「奥手だと思ってたのに、案外手が早い人だったんですね」 いきなり声を浴びせられたのは、駐輪場に入った時だった。 午後9時。季節は4月中旬だが、昼の陽気とは裏腹に、この時間となると上着が必要になるほどまだ寒い。 驚いた藤堂は、手にした鍵を落としそうになっていた。 暗がりからひょっこり顔を出したのは、――もうこのパターンにはすっかり慣れてしまったが、須藤流奈である。 今日は、膝小僧が剥き出しになった黒のワンピース。身体にぴったりとフィットする素材で、男ならまず目のやりばに困るしろものである。 「別に、待ち伏せしてたわけじゃないですよぉ。藤堂さんが帰るのが見えたから、先回りしただけです」 なお、たちが悪いじゃないか。 「僕に、何か用ですか」 「飲みに行きません? 今から」 「――?」 一瞬何を言われているか分からなかったが、すぐに理解した藤堂は眉をひそめて流奈の傍らを通り過ぎた。 「遠慮しておきます。明日も朝が早いので」 「明日は土曜ですよ? もしかして的場さんとデートの約束でもしちゃいました? あっ、それはないか、あるわけなーい」 何が言いたいんだ、この人は。 前園晃司を好きなはずのこの人が、どういう意図で僕に絡んでくるのかは全くの謎だが、ひとつ分かったことがある。 今日の昼に、的場さんと屋上にいたところを見られたのだ。 「……たまたま、一緒になっただけですよ」 「またまた〜、狙ってたんでしょ? だって的場さん、お昼は大抵屋上だもん。人事課のすっごい綺麗な人と」 「…………」 「興味ありません? 宮沢さんっていって、それこそ庁内の男の憧れの的ですよ」 (りょう? 私、うん、人事課に明かりが灯ってたから、まだ残ってるかなと思って) そうか、りょうというのは女性だったのか。 待て、何をほっとしているんだ? 僕は。 どうも今日の昼から頭の調子がおかしいようだ。 「本当に、私とつきあいません?」 ――え? 「てゆっか、一人になりたくないんです。今日も明日も、……明後日も」 流奈は笑っていたが、藤堂と目が合った途端、その笑顔がどこか歪んだ。 「今から、藤堂さんの部屋に行っちゃだめですか」 「…………」 様々な言葉が頭に浮かんだが、何が最適かは分からなかった。 そもそも最適解を出すための基本情報が著しく不足している。この子は――何がしたいんだ? 「そんなことをしても、なんの解決にもなりませんよ」 「別にそんなの求めてないし。ただ寂しいんです。それに藤堂さん、あったかそうだもん」 「体温は低いとよく言われます」 「そういうことじゃなくて……」 苦笑した流奈は、くすくす笑いながら、藤堂の隣にすり寄ってきた。 「身体が大きいから、流奈のことすっぽり包んでくれそう。セックスしたいんです。藤堂さんみたいに大きくてあったかい人と」 「…………」 「今週末、ずっと二人でお布団の中にいませんか?」 「…………」 ――はい? ようやく、その意味を理解した藤堂は、飛び上がって逃げたい気持ちをかろうじて抑えた。 今の言葉の意味が分かっているんだろうか? 僕が女性だったら完全にセクハラだぞ。 とりあえず、落ち着こう。 よく分からないが、この人はなんらかの理由で傷ついている。 その傷を、僕がこれ以上広げてはならない。 「生憎、布団は一人分しかない上に、僕さえ収まりきらないんです」 「別にいいですよ、そんなのどうでも」 「僕はよくありませ、――」 「わぁ、おっきい」 背後から腰に回された腕を、藤堂は注意深く掴んで引き離した。 たまたま人がいなくて幸いだったが、今後、この人と人気のない場所で二人になるべきじゃないな。 「それに、週末は本当に用事があるんです」 「なんの?」 「母がこちらに来るので、僕が色々案内して回ることになっているんです」 それまで拗ねたような目で藤堂を見上げていた流奈は、何がツボだったのか、そこで弾けたように笑い出した。 「あっはは、はは……、嘘くさ。藤堂さんもそういう時は、やっぱり嘘をつくんですね」 「別に、嘘はついていないですよ」 「彼女が家に来る時、前園さん、大抵こう言うんです。週末は実家からお母さんが来るって」 「…………」 「それでばれてないと思ってるんだから、ほーんと馬鹿」 そういうことか。 微かにため息をついた藤堂は、屈み込んで自転車の鍵を外した。 「僕は、嘘じゃないですよ」 「どうだかなー。一人暮らしの男は、週末お母さんが来るのがお約束なんですか?」 「布団に関しては嘘です。さすがに僕の身長には合わせている」 藤堂が白状すると、流奈はひどく不思議そうな顔になった。 「話があるなら、バス停まで送りましょうか」 「……別に、てか、そんな短い時間で話せることじゃないですから」 「じゃあ、12番が来るまで一緒に待ちますよ」 「…………」 流奈から返ってくる言葉はない。 不審に思って振り返ると、彼女は両手を後ろに組んでうつむいていた。 少しドキッとしたのは、その目がわずかに潤んでいるように見えたからだ。 また僕は、何か余計なことを言ったのか? 「……その無駄な優しさが、藤堂さんのいいところだけど、悪いところかもしれないですよ」 「というと?」 流奈はにこっと笑うと、それまで拗ねていたのが嘘のようにからっと明るい声になった。 「わかんないならいいです。じゃ、自販機でジュースおごってください」 ************************* 「悪いが急な来客が入った。11時から14階の会議室を押さえてくれないか」 月曜日。 用事があって次長室に入った藤堂に、電話を切ったばかり春日は開口一番でそう言った。 「分かりました。何名お越しですか?」 今朝、果歩は那賀局長に頼まれて隣町の法務局まで赴いている。 臨時職員の妙見も休みで、こうなると機能不全を起こしている総務課で、庶務的なことをするのは庶務係長である藤堂しかいなかった。 「一人だ」 「……、一人」 機械的に繰り返した藤堂は、すぐに分かりました、と返事をしてから次長室を出た。 一人なら次長室で会えばいいのに、それができない相手だということだ。 ――待てよ。こういう時のお茶は誰が持っていけばいいんだ? 他課の臨時職員に依頼してもいいが、春日がそれを望まないかもしれない。 すぐに電話で会議室を予約した藤堂は、念のためを思ってそのことを春日に聞いた。 「もし、的場君が戻っていたら頼んでくれ。戻らない時は、放っておいてもらって大丈夫だ」 ひどく奇妙な回答だったが、少なくとも重要な来客ではないようだ。 こうなると可能性は限られてくる。相手は、春日を私用で訪ねてくるのだ。そして春日は、その相手と執務室で会いたくないと思っている。 (青木……、いえ、また寄らせていただきますから) 先週、春日を訪ねてきた女性のことが脳裏をよぎる。 いや、仮に誰だとしても僕が詮索することではないか。喫緊の問題は、お茶をどうするかだが……。 「一体的場君はどこに行ったんだ、郵便物を出し忘れるなんて前代未聞だぞ!」 執務室に戻ると、中津川のキンキン声が響いていた。 「すっ、すみません、僕が頼まれていたんですけど、他の仕事が忙しくて」 その隣で青い顔で言い訳しているのは、新人の水原だ。 驚いて足を止めた藤堂の前に、引きつった顔をした大河内が駆け寄ってきた。 「何があったんですか?」 「それが――的場さんが、郵便物を持っていかずに、そのまま外出しちゃったみたいなんですよ」 「……郵便物? 的場さんなら法務局に書類を取りに行かれたんじゃないですか?」 意味が分からない藤堂に、大河内は手早くことの経緯を説明してくれた。 郵便物とは、今日投函する手紙のことで、それは都市計画局分を総務課がとりまとめて地下の文書係に持っていくことになっている。 期限は午前10時。それを過ぎれば明日の投函に回される。 藤堂は時計を見た。10時を少し過ぎている。 「もうだめなんですか」 「ええ。定刻を過ぎていることに気づいた水原君が文書係に電話したんですが、もう集荷が終わった後だから今日は無理だと」 「はぁ……」 言っては悪いがその程度のことで激高している中津川の温度感が分からず、藤堂はぽかんと口を開ける。 「なんだ、そんなところに突っ立っていたのかね」 その中津川の目が、標的を見つけたといわんばかりの目で藤堂に向けられた。 怒っているというより、どこか勝ち誇ったような傲岸な色が、くぼんだ眼下の底にある。 「部下が部下なら、君も君だな。庶務の仕事をうちの新人に任せるとは何事だ。うちにはな、もっと大事な仕事がいくらでもあるんだ」 さまざまな感情が胸を駆け巡ったが、ここで正論をぶつけることの無意味さと、それにかかる時間を考えれば、取るべき態度は一つしかない。 「すみません。僕の認識不足でした」 「次から、庶務のことは庶務の中で解決したまえ。的場君は何か勘違いしているようだが、新人は雑用をやらせるためにここにいるわけじゃないんだぞ」 「…………」 それを言うなら的場さんもそうだろう。 一瞬抑制できない感情が、何かの言葉になって口から出そうになったが、藤堂は唇を引き結んで、神妙な態度を装った。 ここは合理的に考えよう。 中津川補佐に反論したところで、この年代の人の考えを変えることは不可能だし、的場さんにとっていいことは何もない。 僕の任用期限は1年だし、彼女が那賀局長の退職と同時にこの職場を離れるのは既定事項のようだ。 たった1年、この頑迷な人に上手く合わせていけばいいだけの話だ。 「聞いておるのかね、藤堂君。新人といえば君も新人なんだ、まずは君が役所のいろはを一から学ぶべきなのではないかね」 「おっしゃるとおりです」 隣では、大河内が気まずげに目を逸らしている。 庶務係では、南原が面白い見世物でも見るような目でこちらを見ている。 「むろん、的場君がオーバーワークなのはわしも承知しているよ。しかしな、そもそも郵便物を任せている臨時職員を甘やかしているのは的場君なんだぞ」 それは、初めて耳にすることだった。 「というと?」 「はっ? 庶務係長が未だその程度のことも知らんのかね。皆がやめさせて別の人間を雇えと言っておるのに、的場君一人が頑固にそれを拒否しているんだ」 「…………」 それは――何故だ? 「まぁ、的場さんもいざとなったらなかなか頑固なところがありますからね」 藤堂の背後で大河内がこそっと囁いた。 「局長のミルクにしても、周りになんと言われても意地みたいに続けてますし」 「…………」 彼女が頑固。 どちらかと言えば、従順すぎるほど従順のように見えるのに。 「――で? この失態の責任をどう取るつもりなんだね? 明日中に市民に届けなければならない郵便物もあるんだぞ」 「僕が直接郵便局に持っていけばいいのでは?」 藤堂があっさり言うと、鬼の首を取ったようにふんぞりかえっていた中津川が、棒をのみ込んだような顔になった。 「……っ、ああ、そうだな。分かっているなら、さっさとそうしたまえ!」 「ご迷惑をおかけしました」 なんだ、そんな簡単な解決策も分からずに怒っていたのか、この人は。 どこか拍子抜けした気持ちで郵便物が入ったボックスを持ち上げると、どこかでこの騒ぎを見守っていたのか、流奈がすっと近づいてきた。 「大変でしたねー、おっさんのヒスって、マジみっともないんだから」 「まぁ、僕の落ち度ですから」 「そういうところが物足りないんだけど、――ま、いっか」 「……?」 同じ町にある郵便局は、ここから歩いて3分もない距離にある。 エレベーターホールに出た藤堂の後を、何故か流奈は軽い足取りでついてきた。 「僕に何か用ですか」 「別に? ついでがあるから一階まで一緒に行こうかなって」 「はぁ」 ――まいったな……。 と思ったが、この際、局の事情に通じているこの人に聞いておきたいことがある。 2人でエレベーターに乗ると、藤堂は待っていたように口を開いた。 「的場さんが、妙見さんを辞めさせないという話は本当なんですか」 妙見とは、総務課で雇用している臨時職員の名前である。 一瞬なんの話? とでもいわんばかりの目になった流奈は、すぐに藤堂の聞きたいことを理解したようだった。 「本当ですよ。南原さんなんてずーっと文句言ってますから。若い女の子に変えて欲しいのに、的場さんだけが反対してるって」 南原の言い分もどうかと思うが――「何故?」 「シングルマザーでお子さんが小さいとかなんとか。的場さんお人好しだから、すっかり同情しちゃってるみたいです。でも、忙しい時期にあれだけ休む人なんてアウトでしょ。正規でも非正規でも」 「まぁ、確かに」 「的場さん、私が妙見さんをフォローしますって、課長にも補佐にも言い切ったみたいですよ」 「…………」 「それで補佐はカンカンです。そういうのもあって的場さんの仕事は手伝わないっていうムードができてるんじゃないですか」 (私にも私の矜持があるように、的場君にも的場君の矜持があるとは思わんかね) ――そういうことか……。 あれだけ周囲に合わせているように見える彼女にも、譲れないものがあるのだ。 でも、それを間違いだと断じることが、はたして僕にできるだろうか? 僕自身、周囲になんと言われても変えられないものを抱えて生きているのに。 「実は別れたんです。前園さんと」 「……? ああ」 果歩のことを考えていた藤堂は、そこでようやく、流奈がまだいたことに気が付いた。 それは――慰めていいのか、励ましていいのか。 「正確には、別れる口実をあげたんです。金曜の夜、忘れ物があるって彼の部屋に行って、ちょっとしたきっかけを残してきましたから」 「……きっかけ?」 「前園さんは馬鹿だから気づかないだろうけど、彼女は気づくんじゃないですか。部屋を隅から隅まで掃除して、冷蔵庫の中まで綺麗にするようなまめな人だかから。てか重すぎでしょ。そういういい妻アピールが、自信のない男には逆にプレッシャーだって分かんないのかな。いい年して」 「はぁ」 「こう見えて流奈、彼女に気づかれないようにかなり気を遣ってたんですよ」 「はぁ」 これは別れた報告か? それともただの愚痴なのか? 僕には全く経験のない分野を、こうも省略して話されると、何を話されているのかさっぱりだ。 「今のところなんの反応もないですけど、時間の問題かなぁ。――ふふっ、明らかに今朝はテンション落ちてましたからね」 「前園さんの?」 「……んー、あっ、そういえば藤堂さん、前園さんを怒らせました?」 「え?」 藤堂は眉を寄せた。彼が僕に対して怒りを覚えるというなら、原因は目の前のこの人でしかないような気がするが。 「なんだか深刻そうな顔で、うちの五条原補佐に藤堂さんの悪口を言ってたから。もしかして午後にちょっとした騒ぎになるかもです」 「補佐に? それは仕事の話なんですか?」 「もちろんそうですよ。――ま、大丈夫か。藤堂さん、スルースキルが高そうだし」 「どういう意味ですか」 「上司の小言をスルーするスキル。中津川さんがキャンキャン怒っても、ずっと涼しい顔してたじゃないですか」 エレベーターが一階に着く。 まだ話の続きを聞きたい藤堂の背を、流奈はとんっと軽く押した。 「私、藤堂さんにしようと思って」 「……?」 その言葉の意味が分からないままにエレベーターを降りると、中に残ったままの流奈がひらひらっと手を振った。 「もともとあの完璧な人から何か奪ってやりたくて、からかい半分でちょっかい出しただけなんです。でももう疲れちゃった。いい加減流奈も幸せになりたいなって」 「……はぁ」 ぽかんとする藤堂の前でぱちんとウインク――扉が閉まる。 最後の言葉の意味は分からなかったが、――僕にする? ――それはまさか……、間違ってもそういう意味じゃないよな? |
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