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年下の上司 exera4 Gravity

藤堂瑛士の4月・前編(最終)


 いい天気だな。
 昨日はばたばたして昼食を取り損ねたから、1日ぶりの屋上だ。
 藤堂は伸びをすると、空いたベンチを探して歩き出した。
 日差しが厳しくなったせいか、女子職員の姿がいつもより少ない。
 日当たりのいいベンチを見つけた藤堂は、後から来る人のためになるべく端に腰を下ろし、買ってきた弁当を取り出した。
 ――役所というのは、奇妙な場所だな。
 昨日、一時巻き起こった嵐が嘘のように、今日の総務課は凪風が吹いている。
 もちろん中津川からは恐ろしく陰険なオーラを感じはするが、表向きは普段どおりで、仕事もそつなく回っている。
 大河内は相変わらずひょうひょうとしているし、南原もいつも通りだ。
 昨日、あれだけ傷ついたように見えた的場さんさえ、今日はからりと明るく振る舞っている。
 なんとなく分かったのは、皆が改めて塔を作り直し、昨日の波乱などなかったかのような日常に戻ろうとしているということだ。
 その程度には皆大人で、集団で仕事をするという意味を心得ている。
 ただ、それが上辺だけだという証に、中津川補佐はもう藤堂に一切話しかけないし、南原に至っては庶務の仕事のことすら、その中津川に相談してしているという有様だ。
 そんな中、春日に戻された決裁文書には驚かされた。
 判を押さない藤堂に代わり、中津川が代決して回したものだが、それに大きく罰印をつけて返されたのだ。
 中津川は蒼白になっていたし、さすがの五条原補佐もそれで引き下がり、藤堂の指示通りに決裁を直して再提出してくれた。
(これは、春日さんの機嫌が最高に悪い時のやり方ですよ。こうなると、もう係長の代決をしようという者は誰もいなくなるでしょうね)
 とは、後で大河内がこっそり教えてくれたことだったが、あの日、春日の機嫌が最高潮に悪かった本当の理由を知っているのは、藤堂だけである。
 ――本来なら僕に向かうはずの怒りが、中津川さんにいった形だな。それは多少申し訳なく思うが……。
 その時、近くで足音が聞こえたので、藤堂は顔を上げた。
 そして驚きで息をのんだ。息を弾ませて目の前に立っているのは、目を明るく輝かせた果歩である。
「あの、昨日は、ありがとうございました」
「…………」
 心臓が、また奇妙な感じになって、咄嗟に言葉が出てこなかった。
 まるで彼女を覆っていたほの暗いヴェールがいきなり消えて、春の暖かな日差しがその全身を明るく照らしているような感じだ。
 風に乱れた髪はほつれ、それが日差しを受けて金色に輝いて見えた。頬は淡い薔薇色に染まり、唇は――まるで、ずっと探していた人を見つけたかのようにほころんでいる。
「ええと……」
 昨日。
 とは、もちろん昨日のあの出来事だろう。
 むろん大事件ではあったが、それを果歩の方から蒸し返されるとは思ってもみなかった。
 何故なら彼女は、今朝はもういつもの完璧な仮面を被って、中津川に対しても普段どおりに振る舞っていたからだ。
 この人はこうやって今まで、難しい人間関係をやり過ごしてきたんだなと感心すると同時に、彼女を覆う塔の厚みに改めて驚かされたものである。
 なのに今の彼女は、そういうものを全部取り払った、素の感情のままで目の前に立っているように見える。
「え、えっと……すみません、私、お礼がしたくて」
 藤堂の沈黙をどう捉えたのか、果歩が怯んだような目になったので、藤堂は慌てて口を開いた。
「いや、仕事のことですから」
 しまった、また言い間違えた。
 案の定、彼女が少しだけ傷ついた顔になる。
 頭の中で失言をフォローする言葉を探している間に、果歩は手にした紙袋を藤堂の方に差し出した。
「すみません、これをお渡ししたくて。お邪魔はしません、すぐに失礼しますから」
 ――これ……?
「私、料理だけが取り柄というか……趣味なんです。お弁当なんですけど、あの、父のを作るついでで申し訳ないんですが」
「…………」
 ――えっ?
 何故僕に?
 動揺と混乱で、少しの間、藤堂は石みたいに固まった。
 いやいや、お礼だお礼。
 あまり深く考えるな。考えれば考えるほど、僕の態度は相手の期待を裏切ってしまう。
 しかし、まいったな。今朝は朝食をとる時間がなかったから、いつもより多めに買ってしまった。
 この問題をどう処理すべきかと眉を寄せたとき、果歩の笑顔が、いつも執務室で見る極めてそつのない――完璧なものになっていることに気が付いた。
「……ええと」
 混乱しながら、藤堂はこりこりと耳を掻いた。
 そうか。
 今、彼女にそんな顔をさせているのは僕なのか。
「困りましたね、実は今朝朝食を抜いてきたもので、多めに四つ買ってきてしまいました」
 藤堂は視線を手元のビニール袋にやった。さすがに少々キャパオーバーだし、無理に食べるのも失礼というものだ。
 果歩は明るくにっこりと笑う。
「すみません、じゃあ、次の機会にしておきますね」
「いえ、いただきます」
 藤堂は咄嗟に手を伸ばし、きびすを返しかけた彼女から、紙袋を取り上げた。
 そうした後で、耳のあたりが少し熱くなるのを感じたが、その理由まではよく分からなかった。
「代わりに僕のを、食べてもらえますか」
「……はい?」
 我ながらいいアイデアだと思いながら、藤堂はビニール袋の中から一番値段の高かった唐揚げ弁当を取り出した。
 果歩は何を言われているのか分からない人のようにきょとんとしていたが、その弁当を見た途端、明らかに「無理」という顔になる。
 もしかして、唐揚げが苦手な人だったのだろうか。……
「……、女性はあまり食べないのかな」
「ええ……いえ」
 もう一度ビニール袋に目をやった時、果歩の手が控え目に弁当にのばされた。
 それが不意打ちのように突然だったので、藤堂は驚いて、手渡してすぐに手を引っ込めている。
 その大人げない仕草に自分でもびっくりして、誤魔化すように軽く咳払いをした。
 ――職場を離れてこの人と二人になると、どうも調子が狂ってしまうな。 
 ちらっと見上げた果歩は、弁当を手にしたまま、これからどうすべきか決めあぐねているかのように突っ立っている。
 女性には、量が多すぎたのだろうか。
 そういえば、先日も思ったことだが、異様に食べる速度が遅い人だった。
 たったあれだけの野菜を食べるのに、信じられないことに僕より時間がかかっていた。
 そうか、そんな人がこれだれけの量を――やはり女性だから、僕のようにがつがつ食べるわけにいはいかないだろうし、マナー的な意味でもためらいがあるのかもしれない。
「僕は、よく食べる人が好きなんです」
「はいっ?」
「――あ、いや、今のは関係ない話ですが」
 藤堂は片手で口を押さえて、果歩から目を逸らした。
 なんという失敗。
 誤解されたらどうするんだ。もっと別に言い方があったろうに――全く。
「あの……、いただきます」
「はい」
 果歩が隣に腰掛け、二人して無言で箸を動かすだけの時間が過ぎた。
 料理、上手いんだな。
 これなんか随分手が込んでいる。
 もっとも僕は、何を食べても大抵上手いと感じるんだが――それはあまり言わない方がよさそうだ。
 風が気持ちいいな。
 夜明けに咲く花のような微かな香りは、この人のものだろうか。
 不思議なくらい、今の沈黙は気詰まりじゃない。
「ごちそうさまでした」
 蓋を閉じてそう言うと、果歩が隣で「えっ」と驚くのが分かった。
「もう?」
「美味しかったです」
 普通に言っただけなのに、今度は何故か、果歩の方がみるみる頬を赤くした。
 ――ん……?
「はい……どうも」
 なんだ、この空気は。
 そっちが照れると、僕まで妙な感じになる。
 さっきから、心臓の音がやたら高いと思うのは気のせいだろうか。
 ひどく居心地が悪いはずなのに、この空気感が、馬鹿みたいに僕をこの場に座らせ続けている。
 もっと不思議なことに、残りの弁当に手をつける気にもなれない。
「あの、私なら食べてから降りますから、お気遣いなく」
「いえ、いつも休んでから降りるんです」
 こちらを見上げた果歩が、どこかほっとしたように微笑んだ。
 藤堂も自然に微笑み、少し落ち着いた気持ちで自分の足下に目を向ける。
 こうしていると分からなくなるな。
 僕はこの人の上司だけど、役職を除けば、4歳年下の一人の男だ。
 何年もこの人の面影を追い続けて、今、隣に座れていることが素直に嬉しい。
 でも今の僕は、その立場に満足していてはいけないんだ。
 また、彼女に特別な感情を抱いていい立場でもない。
 昨日、束の間掴んだ感覚をどう形にすべきか分からないが、その時一つだけ決めたことがある。
「やりにくくはないですか?」
 果歩の上司として、藤堂は口を開いた。
 彼女とはもっと話さないといけない。
 まずは彼女を理解し、そして理解されることが、この係での僕の最初の仕事だ。
「四つも年下の係長なんて、やりにくいでしょう」
「……、ええと、………最初は確かに」
 果歩は明らかに言葉に詰まっていたが、やがて観念したように本音らしき言葉を吐いた。
「でも、仕事は年でするものじゃありませんから」
「性でするものでもありませんね」
 前を見ながら、呟くように藤堂は言った。
 7年前の彼女と今の彼女は別人だ。そもそもあの時僕は、彼女の片鱗だけを見て、そこに都合よく自分の心に欠けているものを見いだそうとしただけだ。
 でも、ひとつだけ、その時感じた印象に間違いなかったことが分かった。
 彼女の心には、強くて優しい宝石が眠っている。
 それは普段は儚いほど弱々しいが、どんなものにも傷つけられないほど強いのだ。
 彼女が、自分でつくった塔の中に閉じこもっていたいなら、それでもいい。
 でもそうでないなら、誰かが彼女が伸ばした手を掴んで、そこから引っ張り出すべきだ。
 昨日、彼女の手が、心を閉ざしかけた僕の手を掴んで外に出してくれたように。
「……的場さんは、もう少し、自分を出してもいいような気がします」
「――どういう意味でしょうか」
 その声にわずかな警戒心がある。藤堂は我に返って瞬きをした。
 しまった、また言葉だけが先走ってしまったな。
「いえ、すみません。後輩の僕が言うことではなかった」
「……後輩ですか」
「はい、後輩です」
 果歩の声が優しく聞こえたので、彼女を見下ろした藤堂は思わず微笑んでいた。
 ささやかな猜疑心をこめた――どこかいたずらっぽい目が藤堂を見上げている。
「上司なのに」
「それでも、やっぱり後輩ですから」
 目と目を見合わせて、二人はそのまま笑っていた。


 *************************


「藤堂さん、大丈夫でしたか」
 果歩がそろそろっと入って来たのは、給湯室で空になった弁当箱を洗っていた時だった。
 藤堂は目を細めた。最近また目が悪くなったせいか、眼鏡がないと、彼女の顔が二重に見える。
「大丈夫です、頑丈にできているので」
 しかし今日だけは、残業をせずに眼鏡を作り直しに行くべきだろう。
 なんとか手元の字は読めるが、遠くの字となるとさっぱり読めない。
「まさか、洗ってくださってるんですか。そんなの、そのまま返してくれればいいのに」
 藤堂の手元を見て、果歩が驚きの声を上げた。
「丁度手が空いたので。――すみません、本当は休憩時間にすべきなんでしょうが」
 今日は温度も高いし、なるべく早めに弁当箱を洗っておこうと思ったのだ。
 休憩時間は15分も前に終わっている。
 屋上で弁当を食べた後、2人は15階の食堂でトラブルに巻き込まれたのである。
 市民も利用できる食堂は、近くの美容専門学校生も利用している。
 口論が高じたのか、その学生2人がいきなり喧嘩を始めたのだ。
 1人が、興奮したのか櫛を振りかざしている。それをナイフだと勘違いした周囲の職員が警察に通報を始め、藤堂は咄嗟に彼らの方に駆け出していた。
 櫛だって、相手を傷つける武器になる。
 警察が来て大事になる前に止めないと、2人の心に取り返しのつかない傷が残ることになるかもしれない。
 そこに、身勝手にも自分の過去を重ねていたのは事実だが、止める自信があったからこそできたことだ。
 が、稽古をしなくなって8年。身体はすっかりなまっていて、不用意に顔に拳を受けてしまった。
 それで眼鏡まで壊れたのだから、反省だ。
「ありがとう、本当に美味しかったです」
「いえ、こちらこそ、無理矢理押しつけたみたいでごめんなさい。それに、お昼時間いっぱいつきあわせてしまって」
「構わないです。それに、食べるのが遅い方が健康にいいといいますし」
「ええ? なんだか軽い嫌味を言われているみたい」
 言葉とは裏腹に果歩の横顔は楽しそうだ。二人でこうして雑談ができることに驚きながら、藤堂もまた心地よい楽しさを覚えていた。
「藤堂さんは、逆に食べるのが早すぎなんじゃないですか?」
「よく言われます」
「最初の時も思いましたけど、何も味わってないみたい」
「今日はよく味わいました」
 が、そこで藤堂が笑うと、何故か果歩は息を止めるようにして後ずさった。
 顔の輪郭全てが二重に見えるから、正確にはどんな顔をしていたのか分からないが。
「……何か」
「あっ、いえ。ちょっと用事を思い出して。藤堂さん、後で必ず医務室に行ってくださいね!」
 ぱたぱたと果歩が出て言ったので、藤堂は首をかしげながら給湯室を出た。
 なんだろう、また何か不用意なことを言ったかな、僕は。
「あっ、係長、今庁舎管理係から電話で……、昼の事情を聞きたいから、こちらに来てもらえないかと」
 そこに大河内の声が飛ぶ。
 頷いて自席に戻ろうとした時、どこかで見た小柄な背中が、すうっと傍らを通り過ぎるのが分かった。
「うそつき」
 ――……。
 須藤流奈だ。
 それが何を指しているのか分かり、藤堂は言葉をのんだ。
 きっと、今の給湯室での会話を聞かれたのだ。そして果歩とのことで誤解された。
 が、その誤解を解くべきかどうか、藤堂には分からなかった。






藤堂瑛士の4月(前編)終
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