先に執務室に戻ると、丁度春日が次長室から出てくるところだった。 「春日次長は、今夜はもう帰られたんじゃなかったんですか」 席についた藤堂が聞くと、南原が渋々といった感じで顔を上げる。 「飲みを切り上げて戻ってきたみたいっす。なんか、めちゃくちゃ機嫌悪いですよ」 それは、歩く後ろ姿からも察しがついた。 飲みの席で何かあったのだろうか? 確か今日は、局長・次長級の親睦会が開かれていたはずだ。 「んなことより、的場さんどこ行ったんですか? 自分でコーヒーいれるって言い出して消えんだから……」 「すみません。僕が仕事を頼んだんです」 その時だった。 「そんなことを言っているんじゃない!」 その春日の怒声が静まりかえったフロアに鋭く響き渡った。 南原も驚いていたし、藤堂も立ち上がっていた。声は給湯室から聞こえてくる。 「君はなんのために血税をつかって残業しているんだね。職員に愛想をふって、コーヒーを煎れてやるためか!」 後に続こうとする他の職員を手で制してから、藤堂は眉をひそめて給湯室に足を踏み入れた。 遅れて戻ってきた果歩が、春日と共に給湯室にいるのは間違いなかった。 外にまでコーヒーの香りが溢れていたから、薄々察しはついていたが、現実にシンクにぶちまけられた褐色の液体を見ると、さすがに声も出なかった。 背を向けた春日の前で、果歩は弛緩したような顔でうなだれている。 もう、彼女を守る塔の壁すら、そこには存在していない。 彼女がつい数分前に体験したことを思えばそれも無理はないのだが、激高する春日にそれが分かるはずもない。 「そんな暇があったら、少しでも速く仕事をしようとは思わないのか。君ももう30だ。笑いさえすれば周りが許すような歳じゃないんだぞ!」 春日には分からない。 今の言葉が、このタイミングで、どれだけ彼女を傷つけているのか。 ぼんやりと立っている彼女が、今、どれほど惨めで苦しい気持ちでいるのか。 「そもそも何故他課の者に、総務の君がコーヒーを煎れてやる。コーヒーは来客接待用、職員は自分で煎れるのが決まりだろう」 「僕が頼みました」 殆ど考えることなく、言葉と足が同時に出ていた。 「申し訳ありません。僕が彼女に頼みました。皆、連日の残業で疲れているようでしたので」 振り返った春日は、藤堂の目を見て一瞬たじろいだように眉を寄せた。 今夜起きたことの全てが春日の責任ではない。 でも、許されるなら一言こう言ってやりたかった。 的場さんは、青木さんじゃない。 あなたの私的な怒りをぶつけるのは筋違いだと。 「民間会社に務めていた時の癖が抜けていないようです。給料が税金で賄われていることを失念していました。申し訳ありません」 藤堂は頭を下げた。本質的な部分で謝る気はなかったが、今、感情を剥き出しにした目で上司を睨んでしまったことだけは謝罪しなければならない。 「ならば今後は気をつけたまえ。上司なら、部下に無駄な仕事をさせてはいかん」 ひどく不機嫌そうに吐き捨てると、春日は肩をそびやかすようにして出て行った。 自分の感情が収まらないまま、藤堂は果歩に目を向けた。 彼女は強張った顔をうつむかせ、じっと床の一点を見つめているようである。 掛ける言葉は何も思いつかなかった。いや、何を言っても拒絶されるだろうし、彼女を傷つけてしまうだけだ。 藤堂は、黙ってシンクにかけてあった雑巾を取ると、飛び散ったコーヒーの飛沫を拭き始めた。 そうしていると、一度は収まった憤りが再び胸を満たしていく。 一体どんな気持ちで、春日次長はこんなひどい真似をしたんだろう。 それがあの人の矜持だとしても、ここまでする権利は絶対にない。 けれど、春日に関する様々な記憶が指数関数的に広がっていくにつれ、あるひとつの言葉がひっかかった棘のように、存在感を増していった。 (もし、的場君が戻っていたら頼んでくれ。戻らない時は、放っておいてもらって大丈夫だ) 「…………」 誰にも知られたくない来客が来たとき、春日はそれでも、的場さんにだけはそれを知らせていいと言ったのだ。 あの人は、やっぱり的場さんを疎んでなどいない。 むしろ、この職場の中ではかなり信頼を置いているのではないだろうか。 「私、やりますから」 果歩の声に、はっと我にかえった藤堂は手を止めた。 彼女は藤堂を見ないまま、もう1枚の雑巾を取り上げ、藤堂とは反対側のシンクを拭き始める。 その虚ろな横顔に、つい余計な言葉が口をついていた。 「春日次長は厳しい人ですが」 雑巾を掴む果歩の指が、痙攣でもしたような動きを見せる。藤堂はこくりと唾をのんだ。 「……、決して、理由もなく怒る人ではないと僕は思っています。的場さんを思いやってのことだと思いますよ」 半分は春日と果歩の関係性を思っての慰めだったが、半分は本音だった。 ただ、こういった場合、自分が唐突に口にした――頭の中ではじき出した最適解が、他人に理解されないどころか、場合によっては怒りを買うことも知っている。 しかも自分の言い方はいかにも目上の上司のようで、それが彼女の気持ちを逆なでしてしまったのは、火を見るより明らかだった。 案の定果歩の表情がみるみる石のように強張っていく。 純粋に仕事のことならまだしも、年下の、しかも着任して一カ月にも満たない新人に、わかったような口をきかれたのだ。 さぞかし、薄っぺらい、いかにもうわべだけの慰めに思えただろう。 それが分かっていても、藤堂には他の言葉が見つからない。 「――もういいですから、出てってもらえませんか」 低い声で言った果歩が、唇を震わせた。 きっと果歩自身も、自分の感情が上手くコントロールできないのだろう。 口から出る言葉の毒は、藤堂にというよりそれを言った果歩自身をいっそう苦しめているようにみえる。 唇を引き結ぶようにして目を閉じる横顔に、胸が引き絞られるように痛くなった。 掛ける言葉がないままに、藤堂はシンクの掃除を再開した。その傍らに果歩が歩み寄ってくる。 「私がやります。――、お願いだから、ああいう時、私のことを庇ったりしないでください」 藤堂は何か言葉を返そうとした。けれど喉につかえたように、何一つ言葉が出てこない。 うつむいたままの果歩が、その藤堂の手の下から雑巾を引き抜いた。 「悪いけど余計惨めになるんです。あなたに同情されていると思うと」 同情なんてしていない。 これは同情ではなく――どう言えばいいんだろう。 僕自身が怒っているし、苦しいし、どうしていいか分からない。 その苦しさが、言葉になって口から溢れた。 「それは、僕が年下だからですか」 「ええそうです。やりにくいんです。年下の上司なんて」 そう言った途端に心の何かが壊れたのか、みるみる果歩の双眸が薄い涙の膜に覆われる。 「さ、……30って、そんなにやばい歳ですか」 7年前のあの日、頬をひとすじだけ伝った涙が、今も震える唇を濡らした。 完全に壊れた仮面が、美しい宝石の欠片になって、きらきらと空に消えていく。 そこに立っているのは、7年前よりもなお弱くてもろい、今にも泣き出しそうな一人の女性だ。 「私、そんなに……人からみたら、甘えた、つまらない女ですか」 嗚咽をのみこんだ彼女が、逃げるようにきびすを返して蛇口をひねる。 勢いよく迸る水流の音を聞きながら、藤堂は足を踏み出していた。 水を止めなければと思った。彼女が、声をあげて泣き出してしまう前に。 僕が、水を止めなければ。 衝動的に伸ばした腕は、しかし蛇口ではなく、うなだれた彼女を背中から抱きしめていた。 ずっと認めないようにしていたが、もう認めるしかない。 僕は―― この人が好きだ。 藤堂の腕の中で、びっくりしたように華奢な身体が固まって、ただ肩の震えだけが伝わってくる。 互いの心臓の音と、水の音。 延々と、切れ間なく流れる水の音――それも、気づけば聞こえなくなっている。 「藤堂係長、お電話ですが……」 執務室から、怖じ気づくような水原の声がした。 我に返って目を見はった藤堂の前に、同じように目を見はり、瞬きもせずに顔を上げている果歩がいる。 藤堂は彼女から両腕を離し、「はい、今いきます」と答えた。 天地がひっくり返ったようなパニックは、冷静な足取りで給湯室の外に出た直後にやってきた。 僕は今、何をした? 夢? いや、夢ではない代わりに、唇にまだ柔らかな感触が残っている。 彼女の唇を濡らした涙の味がまだ舌先に残っている。 夢でなければ何をした? どうしようもなく傷ついて、冷静ではない状態の彼女に僕は―― 「的場さん、大丈夫ですか?」 さすがに同僚の様子が気になるのか、ちらっと顔を上げた南原が聞いてくる。 「ええ」 藤堂は短く答えて、転送された電話に出た。 心臓はまだうるさいほど高い音を立てている。 とんでもないことをしてしまった。 僕が彼女にどのような感情を抱こうと、二人の立場を考えれば、今起きたことは紛れもない。 セクハラだ。 「すみません、お騒がせしちゃって」 普段通りの果歩の声がしたのは、かかってきた電話を切った直後だった。 反射的に顔を挙げた藤堂と、笑顔を浮かべた果歩の視線がぶつかった。 一瞬だけ笑顔が固まったものの、果歩はなんでもないように自席につく。 「随分ひどくやられてたけど、大丈夫なの?」 南原の問いにも、「ええ、係長がうまく収めてくださいましたから」とあっさりと答えている。 藤堂一人がどぎまぎしながら、二人の会話を聞いていた。 彼女がセクハラを上手くあしらうことは織り込み済みだが、だからといってそれに甘えていていい問題ではない。 さすがに前の係長もそこまでしなかっただろうし、仮にしていたのなら、逮捕されていいレベルだ。 というより、僕のしたことに比べれば、春日次長の行為など問題にもならない。 意を決して、藤堂は顔を上げた。 「的場さん」 「はい」 声は軽くうわずっていたが、彼女の目には嫌悪も怒りもないようだった。 だからって安心してはだめだ。これは彼女が僕のセクハラを受け流そうとしているだけかもしれない。 謝らなければ――でも、謝ることで、余計にこの人の気持ちを傷つけてしまったら? 仮に謝ってしまえば、キ……だめだ、脳がその行為を言語化することを拒んでいる。 例のあの行為をしてしまった動機の全てが、今夜彼女を最も怒らせた「同情」という一言に落とし込まれてしまう。 「今夜は遅くならない内に帰ってください。仕事なら、僕がやっておきますから」 いや、冷静に言ってる場合か? 頭のアルゴリズムが完全におかしくなっている。 僕は―― 一体、どうしたらいいんだ。 次回最終話 |
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