見覚えのない初老の女性が、カウンターの前できょろきょろと周囲を見回している。 屋上から戻ってきたばかりの藤堂は、少し慌ててその人の傍らに駆け寄った。 昼休憩。総務課には今年新卒採用された水原しかいない。 まだ来客応対の意識が薄いのか、水原は自席で携帯をいじっているようだ。 「申し訳ありません。何かご用でしょうか」 最近の藤堂は、屋上のベンチで昼食を取るようにしている。 (だったら今度、ご飯おごってくださいよ) 須藤流奈の社交辞令を真に受けたわけではないが、職場内であのテンションでつきまとわれても困る。 また、顔もろくに知らない前園晃司という男に誤解されるのも遠慮したい。 もう一つ言えば、食事の量の多さを周囲にあれこれ言われるのも煩わしかった。 (一体そのカロリーはどこに消えているのかしら? どれだけ食べてもさっぱり太らないなんて、そういう嫌味なところもお父様とそっくりよ) 藤堂は昔から、いわゆるよく食べる人だった。 自分ではそれが普通だと思っていたから、疑問を感じることもなかったが、母がいうには他人の三倍は食べるらしい。 胃が丈夫なのかエネルギーが吸収されにくい体質なのか、十代の頃はそれでも痩身と呼ばれるほどに痩せていた。 身体に厚みがつくより先に背が伸びたせいかもしれないが、電信柱のようにひょろっとした体型だったように思う。 (きっと瑛士さんは、何もしていない時でも頭を高速で回転させているのよ。だから食べたものは、頭のCPUを動かすバッテリーになっちゃっているんだわ) 目の前に立つ50代半ばくらいの女性は、かつて藤堂にそんなことを言った幼馴染みを、いきなり30歳くらい老けさせたような印象だった。 ぱっちりした瞳、ウェーブのかかった栗色の巻き毛。ピンク色の口紅。 若い頃はさぞかし可愛らしい人だったのだろうが、今は――濃いピンクのツーヒースもそうだが、少し若作りだなと思えなくもない。 女性は少し恥ずかしそうに微笑むと、丁寧に頭を下げた。 「お昼休みに申し訳あません。春日次長はご在席でしょうか」 どういう知り合いの方だろうと思いながら、藤堂は視線を次長室の上にあるランプに向けた。 消えている――不在の証だ。 「ただいま春日は不在のようです。中でお待ちになりますか」 「えっ、いえ、いいです。ただ懐かしくて寄っただけですから」 「では、おいでになられたことを伝えておきます。名前をお伺いしてもいいですか」 「青木……、いえ、また、寄らせていただきますから」 何故か慌てたように両手を振ると、女性はぺこりと頭を下げ、逃げるように執務室を出て行った。 一体どういう知り合いだろうと訝しむ藤堂の背後で、食堂から戻ってきたらしい南原の声がした。 「なに、えらく派手なおばさんだけど、もしかして飲み屋の集金とか?」 「いえ……そんな雰囲気でもなかったですけど」 水原がそれに答えている。南原が決して自分に話しかけないことを知っている藤堂は、その会話に気づかないふりで自席に戻った。 次長には後で来客のことをお伝えしよう。個人的な知り合いのようだが、地元の関係者ということもある。 机につくと、期限のある依頼文書が決裁箱の上に無造作に置かれていた。 取り上げると、本来南原に割り当てられている業務である。他都市からの調査依頼で、提出期限は明日。 ただし、南原の理屈では、その担当は自分らしい。 軽く頭を掻いて、藤堂はボールペンを取り上げた。まぁ……僕がやれば済む話か。 「かかりちょーさん」 突然耳元で響いた悪夢のような声に、ぎょっとしてボールペンを落としそうになっていた。 振り返るまでもない、都市政策部の須藤流奈だ。 「お昼なのに、なんのお仕事をやってんですかぁ? 私が手伝ってあげましょうか」 「ちょっ……」 斜め上から机をのぞきこむようにして、ぐいぐい身体をくっつけてくる。 藤堂は咄嗟に周囲を見回したが、幸いなことに南原も水原も、席を立って廊下の方に出て行ったようだった。 軽く咳払いをして、藤堂は椅子を引いて流奈と距離を開けた。 「須藤さん、僕は誤解されてもいいとは言っていませんよ」 「ええ? やだ、まさかこの前の話、本気にしちゃいました? あんなのジョークに決まってるじゃないですかぁ」 「…………」 やっぱり僕は、この人が苦手だ。 「てゆうか、藤堂さん、流奈のこと避けてるでしょ。お昼、どこに逃げてるんですか?」 「……まぁ」 「食堂じゃないですよね。今日はコンビニでお弁当買ってるの見ちゃったから。あっ、そうだ、今度流奈がお弁当作ってあげましょうか」 「結構です」 「ええー、いいのかなぁ。せっかくお礼にきてあげたのに」 ――……お礼? 「悪口言われてましたよ、係長さん。そこの席のお兄さんに」 流奈が指をさしたのは、南原の席である。 「あんなド素人が上司なんて最悪だ、仕事のことが何も分かってない、そのくせ決裁をもったいぶって、どうでもいいことにいちいち口をつっこんでくる」 「はぁ……」 全て本当のことだから何もいえない。 最初の一週間は、地方自治法を読んだだけでは分からない役所のルールを理解するのに苦戦したし、決裁に関しては、納得するまで起案者に質問している。 「前の係長にしたって、うちの仕事を全く理解していなかった。今回はもっとひどい。だから今の内に、どうでもいい仕事をあいつにやらせようと思ってんだ――原文ママです」 藤堂は目の前の依頼文書を見た。なるほど、そういうことか。 「僕の前任はどのような人だったんですか?」 「ん? 定年前のお爺ちゃんです。パワハラ気質のくせに的場さんだけは孫みたいに可愛がって、毎日定時に帰るような人。去年異動してきて1年で退職です。その時も南原さん、相当苛ついてましたけど」 前年から続く上司への不信と諦念、そのあたりが僕に対する態度のきつさの原因だろうか。 まぁ、僕自身の振るまいにも問題があったのかもしれないが―― 「南原さんって、地味に総務課のムードメーカーっぽいところがあるから、みんなその感情に引きずられちゃうんですよね。私の見立てだと、本当に係長のことを嫌いなのは、その南原さんとあの枯れ枝みたいな補佐だけです」 藤堂は吹き出しそうになっていた。枯れ枝みたいな補佐とは、隣の係の中津川のことである。 「南原さんに嫌われているのはなんとなく分かりますが、中津川さんは何故僕を?」 「あの爺さん、若者がとにかく嫌いなんです。自分の部下こそ可愛がってますけど、藤堂さんは庶務の係長だから……」 「だから?」 気づけばいつの間にか、流奈の話に引き込まれている。 「わかってないみたいですけど、庶務の係長って、権限だけでいえば計画係の課長補佐より上なんです。計画係は事業の調整役ですけど、庶務は人事・予算・議会の取りまとめ役ですから。ていうか本来は課長補佐級がつくポジションなんですよ。庶務係長って」 「……、僕の前任も係長だったのでは?」 チッチッチッ、と流奈は愛らしく舌打ちをした。 「役所を知らないなぁ、藤堂さん。正式には課長補佐が係長を兼ねてるんです。中津川さんだってそうですよ。役職は課長補佐だけど、計画係の係長でもあるでしょ?」 ああ、確かに。 「実は、去年の庶務係長兼課長補佐だった人が退職した後、そのポジションには中津川補佐が着くんじゃないかって言われてたんですよ。それが……なんの因果か自分の子供みたいな若造が」 「なるほど」 「それだけじゃなく、藤堂さんって悪名高い社会人採用枠なんですよね? 一部では都市計画局の不正を暴く為に送り込まれたスパイだって噂されてるみたいですよ。本当かどうかは知らないですけど」 藤堂は少しだけ流奈に対する認識を改めた。 こう見えてなかなか役所の事情に通じているし、洞察力もあるようだ。 いずれにせよ、ようやくこの課全体から感じる自分への反発の理由が理解できた藤堂だった。 課のムードメーカーと、役職で言えば課長に次ぐ中津川がこうも敵意を募らせているのなら、他の職員も自ずと態度が決まってくる。 初日も――今もだが、大河内から妙な緊張と壁を感じるのも、この空気感で藤堂との距離をどうとればいいのかわからないからだろう。 気づけば流奈が得意げな笑みを浮かべて藤堂を見下ろしていた。 「……なんですか」 「ふふ、役に立ったかなと思って」 「まぁ、立ったというか、聞いたところで意味がないというか」 「えー、ひどぉい。せっかく教えてあげたんだから、何かご褒美をくださいよ」 その時、食事に出ていたほかの職員らがドヤドヤと戻ってくる。流奈はすぐに表情を改めると、なんでもないような顔で執務室から出て行った。 ――まぁ、一年の辛抱か。 藤堂は気持ちを切り替えて、手元の書類に目を向けた。 しかし、仕事の方はなんとでもなるが、業務改革は難しいな。 今のような状況で、改革の筋道を見つけるのはともかく、それを僕自身が実行するのは極めて困難だ。―― ************************* 「藤堂です。よろしくお願いします」 その日の夜は、局の課長会による親睦会だった。 課長会というから、てっきり課長だけが参加するものだと思ったら、違った。 課長補佐級以上は全員強制出席することが義務付けられている会で、しかもその幹事課が総務課だったのである。 (……実は、以前の係長が幹事として色々準備されていて) (どうしましょうか。まさか係長級の方がそのポジションにつくとは誰も思っていなかったから、中津川補佐も志摩課長もその辺りは何もご存知ないと思うんです) とは、着任初日に果歩から相談ことである。 その時は意味もあまり分からず一旦預かったが、それを中津川補佐に話すと「わしは知らんよ。そもそもそれは庶務係長の仕事ではないのかね」とけんもほろろに切り捨てられた。なるほど、これでは果歩が困りはてて、全く頼りにしていない新人係長に相談したわけである。 仕方ないので藤堂で仕事を引き取り、局内の連絡調整や予約したホテルとの連絡などを行い、結局受付に立つために参加資格さえない課長会に参加する羽目になった。 そして必然的な流れとして、全員に酒を注ぎ、挨拶をして回っている。 自分にこんな人並みの接待能力があったことに驚いたが、結局のところ人というのは、その環境に放り込まれれば、苦手なことでも否応なしにできるようになっているのかもしれない。 「でかいな、一体何センチあるんだ?」 「総務課も気の毒に、まだ学生のように若いじゃないか」 藤堂の目の前で堂々とそんなことを言う課長もいれば、 「君な、仕事が分からないのは仕方がないが、周りに迷惑をかけてはいけないぞ」と、真剣に忠告してくれる課長補佐もいた。 間違いなく、決済が遅いことが局内で噂になっているのだろう。 最初はそんな風に興味の対象になっていた藤堂だが、それも一時のことで、すぐにかやの外になる。 末席に戻り、ようやくほっとして箸を取り上げた時だった。 「え? 青木さんが春日さんのところに?」 「ああ、びっくりした。随分変わっていたんで見違えたよ」 藤堂は箸を持つ手を止めていた。青木とは、今日の昼に春日次長を訪ねてきた少し派手な女性のことだ。 次長席にメモを残し、口頭でも来訪を報告したが、春日は眉ひとつ動かすことなく「ああ」と答えただけだった。 声は、席ひとつ挟んだ他課の課長たちの輪から聞こえてくる。 「確か、前の前の市長秘書だったかな。そりゃ綺麗な人で、みんなが憧れたもんだよ。秘書の次はうちの局の総務でさ。あの人の煎れたお茶が飲みたくて、あの頃の異動希望はずっと都市計画局の総務課だった」 どっと笑い声が響く。 「いい時代だった」 「男にはな」 「いやいや、女にもだろう。だってお茶を入れるだけで、我々と同じ給料をもらえていたんだ」 そしてまた笑い。 「しかし青木さん、なんだってこんなに早く退職したんだろうな」 「まぁ、どこでも持て余してるって噂はちょいちょい入ってきてたよ。プライドが高い上に、お茶出す以外仕事が何もできないんじゃ仕方ないさ」 「まぁなぁ……」 「最後はケースワーカーだろ? 青木さんにしてみりゃ、実質的な退職勧告だったんじゃないか」 「独身だっけ?」 「離婚した後の姓のままだから、多分そうだろ」 「しかし女の賞味期限は早いねぇ。言っちゃ悪いが、妊娠子育て期間がある分、仕事じゃ男にかなわないんだ。美人だといわれている内に結婚退職するのが正解だな」 再び笑い声がして、話題はそれきり別のものになった。 藤堂は食事をとる気にもならないまま、会場の外に出た。 捉えどころのない不快な気持ちが、理由も分からないままに胸の底に淀んでいる。 酒の席での軽口に、女性を蔑視するような発言が含まれていたからだろうか? 妊娠子育てを経ても、仕事ができる人はできるし、そこに性差は関係ない。 そのことは、海外にいた頃の経験でよく知っている。 都英建設でも、芹沢花織が豪腕を振るう同社では、ゼネコンには珍しく女性の管理職が多かった。 ただ、そういったことに感情を振り回されるほど、藤堂はその手の問題を深く考えたことはない。 (秘書の次はうちの局の総務でさ。あの人の煎れたお茶が飲みたくて、あの頃の異動希望はずっと都市計画局の総務課だった) ――経歴は、的場さんと同じだな。 だからこんなにも不快なのだろうか? 先ほど聞いた軽口――その裏にある優越感や蔑みの感情が、あたかも彼女に向けられているように感じたから? 「…………」 自分の感情の底にあるものは分からない。 ただ、自分はもうあの人の上司なんだなと、藤堂は初めて実感していた。 ************************* 「りょう? 私、うん、まだ残ってるかなと思って」 給湯室から聞こえてきた声に、藤堂は足を止めた。 午後11時、課長会の帰りに仕事を片付けるために寄ったのだが、さすがにこの時間まで局に残っている人はおらず、総務課ももぬけの殻だった。 だから、誰もいないと思っていたのだが―― 「今から? 無理無理、うち門限厳しいもん。そろそろランチどうかと思って。明日、屋上どう?」 的場果歩の声だ。普段聞くのとは別人のように砕けた、どこか甘えを含んだ口調である。 りょうというのは恋人だろうか? だとしたら聞き耳を立てるのは――ときびすを返すが、静まりかえったフロアに彼女の声はよく響く。 「そっかー、じゃ、また今度ね。ん? もうストレスたまりまくりのボロボロよ。毎日毎日、苛々しすぎて胃に穴が空いちゃいそう」 しかし穏やかでない内容に、再び足が止まっている。 「やだな。もちろん顔には出さないわよ。だってみんなが苛々してる時に私までキレたら終わりじゃない。特に今年は新人の係長もいるし、係長には、できるだけ気持ちよく仕事をして欲しいから」 「…………」 「ん? いい人よ。若干話が通じないかなぁって思うところもあるけど……それは私に余裕がないからであって係長のせいじゃないと思うし」 藤堂は、足音を殺すようにして執務室の外に出た。 ひどく奇妙な気持ちだった。気恥ずかしさと後ろめたさが、名状しがたい何かの感情とともに自分の中で渦を巻いている。 繁華街から歩いて役所に戻る最中も、ずっと彼女のことを考えていたことを今さらのように思い出していた。 春日次長に出された課題でもある業務改革――それがもし的場果歩のことだったら、自分に何ができるだろう。 社会人としての経験も知識もなく、年齢でも彼女に敵わない僕に、一体何ができるだろう。―― 数秒後、冷静さを取り戻した藤堂は、あえて靴音を高くして執務室に戻った。 「係長? 今日は直帰じゃなかったんですか」 給湯室から、すぐに果歩が飛び出してくる。 「はぁ、そう思ったんですが、やりのこした仕事があるので」 「……大丈夫ですか? よかったら少し手伝いましょうか」 「いえ、結構です」 藤堂が席につくと、ためらうような沈黙の後、「じゃ、私はお先に失礼します」という明るい声が返される。 「気をつけて」 「係長も、あまり無理なさらないでくださいね」 決裁箱には決裁文書が積まれていたが、手にとってみて気がついた。 決裁日の早い順に並び替えられてあって、この課でそんなことをしてくれる人は一人しかいない。 机の上に投げていたボールペンも、きちんとペン立ての中に収められている。 (係長には、できるだけ気持ちよく仕事をして欲しいから) 「…………」 報酬をもらっている以上仕事はするし、そこに気持ちなど関係ない。 こんなことに気を使わせるくらいなら、その時間は別の業務に充てさせるべきで、多分それが春日の宿題の正解だ。 それでも、彼女が残してくれたちょっとした優しさが、自分の気持ちに温かな灯火を宿してくれている。 こういったことの全てが、本当に無駄なものなのだろうか。―― |
>>next >>contents |