「藤堂さん」 果歩の声がしたのは、立ち上げたパソコンで、南原の作成した資料を手直ししている時だった。 「驚いた、帰られたのだと思ってましたから」 驚いたのは藤堂も同じである。 もう時刻は十時半になる。そんな時間まで果歩が残っていることへの驚きと、彼女が両手で抱えているずっしりと重そうな書類への驚きだ。 まるでそうするのが義務かのように、完璧な笑顔で藤堂に微笑みかけると、果歩はコピー機を稼働させた。 ――体調、悪そうだったけどな。 しかも、また頼まれ仕事だ。 言っては悪いが、果歩自身がそれを断れない限り、藤堂がいくらフォローをしたところで、彼女を早く帰してあげることはできない。 (逆にいえば、それをやめれば的場君の立場が好転するとでも? そう思っているなら君も春日君と同じくらい浅はかというものだ) 那賀の言葉が頭をよぎる。 そうだ、これは僕自身が春日次長に言ったことでもあった。 それは制度ではなく、人の心の問題だと。―― 隣では、果歩がてきぱきとコピーの準備を進めている。彼女の手がこちら側に伸ばされたので、藤堂は急いでパソコン画面に意識を戻した。 白くて綺麗な指が、傍らに置いた書類の束を取り上げる。 上品で控えめな真珠色のネイル。毎日遅くまで残っているし土日も殆ど出勤しているのに、爪の先まで隙がない。 ――……給湯室で独り言を言っていた時は、隙だらけという感じだったけどな。 7年前もそうだった。 もろくて、壊れそうで、まるで天から落ちてきた雨の滴が、表面張力でかろうじて保たれているような危うさがあった。 それでも心の中の一番柔らかな部分に、ダイヤモンドのように硬くて美しいものを持っている。そんな風に思えるような人だった。 ――馬鹿だな、僕も。いつまで昔のことを引きずるつもりなんだ。 藤堂は胸の内で苦笑して思考を打ち切り、意識を自分の仕事に集中させた。 つい果歩の中に、7年前の彼女を探している自分がいる。 過ぎてしまったことは昨日の夢と同じだ。いくら振り返ったところでなんにもならない。 「…………」 ――しかし、この作業に関していえば、どうも、彼女の効率は悪すぎるようだ。 藤堂は横目で、もたもたとコピーをしている果歩を見た。 付箋をとってコピー機にセットした上で、40部ずつのコピーか。 小分けに作業を進めているようだが、どうしてまとめてコピーしないのだろう。彼女の後に僕が使わせてもらうつもりだったが、これではいつ終わるか分からないぞ。 その時、他課の職員がぱたぱたと駆け込んできた。 「あ、的場さん、ごめん。先に焼かせてくれる?」 「はい、どうぞ」 果歩はにこやかに笑んで、コピー機を停止させると、セッティングした書類を取り除いて後ろに下がる。 ――これは……このパターンは2回目じゃないか? 確かさっきも別の職員がきて、たった一枚のコピーを取るためだけに果歩の作業を中断させた。 コピー機は反対側のフロアにもある。そんな風にいちいち譲っていたら、ますます遅くなるばかりだ。 コピーを取り終えた職員が出て行ったタイミングで、藤堂は立ち上がっていた。 果歩は壁の方に顔を向けてこめかみを指で押さえている。多分、頭が痛いのだ。 藤堂が彼女の傍にある書類に手を伸ばすのと、その気配を察した彼女が振り返るのが同時だった。 驚いた目が藤堂に向けられ、すぐにそれがとってつけたような笑顔になる。 「これを、コピーするんですか」 「ええ、そうなんです」 明るい声だが、ほんのわずかな苛立ちがそこに含まれている。 本音では邪魔しないでと言いたいのだろうし、その気持はよくわかる。 が、このままにしておくわけにもいかない。 「計画係のものですね」 初見の資料だが、この時間に40部なら、用途は藤堂が用意しているものと同じだろう。 コピーを取るのは付箋の付いたページで、なるほど、結構な量がある。 ノンブルなし。この場合、剥がした付箋を次のページに貼り付けて目印とし、該当ページだけを引き抜いて一気にコピーを取るのが正解だが、連続して付箋が付いているページがかなりある。果歩にしてみれば、そこで混乱してして順番を狂わせるミスを犯したくなかったのだろう。 「…………」 藤堂は指先で手早くページをめくった。 「あっ」と果歩が声をあげる。やめてくださいという悲鳴が聞こえてくるようだったが、気づかないふりでページを捲り続けた。 「あの、係長」 躊躇いがちな果歩の声に、疲れと苛立ちが滲んでいる。 「すみません、……ちょっと、急いでいるのですが」 ページをめくり終えた藤堂は、やおら書類をコピー機の上に置くと、付箋がついているページを一気にまとめて引き抜いた。 「っ、か、係長?」 文字通り果歩が悲鳴をあげる。藤堂は次々と同じ作業を繰り返し、付箋付きページの全部を抽出した。そこから、今度は付箋をまとめて剥がしにかかる。 「す、すみません。それをされるとページの順番が分からなくなるんですけど」 よほど驚いたのか果歩の声がひっくりかえっている。 説明したところで理解されないだろうから、藤堂はその非難がましい声を無視して、作業の効率を優先させた。 ページをめくりながら、右上端の文字列を全て記憶したのだ。付箋があろうがなかろうが、この書類の並びを藤堂が間違える事は絶対にない。 「ちょ、困ります、あの」 「40部ですね」 付箋を取り外した書類をコピー機にセットすると、藤堂は40部のソートを設定してからスイッチを押した。 果歩の顔は見ないようにした。さぞかし怒っているだろうが、今は空気の読めない人で通すしかない。 「的場さんは、席に戻って仕事をしてください」 もうこの仕事は僕が引き受けたと伝えたつもりだったが、彼女からの返事はない。 その代わりものいいたげな気配だけが、ひしひしと伝わってくる。 この場で彼女と問答をする面倒さから、藤堂は少しだけ口調を冷たくした。 「庶務の仕事が、まだ残っているんじゃないですか」 その時、また誰かがコピー室の中に飛び込んできた。 「あっ、すみません」 その声に、藤堂は振り返った。初めて正面から見た前園晃司は、流奈が夢中になるのも頷けるほど、すっきり整った綺麗な顔をしていた。 印象は全く違うが、切れ長の形のいい目が少しだけ雄一郎に似ている。 「このコピー急ぎなんですが、ちょっと割り込みさせてもらえませんか」 振り返った果歩が、慌ててコピー機を止めようとする。 彼女の指がスイッチに触れるまでの秒で、藤堂は断るべきだと判断した。 果歩がセットした用紙を下ろして、前園晃司が新たにコピーを取った後、再びコピー機を元の状態に戻すのに正味2分。 この足の速そうな男が反対側のフロアに駆けていってコピーを取るのにかかる時間は1分。 「前園さん、申し訳ないが、反対のフロアのコピー機を使ってください。こちらも急いでいますので」 ごく当たり前のことを言っただけなのだが、前園という男の目がむっとしたのがすぐに分かった。 「……はぁ」 「お急ぎのところすみません」 簡単に感情を表に出す人なんだな、と駆け去っていく男の背を見ながら思った。 もっとも大概の人は、驚くほどあけっぴろげに負の感情を見せてくれる。 それが自分にとって損になることを分かっていないのか、僕にはそれを見せても害がないと思っているのか。 「……あの、係長」 果歩の声がしたのと、コピー機が原本読み込みを完了させたのが同時だった。 「はい?」 返事をしながら原本をコピー機から下ろした藤堂は、それに剥がした付箋を元通りの位置に貼っていった。 それを抜き取った元の書類に元通りに挟みこむ。 果歩がひどく奇異な目で一連の作業を見守っているのが分かる。 どうしてそんな真似ができるの? 適当にやってるの? という彼女の心の声が、不安げな視線から伝わってくるようだ。 「これは明日の市長ヒアの資料です。いるのは、今年度の財政関係のところだけなんですよ」 「はぁ……」 我ながらいい言い訳だと思ったが、それだけでは意味が通じないのか果歩はぽかんとしている。 「僕も、会議に出る予定ですから、記憶してしまっているんです」 彼女を安心させるつもりが、余計に混乱させたのか、ひどく微妙な表情をされる。 コピーを終えた果歩が逃げるようにコピー室を出た後、藤堂ははぁっとため息をついた。 ――間違いない。 かなり余計な真似をしてしまったようだ、僕は。 ************************* ――今日は、いつもより人が多いな。 昼休憩、いつものように弁当を買って屋上に上ると、あらゆるベンチが人で埋まっている。 4月にはいって曇りがちだった空は、今日は眩しいほどの晴天だ。 藤堂がそうであるように、せめて昼だけでも息苦しい執務室から解放されたい人が、青空を求めて集まっているのかもしれない。 ようやく日当たりの悪い場所にひとつだけ空いているベンチを見つけた藤堂が、そこに向かって歩いて行くと、 「あっ、あそこ空いてる、しかも日陰だよ」 「早く早く、誰か来ちゃう前に席を押さえないと」 そんな声を上げる女性を2人を追い抜いて、ベンチを占領するわけにもいかない。 こりこりと耳の後ろを掻いてから、11階に戻ろうと再び元来た方向に向かって歩き始めた時だった。 「係長」 ――ん? 一拍の間の後、声のした方を振り返ると、少しためらった風にベンチに座っている女性が手を挙げた。 「こちら空いてます。よかったらどうぞ」 的場さんだ。 咄嗟に対応に窮した藤堂は、今さら断るには、気まずい間が流れていることに気がついた。 ――困ったな……。 あまり食事をしているところを人に見られたくない。 この人と仕事を離れてどう会話していいかも分からないし、一昨日のコピー事件以来、「この人何者なの?」といわんばかりの視線を感じるのも居心地が悪かった。 というより、僕と2人でこの人は気まずくないのか? 僕は――自分から会話なんて、何一つできないぞ。 「どうぞ」 案の定、彼女の顔にも「困ったことになった」という感情がそこはかとなくにじみ出ている。 つい声を掛けたものの、いざそうなるとどうしたらいいか分からない――といったところだろうか。 断るのが正解だったと思ったが、もう遅い。 「助かりました。すぐ終わりますので」 藤堂はぎりぎりベンチの端に寄り、コンビニの袋を果歩の反対側に置いた。 「……誰かと待ち合わせですか?」 「いいえ」 藤堂は三つ買った弁当のひとつを取り出したが、そう聞いた彼女の視線は、中身の詰まったコンビニ袋に釘付けになっている。 「すみません、全部僕のです」 仕方なく、藤堂は袋をふたりの間に置き直した。 どうせ僕に興味などないだろうし、この話題が気まずい空気の潤滑剤になればむしろ助かる。 「大飯ぐらいでして……はぁ、それが恥ずかしくて、いつもここで食べているんです」 「……、そ、そうですか」 まぁ、引くよな。 しかも全部がご飯増量だ。 このエネルギーがどこに消えるのか全くの謎だが、食事の補給を忘れると思考の働きが明白に鈍くなる。 これでも十代の頃に比べたらかなり減ったのだが、――まぁ、話したところで理解されるわけがないか。 ちらっと果歩の方に目をやった藤堂は、逆に訝しく眉を寄せた。 膝に乗せた手のひらサイズの弁当箱には野菜しか入っていない。他には小さな水筒ひとつしかないようだ。 もしかして、持ってくるのを忘れたのだろうか。 ひどく気まずげにレタスをつつく果歩をしばらく見つめてから、藤堂は言った。 「よければ僕のを……」 「えっ?」 藤堂が袋に手を伸ばすと、果歩はびっくりしたように両手を左右に振った。 「いえいえ、いりません。ほんと、結構です」 その果歩が、張り詰めた糸が不意に緩んだように、目元に優しい笑いを浮かべる。 「ふっ……」 ん? 何で笑う? ――……ん? その刹那、自分の耳が不意に熱くなった気がして、東堂はびっくりして胸の辺りを手で押さえた。 なんだ、これ。 「スポーツか何か、やってらしたんですか」 意味もなく動揺したまま、藤堂は視線を自分の弁当に戻す。 彼女が返事を待っている。 おかしいな、すぐに言葉が出てこない。食事前で思考が鈍っているせいだろうか。 「……少しですが、その頃のくせが抜けなくて」 たっぷり三十秒も考えてから、藤堂は嘘をつくか本当のことを言うか適当に誤魔化すか――の三択をごっちゃにした回答をした。 スポーツといっていいかは微妙だが格闘技を習っていたし、そのせいもあるのか、十代の頃は今の何倍も食べていた。 「これでも大分、量は減ったんです」 「……量?」 「当時は、一日5食食べていましたから」 ぱちぱちと果歩が瞬きをする。 それきり会話が途切れたので、救われた気持ちで、藤堂は箸を動かした。 それでもどこか落ち着かない気持ちが、彼女の笑顔を見た瞬間、不思議に跳ね上がった鼓動の余蘊のように残っている。 ――あの時と、同じ笑い方だったな。 (ベルボーイさんは、エントランスに立っているのがお仕事なんじゃないですか) 分からないな。だからこんなに奇妙な気分なのか? さっきから頭のアルゴリズムが上手く機能していない。 その居心地の悪さが、自分をひどく動揺させている。 落ち着け、自分。 7年間、僕が想い続けていた人はもうどこにもいない。――それはもう、頭の中で整理をつけているじゃないか。 「……あの、この間はすみません」 「……はい?」 迂闊にも自分の思考の中にいた藤堂は、そこで初めて果歩が話しかけていることに気がついた。 しかし、すみませんとは? 彼女に謝られるようなことを何かしただろうか。 少し言いよどんでから、思い切ったように果歩は口を開いた。 「コピーです。お世話になりました」 ――……コピー? ああ! 「いいえ」 そうか。謝ったのではなく、お礼だったのか。 ん? でもわざわざお礼を言われるようなことだろうか。同じ係で仕事をしている以上、彼女の仕事は僕の仕事だ。 では「すみません」というのは、やっぱり謝罪……? 「前は、何の仕事をされていたんですか」 「――、」 唐突な会話の変転がのみこめずに、再び藤堂は混乱した。 虹彩の大きな瞳を好奇心に輝かせて、果歩がじっとこちらを見つめている。 初めて明るい日差しの下で見る白い肌は、抜けるような透明感があり、職場では一点のくすみもないように見えたのに、頬骨のあたりに小さなそばかすが散っていた。 それが、彼女が初めて藤堂に見せてくれた素顔のようで、何故だかふっと胸のあたりが熱くなる。 「……、事務です、今と変わりありません」 「食事、いつも、コンビニで買ってらっしゃるんですか」 「一人暮らしなもので、つい」 「身体には、あまりよくないですね」 藤堂は一瞬固まり、視線だけを果歩の膝の上にある弁当箱に向けた。 どっちが……? と言いかけたが、それをのみ込んで軽く咳払いをする。 「基本的に雑食なんです」 昔から質より量で、それで義兄や従兄弟たちからも随分と馬鹿にされた。 ついでにいうと、小料理屋のチェーン店をしている母親にも。 そこで彼女の質問が途切れ、ついで訪れた十数秒の沈黙に、藤堂は再び落ち着かない気持ちになった。 これは――もしかして、僕の回答が間違っていたパターンだろうか。 社交儀礼で会話のキャッチボールを求められているのに、それを見送ったか、全く別方向に投げ返してしまったパターン。 「……、な、なんでしょう」 そこで果歩が、瞬きしながら困惑気味の笑いを浮かべたので、藤堂は彼女を見つめすぎていたことにようやく気がついた。 正確には、顔を見ていたというより、彼女の感情の流れをくみとろうと必死になっていたのだが。 「いや――」しまった、おかしな誤解をされなければいいが。この場合の模範解答はなんだ? 顔に何かついてますよ? 違う違う。 「よく喋る方だと思いまして」馬鹿か、僕は。何をとち狂ったことを言ってるんだ。 案の定、果歩の顔から笑いが消える。さっと伏せられた横顔からは、侮辱された人の羞恥がにじみ出ている。 藤堂が無神経なことを言った時によく見られる反応で、相手の自分への関心はそこで見事に遮られる。 そういう意味では、今の回答は正解だ。 僕に、仕事のつきあい以上の関心を持たれても困る。 聞かれたところで何も答えられないし、いちいち馬鹿みたいな嘘をつくのも気がひける。 「…………」 でも、――何故だろう。ここで心のシャッターを下ろしたくもない。 「僕は、元来、喋るのが苦手でして」 「……、すみません、私ったら」 きっと、喋るのが苦手なので話しかけないでくれと言われると思ったのだろう。 うつむいた彼女は、おしゃべりな自分を恥じ入るように頬に手を当てている。 彼女が怒っていないと分かってほっとしたと同時に、職場で見せる反応との違いに、冷静を装いつつもどぎまぎした。 ――どうもさっきから調子が狂うな。 「だから、よく喋る女の人といるのは、楽しいです」 「…………」 あれ? 僕は今、なんと言った? 無言で弁当箱をつつく果歩の横顔を見た藤堂は、ごくっと喉を鳴らして前に向き直った。 何故だか彼女の薄い耳たぶは薄らと赤みを帯びて、うつむいた横顔は明らかに戸惑っている。 ――あれ? おかしいな。 藤堂は眉をしかめ、自分の胸に手を当てた。 彼女の異変が伝染したのだろうか? 心臓の鼓動が心なしか速い気がする。 食欲は満たされたのに、頭が全く機能しない。 直ちにこの失言をフォローしなくてはならないのに、何故僕の頭は機能不全に陥っているんだ?…… |
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