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年下の上司 exera4 Gravity

藤堂瑛士の4月・前編(5)



「的場さん、悪いね。いつもの頼んでいいかな」
 局長室から聞こえた那賀の声に、受話器を置いたぱかりの藤堂は顔を上げた。
「はい、すぐにお持ちします」
 果歩が席を立つが、那賀の方から催促があるのは珍しい。時計に目をやると、ミルクの定時である10時を大きく過ぎている。
「この忙しい時に、そっちが優先かよ」
 背を向けた果歩に聞こえるように、南原が嫌味を言った。 
 果歩は答えず、さっさと給湯室に歩いて行く。その足取りに、いつもとは違う刺々しさがあるような気がした。
 ――疲れているのかもしれないな。
 4月も半ば、月初めの嵐のような忙しさはひとまず落ち着いたが、年度当初だけあって人事給与に関わる依頼は仕事は次から次へと降ってくる。
 それに加えて、2日前に東北で起きた大規模な災害が、この局にも少なくない余波をもたらしていた。
 都市計画に基づく工事の影響で、広範囲にわたって地盤沈下が起きたのである。
 三名の死傷者が出たこの事件は全国ニュースでも大きく取り上げられ、たちまち国土交通省から全国自治体に通達がきた。
 同様の事例を調査し、直ちに国に報告せよと。
 こういった、どこが担当か曖昧な案件はいったん総務課で引き受けることになる。
 不安を感じた市民からの問い合わせが相次ぎ、庶務係の電話は朝から鳴りっぱなしだった。
 果歩にしてみれば、ようやくひと山超えたと思ったら、思わぬ方向から大波がかぶさってきた感じだろう。
 昨日から定例の報告書も滞っており、そこに次々と重なる「お茶」だの「コピー」だののオーダーに、流石に疲労困憊しているようだ。
 ――的場さんの対人スキルは、僕など足下にも及ばないな。
 昨日までの藤堂は、彼女のことをそんな風に思っていた。
 疲れや苛立ちを一切感じさせない笑顔。ごく自然に場の空気を読み、さりげなく他人のフォローに回ってくれる。
 そして、いい意味で鈍感だ。
 南原の嫌味も中津川の偏見に満ちた振る舞いも、全く気にならないのか響かないのか、表情ひとつ変えずに恬然としている。
 逆に彼女のそういうところが、あの二人を苛々させているような気もしなくはないが、下手に反論してことを荒立てたくない気持ちは藤堂にもよく分かる。
 4月に着任してから約半月、藤堂にしてみればひどく理不尽な理由で責められたりなじられたり、陰口(ただし本人のいる所で)を言われたりしてきたが、あえて抗弁しないようにしている。
 無駄に他人に関わるより、仕事の効率を優先させたいからだ。
 こちらが一言「すみません」といって引き下がれば、大抵のことは丸く収まる。
 相手は藤堂が変わることを望んでいるようだが、変われませんという意思表示は、僕の能力の問題です――という態度でやりすごすことにしている。
 根本的な問題解決にはなっていないが、代わりに誰のプライドも傷つけずに済む。
 的場果歩の心の底にあるものは分からないが、藤堂とは別のアルゴリズムで自身の感情をコントロールしているに違いない。
 が、藤堂が見た今日の果歩からは、彼女が持つ完璧なアルゴリズムに一筋の亀裂が入っているように思えた。
「まさか、この忙しいのに係長まで退席ですか?」
「はぁ、すみません」
 南原の嫌味をいつもの謝罪でスルーすると、藤堂は席を立って果歩の後を追った。
 とれだけ完璧に見える人でも――そう見えれば見えるほど、仮面の下にはもろい素顔を隠している。
 そのことを、身近な人の死から藤堂はよく知っている。
 給湯室の前まで行くと、中から笑い声がして、臨時職員2人の声がした。
 果歩はとみれば、この短い時間にミルクを温め終わったのか、丁度局長室に入っていくところである。
「いいよねー。局長のミルクを温めるだけで、私たちの3倍のお給料なんでしょ?」
「まるでホステスみたい。そのくらいなら私でもできるのに」
 自席に戻るつもりだった藤堂は、足を止めて眉をひそめた。
 彼女が同性にまでそんな風に思われていることへの驚きと、理不尽すぎる嫌味に、言葉にできない何かの感情が込み上げてくる。
 自分のことならいくらでも聞き流せる。でも、こういった場合の感情の持って行き場は――どうしたらいいんだ?
「的場君、人事から矢のような催促が来ているぞ」
 春日の苛立った声がしたのはその時だった。


 *************************


 局長室の前で、盆を手にした果歩が顔をうつむけて立っている。
 その前に――藤堂に背を向ける形で、痩せぎすの男が立っていた。春日次長である。
「すみません、すぐに電話しておきます」
 果歩が謝っているようだが、人事から矢の催促というのが何の話か藤堂には分からない。
 おそらく藤堂の知らないところで、春日から何かしらのオーダーを受けていたのだろう。
「的場君、局長のご機嫌取りも結構だがね。君の時間給を分に換算してみたまえ。血税で無駄なことをしている暇は一分もないぞ」
 春日の機嫌が恐ろしく悪いことに、藤堂は内心驚いていた。
 この人が部下に厳しいのはいつものことだが、それは意図的に厳しくあろうとしているからだ。
 逆をいえば、感情に任せて声を荒げたことは一度もない。
「……すみません、急いで済ませていますので」
 局長のミルクを温めていることに対しての叱責だろうが、その局長室は2人の目と鼻の先にある。
 そして春日の声はいつも以上に大きく、局長室のみならず、課内全体に響き渡っている。
「あーあ、言っちゃった。みんなが思ってることをはっきりと」
 藤堂の背後で、笑うような声がした。
 須藤流奈の声である。
 藤堂の視界の端で南原が肩をすくめ、流奈の背後では先ほど給湯室にいた臨時職員が笑いを堪えるような目になっている。
 新人の水原は驚きに目を見張り、他の職員は全員が素知らぬ顔だ。
 果歩にとってはこの上ないほど屈辱的な状況下で、春日はますます声を荒げた。
「職員への湯茶接待はとっくに廃止になっているんだ。君がいつまでもそんな悪習を残しているから、他課の者に示しがつかないでいることを忘れるな」
「申し訳ありません」
「一度、自分の仕事のありかたを考え直してみてはどうかね」
 果歩は答えず、ただ深く頭を下げる。気丈に口角を上げた唇を見た時、藤堂は足を踏み出していた。
 どうする? どうすればこの場を自然に収めることができる?
 ここで春日を止めるのは、部下の振るまいとしては間違っている。いや、本当に間違っているのか?
 春日は冷徹な男だが、今は珍しく感情の抑制を欠いている。それは、彼の立場にとってあまりいいことではない。
 それでも面と向かって春日を止めれば、それは上司に対する侮辱行為だ。今度は彼に、皆の面前で恥をかかせてしまうことになる。
 その上で、今の春日の振るまいは、恥をかかされても仕方のないものなのか? 
 そうかもしれない。――が、入庁初日に分かったことだが、春日は、藤堂が見えていない何かのビジョンを見据えている。
 彼の求める業務改革の意図は判然としないが、これだけは明確だ。
 彼は果歩にとって、味方ではないが敵でもない。
 それだけのことを踏み出した足が床につくまでの間に考えた藤堂は、カウンターの上に置かれていた書類をつかみ、そのまま顔をうつむけた。
「それから、的場君」
「あっ、わっ、すみません」
 慣れないことはするものではない。肩先が触れるくらいのつもりが、思いっきり肩と肩がぶつかった。
 枯れ枝のような春日の身体が跳ね飛ばされ、驚愕した目が藤堂に向けられる。しかしそれより早く、藤堂は書類を手放し、それを追うように視線を彷徨わせた。
「なんだね君は! きっ、気をつけたまえ」
「すみません、あの、ちょっと急いでおりまして」
 春日は何か言いかけたようだが、どこか悔しげにその言葉をのみ込んだ。
「……もういい、早く拾いたまえ」
 そして襟を正すようにして、自身のオフィスに戻っていく。
 緊張で張り詰めていた課内の空気が、気の抜けた風船のようにしぼみ、自分への嘲笑に変わるのが分かった。
「……どんくさ」
「身体がでかい分だけ滑稽だな」
 散らばった書類を急いで拾い集めていると、視界にベージュのパンプスが飛び込んできた。
「手伝います、藤堂係長」
「すみません」
 果歩の声が普段どおりなことにほっとした時、膝を折った彼女の左側に飛んだ書類が目に入った。
 ――え?
 そもそも、なんの書類かも分からずに掴みとったものである。
 カウンターに上に置かれていたから、誰かが置き忘れていたものだったのだろうが、今、まさに果歩が手を伸ばそうとしているのは公用文書ではない。
 A4サイズの便せんに書かれた私信で、その末尾には丁寧な筆跡で、差出人の文字が記されていた。
 真鍋雄一郎。
「あ、」
 果歩の指が紙面に触れそうになった刹那、上から不意に落ちてきたスニーカーが、それを思いっきり踏みつけた。
 ――スニーカー?
 一瞬疑問符が頭をよぎったが、藤堂は咄嗟に「すみません」と謝辞をいい、心持ち浮いたスニーカーの下から、さっと手紙を引き抜いた。
「あ、悪い」
 片足をひょいと持ち上げて悪びれなく答えてくれたのは、都市デザイン室の主査、窪塚だ。
 言っては悪いが助かった。今の果歩にとって、差出人の存在がどの程度のものか知るよしもないが、もしその手紙の中に、藤堂の個人情報が書かれていたら厄介だ。
 この局と真鍋の繋がりは今のところ藤堂しかない。そしてそれは、表に出してはならないからである。
 ――雄一郎さんが、一体、誰に宛てた手紙だろう。
(――このプロジェクトは、俺が灰谷市にいた頃、お世話になっていた何人かが立案し、進めているものだ)
 もしかして、その内の誰かがこの局にもいる――?
 春日次長は、藤家さん一人がこのプロジェクトを進めているような言い方をしていたが……。
「慣れない環境で、大変じゃないですか」
 いきなり果歩の声がして、思考を遮られた藤堂は、咄嗟に返す言葉に詰まっていた。
「いえ、まぁ、はぁ」
 その返しで、果歩も会話の糸口を見失ったのか、それきり再び沈黙が続く。
 最後の書類を拾い上げた藤堂が立ち上がると、果歩も同じタイミングで立ち上がり、自身が拾い集めた書類を藤堂に手渡してくれた。
「じゃ、失礼します」
 やや疲れた風ではあるが、春日の叱責に傷ついていた時とは違い、唇には完璧な笑みが刻まれている。
 とはいえ藤堂を見る彼女の目には、「本当にどんくさい人……」という諦念とも憐れみともつかない感情が溢れていて、それはさすがに居心地が悪かった。
「せっかく助けてあげたのに、厄介者扱いだなんてお気の毒さま」
 果歩が去った後に、するっとすり寄ってきた流奈が囁いた。
 藤堂はちらっと流奈を見たが、何も返さずに歩き出した。
 自分が上手く振る舞えなかったせいもあるが、嫌なところを面倒な人に見られたものだ。
「係長さんも、他の新人君と同じですねぇ。結局的場さんに興味津々なんだー」
 しかし流奈は、くすくす笑いながら後をついてくる。
「でも、あれだけお綺麗な的場さんに、彼氏がいないなんてあり得るのかな? みんなが知らないだけで、誰かと隠れてつきあってたりしてー」
「…………」
「あっ、そうだ。よかったら流奈が聞いてみてあげましょうか」
「結構です」
 藤堂はすげなく言って、局長室をノックした。
 他の書類を見て分かった。カウンターに置いてあった書類は、那賀局長のものである。
 雄一郎が手紙をしたためていた相手は、那賀局長だったのである。


 *************************


「待ってください」
 5時少し過ぎ。
 その人がいつものようにひょこひょこ執務室を出てエレベーターホールに向かうのを、後を追って席を立った藤堂は声を掛けた。
「おお、どうしたね、新人君」
 好々爺――という形容が、この人ほどぴったりくる人はいない。
 都市計画局の局長、那賀康弘。
 今年定年だから、今59か60だ。
 小柄な体躯も柔和な目も、どこか人を食ったような物言いも、かつて養父だった藤堂の伯父によく似ている。
 ただし義父の素顔はそれとは真逆で、時に氷より冷酷になれる人だが。
「……今日、お届けした書類のことですが」
 ホールに人気がないことを確認してから、藤堂は声のトーンを低くして切り出した。
 しかし続く言葉を遮るように、那賀はひゃっひゃっと笑って、自分の額をぺちんと叩く。
「ああ、あれはさすがに失敗だった。最近物忘れがひどくってねぇ。見つけてくれたのが君でよかったよ」
「はぁ」
 そこで止まったエレベーターが開く。那賀がすたすたと乗り込んだので、藤堂も急いで後を追った。
 定時すぎだから、むろん中は半ば満員状態だ。
「役所にはもう慣れたかね」
「おかげさまで」
「はっはっはっ、君はそうでも、周りは随分苦労しておるようだよ」
「申し訳なく思っています」
 注意深く返事をしながら、藤堂は自分の肩先ほどしか背丈のない人の表情を注意深く窺った。
 印象は気さくで人当たりのいい人――という感じだ。
 局の中では、昼行灯だの縁故だけで局長になっただのと陰口を叩かれているが、今のところその噂通りの人のようにも思える。
 いつ局長室に入っても、日向に置かれたソファで背中を丸めてうとうとしているし、春日の差配に一切口を挟まない。
 しかし、今日のことでひとつ分かったことがある。
 この人に出すミルクを果歩が温めている件に関しては、その春日ですら苦々しく思っているのだ。
 周囲の負の感情が果歩一人に向けられていることを、この人はどう受け止めているのだろう。
「それで、君は雄一郎君とどのような関係なんだね」
 こちらから聞こうと思っていたことを、エレベーターを降りた途端にずばりと突かれ、藤堂は言葉を失った。
「……古い、友人です」
「ふむ、なるほど。雄一郎君は元気にやっているかね」
「半年前にお会いした時には、お元気そうでした」
 その刹那那賀が見せたさまざまな感情をはらんだ表情は、藤堂に次の質問をためらわさせた。
 この人こそ、雄一郎さんとはどのような関係なのだろう。
「雄一郎君には、君のことは詮索するなと言われておる。ただ優秀な男だからよろしく頼むと」
「はぁ」
「わしは、雄一郎君がしていることは何も知らんよ。ただ、見守っておるだけだ、昔も今な」
 それだけ言うと、一転して那賀は、ひゃひゃひゃと楽しそうに笑った。
「とはいえ、そう言われると余計に詮索したくなるのが人情というものだ。むろん君のことだがね、藤堂君。君の華麗な経歴の、まさか全部が全部嘘というわけではないんだろう?」
「…………」
 二宮瑛士だった頃の経歴は、推薦状をしたためた芹沢花織が別のもので上書きしてくれた。
 最初はそこまでする必要があるのかと訝しんだが、考えてみれば二宮家は、市長である真鍋正義の姻戚にあたるのだ。
 それは、役所の中で知られれば厄介でしかないし、真鍋市長の耳に入れば、当然雄一郎との繋がりを疑われる。
 雄一郎は、那賀に藤堂の素性まで話してはいないようだが、那賀の笑いを帯びた細い目は、すでに何もかも見透かしているようだった。
「ま、これからがお手並み拝見というやつだ。ただ君が思っている以上に、役所というのは厄介で面倒な場所だぞ」
 楽しげにそう言った那賀が、信号の手前で足を止める。少しためらってから、藤堂はもう一つの本題を切り出した。
「的場さんにミルクを温めさせるのは、やめてはどうですか」
「ほほう。君も、春日君と同じことを言うんだねぇ」
 予想していたのか、那賀の柔和な目に驚きはない。
「昨年、次長として着任してすぐにそう言われたよ。答えはノーだ。というより君は、そのくらいのことが本当に教務の妨げになると思っているのかね」
 驚くほどきっぱりした口調で切り替えされ、藤堂は咄嗟に言葉に詰まった。
「……いえ」
「逆にいえば、それをやめれば的場君の立場が好転するとでも? そう思っているなら君も春日君と同じくらい浅はかというものだ。わしにもわしの矜持があるように、的場君にも的場君の矜持がある。彼女は君と違い、入庁したての新人じゃないぞ」
 一度それと決めてしまえばとりつく島がない。伯父を彷彿とさせる那賀の背中を、藤堂は言葉もなく見守った。
 しかし那賀は再び表情を変えて、柔らかな、いたずらっぽい口調になる。
「そもそも君は、まだ人のことを口を挟む段階には至っておらんのではないかね? そんな君が、いきなり局のトップに直訴するのはルール違反というものだよ」


 *************************


(わしにもわしの矜持があるように、的場君にも的場君の矜持がある)
 ――あれは、どういう意味だったんだろう。
 その夜、決裁箱に溜まった書類をひとつひとつ片付けながら、藤堂は那賀の残した謎の言葉を考えてしまっていた。
 つまり、彼女自身が今の仕事にプライドをもってやっているということだろう。――それは分かるとしても、この異常な状況を、本当によかれと思っているのだろうか。
 果歩自身はそれでよくても、周囲の者の彼女に対するふるまいや扱いは、決してこのままにしていいとは思えない。
「…………」
 藤堂は今さらのように顔を上げて果歩の席を見たが、トイレにでも立ったのか、空席になっていた。
 時刻は午後10時。まだ局にはかなりの人が残っており、総務課でも帰宅している者は誰もいない。
「んじゃ、俺、そろそろ帰るんで」
 パソコンを閉じた南原が席を立つ。
 ちょうど南原が作成した資料をチェックしていた藤堂は、そこでようやく、いくつか確認すべきことがあったことに気がついた。
「南原さん、少しいいですか」
「はぁ? こんな時間からですか?」
「すみません。明日の朝一番の、市長ヒアリングで使う資料なんです。実は数字の元となるデータが不足していて」
 あからさまに不機嫌な顔になった南原だが、藤堂の説明を聞くと、すぐに「ああ、それね」という顔になった。
「そのデータなら、的場さんに言ってくれませんか。それ、毎年的場さんが整理することになってるんで」
「はぁ」
「彼女、俺の仕事はいつも後回しで、おえらいさんの用事ばかり優先させてるんですよねー。またどうでもいい頼まれ事を引き受けて、そのあたりをうろうろしてんじゃないですか」
 さすがにその返答にはむっとしたし、南原もその空気を読んだようだが、さっさときびすを返してしまう。
 仮にデータを整理するのが果歩の仕事であっても、それを添付するのは資料作成者である南原の仕事だ。
 とはいえ、きっと彼女に言えば、完璧な笑顔でこう返されるだろう。「分かりました、やっておきます」と。
「…………」
 胸に込み上げた感情をのみこむと、藤堂は自席に戻って共有フォルダを検索した。
 もう10時だ。さすがに女性には残業を命じられない。
 しかも今日の果歩は、春日に叱られたことが尾を引いているのか、どこか振る舞いに精彩を欠いていた。
 時々こめかみを押さえては目を閉じていたから、頭痛を堪えていたのかもしれない。いずれにしても、今から彼女に仕事をやらせるわけにはいかない。
 目当てのデータは、――予想はしていたが、今年度はまだ作成されていなかった。
 様々なところから数字を拾って作成するデータだが、大方の数字はもう自分の頭に入っている。
 あまり表だって口にしないようにしているが、藤堂は15桁程度の数字なら、一目見ただけで記憶できる。それは思い出そうとすれば、数年前のものまで正確に頭の中から引き出せるのだ。
 物心ついた頃からごく普通にやっていたことだから、それを人ができないと知った時は心の底から驚いた。
 そして――いつしか、ごく自然に隠すようになった。
 手早くデータを作成すると、南原が用意した資料と一緒にUSBに保存し、それを抜いてコピー機がある場所まで歩いて行った。
 この職場には、ソータ機能のついたコピー機は東西のフロアに一台ずつしかなく、ワイヤレスで接続されたパソコンは、そのコピー機の周辺にしか置かれていない。
 コピー機を使用するためには、プリントアウトしたものを持っていくか、今のようにデータそのものをUSBに移して持っていくしかないのだ。
 早足でこちらに歩いてくる須藤流奈に気づいたのはその時である。
 ショルダーバッグを肩にかけているから、今帰るところなのだろう。
 ――なんだろう、妙に急いでいるようだな。
 なにげなく、うつむいた彼女の顔に目をやった藤堂は、すぐになんでもないようにそれを逸らした。
 うつむいたままですれ違った流奈の顔は、普段とは別人のように険しくゆがみ、明らかに泣いた人の目になっている。
「前園、お前、この忙しいのにどこ行ってたんだよ!」
 彼女が通り過ぎた刹那、前方からそんな声がした。
 総務課とは逆の位置にある出入り口から、長身の男が焦ったように駆け込んでくる。
「すみません、何かありました?」
 たまたまタイミングが合わないのか、4月から一度も顔を合わせたことのない男。
 流奈の言葉を信じれば、3年つきあっている彼女がいるのに、二股をかけている男。――前園晃司。
 ――あの人と、何かあったんだろうな。
 それだけは察しがついたが、自分が気にしても仕方のないことである。
 ――また話しかけられたら、今度はちゃんと聞いてあげるか。ああ見えて、本当に前園さんのことが好きだったんだろう。
 藤堂は気持ちを切り替えて、人気のないコピー室に入った。

 




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