4月も後半。 総務にとっては、人事異動後の2度目の喧噪が始まる時期である。 連休が月末から月始めにまたがっている。つまり月初め〆の提出物を、連休前と連休明けに、猛ダッシュで作成しなければならないのだ。 それ以外にも、本省に提出する書類も山積みになっている。定時に帰れたのはほんの数日で、果歩もまた、連日の残業を余儀なくされるようになっていた。 「的場君、お茶」 「これ、コピーして、大至急」 「何を無駄なことをしているんだね、君の時間給を分に直したら」 「すまんがね、今日はミルクにちょっぴりココアをいれてくれんかね」 殺伐とした忙しさの中、中津川補佐の傲慢な物言いも、春日次長の嫌味も、那賀局長の甘えも、不思議なほど、素直な気持ちで頷くことができた。 それも――。 「的場さん」 「はい」 果歩は、即座に立ち上がり、声をかけてくれた庶務係長、藤堂の席に歩み寄る。 「この起案ですが、パーセントの出し方に誤りがありますね」 「あ、はい」 「直してください」 「はい」 すっと起案文書が差し出される。果歩をわずかに見上げる目。元通りに直された黒縁の眼鏡が、その綺麗な目元を覆っている。 実は、これには、少しばかりほっとしている果歩なのである。 多分、藤堂は相当イケメンなのだと思う。黒目がちの切れ長の眼は、男らしいのに涼しげで、じっと見つめられると、吸い込まれそうになってしまう。 大きすぎる身体の印象が強すぎて、きっと、眼の輝きや顔の端正さがかすんでいるのだ。 もしかしなくても彼は、学生時代、相当もてていたのではないだろうか。 あれから二度、果歩は屋上で、藤堂と共に食事をした。 すぐに忙しくなって、夜は深夜残業、昼もサプリメントかカロリーメイトで済ますようになったから、ここ数日、個人的な話はしていない。 が、それでも果歩は――この上司が上席にいてくれるだけで、不思議なほど気持ちが穏やかになるのを感じていた。 どんなに仕事がハードでも、どんな無理を要求されても、なんでもないような気がしてしまう。 それに、本当に危機に陥ったら、きっと藤堂が何気なく手を差し伸べてくれそうな気がするのだ。 晃司からは、あれから一度も連絡がなかった。 時計は、残業の日に、晃司の机の上に何気なく置いてやった。 局内ですれ違って、たまに物言いたげな視線をぶつけられることもあるが、もう果歩は完全に無視している。 こちらから連絡するのも癪なので、そのままにしているが、もう晃司も、自然消滅したものと思っているに違いない。 「藤堂さんっ」 流奈だけは相変わらずだった。さすがにあからさまなアプローチは控えているようだが、庶務係に来る度に、必ず甘えた声であいさつしていく。 「今度、飲みにつれてってくださいね〜、約束ですよ〜」 などと言う声がこれみよがしに聞こえてくるが、それもあの日、屋上で2人で話して以来、あまり気にならなくなっていた。 別に藤堂に、特別な感情を持ってもらっていると自惚れているわけではない。 果歩にしても、藤堂のことを特別異性として意識しているわけではない……と思っている。 ――そうよ、いい上司っていう、それだけ。 仕事ができて、優しい……そしていい人。部下にとってみれば、こんな幸運もないと思う。 その日も残業で、気がつけば夜の9時になっていた。連休前、仕事のない計画係は空になっているが、庶務係は、藤堂以下全員残っている。 ――眼……痛……。 パソコンから眼を上げ、果歩は目をしばたかせた。 最近は、疲れるとすぐに眼にくる。きっとコンタクトを乱用しすぎているのだろう。いっそのこと、視力回復手術でも受けようかな、と思う。 「ええ……はい、わかりました」 藤堂の声がした。電話の応対をしていたのだが、いつになくその声に困惑が滲んでいるような気がする。 何気なく横目で見ると、受話器を置いた藤堂は、ふぅ……と、疲れたように嘆息し、唇をまげてネクタイを緩めている。 疲れているのかな――と、ふと思った。 連日の残業、若い彼には、プライベートで会いたい人はいないのだろうか。 「コーヒー、淹れましょうか」 果歩は立ち上がって言っていた。 「あ、悪いねぇ、的場さん」 「俺、砂糖たくさんいれてくれる?」 その場に残っていた者から、口々に、嬉しげな声があがる。が、 「係長は……」 と、黙ったままの藤堂に、そっと声を掛けると、 「いえ、僕はいりません」 意外にそっけない声が返って来た。 少しだけ寂しさを感じつつも、果歩は、隣の管理課の残業組にも声を掛け、総勢10名にコーヒーを淹れるために、給湯室に向かった。 サーバーに豆を淹れ、水を注いだ所で、狭い給湯室に不意に人が入ってくる気配がした。 「的場さん」 「……は、はい」 吃驚して振り返っていた。声だけで分かる、藤堂である。 心臓に悪い、ドキドキする。こんな狭い密室で向き合うと、否応なしに緊張する。 「コ、コーヒーでしょうか」 「いえ……」 藤堂は、何か言おうと口を開きかけ、そのまま再び唇を閉じた。 「……?」 「……すみません、少し……つきあっていただけますか」 いつになく言いにくそうに声をひそめると、藤堂は髪に指を差し入れた。 シャツを肘までまくっているから、逞しい二の腕が、露わになっている。 「……今、ですか」 「はい、多分、お手間は取らせません」 「……あ、はい……」 なんだろう。 妙に気まずげにしている藤堂の態度を不審に思いつつ、果歩は頷いていた。 ************************* 「書庫に……呼ばれまして」 暗い廊下を歩きながら、藤堂は、言葉少なに、目的の場所を説明した。 「……書庫ですか」 都市計画局の書庫は、ひとつ上の階にある。広い部屋で、局各課が共用で使っている。 「はぁ、高いところにあるものが、取れないそうです」 「………?」 「時間も時間ですし、まぁ、男1人ではどうかと」 「……はぁ」 意味がよく分からないまま、ひとまず藤堂について階段を上がり、書庫の扉の前に立った。 「面倒だったら、そこにいてください」 藤堂はそれだけ言って、ガチャッと、ノブを掴んで扉を開ける。 中は薄暗かった。細長い、奥行きの広い部屋で、中央を戸棚で2つにしきってある。 奥の方だけ電気がついているのか、ほんのりと明りが漏れていた。 藤堂が足を踏み入れたので、果歩も不審に思いつつ、足音を忍ばせてその後を追った。 「だから、もう前園さんとは、おつきあいできないんです」 唐突に聞こえてきた声に、果歩はぎょっとして足を止めた。 独特の癖がある、鼻にかかった声。流奈の声である。 ――前園さん? まさかと思うけど、晃司のこと? そう察した瞬間、心臓が停まりそうになった。 ではこの書庫の奥に、晃司と流奈がいる、ということなのだろうか。 前に立つ大きな背中も止まっている。横顔がちらり見えたが、藤堂にも予期せぬ展開だったのか、困惑気味に眉を寄せている。 「なんでだよ、いまさら……どうしてそうなるんだよ」 晃司の声だ。 果歩といる時とはまるで違う。駄々っ子のような、子供っぽい声。 「だって、二股なんてひどすぎます、……私……もう、そういう関係、辛いんです」 涙声。 ――は? と、果歩は唖然としていた。なんなの、これ。 「さっきも言いましたけど、私、いまは藤堂さんが好きなんです。……ごめんなさい、前園さん」 「ちょっと待てよ。なんだっていきなり、そういう話になるんだよ」 ようやく――果歩は理解した。 さっきの電話。あれは、流奈が藤堂をここに呼び出したのだ。 無論、この場所に晃司がいるのは、偶然でもダブルブッキングでもない。 あらかじめ、流奈が、晃司を呼んでいたのに違いない。 2人の会話を藤堂に聞かせるためにだ。 「そんなの納得できるかよ。ちょっと待てよ、果歩のことはなんとかするから」 自分の名前がふいに出たことで、果歩は全身の血が引くのを感じていた。 前に立つ男が、ふいに背を固くしたような気がする。 「言ったろ。一緒にいてもつまらないんだ。最初は秘書だし、高嶺の花って感じであこがれてたけど……年だってもう30だし」 「……そんな、的場さんがかわいそう」 果歩はうつむいた。焔を浴びたように頬が燃え、自分の拳が震えていた。 「あんな年になって、局長にミルクしか淹れられない甘えたところも嫌だしさ。だいたい、果歩の過去、知ってるだろ?」 「……的場さん、本当は、前園さんと結婚したいんじゃないですか」 「こないだ言われたよ。吃驚した、冗談じゃないって、俺、きっぱり断ったから」 「……行きましょうか」 晃司の声に、藤堂の声が重なった。 果歩は動けなかった。足も、手も、舌さえも石のようだった。 奥にいる人の気配が、びくっとして固まったのが分かる。 「……藤堂さん?」 流奈の声がした。わざとらしくおびえた声。 まだ、流奈が何か言っている。藤堂に手を引かれ、果歩は――引きずられるように、書庫を出ていた。 ************************* 「すみません」 階段の半ばで手を離し、藤堂は、心底申し訳なそうな声で言った。 果歩は、ただ、顔だけで笑った。 ――大丈夫。 大丈夫。私は、大丈夫。 「……僕があさはかだった……本当に、申し訳ない」 「いえ」 うつむいて、足だけを速めながら果歩は言った。 「藤堂さんがお困りなのは、よく分かりましたから」 「的場さん、」 「本当にいいんです、気になさらないで」 「……いえ、あの」 藤堂は、いつになくしつこく食い下がる。 「放っておいてもらえます?」 いきなり感情が爆発した。 自分でも驚くくらいだった。 「同情なんてされたくありません、あなたは上司ですけど」 藤堂を見上げる。分かっている、不幸な偶然――というか、流奈が仕組んだ罠に、偶然果歩がひっかかってしまっただけだ。 藤堂に罪はない。彼に当たっても仕方がない。 分かっていても、一度堰を切った感情は止まらなかった。 「人間としては、年下で、……あなたに、同情される筋合は何もありませんから!」 「…………」 虚を突かれたような顔で、藤堂は口をつぐむ。そのまま、何も言わなくなる。 ――こんなこと……言うつもりじゃなかったのに。 果歩は目を逸らしながら、同時に激しい後悔を感じていた。 何言ってんだろ、私。藤堂さんには、それこそなんの関係もないことなのに。 「……そのとおりです」 が、藤堂は、わずかな沈黙の後、素直な口調でそう言った。 「申し訳なかった。お仕事の邪魔をしてしまいました」 そのまま、何事もなかったように階段を降りていく。 果歩は、溢れ出しそうな感情を抱いたまま、黙ってその後について行った。 ************************* 「的場君」 給湯室に戻った果歩は、驚いて足をすくませた。 こんな時間に、まさかこの人が残っているとは夢にも思っていなかった。局次長の春日である。 スーツを身に纏った長身の男は、コーヒーポットを手にしたままで、怒りのこもった目を果歩に向けた。 「君は、こんな時間に何をやっているんだね」 「……すみません、仕事がたまっておりまして」 「そんなことを言っているんじゃない!」 気短な声と共に、ばしゃっと淹れ立てのコーヒーがシンクにぶちまけられていた。 果歩は――信じられない思いで、その光景を見守った。 「君はなんのために血税を使って残業しているんだね。職員に愛想をふって、コーヒーを淹れてやるためか!」 「…………」 びりびりと、空気を震わすような声だった。 多分その声は、フロア中に響き渡っている。 「そんな暇があったら、少しでも早く仕事をしようとは思わないのか。君ももう30だ、笑いさえすれば、周りが許すような年じゃないんだぞ!」 「…………」 「そもそも、何故他課の者に、総務の君がコーヒーを淹れてやる。コーヒーは来客接待用、職員は自費で買うのが決まりだろう」 「僕が頼みました」 背後で声がした。 うつむいていた果歩は、それが藤堂の声だと分かっても、それでも顔があげられなかった。 「申し訳ありません。僕が彼女に頼みました。皆、連日の残業続きで疲れているようでしたので」 春日は、ぎょっとした風に振り返る。そして、苦々しげに舌打ちをした。 「……君かね、藤堂君」 「民間会社に勤めていた時の癖が抜けていないようです。給料が税金でまかなわれていることを失念しておりました。申し訳ありません」 淡々とした声のまま、藤堂が頭を下げるのが分かる。 「ならば、今後は気をつけたまえ。上司なら、部下に無駄な仕事をさせてはいかん」 吐き捨てるようにそう言うと、春日は肩をそびやかして給湯室を出て行った。 果歩は動けないままだった。 藤堂が歩み寄る。果歩の傍をすりぬけて、シンクに散ったコーヒーを、布巾で拭い始める。 「……私……やりますから」 「春日次長は厳しい人ですが」 感情を抑制したような声がした。 「……決して理由もなく怒る方ではないと僕は思っています。的場さんを思いやっての事だと思いますよ」 「…………」 あれの? どこが? 何も知らないくせに、分かったようなこと言わないで。 「もういいですから、出てっいってもらえません?」 自分のものではないような声が出た。 「私やります。お願いだから、ああいう時、私のこと庇ったりしないで下さい」 動きを止めた藤堂の手から、乱暴に雑巾を奪い取る。 「悪いけど、余計みじめになるんです。あなたに、同情されていると思うと」 「…………」 藤堂が困惑している。疲れたような、かすかな嘆息が聞こえる。 多分、こう思っているに違いない、女は理解できない、女のヒステリーにはつきあえない、と。 「……それは、僕の年が下だからですか」 「ええ、そうです。やりにくいんです。年下の上司なんて」 分かっているのに、感情の抑制ができない。 悔しくて情けない。9年近く、完璧に色んなことを我慢し続けてきたのに、どうしてこのタイミングで、その仮面が壊れてしまったんだろう。 「……30って、そんなにやばい年ですか」 「…………」 「私、そんなに……人からみたら、甘えた、つまらない女ですか」 蛇口をひねる。溢れ出した水にコーヒーの沁みた布巾をさらす。 冷たい水が肌に触れた途端、我慢していた涙が零れた。 みっともない――、と思った瞬間、背後から伸びてきた手に、布巾ごと手を包まれていた。 大きな手は、すっぽりと果歩の手を包み込み、それでも余裕があるようだった。 背後から、その手より――さらに大きな身体に包まれている。 何が起きたのかそれでも理解できなくて、顔を上げると同時に、唇が被さってきた。 信じられなかった。 まるで身体ごと、大きな熱に飲み込まれたように――身動きできないまま、ただ果歩は、水の流れる音だけを聞いていた。 藤堂の手が、蛇口を締める。締めながら、キスを続けている。水に濡れた冷たい手がブラウス越しに感じられる。いつも、決済を持っていく時に感じる、微かな髪の香りがする。 暖かくて、少しだけ乾いた唇。どこかぎこちない、それでも優しいキスだった。 「…………」 「…………」 唇が離れ、背中から少し強く抱き締められても、まだ果歩は――今起きた事が現実のものだとは思えないままでいた。 「藤堂係長、お電話ですが」 執務室から声がする。 「はい、今行きます」 なんでもないように藤堂が答える。 そのまま、すっと身体を離し、藤堂は大きな背を向けて、給湯室を出て行った。 100エーカーの森の人(終) |
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