「その傘、どうしたんですか? 昼に戻ってきたら、いきなり置いてありましたけど」 不審そうな大河内の声に、自分の机に置いてあった折りたたみ傘を手にした藤堂は、なんでもないように微笑した。 「人に貸していたんです」 もう戻ってこないものだとばかり思っていた。 4月の初めに、流奈に貸した傘である。 このタイミングで返されたことに、わずかだが胸が痛んだ。 (まだまだ、こんなの序の口ですから) あの不吉な予告がどこまで本気なのかは分からないが、藤堂の返事を聞いた時、流奈は明らかに傷ついていた。 多分その傷を――彼女なりの理屈と方法であっという間に塞いだのだ。 根っからポジティブな人といえばその通りだが、そうではないような気がした。 彼女は、心の傷を修復することに慣れている。言い換えれば、何度も何度も傷つけられて、そうやって必死に自分を守ってきたのではないだろうか。 その流奈から、突然外線を通じて電話がかかってきたのは、その日の残業中のことだった。 「藤堂さん、14階の書庫に来てるんですけど、助けてもらえません?」 彼女の声は最初から切迫していて、本気なのかからかわれているのか、すぐには判断できなかった。 「何かあったんですか」 「前園さんが後をついてきて、彼、今、扉の外にいるんです」 正直に言えば、昼間に同情したことを後悔したくなった。 本当か嘘か。 それが本当だったとして、僕に何をしろというのか。 「彼すごく逆上してて……何されるか分からないんです。助けてください、友人なんですよね? 藤堂さんと私」 「……、確かにそうですが」 「流奈がやられちゃってもいいんですか? 局内でレイプなんて大問題じゃないですか。藤堂さんだって後が大変ですよね」 むろん本当なら、人として放置できない。が、もしこれが罠だった場合、取り返しのつかない傷を負うのは藤堂の方である。 この時間14階には人がいない。そして書庫となると密室も同然だ。 「僕一人では、逆にトラブルになるのではないですか」 できるだけ落ち着いた声音で藤堂は続けた。 「すぐに行ってもいいですが、他に応援を呼んでも構いませんね?」 「応援? そんなの、前園さんが恥をかくだけになりますよ。余計に藤堂さんが恨まれそうです」 「そうであっても、僕もそれだけは譲れません」 「…………」 むっと流奈が黙るのが分かった。それだけでもう、これが芝居だったことが窺える。 「どうしても駄目ですか。流奈、高いところに手が届かなくて困ってるんです。これは本当です」 いい加減にしてくれと思ったが、かろうじてその感情をのみ込んで息を吐く。 「来てくれたら、藤堂さんとちゃんと話し合うって約束します。藤堂さんだって困るでしょ、的場さんに誤解されたままなの、本当はすごく嫌なんでしょ?」 「……昼間も言いましたが」 「それに、今度こそちゃんと教えてあげようと思って。的場さんがつきあっている相手のこと」 藤堂は思わず果歩の方を見た。藤堂の応対が気になるのか、果歩は時折ちらっとこちらに視線を向けてくる。 「その件は、必要ないと言いませんでしたか」 「でも知らないより知ってる方がいいでしょ? 来てください、流奈、いつまでも待ってますから」 電話を切った藤堂は、堪えていたため息を吐いてからきつく締めたままになっていたネクタイを緩めた。 この場合、どうするのが最適解かさっぱり分からない。 無視して余計にやっかいなことになるなら、行くべきか――しかし、一人はどう考えても危険だ。 意図的に騒がれた場合、藤堂に自分の名誉を守る術は何もない。 その時、果歩が立ち上がって、皆にコーヒーを煎れると言い出した。 ようやく現実に戻った藤堂は、少し驚いて時計を見る。9時過ぎだ。そんなことをしている場合かと思ったが、周囲の者は嬉しそうに果歩にコーヒーを頼んでいる。 この時間からサーバーでコーヒーを煎れるなら、人数は多い方がいいと思ったのか、果歩は隣の課にまで声をかけている。 ――……春日次長が、この人に苛々しているというなら、こういう自己犠牲的な気のきかせかた方だろうな。 コーヒーを煎れる――それを出す――セルフサービスでないことは、これまでの経験から織り込み済みだ。しかもカップは果歩が最後に洗って帰るのだ。 その果歩の目が、気遣うように藤堂に向けられる。 「係長は?」 「いえ、僕はいりません」 14階に上がるのがその理由だが、必要以上に口調がそっけなくなったのは、彼女の行動に対しての控え目な抗議だったのかもしれない。 「そうですか」 が、微笑んだ果歩の目がどこか気落ちしたものになったので、すぐに藤堂は自分の対応を後悔した。 後悔しながらも、喫緊の問題である流奈のことで、気持ちはどうしようもなく沈んでいく。 一人では行けないが――では誰を? 家庭のある大河内は帰り支度をしているし、南原は論外だ。計画係に頼めば、中津川が烈火のごとく怒るのは目に見えている。 迷いながら、立ち上がった藤堂は果歩が入っていった給湯室に向かった。 消去法にはなるが、ここで頼めるのは、どう考えても一人しかいない。 流奈がどう出るか分からないのが不安だが、いずれ果歩にも、藤堂の置かれた立場を理解してもらわなければならないと思っていたところだった。 それが今夜なら、――もう腹を括るしかない。 給湯室の中から、コーヒー豆の香ばしい匂いが漂ってくる。 藤堂は覚悟を決めてから、中に足を踏み入れた。 ************************* 「書庫ですか?」 特に理由を聞くこともなく、14階までついてきてくれた果歩は、行き先を聞いて不思議そうに眉を寄せた。 思い詰めた顔で「ついてきてくれ」と乞われ、その行き先が書庫だったことに拍子抜けした――といったところだろうか。 「高いところにあるものが取れないそうです」 説明になっていない藤堂の説明に、果歩がますます不思議そうな顔になる。 分かっていても、それをフォローするだけの余裕はなかった。 流奈が何を仕掛けてくるか未知な上に、果歩を連れて行った時の反応となると混沌しかない。 ――やはり、失敗だったか……? 的場さんを巻き込まずに、僕一人で行くべきだったか? いや、これが間違いなく最適解のはずだ。 少なくとも、これで三人それぞれの立場が共有できる。流奈の誤解も解けるだろうし、果歩の誤解――されているならだが――も解けるだろう。 扉の前で足を止めると、藤堂は一呼吸置いてから果歩を振り返った。 「面倒だったら、そこにいてください」 ドアノブに手をかけ、それを回す。中は真っ暗だが、奥の方に仄かな明かりが灯っている。 奥行きの広い部屋だから、行ってみないと何があるのか分からない。 果歩が少し遅れてついてくるのが分かったのと、明かりの方から声が聞こえたのが同時だった。 「だから、もう前園さんとはおつきあいできないんです」 最初は流奈の独り言かと思った。が、薄ら見えてきた人影はひとつではなかった。 あっと思った。まさかこの展開は予想してはいなかった。ここには、本当に前園晃司が来ていたのだ。 「なんでだよ、いまさら……どうしてそうなるんだよ」 その前園の押し殺した声がする。背後の果歩が、息を引くのが分かった。 「だって二股なんてひどすぎます。……私、もう、そういう関係が辛いんです」 流奈の声。演技か本気か、少し泣きそうになっている。 「さっきも言いましたけど、私、今は藤堂さんが好きなんです。……ごめんなさい」 「ちょっと待てよ、なんだっていきなりそういう話になるんだよ。そんなの理解できるかよ」 藤堂は果歩を振り返ろうとした。これ以上ここにいるべきではない。そう判断したからだ。 その時、流奈がこちらに来ようとしたのか「ちょっと待てよ」と焦った前園の声がした。 「果歩のことはなんとかするから!」 ――え? 脳天を氷柱で貫かれたような感覚だった。 しかし同時に、胸の奥でずっと引っかかっていたことの全てが一気に腑に落ちた。 ヒントは沢山あったのに、どうしてそんな簡単なことにこれまで気づかなかったのだろう。 いや、自分はどこかで分かっていた。 彼女の不器用さと、流奈の挑発めいた発言の中に、奇妙な同一性を見いだしていた。 分かっていて――多分、無意識にその世界線を見ないようにしていたのだ。 「言ったろ、一緒にいてもつまらないんだ。最初は秘書だし、高値の花って感じで憧れてたけど、――歳だってもう30だし」 藤堂は混乱しながら、咄嗟に果歩を振り返った。 果歩は、薄闇の中で唇を震わせているようだった。 腹のあたりで組み合わせた指が、これ以上ないほど強く握り締められている。 究極のツン。確か流奈は前園のことをそう言っていた。 どんな暴言を吐いたとしても、前園という男は、果歩のことが好きなはずだ。 「あんな歳になって、局長にミルクしか入れられないような甘えたところも嫌だしさ。だいたい、果歩の過去、知ってんだろ?」 「的場さん、本当は前園さんと結婚したいんじゃないですか」 一瞬息が止まったが、最悪の展開は、流奈の唐突な話題転換によって打ち消された。 「こないだ言われたよ。びっくりした。冗談じゃないって、俺、きっぱり断ったから」 「――行きましょうか」 自身の判断が誤りだったことと、撤退の決断が遅かったことへの後悔が一気に込み上げてくる。 前園晃司は、てっきり果歩を擁護する言葉を吐くのだと思っていた。 でも違った。 何もかも流奈の虚言で、最初から前園の本命は流奈だったのか? それとも、どうにかして流奈を引き留めたい男の、その場限りの汚い言い訳だったのか? 頭の中に氷と炎が同時に投げ込まれたような感覚だった。 怒りと後悔と果歩への申し訳なさで、息もできない。 石のように固まっていた果歩の手を引いて外に出た藤堂は、階段でようやくその手を離した。 「……すみません」 おそるおそる見下ろした果歩は、口元に強張った微笑を浮かべていた。 顔色は青白く、よほど強く手を握り締めていたのだろう。指先からすっかり血の気が失せている。 微笑を貼り付けたまま何も言わない彼女の横顔は、今の件に二度と触れて欲しくないと言っているようだった。 しかし気丈な態度にも限界がきたのか、彼女はうつむき、喉を鳴らした後に「いえ……」と掠れた声を出した。 「藤堂さんがお困りなのは、よく分かりましたから」 「……的場さん」 藤堂は逡巡した上で、口を開いた。 やはりどう考えても、あれは前園晃司という男の強がりだ。 流奈の言うことの全部を信じるのは危険だが、そうとしか思えない。 あのような断片的な状況で判断するのではなく、少なくとも彼と改めて話し合うべきだ。 もしこれが――あまり可能性はないと思うが、果歩と前園を別れさせるために流奈が仕組んだ企みなら、それに乗ってしまうのは早計に過ぎる。 「今、耳にしたことですが」 「本当にいいんです。気になさらないで」 固い声で、被さるように返される。 「別に藤堂さんのせいじゃないですから」 「――いえ」 くそ、どう今の状況をこの人に伝えたらいいんだ。 「あの」 「放っておいてもらえます?」 彼女が必死に激情を堪えているのが、ようやく藤堂にも理解できた。 糸のように張った細い声が、微かに震えている。 「同情なんてされたくありません。あなたは上司ですけど、人間としては年下で、」 そこで気丈に顔をあげ、果歩は――自分は平気だと誇示するように藤堂の目をまっすぐに見た。 「あなたに、同情される筋合いは何もありませんから」 きっぱりと言い切った後、すぐに言い過ぎたことを悔やむように顔を逸らす。 それでようやく、藤堂にも理解できた。 自分の空気の読めなさを、こうも痛感したことはない。 今この人は、一人になりたいといっているのだ。 年下の僕に修羅場を見られてしまったことを、この上ない恥だと思っているのだ。 「……その通りです。申し訳なかった、お仕事の邪魔をしてしまいました」 藤堂はできるだけ冷静に謝罪し、先に立って歩き出した。 馬鹿げたことに頭を使っていないで、すぐにでもそうすべきだった。 ほんの少し話せるようになったからといって、何を勘違いしていたんだろう。 自分が今、ひどく打ちのめされていることが、不思議でもあり滑稽でもある。 この人のプライベートな部分に、僕が一ミリだって踏み込む権利はなかったのだ。―― |
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