通り過ぎたのは、都市政策課の前園晃司だ。 「やぁだ、こわーい」 流奈がわざとらしいほど甘えた声で、藤堂にすり寄ってきた。それをするりと交わしながら藤堂は聞いた。 「もしかして、彼にあてつけているつもりなんですか」 「別にぃ。てか、今あの人が藤堂さんに怒っているのは、何も流奈のせいだけじゃないしー」 「…………」 どういうことだ。決裁のことならもう決着はついていると思っていたが……。 「でも、案外未練たらしくてびっくりしてるんです。そういう意味では、藤堂さんのおかげでとっても楽しませてもらってるかも」 もう何を言っても無駄な気がして、藤堂は黙って印を押し続けた。 結局の所、自分はあてつけに使われているらしい。 少なくとも前園晃司との問題が解決しない限り、流奈が態度を改めることはないだろう。 「……話は聞きますよ。僕にも、無責任なアドバイスをした責任がある」 「やっと認めてくれました?」 「最初から認めています」 「ふふっ、じゃあ今夜、係長さんの部屋に行ってもいいですか。もう住所も電話番号も分かってますしー」 何をしたんだ? と思ったが、市職員が本気になればその程度の個人情報を入手するのはなんでもないことだ。 藤堂の住所も電話番号も緊急連絡網として課内に配布されているし、流奈がそれを手にいれるのは実にたやすい。 「友人として、話しは聞きます。だけど誤解されるようなことは控えてもらえると助かります」 「じゃ、流奈のいうことなんでも聞いてくれますかぁ?」 「僕にも、できることとできないことがある」 その時、果歩が再び戻ってきたので、藤堂は思わず口をつぐんだ。 そんな藤堂を、流奈は冷めたような――どこか底意地の悪い目で見守っている。 「完全スルーの前園さんが可哀想。まさかこっちに反応するとは思わなかったな」 「――え?」 「うふふ、独り言でーす」 流奈は機嫌良くぺたぺたと印を押していく。 「流奈、今楽しいんです」 「楽しいとは?」 「ずっと流奈を振り回してた人たちが、慌てて流奈の機嫌を取ってくれるのが。藤堂さんも観念して、私が飽きるまでつきあってくださいね」 そこで言葉を切ると、流奈は不意に首を傾けて、自席に戻った果歩の方を振り返った。 「あっ、すみませーん、的場さん」 果歩がこちらを見たようだが、藤堂は恐ろしくて顔を上げることができない。 「係長さん、お借りしてまーす。私が大変そうだからって、手伝ってくださるんですって」 |
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