「藤堂君、すまないが14階に行って少し遅くなると伝えてもらえないか」 郵便を出し終わった藤堂が執務室に戻ると、何かトラブルでも起きたのか険悪な形相で春日が次長室から出てきた。 「すまないねぇ、春日君、こういう時にいつも君頼みで」 その背後から、全く悪びれない顔で那賀局長がひょこひょこ出てくる。 「いえ」と短く答えて背広の上着を羽織った春日は、疾風のような速さで執務室を出て行った。 藤堂は思わず庶務係を見たが、誰も事情が分からないのか、首を横に振るばかりである。 果歩はまだ戻ってきていないようで、藤堂はひとまず14階に上がることにした。 この庁舎の14階には、共有の会議室と書庫しかない。 予約した一番狭い会議室――すでに使用中になっているその扉をノックする。 「はい」 中から、どこか甘ったるい女性の声がした。間違いない、一度来庁した青木という女性だ。 扉を開けると、薄桃色のワンピースに白い上着を着たその女性が、控え目に微笑んで頭を下げた。 飲みの席での噂が本当なら元市職員。そして総務局の庶務――果歩の先輩にあたる人だ。 「お待たせして申し訳ありません。春日ですが、少し遅くなるようです」 そこまで口にした後、お茶のことをすっかり失念していたことに気がついた。 しまった。そこまで気が回らなかった。 こういう時的場さんがいれば――いやいや、何を僕まで中津川さんみたいなことを言っているんだ。 藤堂は咳払いをして、ホテルでアルバイトをしていた頃の対応を思い出した。 「いつ戻るか分かりませんが、お待ちの間、お飲み物でもお飲みになりますか」 しかし青木という女性は、びっくりしたように目を見張ると、とんでもないと言わんばかりに両手を振った。 「いえいえ、結構です、男性にお茶なんて頼めません!」 「……あ、いえ」 そこまで必死に拒否しなくても。 「昨今は、男性がお茶出しをすると聞いたけどとんでもないわ。役割以前に、そういうのはおもてなしの空気というものなんです。あなたは、義務で出されたお茶が美味しいと思いますか?」 「いえ、僕はオーダーを取るだけで、お茶は別の人に頼むつもりですから」 雰囲気は柔らかいのに、言っていることは中津川さんみたいだな――と思いながら、藤堂かはろうじて言葉を挟んだ。 女性もまた、言い過ぎたことに気づいたのか、ほっと両頬を赤く染める。 「っ、そうね。お茶を入れるのは女性の方ね。だったらいいわ。でも――いえ、結構です。この時期庶務は忙しいでしょうから」 「お気遣いありがとうございます。では、僕が何か買ってきましょうか」 「本当にいいの。――あなた、いい人ね」 藤堂を見上げた女性は照れたように笑い、急に雰囲気が和やかになった。 「あなた、春日さんの部下?」 「はい、総務課で勤務しています」 「そう。私も以前は、そちらの庶務係で局長秘書をしていたのよ。来客の多い部署ですもの、忙しいのはよく知っているわ」 「春日次長とはその時に?」 女性が話しを続けたそうな雰囲気だったので、つい藤堂はそんな質問をしている。 「いえいえ。春日次長とは同期で……一緒の職場になったのは、私が34の時かしら。彼はもう主査でね。その時は心の底から嫌いだったわ」 ころころと明るく女性は笑った。 「冷たいし嫌味だし、いちいち説教してくるし……。犬猿の仲で有名だったのよ。私も私で相当気が強かったから」 「そうなんですか」 「そうよぉ。あの仏頂面、今でもどうせ変わってないんでしょ」 藤堂は苦笑した。どこか子供っぽく見えるその女性からは気の強さの片鱗も見えなかったが、一切のプライベートを垣間見せない春日の話は興味深い。 「お会いになるのは、久しぶりになるんですか?」 「そうねぇ……」 その刹那、それまで明るかった女性の表情にわずかな影が滲んだ。 「彼はずっと本庁で、私は……40歳からずっと区役所を転々としていたから。その頃から一度も会うことはなかったわね」 「次長はお忙しい人ですからね」 「同期で一番の出世頭――ああ、藤家君がいたわね。今の総務局長の」 入庁試験の面接官。春日とは違った意味で強面の男だ。 「藤家君のせいで、彼はいつも2番手よ。昔はそれが残念な感じだったけど――そうね、春日君はいつも他人の評価は関係ないみたいな顔で仕事に打ち込んでいたわねぇ」 ――春日君か。 なんだか奇妙な気分だな。あの次長のことを、そんな風に呼ぶ人がいたなんて。 「あなたの歳は? もしかして今年入った新人?」 「えっ、いえ……」 不意に関心を自分に向けられ、藤堂は戸惑って言葉に詰まった。 「新人ですが……、26歳です。ご存じないかもしれませんが、社会人枠採用で」 「まぁ、最近じゃそんなものがあるのね。春日次長は新人にも容赦ないから大変でしょう。しかも自分の行動の理由を、いちいち話してくれないし」 「……と、いうと?」 女性は少し寂しげな目になって微笑んだ。 「誤解されたらされっぱなしってこと。怒るのも叱るのも、ちゃんと相手のことを思ってのことなのに、一切言葉にしてくれないんだから」 「…………」 「最近になって、ほんの少しだけ思うようになったかしら。……あの時、春日君の言うことをちゃんと汲み取っていたらなぁって。男だの女どの変な意地を張らずに、もっと色んな仕事に取り組んでいたら、あと何年か仕事を続けようって気にもなったのかしらね」 「青木さん、待たせて済まなかった!」 その時、そんな慌てた――全く春日らしからぬ声とともに、扉が開いた。 ぎょっとしたような春日の目が、その前に突っ立っている藤堂に向けられる。 「……っ、君は、何をしているんだね」 「待つ間、私の話し相手になってくれていたのよ」 すかさず女性が口を挟む。その途端、叱られた子供みたいに春日が口をつぐむのが不思議だった。 「ありがとう。どうぞ、お仕事に戻ってくださいな」 女性に促され、藤堂は一礼してから会議室を出た。 階段を使って執務室に戻る最中、いつかの夜、先ほどの女性を揶揄していた心ない言葉の数々が思い出された。 (まぁ、どこでも持て余してるって噂はちょいちょい入ってきてたよ。プライドが高い上に、お茶出す以外仕事が何もできないんじゃ仕方ないさ) (最後はケースワーカーだろ? 青木さんにしてみりゃ、実質的な退職勧告だったんじゃないか) 執務室に戻ると、休みだとばかり思っていた臨時職員の顔があった。 「すみません係長、今朝は子供を病院に連れて行っていたものですから」 ぺこぺこと頭を下げる、痩せた――薄幸そうな女性を見ると、藤堂にも何も言えなくなる。 この人と長く付き合っている果歩が、自分で責任を持って守ると決めたのだ。 それが正解か不正解か、答えの出せる人はどこにもいない。もちろん、藤堂にも分からない。 ただ―― (あの時、春日君の言うことをちゃんと汲み取っていたらなぁって) (男だの女どの変な意地を張らずに、もっと色んな仕事に取り組んでいたら、あと何年か仕事を続けようって気にもなったのかしらね) 「妙見さん、ひとつお願いしてもいいですか」 急いで給湯室に向かおうとする妙見に、藤堂はそう声を掛けた。 ************************* 扉の向こうから、和やかな笑い声が聞こえてくる。 ――これは……春日次長に、後で相当叱られるな。 藤堂は覚悟を決めてから、その扉をノックした。 案の定、中の笑い声がぴたりと止まる。 「入りたまえ」 「失礼します」 居住まいを正して扉を開けると、殺気にも似たオーラを放つ春日が、死神のような陰惨な目で睨んでいる。 藤堂はこくりと唾をのんだ。 「まぁ」 藤堂が何か言う前に、女性が驚いたような声を上げる。 トレーを片手で持ち直した藤堂は、ホテル時代に習ったやり方で頭を下げた。 「失礼します」 正確なマナーで女性の前にコーヒーを出すと、むっと眉を寄せた女性が、ひどく気まずげに春日を見上げた。 「……あなたの職場では、男性にお茶を出させるの?」 「僕は以前接客のアルバイトをしていたので、役所の女性よりはこういうことが得意なんです」 春日が何かを言う前に、藤堂は姿勢を正して一礼した。 この場合、やりすぎなくらい丁寧な、ホテルマンの一礼である。 「下に降りたら、皆忙しそうだったので、つい僕がやってみたくなりました。不快でしたら申し訳ありません」 先ほど妙見にお茶やコーヒー豆の場所を聞き、自分で用意したものである。 妙見はびっくりしていたし、自分がやると言って聞かなかったが、藤堂も譲らなかった。 こうすることが、この女性が心のどこかで悔いていることのアンサーになるような気がしたのだ。 しばらく女性は黙っていたが、やがて唇にほのかな微笑を浮かべてコーヒーカップを取り上げた。 「あなたのような素敵な男性に、美しいマナーで接客してもらって、不快に思う人はいないわよ」 「ありがとうございます」 「こちらこそありがとう。……とても美味しいわ」 ************************* 死刑執行人のような春日の目にさらされながら退室した藤堂は、しかし、これでようやくひとつの謎が解けたような気がしていた。 (わしにもわしの矜持があるように、的場君にも的場君の矜持があるとは思わんかね) 青木と同じような発想を果歩が持っているとは思わなかったが、彼女も彼女なりの信念があって、今のやり方で仕事をしているのだ。 彼女にしか分からない譲れない何かがあるから、周囲にどれだけ嫌味を言われても自分のやり方を貫いているのだろう。 むろん那賀局長もそうに違いない。 青木という女性にも、春日以外に忠告してくれた人はそれこそ沢山いただろう。 けれど彼女は変わらなかったし譲らなかった。 その結果が早期退職だとしても、それを間違っていると断じることが、果たして第三者にできるだろうか。 本人が、そういう生き方を選び、それが正しいと信じることで自我を守り続けてきたのだ。 そういった心の防衛本能――メカニズムは藤堂にもよく分かる。 ――……だとしたら、僕がコーヒーを持っていったのは失敗だったかな。 自分ではこれが最適解のつもりだったが、あるいは女性の自尊心を傷つけてしまったのかもしれない。 終始不機嫌そうだった春日の表情が、それがただの杞憂でないことを裏付けている。 ――後で次長にお詫びに伺うべきか。しかしあの顔は、二度とこの件に触れて欲しくなさそうだったが……。 「あっ、か、係長」 考え込みながら執務室に戻ると、またしても大河内が、先ほどよりさらに引きつった顔で飛び出してきた。 ************************* なるほど、どうやら僕は、先ほどこの人に恥をかかせてしまったのか。 藤堂は神妙に視線を伏せたまま、居丈高に声を荒げる中津川の声を聞いていた。 「どういうつもりだね。君は、一体なんの権限があってこんな真似をする」 (上司の小言をスルーするスキル。中津川さんがキャンキャン怒っても、ずっと涼しい顔してたじゃないですか) 決してそんなつもりはなかったが、傍目にはそう見えていたのだろうか。 戻って早々中津川の雷が落ちたのは、ただし郵便物のことではない。 回されてきた都市政策課の決裁文を、印を押さず起案者に戻してしまった件だ。 とはいえ、いきなりクライマックスモードに入っている中津川の怒りは、今朝の藤堂の態度に起因しているとしか思えなかった。 「いいか、我々の決裁は、いわば予算執行の最終承認だ。それ以前の事業に関する決定権はうちにはない。君には、ここに五条原補佐の印鑑が押してあるのが見えないのかね」 怒鳴り散らす中津川の隣には、都市政策部、政策課の課長補佐五条腹とその部下である前園晃司の姿がある。 五条腹補佐は生真面目な顔をしているが、前園晃司の方は――多分、いい気味だという目になっている。 僕はこの人に何か恨みでも買ったのだろうか? この人の起案文書に明確なミスがあったから修正をお願いしただけなのに、それがそんな目で返されることなのか? ――謎だ。 「聞いているのか! さっきからずっと黙っておるが、何か言ったらどうなんだ」 「申し訳ありません」 「何が申し訳ないんだ。ちゃんと自分の口でいってみろ」 「決裁が遅いことでしょうか」 「そうだ。それがどれだけ皆の迷惑になっているか、今一度自覚したまえ」 「はい」 「役所はな、君一人の都合にあわせて動いているんじゃない。民間ではその程度のことも学んでこなかったのか」 「申し訳ありません」 「君はお詫びだけは一人前だな。しかし何一つ成長しない。ただわしの小言を聞き流しているだけだろう」 「……いえ」 「心がな、ひとつもこもっていないんだよ!」 これ以上言葉を返すことの無意味さに、さすがに気持ちが折れそうになる。 顔をあげた藤堂の目に、目の前の光景が全く別のものとして飛び込んできた。 高い塔――中津川の塔、前園の塔、五条原の塔。 南原の塔、大河内の塔。 皆、その塔の中で自分を守りながら生きている。 僕もまた、その一人だ。 ほんのわずかに覗いた窓から、その場その場の最適解を出して生きているに過ぎない。 矜持や自尊心といった、他人に傷つけられたくないものを懸命に守りながら。 「これが、どれだけ重要な決裁か分かっているのか。それを貴様は、なんの権限があって勝手に投げ返したんだ」 藤堂の沈黙がますます相手を激高させたのか、どんっと机が叩かれる。 思考を止めて、藤堂は深々と頭を下げた。 「申し訳ありません」 「すぐに判を押したまえ、私が春日次長に説明する」 不思議だな。どうしてたったこのくらいのことで、この人はここまで怒れるんだろう。 「さっさと君の、それだけしか意味のない三文判を押したまえ!」 知りたくても、塔が高くて何も見えない。僕自身もまた、塔の中からしかその人を見られないから。 「いや、もういい、わしが代決する。君はもう何もするな」 僕は、本当に浅はかだった。 業務改革などとんでもない。 こんな僕に、そもそも何かが変えられるわけがなかったのだ。―― 「中津川補佐」 その刹那聞こえた声に、課内の全員が静まりかえった。 咄嗟に振り返った藤堂の視界に、緊張しきった面持ちの果歩が、おずおずと一歩前に出るのが見えた。 「……あの、春日次長は、……代決を嫌われる方なんです。理由がないとお許しにならないと思います」 藤堂は、数度瞬きをした。 高い塔の中から、小さくてか細い手が、そっと目の前に差し出されている。 必死に――塔から出ようとしている。 その幻想を遮るように、目の前で書類が散った。 「何を思い上がった真似をしているんだ!」 すうっと腕が消えて、再び伸びてきた塔が彼女の全部を覆い尽くした。 「春日次長のことなら、私の方がよく知っている。庶務のくせに、仕事にいちいち口を出すな!」 はっと藤堂は我に返った。 現実の光景の中では、果歩が唇を引き結んで懸命に感情をコントロールしようとしている。 彼女は明らかに今の中津川の言葉に傷ついており、その笑顔の仮面は砕けて床に落ちていた。 「申し訳……」 「さっさと局長にミルクでも持っていったらどうかね。それが君の仕事だろう」 誰もがまずいと思っていた空気が、中津川の残酷なジョークでようやく緩んだ。 さっと顔を赤くした果歩一人の心をずたずたに切り裂いて、五条原も前園もこの場を和ませるように苦笑する。 「すみませんね、五条原さん、どうもうちの庶務は使えないのが揃ってまして」 へらっとした口調になった中津川は、自分でばら蒔いた書類を果歩に拾うように命じると、眉をしかめて藤堂に向き直った。 「藤堂君、とにかく判を押したまえ、それが君の仕事だろう」 「できかねます」 自分でも思わないほど、はっきりとした声が出た。 ちらばった書類を無言で拾い集めると、藤堂はそれを中津川の机の上に置いた。 誰もが慄いたような顔で、そんな自分を見守っている。 「僕の決裁権は僕のものです。上司の命令で判を押すようになっていません」 「……な、」 中津川は、驚きとも怒りともつかぬ顔で、わなわなと唇を震わせている。 「なにを、言っとるんだね。ド素人のくせに……」 「代理決裁をするならご自由にどうぞ。僕は判を押せません。理由は前園さんに説明しました」 大股で自席に戻った藤堂は、自分の目に映る景色が変わっていることに気が付いた。 何が変わったというわけでもないのに、――何かが。 「すみませんが、的場さん」 不思議にすがすがしい気持ちのまま、藤堂は、立ちつくしている果歩に視線を向けた。 これから起こるであろう不快な対話に、今のこの人を巻き込ませたくない。 「資料室から、昨年度の議会答弁書を持って来てもらえますか」 「あ……、はい」 果歩が救われた人のように顔を上げる。 「申し訳ない。場所がよく分かりませんでした」 「すぐに」 彼女が出て行くのと、中津川が藤堂の決裁文書をひったくるのが同時だった。 「君という人間の底が割れたな、藤堂君。このことは、次長にもよく言っておくよ」 藤堂は黙って前を見ていた。 やってしまったものは仕方ない。 後は――もう、どうにでもなれだ。 |
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