「なんだね、これは」 4月最後の平日。 入庁した日に、今と同じ部屋で向かい合った男は、藤堂がさし出した封筒を見て眉を寄せた。 「見ての通りです」 「……表書きには辞表とあるが、つまり退職するということか」 あきれたような目で封筒をためすすがめつしていた春日は、その目を再び藤堂に向けた。 「理由を聞こうか」 午前8時。始業前の会議室でこうして春日と向かい合っているのは、今日が試験採用の最終日だからだ。 今日、面談者である春日の合格点が出れば、5月から正式採用になる。 窓の外の空からは、音もなく小雨が降っている。 しばらく黙ってから、藤堂は口を開いた。 「……詳しくは言えませんが、的場さんに、僕の立場ではあるまじき行為をしてしまいました」 「というと」 「簡潔に言えば、セクシャルハラスメントにあたる行為です」 「的場君からはなんの報告もないようだがね」 それはなんとなくわかっている。 あの衝撃的な夜から数日が過ぎたが、彼女の態度は以前と何も変わらない。 仕事に関しても問題なくコミュニケーションが取れているし、なんなら前より話しやすくなったくらいだ。 「君が既婚者ならともかく、互いに独身なら、それを一概にセクハラと決めつけなくてもいいのではないかね」 いかにも馬鹿馬鹿しい話だと言わんばかりの春日の前で、藤堂は立ち上がって一礼した。 「それでも僕の立場では、していいことと悪いことがある。僕は、自制を欠いた自分が許せないんです」 春日は半眼になって、雨に濡れた窓を見つめている。 「失礼します」 背を向けた藤堂の耳に、軽い舌打ちと「極端な男だな」という呟きが聞こえた。 「今のやりとりだけで、君に不合格の烙印を押したいくらいだ。悩んでいるときは熱い、疲れている時はぬるい。その意味が分かるかね」 ――? 眉をひそめ、藤堂は振り返った。「なんのお話ですか」 「この数日、ずっと適温なんだそうだ。的場君の出すミルクの温度だよ」 「…………」 「そんな妙な観察を続けている局長こそ、セクハラではないかと思うときがあるがね。――的場君も案外感情的で粗忽なところがある。普段は上手く隠しているがね。本質的にはとても不器用な女性だよ」 そこで言葉を切った春日は苦い目で、辞表を藤堂に押し戻した。 「君らの間に何が起きたのかは聞きたくないし、聞く必要もない。むろん上司である限り、仕事に支障が出るような真似は厳に慎むべきだが、それが守れるなら、君らのプライベートは君らだけのものだ」 「……いえ、いや」 藤堂は言葉に迷って言いよどむ。 自分の耳が少しだけ熱かった。 遅ればせながら春日の言っている意味が胸の中に落ちてくる。 あんなことがあっても的場さんの気持ちはずっと安定している。――それが意味することは何だろう。 恋と断ずるのは早計だ。そもそも彼女が僕を好きになる理由は何一つない。 ただ、薄々感じていたことだが、ここ数日の彼女の態度や藤堂を見る目には、確かな信頼の色がある。 あんな真似をしたにも関わらず、彼女は4歳年下の上司を受け入れてくれたのだ。 藤堂が、自分の行動の弁明も謝罪もできない理由は、まさにそこにあった。 今の自分の立場で――彼女の上司であり係を預かる立場で、とても愛だの恋だの口にできない。 また、彼女もそれを望んではいないだろう。 だったらいっそのこと役所を離れ、改めて果歩に自分の気持ちを打ち明けるべきではないか。 辞表を書くことに決めたのは、そういう気持ちもあったのだ。 「次長は最初に仰られました。この職場には様々な問題がある、それを分析し解決してみろと」 春日は答えない。 藤堂は眉根に力を込めたままで続けた。 「僕には、おそらくできません。もう的場さんを……冷静な目で見ることができない。それだけで、僕は十分不合格に値します」 やはり春日は答えない。 藤堂は再度深く一礼してから、扉に向かってきびすを返した。 「――よく気のつく人だったよ。愛嬌があって、機転がきいて、わしなど理解できん様々なマナーに精通し、秘書業務に役立つからといって書道教室にも通っていた」 「…………」 藤堂は足を止めた。 その藤堂を見ないままで、独り言でもいうように春日は続ける。 「でも、役所の仕事は秘書だけじゃない。むしろそれ以外の業務の方が遙かに多いんだ」 椅子に座ったまま、春日は疲れたように天井を見上げている。 青木さんの話をしているのだと、ようやく藤堂は気が付いた。 あの事件が起きた夜――春日が果歩に激しい叱責を浴びせたことは、藤堂の中にもひとつの棘として残っていた。 果歩の態度は表向き何も変わっていないが、春日に対して完全に心を閉ざしているのは明らかで、それも無理からぬことだった。 藤堂も、あの夜の春日の行動だけは擁護できない。 ただ、どんな鉄仮面を被った人間でも、感情を完璧にコントロールできるわけではない。 あの夜は、春日の何かが壊れていたのだ。 その直前に出席していた局長級の親睦会で、あるいは青木という女性への中傷を耳にしたのかもしれない。 「彼女は35歳までずっと秘書しかやっていなかった。その後、結婚して出産。40で復職したが……、そこでも甘やかされた。昔の幹部連中にとっては、彼女は可愛いマスコットのようなものだったからな」 その春日の声に、強くなった雨音が混じり出す。 「それが彼女の問題なのか、制度や時代の問題なのか私には分からんし、ひとくくりにするつもりもない。ただ、私には何もできなかった。今の君より無力だったよ。あがけばあがくほど彼女に憎まれ、周囲に嫌われ――まぁ、それは今も変わらんがな」 「…………」 「もう少し頑張っていれば、また違った結果があったのかと思うこともある。私が的場君に彼女を重ねていたのは君が思っているとおりだ。君は、全く嫌な男だよ」 ぶっきらぼうに言葉を切ると、春日はいつものストイックな厳しさを双眸に戻して立ち上がった。 「その辞表は、5月以降改めて人事課に提出したまえ。まだ試験任用中の君には、辞表を出す資格もないことを忘れるな」 「…………」 つまり――合格。 立ち去ろうとする背中を追うように、藤堂は口を開いていた。 「誰だって、自分を守りながら生きている。僕もです」 訝しげに、春日が足を止めて振り返る。 「――僕は、他人の生き方を僕の物差しで断じたくない。青木さんも、ご自身で決められた矜持を全うされたのなら、それでいいのではないですか」 この半月、胸の中でもやもやと淀んでいた感情が言葉になって出てきた形だった。 藤堂もまた、己のつくりあげた矜持――その檻の中で生きている。 それは同時に、長い時間をかけて自分を守るためにつくった塔でもある。 そうやって生きることを、正解か不正解か、簡単に他人に断じられたくはない。 てっきりスルーされると思ったが、わずかな間の後、春日は感情のこもらない目を藤堂に向けた。 「なんの話をしているのか分からんが、人の生き方に正解も不正解もない。そんな風に思うのはおこがましいというものだ」 「 ……その通りです」 馬鹿な質問をした気まずさから、藤堂は視線を伏せる。 この4月から、最適解を導き出しているつもりなのに、どこかすっきりしないものがずっと胸の底に淀んでいる。 その答えを――ないと分かっていても、つい、目の前の父親ほど年の離れた男に求めていたのかもしれない。 立ち去ると思っていたが、何故か足を止めたままで春日は続けた。 「私もまた、己の決めたルールの中で生きている。他人にそれを否定されたら腹も立つし意地にもなる。――だが、自分でルールを破る分には心地いい」 「…………」 「自分の背負う檻の狭さを知るのはそんな時だ」 今度こそ振り返らすに歩き出した春日は、しかし扉の手前で足を止めた。 「君の煎れたコーヒーがまた飲みたいと言っておったよ」 その声は、ぶっきらぼうな優しさを帯びていた。 「――失礼する。今回のことは、私の借りにしておいてくれ」 ************************* (――うちの局は極端に異動者が少なく、また男女比率が歪なせいか、業務の妨げとなる悪しき習慣が多々残っている。また、私が強権を持って命じたところで、それを簡単にどうにかできる状況でもない) 会議室を出た藤堂は、初日に聞いた春日の言葉を、その時とはまるで違う気持ちで思い出していた。 春日が、明言こそしなかったが、果歩をはじめとする女性職員の立ち位置のことを問題視しているのは間違いない。 おそらくだが、一度は強権をもって改革しようとしたが、上手くいかないどころか、春日ほどの人が諦めるしかないほど状況が悪化したのだ。 その大きな原因は三つある。 ひとつは那賀局長――局のトップが率先して時代錯誤なことをやっていては、改革などできるはずもない。 が、ちょっとやそっとでは那賀をとりまく壁は崩れない。豆腐みたいにぐにゃぐにゃしてみえるが、那賀なりの信念があってああしている以上、その豆腐は鉄壁だ。 もうひとつは中津川補佐。彼に関して言えば――生きてきた環境というか、生活基盤そのものが、今の彼をつくりあげているとしか思えない。 年齢は春日や課長の志摩より上で、局の調整役でもある。 いわば大きな歯車のひとつである以上、その意向を簡単にないがしろにはできない。 そして最後の1人が的場さんだ。 那賀や中津川など問題にならないほど、彼女を変えていくのは厄介だろう。 いや、変えるというのはおこがましい発想だ。 どんな人であれ、他人にその生き様を簡単に変えさせることなどできやしない。 (私もまた、己の決めたルールの中で生きている。他人にそれを否定されたら腹も立つし意地にもなる。――だが、自分でルールを破る分には心地いい) しばらく足を止めてその言葉の意味を噛み締めた後、吹っ切れたように東堂は歩き出した。 どうして忘れていたんだろう。 僕自身が、その心地よさを体験したばかりじゃないか。 あの日、初めてこの職場で自分の仮面を脱ぎ捨てた。 その時見えた景色は、それまでとはまるで違うものだった。 でも、それができたのは、僕一人の力じゃない。 あの時――僕自身でさえ闇に沈んでいこうとした中で、たった一人、勇気を出してくれた人がいたからできたことだ。 (……あの、春日次長は、……代決を嫌われる方なんです) 「…………」 皆が、それぞれの塔の中で生きている。 閉ざされた視界の中で一縷の光を求め、暗闇の中でもがいている。 「係長、おはようございます」 執務室に入ると、果歩の明るい声がした。 自然に振る舞っているように見えて、まだどこか緊張しているのがよく分かる。 藤堂もまた、彼女と接する時に緊張する。一瞬思考が停止するし、喉が渇いたような感覚になる。 でもその緊張はどこか心地よく、二人を繋いでいるような気もする。 席に着いた藤堂は、果歩の今年度の業務分担について自分なりに再整理したファイルを取り出した。 これを実行するには多くの根回しが必要だし、それをしたところで反発は免れない。 きっと彼女は困惑するし、軋轢の中で苦しむだろう。 でも、今年度いっぱいでこの局を出るからこそ、彼女には今のうちにさまざまなことを経験させたい。 彼女の役所人生は、この先何年も続くのだ。―― その時、遅れて戻ってきた春日が不機嫌そうな顔つきのまま自分のオフィスに入っていった。 「おはよーっす」 面倒そうな口調で挨拶をした南原がその後に入ってくる。那賀局長や大河内も続くようにして入ってくる。 「そういえば係長、今日で試験期間が終了ですね」 席に着いた大河内が、思い出したように藤堂を見てそう言った。 「へー、そんなのあったんだ」 「そうですよ。係長も水原君も5月から晴れて正式な職員ですから」 南原に説明した果歩が、お茶の支度のために立ち上がる。 「なんかいいことあったのかな」 その果歩の背中を見送りながら南原が呟いた。 「相変わらず、メンタル弱いのか強いのか分かんないよな。こないだ、あんだけ春日次長にやられたのに」 「まぁ、それが的場さんのいいところですから」 南原と大河内の会話をどこか温かな気持ちで耳にしながら、東堂は今年一年この職場でやっていく気持ちを確かにしていた。 僕は弱く、不完全な人間だ。 多分、春日次長の期待に応えられるような適性はない。 でもそんな僕でも、伸ばされた手を握り返すことは、できる。 その扉を一緒に開く手伝いはできる。 (おいで、ひとまず俺と一緒に行こう) あの時、僕の手を取ってくれた雄一郎さんのように。―― end 次回 エピローグあるいは本編の媒介 |
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